2010年7月18日日曜日
第100号(最終号)
■第100号(最終号)
2010年7月18日発行
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■「―俳句空間―豈weekly」の終刊にあたってなすべきこと=通時化
・・・豈発行人 筑紫磐井 →読む
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■遷子を読む――最終回――
〔68〕甲斐信濃つらなる天の花野にて
・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
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■資料「遷子を読む」制作年順目次
・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
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■「セレクション俳人」を読む
通行という戦略 ―後記にかえて―
・・・外山一機 →読む
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■枕・眠り・俳句
高橋睦郎『百枕』を読む
・・・高山れおな →読む
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■俳句九十九折(92・最終回)
七曜俳句クロニクル XLⅤ
・・・冨田拓也 →読む
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■続・私自身のための羅針盤(2)
読者にとっての作者、読者としての作者
・・・中村安伸 →読む
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■閑中俳句日記(41・最終回)
永田耕衣句集『泥ん』
・・・関 悦史 →読む
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■あとがき →読む
■おしらせ(第11回Twitter読書会「冨田拓也+横井理恵」) →読む
■豈同人の出版物 →読む
■執筆者プロフィール →読む
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閑中俳句日記(41・最終回) 永田耕衣句集『泥ん』・・・関 悦史
永田耕衣句集『泥ん』
・・・関 悦史
最後に何を取り上げるかで迷い、耕衣の第14句集『泥ん』を引っ張り出してきた(以前第16句集『自人』を取り上げた際に姫路文学館のパンフを元に耕衣の書誌を上げたが、そこでは平成2年となっていた『泥ん』の刊行年、現物の奥付では平成4年となっていた。ただし耕衣本人による後記の日付は平成2年。刊行までになぜ2年も間が空いているのかは不明)。
句集タイトル『泥ん』は後記によると、急に姿をくらます意の「ドロン」と《近時≪泥≫なる可視物質の実在ぶりを、カオス即存在の根源と拈弄観念して怠らぬ私感の≪泥≫一字を、的的に代用して恥じぬ妙体とした》造語である。
大晩春泥ん泥泥どろ泥ん
この表題句は90代に入った耕衣の晩年意識、観念、体感が一体となった作として有名。「晩春」が「大晩春」となったことで人生の大晩年と「春」の駘蕩が重なり合い、不定形のうちに泰然たる自足を示す「泥」が肉体・実感を伴いつつ、「ドロドロ」のオノマトペへの変容を通じて、忍術の呪文よろしく「ドロン」と消滅するに至る。この泥を単なる物質と見てはなるまい。無論ただの観念でもない。
この後平成7年に出た第16句集『自人(じじん)』には《云うたら然(そ)やろ季語もみな人類や》なる奇怪な一句がある。「季語」が「人類」と一視同仁となる視点とはいかなるものか。
耕衣が禅問答に親炙したことはよく知られている。実際の参禅はあまりなかったらしい。
禅は既成の主体を破砕し、融通無碍に拡張・伸縮させる。いわば世界全体が我であり、全体としての我が直接動かせる一作用点としての個我に的確な言動・判断をその都度自在生成させ続けるようになることで、結果的に個我が迷い、苦しみから脱することになる。それが禅の目的であるとひとまずしておくとして、その全体は物質からのみ成るわけではなく言語・観念からも成る。少なくとも耕衣における禅の取り込みには、そうした面がかなり強い。「季語」が「人類」と同質の連続性の中に投げ込まれるのはここにおいてである。
耕衣は晩年テレビでのインタヴューに答え、自分の句の世界を「アニミズム」の語で語ったことがあったが、この広すぎる概念規定の内実が問題で、耕衣の場合まず相手が生命体であるか否かは問題にならない。それどころか物質であるか観念や単語であるかも問題にはならない。主体や言語的分別知が物質と同列に煮溶かされ拡散された禅的な土台がまずあり、「アニミズム」はその上に乗っている。つまり他の生きとし生けるものへの共感が起点にあるわけではなく、全ては禅的に(あるいは禅的な主体変容法の意図的な誤用によって)拡張された己の内のこととなる。いや、正確には内と外の区別が無意味になった領域というべきだろうか。そこで耕衣は世界としての己から個体としての己へと行動指針を集約させるのではなく、逆に個体としてのおのが身命の側から、世界としての己を五七五定型を以て言いとめようとする。その際にたち現れる巨大にして不定形な自足・湧出・往還運動の感覚こそが、耕衣の句のデモーニッシュな誘引力の正体であろう。
対句 二品
流星や皆柄眼(へいがん)に写らむと
流星に柄眼(へいがん)の皆写らむと
註*柄眼=蟹類の眼の如く柄をもつ眼のこと
耕衣の句集にはこうした対句がしばしば姿を見せる。これは単に視点を相対化しているだとか、自他に跨ってその区別を渾然一体、無中心の世界を作り上げているといったことではない。
この2句でいえば句の語り手は流星でもカニの眼でもどちらでもなく、その双方を認識することにより、半ば併呑しているわけである。
ところが相手が「人類」となるとそう簡単には片付かない。己もその中に含まれてしまうからだ。
人類を泥とし思う秋深し
人類の泥眼(でいがん)の秋深みかも
泥魂(どろたま)の秋も深みの眇かな
泥の機の眼光に耐ゆ秋の暮
人類を単に不定形の物質と観念している1句目はまだしも、2句目3句目では「人類の泥眼」「泥魂」なる変態の過渡形態じみたものが現れる。この泥=人類はおとなしく死に安らっているわけではなく、他者の区別と実存が溶け残っており、4句目《泥の機の眼光に耐ゆ秋の暮》となると、たまたま泥の状態でいる人類の誰かに見つめられてもいる。
禅的な主体の拡張・拡散なしには視えない光景だが、にも関わらずその相克を無葛藤へと受け流す仏教的実践者の境地からは少々外れる。耕衣のおそらくあまり模範的とは言えないのであろう禅の受け入れ方の特徴があらわに出た、我執と大悟のはざまに現出する魔界的滑稽の景である。
主体の拡張・拡散という要素は、端的に連作の多さという形でも現れる。
以下の秋風の7句は、流星とカニの眼の正対ぶりとは違い、微妙にずれあいながら種々の要素を交換し、繋がりあり、「秋風」「翁」「老松」といったものたちが年齢・時間・性別を受け継ぎあい、全体として泥=人間的重合を示す。
秋風の辞儀に六歳翁応ず
翁行くまだ六歳の秋風と
藻に沈む二十歳(はたち)前後の秋風ぞ
秋風や卵燒でも出來んか喃(のう)
撫で斬りの秋風をわが女体とす
老松を秋風発す嬰として
秋風六歳にして老松を囲めり
耕衣には先に《少年や六十年後の春の如し》の名吟がある。
耕衣特有の視点、己の人生を時間の流れの中に定位しながらも、その時間全体が拡張した主体の支配下に置かれているかのような視点がここで既に獲得されていて、この句では「六十年後の春」という、ほぼ人生を走破した後の大晩年の駘蕩を身に帯びた少年が、珠のような永遠の円相へと昇華させられている。この「少年」は他人を外から見ているとも耕衣的主体自身が過去を振り返っているとも定め難い。おそらくそういう問いを立てること自体が適切ではない。先述したように、自と他、個と全、物質と観念の差異を、均すことなくその全域に拡散して跨るのが耕衣の句の特徴だからである。外から見ているだけ、あるいは私語りをしているだけでは、視点がどこにあるのかわからないようなこの主体の遍満感は出てこない。
「秋風」の7句は「六十年後の春」に至るまでの内実を、いわば伝奇的に展開したものとでも言えようか。
1句目の「六歳翁」は「六十年後の春」の輝きを身に帯びつつもそれを自覚していたとは思えぬ(またそれゆえに魅力を発していた)「少年」とは位格がいささか異なるようで、「六歳」にして既に「翁」の自覚を得ている。というよりも「翁」となるまでの記憶全てを既に閲した「六歳」であろう。無生物たる「秋風」の「辞儀」に感応することが出来るのも、そのリニアーな時間の流れを平然と跨いだ奇怪な主体のありようによるものだろうが、反応した途端、2句目でこの「六歳」という属性は何と「翁」から「秋風」へと移ってしまう。「翁」はもはや「六歳翁」ではなくただの「翁」だ。
3句目、「翁」と別れた十数年後の「秋風」は風でありながら「藻に沈」み、何やら鬱屈した風情である。風とは普通動いている空気を指す。水に沈んで停滞しているのではアイデンティティクライシスもいいところだが、それでも「秋風」は「秋風」であり続けてはいる。この「秋風」は物質性とは無関係ではないものの、切れてもいる。これが禅的拡張を土台にしての耕衣の「アニミズム」の一例である。
さらにいえばこの「秋風」の在り方は寓意的でもある。寓意的なキャラクターがアニミズムに直結する必要は本来はない。イソップ童話に現れる「キツネ」は「狡猾」という性質だけを体現している符号に近い存在であり、現実のキツネへの共感を土台に成り立つアニミズムとは別の次元にいる。しかし耕衣の「アニミズム」はこの相違をも踏み越える。つまりこの「秋風」は「爽やか」であったり「冬を予感させて物思いに誘ったり」するという寓意性と、擬人法的に意思と生命を付与された怪しげな何かであることの双方を、同時に担うものとして登場している。
4句目《秋風や卵燒でも出來んか喃(のう)》。
これは一体、いきなり誰が何を言っているのか。
3句目で「藻に沈」んでしまった「二十歳(はたち)前後の秋風」の鬱屈を、何とも素朴な料理の「卵燒」が茶化しつつ生活と日常の刻印を帯びた実体の方向へと転じているようだが、卵は生命の発生源であり、同時に卵を焼く過程で現れる溶き卵の形状は泥そのものでもある。「ドロン」の呪文とともに消滅する生命は、別の旨味と実体へと転ずる可能性もあるわけだ。
5句目《撫で斬りの秋風をわが女体とす》で、「われ」が現れる。4句目で「卵燒でも出來んか喃(のう)」などと突然言っている発話主体もこの「われ」なのかもしれぬ。「秋風をわが女体とす」で秋風に性別と異性性が与えられ、それが6句目では「嬰として」「老松」から出て行くことになる。ここから遡ると4句目の「卵」は、5句目の「女体」や6句目の「嬰」へと変容する生命の産出性を導くために介入してきた物質であるとも見えてくる。7句目では6歳になった「秋風」が「老松」の元に帰ってきたようだ。
まとめて見ると「翁」=「われ」=「老松」という束と、「秋風」=「女体」=「嬰」という束との、変容を重ねつつの交歓と生殖が描き出され、その一連の過程が「六歳」で繋ぎとめられることで螺旋的円環性を帯びていると捉えることが出来る。出発点となる「六歳」だが、「六歳」といえば芸事の稽古を始めるのがその年頃のはず、「秋風」「翁」「老松」といった登場人物(事物?)たちからは能舞台の雰囲気も漂ってくる。耕衣の句の、二重性を保持したままの自他の越境(融合や一体化ではない)の働きは、能楽とその演者たちからも少なからぬ滋養を得ているのかもしれない。
以下はその他の句から。
うぐいすの返り晩年主情哉
薄氷が写さんとしき綾晩年
老翁の腐れ乳房も桜かな
熱燗も茄子のミイラも弦の如し
春水の柄杓古典と思うなり
空蝉のかなたこなたも古来かな
モツアルト写しにぞ鳴く藪蚊哉
夏の雨自身の無韻濡れ惚(ぼ)れぞ
死者の総勃起を西日銘記せり
泥場以て月をし誘う泥鰌かな
泥水に泥吐く泥鰌ぬめり哉
泥を吐く貌美しき泥鰌かな
媚態脱落の泥鰌の凝視哉
葱も死を競いたるらん泥鰌汁
ユマニテをこそ学ぶべし泥鰌汁
泥鰌汁瓶(かめ)の泥鰌の浮見する
くずおるる墓参無底の翁かな
而して泥上(でいじょう)にある泥鰌哉
鶺鴒を直観のたび我は死す
噫完全破壊の田螺都度の虹
春風や巨大放屁の物化はや
人柄を以て文様とす夏の風
大白桃塵の積もらむ思い在り
蛇臭き天よと思う齢かな
食(じき)も虚仮(こけ)艶(あで)青苔も時間哉
はずかしや野分草木総女神
千九百年生れの珈琲冬の草
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体調の問題で最終回まで遅参して迷惑をかけることになってしまった。
41回という半端な数字で終わることになったが、偶然ながらこれは私の数え年と同じである。
高山さん、中村さん本当にお世話になりました。ご多忙の中の編集作業ありがとうございました。
読んでくださった方、ひとまずこれにてドロンすることになりますが、遠からずまたどこかに似たようななりで顔を出すことになるかもしれませんので、そのときはまたよろしく。
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あとがき(第100号)
■あとがき(第100号)
■高山れおな
仕事柄、勤め先にはいろいろな展覧会の案内状が来るのですが、三重県立美術館で開催される「異色の芸術家兄弟 橋本平八と北園克衛展」(八月七日~十月十一日)にはびっくり。橋本平八と北園克衛が実の兄弟だったとは存じませんでした。橋本はともかく、北園についての文章くらい幾つか読んでいるはずですのに。世の中、知らないことばかりです。
それから「前衛★R70展」というのは、銀座のギャラリー58からの案内(九月十三日~十月二日)。タイトル脇には「70歳未満出品不可・完全最新作」というコピーが添えられており、出品作家は赤瀬川原平(七十三歳)、秋山祐徳太子(七十五歳)、池田龍雄(八十二歳)、田中信太郎(七十歳)、中村宏(七十八歳)、吉野辰海(七十歳)の戦中派六氏です。いいなあこれ。わたくしもU-40とかU-50の企画に肩入れをしておりますし、今後ともするつもりですが、別に老人嫌いでもなんでもないことは先だってのゼロ年代百句選をご覧いただければわかるはず。後生畏るべしの真理を奉戴せぬ、嫉妬深い老人は(中年も)嫌いですが。金子御大も自分は前衛ではないなどと言わず(それともこれ誤情報?)、『アンソロジー 前衛★R70』とか出して欲しいものです。前衛は死んだ? つまらんよ、そんなの。もちろん、前衛/伝統の硬直した図式を超えてただひとつの「俳句」の中に全てが深化してゆくべきではあります。ハイク・イズ・ワン――而(しか)して前衛精神は永遠に不滅です。しかしそれもこれも、どちらにせよR70の世界では気にするには及ばんでしょう。
さて、予告通り、「―俳句空間―豈weekly」は、本号を以って終刊とさせていただきます。拙稿は、第“百”号にて“枕”をならべて討ち死にというシャレで、高橋睦郎さんの句集『百枕』をとりあげました。創刊準備号(第〇号)が出たのが二〇〇八年八月十五日ですので、正味丸二年弱。もともと少人数で大量に書けるだけ書こうというスタイルゆえ五年十年続けるなどとは思いもよらず、一年か二年のつもりでしたからここまで到達出来て上等上等といったところ。いたって淡々と料理だけを出し続けるだけの無愛想な店に、終盤には毎号千人からの来訪があったわけで、読者諸賢には厚く御礼を申上げます。また、小生の単なる思い付きから始まった企画にご援助を惜しまれなかった執筆者のみなさま、あまりたくさんでいちいち御名前を挙げるのは控えさせていただきますが、ほんとうに有難うございました。とりわけ、磐井師匠、トミタク、セキエツの常連執筆陣と、ひとり管理人の中村さんには感謝の言葉もございません。
当ブログのweeklyという形態(だけでなくシステムの大略も、ですが)については「週刊俳句」に倣ったものであること、開設当初に申し上げました。同誌創設者各位に改めて敬意を表します。しかしそれにしても、なんでこんなことを始めたのか……早くも曖昧になりつつある記憶を探れば、ひとつには俳句の世界では書評が貧弱というか、あることはあるがどういうわけかひどくタイミングが遅い。信じられない程、遅い。ゆえに、ジャスト・オン・タイムで、分量もあり、かつ社交辞令でない本音の書評に対しては需要があるのではないか、そんなことを考えたことは覚えております。で、実際に需要はあったのか。あったような無かったような、まあこんなものかな、というのが数字的な感想ではあります。それから俳句の世界があんまり平穏無事で退屈なので、ひとつ平地に乱を起こしてやるべしという気分もありました。創刊から程無い頃、「あとがき」か何かで、豈本城に対する真田出丸というような比喩を使ったことがありますが、最初からそういう斬り合い用メディアの性格がインプットされていたため、幕の引き際にまたしても騒がしい出入りがあったような次第です。個人的には大量に書くことで“俳筋力”を付けるという目的もありました。もともと異常俳筋力の持ち主である磐井師匠はともかく、わたくしのみならず冨田さんや関さんにしても相当にトレーニングの実があがったのではないでしょうか。
もうひとつ、このブログを始めた理由というか、暗示があったのを思い出しました。筑紫さんの『定型詩学の原理〈詩・歌・俳句はいかに生れたか〉』について、豈本誌(第三十六号/二〇〇三年初夏号)で著者インタヴューをした際、いろいろと話し込むうちに貞門の松江重頼が話題にのぼりました。その時、筑紫さんが力をこめて語ったのは重頼のエネルギーの凄さということでした。
筑紫 蕉風が出来る絶対条件というのを挙げてみて、じゃあそれを誰が作ったのかと考えると、談林はつきぬけて重頼へいくんじゃないかな。やっぱりエネルギー持って、しっちゃかめっちゃかあれこれやってる人のところでは常に、新しい運動が起こる原因というのが生まれてるんですよ。それが現代俳句では見えない。
当時のわたくしたるや豈本誌の編集人を拝命しながら一向身が入らず、全然雑誌を出さずに同人諸兄姉に迷惑の限りを尽くし、自身の論作についても文字どおり五里霧中の状態でした。それだけにこの重頼についての筑紫さんの話がずっと脳裏にわだかまることになったのです。俳句界の天下泰平がつまらなければ、成算はどうでも自分(たち)でとりあえずしっちゃかめっちゃかやってみるべし、そんな思いに駆動された部分も大きかったのでした。新しい運動はさておき、自分の周りの空気の流れがよくなった実感はあります。その実感が他の人にも共有されていればなお嬉しいですが、そこまではわかりません。『新撰21』『超新撰21』の刊行などは全く思いも寄らないことで、当事者としてもヒョウタンから駒、なるほどしっちゃかめっちゃかあれこれやってみるに如くはないようです。
おりしも豈本誌はつい先日、第五十号が出たばかり。こちらはちょうど倍の第百号。ただの偶然とはいえ、なんだか良い感じに平仄も合っております。さて、次はいずこでお目にかかりますやら。ともあれみなさまお元気で俳句らぶ。
巡礼の棒ばかり行く夏野かな 重頼
■中村安伸
2008年8月15日の創刊準備号からはじまって、約2年のあいだ、基本的には裏方としてこのブログの運営にあたってまいりましたが、それもこの100号が最後ということになりました。毎週淡々とアップ作業をしながらも、個人的にはかなりいろいろなことがあった二年間でした。
失業や祖父の死などの事件があったり、昔の友人達のバンドに参加して演奏や作詞をしてみたり、ツイッターに短いフィクション作品を発表することに熱中したり、『新撰21』に参加させていただいたり、現俳協青年部でインターネットの勉強会を司会したり、賞をいただいたり、haiku&meやツイッター読書会をはじめたり、連句の会に参加させていただいたり、等々。また、俳句に対する情熱も盛り上がったり冷え込んだり。
反省したいことは山のようにありますが、やはりもう少し文章を書ければよかったという思いはあります。仕事をやめてからよりも、仕事をしながら書いていた初期のほうがたくさん文章を書いていたというのは皮肉ですが、さまざまな事情あってのことなので、まあ仕方ないですね。
なかでも、佐藤文香さんの句集『海藻標本』について書いたもの「澤」の田中裕明特集について書いたものは、質はともかく、書くことの手ごたえを感じることが出来た文章でした。
さて、筑紫磐井さんのメッセージにも触れられていますが、「海程」「豈」の若手を中心とした企画が進行中で、私もそれに関わっております。詳しいことは夏の終わりごろにでも発表できると思いますが、当ブログとはまた別のものになるだろうと思っています。今回掲載させていただいた拙文の続きは、もしかしたらそちらに掲載することになるかもしれません。
最後に、コメントをいただいたみなさま、読者のみなさま、ご執筆いただきました冨田拓也さん、外山一機さん、藤田哲史さん、山口優夢さん、中西夕紀さん、仲寒蝉さん、原雅子さん、深谷義紀さん、窪田英治さん、尾﨑朗子さん、佐藤文香さん、江里昭彦さん、湊圭史さん、相子智恵さん、神野紗希さん、福田基さん、野村麻実さん、筑紫磐井さん、大井恒行さん、関悦史さん、青山茂根さん、堀本吟さん、恩田侑布子さん、救仁郷由美子さん、大橋愛由等さん、堺谷真人さん、岡村知昭さん、裏表にわたり苦楽をともにしてまいりました高山れおなさんに深く感謝いたします。
いずれまたお会いできますことを楽しみに、この場はお開きにさせていただきたいと存じます。
続・私自身のための羅針盤(2) 読者にとっての作者、読者としての作者・・・中村安伸
読者にとっての作者、読者としての作者
・・・中村安伸
百人町の俳句文学館、図書閲覧室で、抽斗状の木箱の中にある蔵書カードから目的の書物を探した経験のある人は多いと思う。このカードは著者名の五十音順に並べられていて、カードの右肩にはカタカナでその先頭数文字が記されている。読者はこれを頼りに、読みたい句集、めあての俳句作品に辿りつくことが出来るのである。
俳句文学館の蔵書のすべてが句集ではないが、俳句の読者にとって作者とは、まず第一に、句集や俳句作品を分類・検索するためのキーワードであると言ってもよいだろう。俳句には共作という制作方法が、基本的にはないので、ひとつの作品に対応する作者は一人である。つまり、作者と作品とは1:nの関係となる。したがって、作者名は俳句作品をデータベース化する場合、最も重要なキーワードとなるだろう。
すべての俳句作品がデータベース化された世界、またそのデータベースを検索する以外に俳句作品に触れる手段が無い世界を仮定してみると、読者がaという作品を気に入った場合、似たような作品を検索するためには、aの作者Aをキーワードにすることが最も有効な方法となるだろう。
さらにaがおさめられている句集名といったキーワードを追加すれば、より精度の高い検索が可能となるであろうし、検索結果を制作年月日順にソートして、aに近い年代のものを探せば、好みの作品を探し当てられる確率は増すであろう。ちなみに、制作年月日は作風の変遷を時系列でとらえるための指標として有効であるはずだが、実際には記録されていないことが多く、発表年月日を採らざるを得ない場合が多いと思われる。
句集については、複数の句集に収録されている作品、逆に既発表ながら句集未収録の作品がある。すなわち、句集と作品との関係は必ずしも1:nとはならないので、俳句作品を分類するキーワードとしては不完全と言わざるをえない。
むしろ句集はひとつの独立した作品として扱うべきだろう。前述のデータベースで句集名をキーワードに検索したとして、ヒットした俳句作品を五十音順や季語別に並びかえてしまったら、句集の作品としての同一性は失われてしまう。
さて、すべての作品がデータベース化された世界において、作者名Aは作品a,b,cから成るグループを示す記号にすぎないが、読者は作品a,b,cに共通する傾向を「作風」として抽出し、それを作者Aに結び付けることができる。たとえば読者が作者Aの新作dを読んだとき、それがあらかじめ認識されていたAの作風の範囲内であれば納得するであろうし、意外な要素が含まれている場合は作風を更新することになるだろう。
もちろん、記号にすぎないと言ったところで、作者名とはひとつの人格に結び付けられた名前でもある。作風を認識したうえで、その背後に具体的な人物像を想定するのは、読者にとっても好都合な方法であろう。
ちなみに俳句作品は内容がノンフィクションであると仮定されることが多く、したがって、作品に叙述された内容を、具体的事実として作者の人物像に結び付けられやすい傾向があるが、単純に作品内容を作者の人物像に還元することは危険である。
すべての作品がデータベース化された世界における俳句作品の作者とは、俳句作品の集合体であり、その作品群から抽出された作風であり、その作風の背後に想定されるひとつの仮想人格なのである。
もちろん現実には、性別、年齢、所属や師系など作者に関するさまざまな周辺情報を入手することができるし、俳句以外の散文作品などを鑑賞したり、作者が存命であれば対面や手紙などで直接コミュニケーションをとることもできるし、物故者であっても関係者からさまざまな情報を引き出すこともできるだろう。
現実の読者は、作品からフィードバックされる仮想の作者像と、外部情報から生成される実体に近い作者像とを二重写しに見ていることになり、往々にして後者がよりクローズアップされてしまうことになる。
読者が俳句作品を読む場はさまざまである。現実には稀少だが、俳句作者を兼ねない読者、いわゆる純粋読者の場合、アンソロジー等で自分の好きな俳人を見つけ、その句集を読み、師系などをたどって近い作風の作者を捜す、といったパターンが多いだろう。作者兼読者である俳人にも同様のルートはあるが、所属している同人誌や結社誌、句会などで出会う作品を読むことが中心となるだろう。
作者にまつわる周辺情報なしで作品を読む機会は、無記名にて作品に接することのできる句会しかない。もちろんこの場合でも、作風などによってある程度作者が識別されてしまうこともある。
句会以外の場では、俳句作品はすくなくとも作者名を付記された状態で読まれる。つまり、その作者の作品にはじめて触れる場合を除き、なんらかの周辺情報つきでその作品を読むことになる。
周辺情報があるということは、作品を読むうえで必ずしもマイナスではない。たとえば前書、詞書といったかたちで、作者が意図的に情報を付加する場合もある。そして読者の側としては周辺情報を活用して作品を最大限に読むことができる。
また、同時に作品そのものを、できるだけ周辺情報に左右されずに解釈を行うこともできる。私はこれらふたつの方法を一作品に対して同時に行うことが重要だと思っている。多くの方向から光をあてることによって、作品の姿を立体的に浮かび上がらせることができるのである。
俳句作品の総合体としての作者に主眼を置いて読むか、あくまでも個別の俳句作品を鑑賞するか、読者によってそのウエイトの置き方に違いはあるだろうし、時と場合によっても異なるだろうが、前者の場合は周辺情報をフルに活用し、後者の場合は出来る限り周辺情報をシャットアウトすることになるのかもしれない。
もちろん、作品そのものが主であり、周辺情報は従であるという関係を踏み外してはいけない。作品そのものが多様に解釈可能な場合、周辺情報がその選択肢をいくぶん狭めるという程度が望ましいように思う。作品そのものから導くことの出来る解釈に、すこしばかり別の要素を付加する程度はかまわないだろうが、明らかに作品そのものと矛盾する解釈をみちびいたりすることがあってはならないだろう。
さて、俳句作品の作者は必ずしも人間であるとは限らない。いわゆる「自動生成」であるが、機械によって自動生成された作品群からも、もちろん作風を抽出することは可能である。しかしその背後に人格を想定することはできない、というより、想定しなくても良いというべきだろうか。その作風はボキャブラリーとアルゴリズムに還元可能であり、作風の分析はむしろ容易であると言えるだろう。
俳句作品の一人目の読者は作者自身である。自動生成の機械が現在のところ作者として不完全なのは、読者になることができないという点においてである。
作品を発表するかどうか、すなわち二人目以降の読者と共有する価値があるかどうかを決定するために、作者は第一の読者として作品に向き合い、評価をくだす必要がある。自動生成機械の場合は、この役割を人間(多くは機械そのものの制作者)に委ねるかたちとなっている。
このとき「読者としての作者」にとっての困難は、作品に関して、他の読者とは比較にならないほど多くの周辺情報をもっていることである。しかもその情報の多くは言語化できないもの、すなわち他の読者と共有できないものである。また、こうした多量の情報の黒雲にはばまれ、俳句作品そのものの実体を見失ってしまうことも少なくない。
ところで、句会というシステムにはさまざまな功罪があるが、それについて述べることは今回のトピックから外れてしまう。さしあたり今回のトピックに関連した句会の効用をあげておきたい。
ひとつは、無記名の、周辺情報のない裸体の俳句作品を読む経験を積むことができるということである。作者が読者として周辺情報にまみれた作品と相対したときに、それらを剥ぎとるための訓練となるだろう。
もうひとつは、任意の自作の俳句作品を第二、第三の読者の目に触れさせ、彼らの解釈や鑑賞を聞くことができるということである。それにより、作者は、読者として周辺情報の黒雲を十分に払いのけることが出来ていたかどうか、反省することができるのである。
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「セレクション俳人」を読む 通行という戦略 ―後記にかえて―・・・外山 一機
・・・外山 一機
少し前に「「俳句以後」の世界」というテーマのシンポジウムがあった。このタイトルを聞いたとき、ずいぶん牧歌的なものだと感じたのを覚えている。正直に言えば、例えば「セレクション俳人」でとりあげられているような俳人たちやそれ以降の若い俳人たちにとって、「俳句以後」について論じることにそれほど意味があるとは思えない。これは決して皮肉や謙遜の意味で言っているのではない。僕たちにとってよりリアルに感じられるのは、「俳句以後」の世界などではなく、俳句が否応なしに僕たちの前にあり続けるという未来の方ではないだろうか。僕たちの絶望は俳句の死などではなく、俳句の緩慢な生にこそある。僕たちにとってより切実な課題は、だから、俳句が目の前にあることに戸惑いを感じるたびに、俳句を選択し続ける根拠をいかに見出すのかということだ。そしてその根拠の発見は自分と俳句との関係をその都度問い直す作業によるほかないのである。
とはいえその一方では、この「根拠」に目を向けずに、さらには目の前にあり続ける俳句に違和感を覚えることさえせずにすませることも十分に可能である。また一方では、俳句に絶望し手を引く者もいるだろう。もはや打ち止めの感のある俳句史を知ってしまえば撤退も勇気ある決断のひとつなのかもしれない。
僕たちが俳句を始めたとき、俳句はすでに新規参入がほとんど不可能なほどに過剰に展開しつつ、しかし一方であまりにも容易く僕たちにたいして手を広げているように見えたものだ。だが手を染めてみれば俳句とはやがて緩慢な絶望であった。いまも僕たちは俳句というゆるやかな絶望のなかにいる。僕たちが出発する場所はここだ。そして僕たちは何度この場所に回帰することになるのだろう。このループはどうやらちょっとやそっとではぬけられそうにない。この場所から脱出しないことを選ぶことが、あるいは正当であるのかもしれないのだ。
前置きが長くなった。本連載の総括に移ろう。「セレクション俳人」シリーズはその名の通り俳人の「選集」である。むろんこの名称には作品の抄本ということと同時に、現在の俳人からの選出という意味もあろう。このシリーズに入った俳人は岸本尚毅、田中裕明、大木あまりなど「ニューウェイブ」の俳人としてデビューを飾った者のほかに、小澤實、正木ゆう子など、そのデビュー時には比較的注目度が低かったものの現在の俳句シーンに大きな影響力を与えている者、あるいは櫂未知子のようにニューウェイブの俳人たちからはやや遅れて登場した者などが選ばれている。
いずれにしても彼らが現在の俳壇において様々な意味で有力視されていることは間違いのないところだろう。たとえば藤田哲史が指摘したように、俳句甲子園を通過した俳人の作品には正木ゆう子の俳句表現からの影響が見られるし、岸本尚毅の方法論を意識的・無意識的にとりこんでいる若手俳人も少なくない。
この企画においてセレクション俳人シリーズの一冊一冊は、いわば俳句についての論考の「種」である。そして、論考となるにせよ作品となるにせよ、次なるものを促すという点において、これらの「種」は、今に生きながらえている数々の古典と全く等しい存在である。
本連載を開始するにあたって藤田は「はじめに」でこのように述べているが、実際、このシリーズに入手した俳人たちの作品こそ、否応なしに僕たちの目の前にあった俳句であった。そしてそれらは、彼ら以前の俳人―三橋敏雄、金子兜太ら戦後の大家や戦前の俳人、あるいは明治、大正期の俳人たち―の作品と戦略的な差異化を図りつつ、その流通においては僕たちの前に殺到したのだった。換言すれば諸々の俳句表現は「とりあえず」互いにフラットな関係で現れたのであって、それらをツリー状に「是正」する知恵を僕たちが身につけたのは事後においてであった。しかしいまやこの知恵の有効性は疑わしくなってきている。
こうした知の形態の変動について、福嶋亮大はクリストファー・アレグザンダーが提案した都市構造を挙げつつ次のように述べている。すなわち、アレグザンダーは「一本の巨大な幹線道路が中心にあって、他の道路はそこに結線するかたちでデザインされている」都市を「ツリー構造」の都市であるとする。一方で、アレグザンダーが提案するのはこれと対比される「セミ・ラティス」型の構造だ。
たとえば、アレグザンダーが挙げるのは、バークレーの交差点の例である。ドラッグストアとその前に置かれたニューズラック、それに信号機がある。信号が赤のあいだ、通行人はニューズラックの新聞を手にとって眺めるかもしれない。この場合、ドラッグストアとニューズラック(新聞)が一つのまとまりを形成する一方、通行人の介在によって、さらに信号機と新聞が一つのまとまりを形成するだろう。新聞という要素は、ドラッグストアの組み合わせと、信号機との組み合わせの、どちらにも足をかけている。そしてまた、この種の組み合わせは、都市の有機的な流れのなかで原理的にはいくらでも拡大していくだろう。(福嶋亮大「ゲームが考える―美学的なもの」
『神話が考える ネットワーク社会の文化論』青土社、2010)
日々大量に生産される俳句を前にしたときに問題となるのはその処理法である。これまでに書かれてきた俳句史はそれらをツリー構造で捉えることによってその交通整理を担ってきた。また今日の俳句評論の多くもこのような俳句史観を前提としている。
この方法はいまだ有効であろう。けれど、そのような捉えかたが実は俳句表現の発展のありようを固定化してしまっているのではないか。現在、俳句の作り手が息苦しさや窮屈さを抱えているとすれば、こうした知のモデルに綻びが見え始めているからではないだろうか。
だからいま僕たちに必要なのは、複数の場に所属するもの同士を短絡させるような方法だ。それはたとえば「セレクション俳人」シリーズを「今に生きながらえている数々の古典と全く等しい存在」として捉えることだ。あるいは、「セレクション俳人」シリーズを「今に生きながらえている数々の古典と全く等しい存在」として捉えうるネットワークのなかにいる存在としての自己に意識的であり続けることだ。僕たちは通行人のように複数の俳句表現に介在していく。その足どりから生まれる俳句評論とはいかなるものなのか―論考はまだ始まったばかりである。
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お知らせ(第100号)
Twitter読書会『新撰21』 第十一回「冨田拓也+横井理恵」
第十一回は冨田拓也さんの作品「八衢」と、横井理恵さんの小論「伏流水の滋味」を取り上げます。
「haiku&me」のレギュラー執筆者が参加予定ですが、Twitterのユーザーであれば、どなたでもご参加いただけます。主催者側への事前の参加申請等は不要です。(できれば、前もって『新撰21』掲載の、該当作者の作品100句、および小論をご一読ください。)
また、Twitterに登録していない方でも、傍聴可能です。(傍聴といっても文字を眺めるだけですが。)
・第十一回開催日時:2010/7/24(土)22時より24時頃まで
・参加者:
haiku&meレギュラー執筆者
+
その他どなたでもご参加いただけます。
・ご参加方法:
開催時間にTwitter上で、ご自分のアカウントからご発言ください。
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俳句九十九折(92・最終回) 七曜俳句クロニクル XLⅤ・・・冨田拓也
七曜俳句クロニクル XLⅤ
・・・冨田拓也
7月11日 日曜日
今週は、一体何を書けばいいのか。
とりあえず、これまでの内容に対する回顧というものを、少しばかり記して見ることにしてみたい。
思えば、この「―俳句空間―豈weekly」が開始されたのが、2008年の8月のことであった。そして、気が付けば、自分も誘われるがままに、何の目算もない見切り発車で、ついふらふらとつられて走り出してしまっていたのであった。
記憶を遡ってみると、自分はこの連載の最初において、インターネットで何が可能かといったことについて述べ、いくつかの企画を提案してみた。
そして、それから俳句というジャンルのこれまでの来し方というものを俯瞰することによってこの現在の自らの足場というものを確認してみたい、との思いから、現在までに至る「俳句の歴史」というものを、大雑把ながらではあるが辿ってみることにしたのである。
とりあえず6週間ほどの時間をかけて俳句の歴史における主要と思われる出来事を簡単にピックアップしていった。以前、俳句の研究しておられるある知人の方が、自分のこの連載の内容を見て「このような俳句の歴史の現在までのアウトラインを示したものは、いままでに存在しなかった」と評価して下さり、さらにはその方の論文にまで拙文の内容を引用し取り上げて下さった、とのことである。しかしながら、実際のところ、この連載の実質というものについては、ひたすら「引用による継ぎ接ぎ」を繰り返すことで成り立っている、一種の「パッチワーク」であるという側面も強い。
ということで、正直なところ、ある程度主要な部分はカバーしているとは思いつつも(総合誌である角川書店の『俳句』の歴史など言及できていない部分もあるが)、他に一体どこで何を見落としてしまっているかわかったものではない、というところがあるのも事実である。しかしながら、思えば、芭蕉であれ、蕪村であれ、一茶であれ、いまでこそ俳諧の歴史を語る上においてどうあっても欠かせない存在ということになっているが、その生前はそれほどメジャーな存在というわけではなかったという側面もあるそうである(芭蕉についてはやはり生前でも単に無名の存在というわけではなかったそうであるが)。
こういった事実があることから、当たり前のことであるかもしれないが、俳句の歴史というものは、後の時代になるとどのような様相を示すことになるのかやはり不確定な部分が相当にある、ということになるようである(無論だからといって、俳句の歴史に対する視点というものがいい加減なものであっていいというわけでは当然のことながらない)。
7月12日 月曜日
これまでの「俳句の流れ」というものをある程度眺めた後、次の展開として「俳句のアンソロジー」というものを作成してみようという気になり、「俳人ファイル」というタイトルで俳句アンソロジーの作成を行う作業に取り組むことにしたわけであるが、これはこれまでに書店や図書館、古書店やネットなどで少しづつ蒐集してきた資料の存在というものが随分と役に立った。
しかしながら、この「俳人ファイル」については、続けているうちに、中途で段々と半端でなく草臥れてきてしまったのと、資料を蒐集する大変さ、さらにその資料を読み込んで纏め上げるまでにかかる手間の大きさ、そして、俳人の数の多さ、時間の問題、また自分の能力の問題など様々な要素が重なって、結局のところ中断という結果となってしまった。それでも、おそらくこれはこれでよかったのであろう。
あと、いまからよく考えてみると、このような企画というものは、はじめから個人の力のみで行うのは相当に無茶というか非常に無謀な企てであったのではないかという思いのするところが多分にある。こういった作業には、やはりそれなりの人材と資料の存在というものがどうしても不可欠であり、そういった条件が揃うことによって漸く高水準での達成が可能となる性質のものではないかという気がする。
また一応、自分が今回のこの「俳人ファイル」において取り上げた作者は、合計で39人であったが、いずれの内容もまだ完成形といえるまでの水準には達しているとは言い難いものが多く、残念ながらそのおおよそはまだ試作の域にとどまるものであると言わざるを得ないところがあろう。また、いずれ何かの機会があれば、それぞれの作者とその作品については、もう少しその本質というものを掘り下げて、しっかりと取り組み直してみたいところである。
7月13日 火曜日
その「俳人ファイル」を中断すべきかどうかと少々煩悶している時期に、ふと「日記形式」なるアイデアが思い浮かんできた。その発想をきっかけとして、とりあえずのところ、「俳人ファイル」については一旦休止させ、「七曜俳句クロニクル」というタイトルによって、日記形式による文章というものを書きはじめてみることにした。
これは、以前、総合誌『俳句』や『俳句研究』の誌上において、橋間石や和田悟朗、阿部完市などの様々な俳人が、それぞれ1回のみの限定での登場であったが、日記形式によってとある1ヶ月の生活模様を記述するといった内容の連載があり、その日記の内容には各々の俳人の日常生活における、テレビや美術、交友関係、読んだ本のことなどといった多種多様な事象が混在して描かれており、思った以上に面白い読みものとして印象に残り、自分もいつかこういった日記による文章というものを書いて見たいものだなと考えていたのであるが、そのことが「七曜俳句クロニクル」をはじめるひとつのきっかけとなっていたのではないか、という気がする。
7月14日 水曜日
結局のところ、この日記形式による「七曜俳句クロニクル」については、開始してから現在の最終回を迎えるまで、そのまま45回にわたって書き続ける結果となった。
ということで、見切り発車で始まったこの「俳句九十九折」は、その実質としては、「俳句史」、「俳人ファイル」、「七曜俳句クロニクル」という3つの変遷を経る結果となった、ということになる。
7月15日 木曜日
ともあれ、今回の「俳句九十九折」の連載によって、自分が2000年頃から現在の2010年までの10年程の間に、様々な図書館、書店、古書店などに何度も足を運ぶことによっていくつか手にすることのできた資料というものが、今回の連載のおかげで漸く少しばかりは日の目を見ることができたのではないか、という気がしている。
これまでの自分の殆んど無為とも思える歳月の浪費というか蕩尽というものも、今回の連載によってあながち無駄な側面のみではなかったといえるのではないか、と思いたいところではある。
7月16日 金曜日
この間、家の中のものを片付けていたら、嘗ての自分の子供の頃に集めていたお菓子のおまけのシールやゲームなどのキャラクターのカード、また、日本の古い硬貨や紙幣などのコレクションというものが出てきた。
それらを眺めると、カードや硬貨などはそれぞれを収納する専用のケースの中に種類ごとにきちんと区分けされ丁寧に整理されており、現在の自分の視点から見ても小学生にしてはなんとも律義というか相当に几帳面な性質のもので、嘗ての自らの行ったことでありながら少々驚いてしまうところがあった。
しかしながら、思えば自分のこういった性質というか性分というものは、実のところ現在に至るまで、この嘗ての子供の時分からほとんど何ひとつ変化してはいないのではないか、と思われてしまうところがある。
それは、この「俳句九十九折」の連載の内容というものを振り返ってみれば理解できるであろうが、それこそ嘗ての自分が蒐集していたシールやカード、硬貨や紙幣といったものの存在が、現在においては、ただ単に「俳句」そのものに置きかえられているだけ、といえるようなところがあるのである。特に「俳人ファイル」については、まさにそういったある種のコレクターとしての性質といったものが、そのまま如実にあらわれた結果のものであるといえそうである。
この事実を眼の前にして、なんというか、詩人谷川俊太郎さんの詩の中にある、「私はかっこいい言葉の蝶々を追いかけただけのただの子供」、といった内容のフレーズの存在を、そのまままざまざと思い出してしまうところがあった。
結局のところ、自分がこれまで繰り返し行い続けてきたのは、それこそ「蝶の標本」を作ること、とでもいったようなものに近いのかもしれない。
7月17日 土曜日
とりあえず、この「俳句九十九折」は、今回の92回目をもって終幕ということになる。
というわけで、この日記をつけるのも今日で最後である。
そういえば、この連載のタイトルである「俳句九十九折」とは、その当初99回の連載を達成することを目標にしよう、という趣旨によって名付けたタイトルであったような記憶もある。
そもそも、この「俳句九十九折」の「九十九折」という言葉は、別の漢字表記では「葛折」とも書き、そのどちらの表記の場合も「つづらおり」と読む。そして、その意味するところについては、「幾重にも曲りくねった坂道」のことを指すものということになる。
この俳句の「九十九」にも及ぶ曲りくねった険しい坂道を踏破した者には、「俳句の阿闍梨」の称号が授けられることになるという風説があるとか、ないとか……(すみません)。
一応、今回で、この連載は92回目であるから、あと7回で99回の連載が達成される予定であったということになるわけであるが、これはこれでむしろ登り切らない方がいいのであろう、という風に考えておくことにしたい。
実際のところ、現在の自分の歩いている現実における俳句の「九十九折」というものは、まだ容易には先が見えず、さらにその道のりというものもおそらくこれからも随分と長いものとなるであろう、ということが推測されるゆえである。
ともあれ、ここで一つの扉は閉じられる。
最後に一言だけ述べさせていただくと、最近の俳句を巡る状況というものを眺めてみた場合、やはりなにかしらの変化というものを見せはじめているように思われるところがある。インターネットの普及、「芝不器男俳句新人賞」や「北斗賞」などといった新人賞の創設、『新撰21』の刊行、俳句総合誌での若手俳人の登場頻度の増加、最近の『現代詩手帖』6月号による短詩型の特集等々。
この流れというものは、今後も継続的に波及してゆく性質のものであると見て、おそらく間違いのないところであろう。
このように見ると、言葉の力をも含むなにかしらの働きかけというものによって、現実というものは幾分かなりとも変化させ得ることが可能である、といえるところもやはりあるのである、という思いもしてくる。
そして、そういった言葉というものが秘めている力、またはその可能性というもの、それはやはり確かに存在し、本来的には誰しもが自らの内側においてその力を備え持っているはずのものである、ということを、最後にいま一度この場において言明し、確認することによって、この連載を終了させていただくことにしたい。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。
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高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』を読む
・・・高山れおな
前号拙稿の末尾には「つづく」と表示し、あとがきには「気分と時間によっては打ち切りかも知れません」と記したのであるが、どうやら後の方の予想の通りになったようだ。しかし、それはそれとして『戦後俳句論争史』(第一章が「第二芸術論論争」にあてられている)(*1)を久しぶりに書棚からとりだしたり、『短詩型文学論』(一九四八年に八雲書店から出た短詩型批判の論文の集成)(*2)を読んだり、こちらはまだ手をつけていないのであるが、『現代俳句の為に 第二芸術論への反撃』(*3)というお廉くない本を新たにとりよせたりと、なにやら第二芸術論のまわりをうろうろすることがつづいている。その間、坪内稔典の「戦後俳句のゆくえ」(*4)を再読もしてみたが、直接に第二芸術論にかかわる部分よりも、山本健吉や吉本隆明を参照しながら使われている「空白」という概念の方に興味をひかれた。それから、第二芸術論について岡井隆が書いた本もあったはずだと部屋の中をごそごそやったら、さいわいあっさりと見つかった。『短歌―この騒がしき詩型 「第二芸術論」への最終駁論』(*5)という凄いタイトルの本だ。同書は、二十八章に附録がつく構成なのであるが、パッとひらいたとたん目にとびこんできたのは「七 高橋睦郎の詩と歌」という章題で、お蔭で、そうだ、高橋睦郎の句集について書くのだったと思い出したわけである。
籠枕百モの枕の手はじめに
魂座(たまくら)に叶ふ軽ロさよ籠枕
「籠枕」をモティーフにした、夏七月の十句を巻頭にすえる高橋睦郎の句文集『百枕(ももまくら)』(*6)が到来したのは、まさに七月のそれも月の枕ならぬ月の頭。もちろん発行のタイミング自体、高橋の演出なのにちがいない。個人的なことから記すと、俳句の作り手としての高橋との出会いはそれなりに古くて、評者が俳句をはじめる以前、自由詩や短歌を試作していた時期にさかのぼるのではないかと思う。思潮社の『新選高橋睦郎詩集』(*7)に全篇が録されている句集『荒童鈔』を読んだのがおそらく最初で、ほどなく店頭にならんだ句歌集『稽古飲食(けいこおんじき)』(*8)の普及版を新刊で買ったのではないか。同書は、前年の一九八七年に出た非売品のオリジナル版が山本健吉の目にとまって読売文学賞を受賞し、短詩型作者としての高橋睦郎が一挙に世に知られるきっかけになった。高橋は一九九〇年の一年間、「俳句」誌で「季戀(きはこひ)」と題する連載を持っているが、これも読売文学賞あってこその展開なのであろう。「季戀」は同誌の巻頭扉に毎月五句を掲出するものだったからいやでも目立ち、“季とは恋である”というコンセプトについてはよく理解できないままにとにかく読んでいた。齋藤慎爾がどこかの雑誌で、例の毒舌をふるってこの連載を罵倒していた記憶もある。一九九二年の『私自身のための俳句入門』(*9)もやはり新刊で手にしているし、あれこれ考えると高橋睦郎はじつに、評者初学の頃にある程度系統的に親しんだ作者としては角川春樹や河原枇杷男とならぶ存在だったらしいのだが、では睦郎俳句に心酔していたかというとそれはちょっと違うようだ。
業平忌あつものの蓋の露しとど
棹ささんあやめのはての忘れ川
『荒童鈔』
ぶりきの蝉へこへこと秋立ちにけり
捨靴にいとどを飼ふも夢の夢
『稽古飲食』
夜濯や蹼キのこる指の股
「季戀」(*10)
これらの句は、心酔や心服とは異なる位相で、評者を安心させてくれたと言う方が、より実際に近いと思う。ロマンチックな古典志向、フェティッシュな形式主義、描写型の句であっても決して写生句ではないこと――高橋作品のそうした特徴によって、要は「これでいいんだ」と励まされたのである。語彙や用字は圧倒的に豊富で難解(掲出句はそれほどでもないけど)、とはいえそれらもあくまでブッキッシュな性質のものであって経験的なものではないから読みの回路はひらきやすい。季語の使い方なども保守的なように見えて、結社で煮しめた伝習性を帯びない独学者(安東次男に師事しているとはいえ)の用法であり、自身も独学の初心者だった評者にもさほど抵抗なく受け入れられたということもあろう。その後、『賚(たまもの)』(*11)、『花行(けぎやう)』(*12)と読み継いできてしかし、次の『遊行』(*13)になると高橋と俳句の関係もやや楽々と親密なものになりすぎてしまったらしく、かえって流れに乗り切れない不満がのこった。そこへ四年ぶりの句集となる『百枕』が現れたのである。期待半分、失望させられるのではないかという恐れが半分、これが正直なところだった。実際はどうだったか。結論からいえば、これはとても面白い句集(正確には句文集)なのではないだろうか。『百枕』についてはすでに前号で関悦史が論じてしまっており、以下の記述にも関の文章といささかの重複があるがその点は御海容を請いたい。
『百枕』は俳誌「澤」(当初の数回は「俳句研究」)での連載をまとめたもので、〈具体的な枕そのもの、また具体的な枕を含む類語を用いて詩歌作品を試みたいとの私かな望み〉を、俳句連作のかたちで実現したものだ。毎回、「菊枕」「草枕」「枕炭」などのテーマを立てて章題とし、各章はそれぞれのテーマにちなむ十句の連作と短文、そして短文に付される反歌のごとき一句で構成される。冒頭はすでに述べたように「籠枕―七月」で、最初の年は「年の枕―十二月」にいたって終わり、その後は一月から十二月までを二巡させる。つまり正味二年半、三十ヶ月=三十章ということであり、十一句×三十章=三百三十句となる。後記に載る三句をこれに加えて、収録は計三百三十三句。その全句に必ず「枕」の一字を詠みこむ大技を見せるものの、それ自体はこの作者にはむしろ易々(いい)たる仕事にすぎまい。もちろん、一冊の本としての変化を考えるときつい縛りには違いなく、そこで威力を発揮するのが各章の短文ということになる。一回あたり四百字詰原稿用紙で二枚強、章毎のテーマの解説を主にしながら、そこは手練れの書き手だから趣向はじつにさまざまで、現代的な“俳文”の可能性をきりひらくものであると同時に、これあればこそ句の方で思うさまな冒険が可能になった面もあろう。その冒険の多彩さは三十章のテーマにあきらかに見てとれる。たとえば、「籠枕」「菊枕」などの季語、「草枕」「歌枕」「枕詞」などの文学用語があり、一方、「枕木」は日常語、「枕絵」「枕経」「枕太刀」は日常語ではないものの難解とまでは言えない普通名詞で、この辺は一般的にも容易に了解できよう。それだけではない、「長枕」「枕船」のようなやや特殊な民俗的な語彙もあれば、王朝古典の中にただ一度だけ現れて消えてしまった「枕虫」という言葉を季語として復活させたケースもある。「時雨枕」「年の枕」「初枕」では季語プラス枕でモティーフを示すかと思えば、「春枕」の章では“枕”を春季、それも晩春の季語とするよう半ばは戯れ、半ばは本気の提言さえしている。「枕川」「枕占」「枕討」は造語による遊びであり、解説の短文はそのまま高橋一流のロマネスクとなる。枕の類語、縁語とひとくちに言っても、なかなか一筋縄ではゆかない広がりを見せているのがわかるだろう。
ここで具体的な連作をいくつかご紹介しておく。まずは第九章にあたる「涅槃枕―三月」より。
涅槃会や枕のやうな山麓
思ひみよ山を枕の涅槃仏
わが涅槃枕思へば磐(いは)か根か
春の山名付くとならば枕山
あの枕この枕春の山指して
十句のうち半分を引いた。エッセイでは涅槃会の由来などもひもとかれるが、とりわけ問題とされているのは「体感」である。
仏伝によれば、釈尊は布施物の豚肉を食べて下痢が止まらず、ついに死に到った、という。鎌倉初期の清僧明恵(みょうえ)上人などは、涅槃会の一日じゅう、釈尊の苦痛を思って涙が止まらなかった、と伝えられるが、当今の仏教者にこの宗祖への体感敬慕の残っている者がはたして幾人あるだろうか。体感が喪われた時、宗教は肉体を失い形骸化するほかないのではあるまいか。
高橋という人には現在の仏教(にもかぎらぬ宗教界)への、おそらくは期待と裏腹になった激烈な批判があり、本稿でもあとでふたたびふれることになるだろう。驚くのはここから、〈末法(まっぽう)一万年の最中(もなか)を生きるわれら〉とりわけ〈日本の詩歌に関わる者〉へと視点をひるがえしたかと思うと、〈仏祖ならぬ歌宗、柿本人麿の死についてなら、いささか体感も可能かもしれない〉と述べるところだ。その手がかりとなるのがわずかに『万葉集』巻第二に載せる、
鴨山(かもやま)の磐根(いはね)し枕(ま)ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ
という人麿臨終の歌一首なのであってみれば、これはほとんど傲然と見えるまでの自信ではないか――というのはしかしじつは型通りに反応してみせたまでで、評者自身その「体感も可能」というところを露うたがってはいない。なぜなら、現にひとつのすぐれた詩歌作品が残っている以上、その体感は可能なのだし、それが可能でないなら詩歌を読んだり作ったりすることにほとんど意味はないだろう。俳句となると歴史が短かすぎて、こうした体感云々が焦点化するまでのこともなく、さればこそ「芭蕉さん」などという距離設定においていささか怪しげな呼びかけが横行する結果にもなるわけだけれど。
ここで掲出の五句に戻れば、一句目、〈涅槃会や枕のやうな山麓〉は、阿波野青畝の〈葛城の山懐に寝釈迦かな〉を面影にしながら、「葛城」という固有名詞のなつかしさを「枕のやうな山」という視覚的な原型性の方へ転じてみごと。二句目(本の配列でも二句目)の〈思ひみよ山を枕の涅槃仏〉は、この一句目をうけながら、山ふもと、山ふところに寝釈迦がおわすのではなく、山そのものを枕にして横たわる巨大な涅槃仏を幻視した。当然ながら山川草木悉有仏性の思想が二重うつしになっている。さらに涅槃会がらみの句が続いたあと三句目(本の配列では五句目)の〈わが涅槃枕思へば磐(いは)か根か〉にいたって仏陀の入滅ならぬ「わが涅槃枕」のイメージがよびだされる。自分の死は磐を枕にしたものになるのか、木の根を枕にすることになるのかというので、句を読むだけでも人麿の鴨山の歌が下敷きになっていることはあきらかだが、短文を読むとそれが実際に人麿への敬慕に根ざしつつ、詩を通じての体感の問題にまで思いを凝らしたものだったことがわかる仕掛けだ。つづく四句目、五句目(本では七句目、八句目)の〈春の山名付くとならば枕山〉〈あの枕この枕春の山指して〉は、一句目、二句目の「枕のやうな山」「山を枕」の発想へ回帰しながら、枕と死を結びつけるのではなく、枕の安らぎのもとでの春の歓びが歌い上げられているおもむき。特に後者、あの山も枕、この山も枕と興じるさまには、楽しげなうちにどこか狂おしい過剰さも感じられる。
つづいて第二十七章にあたる「枕討―九月」を見てみよう。本書の三十章に収める各十句の連作は、各句相互の関係もごくゆるやかで、ほとんどの句がばらばらでも意を通じるものから、配列の順を追って句の世界が展開する厳密な意味での連作まで、おなじく連作といってもありようには幅がある。上でご紹介した「涅槃枕―三月」の場合はまずは前者の例にあたるが、「枕討―九月」はこれとは対照的に十句が全体で物語を構成し、かつ短文をあわせて読まないとよく理解できない内容になっている。こういうところへ一句の独立性云々というつまらない議論をもちだして欲しくないのは、俳句連作+エッセイ(俳文)という本書の基本的な形式からすればむしろこちらの方が、形式と内容の適正な関係を示していると言えなくもないからだ。
電(いなづま)を逐うて失せしを枕討
枕討つ人数踏ン込む露の宿
人憎し枕憎しや残る蠅
両タ枕討たれ了んぬ露四散
晒シ枕首級(しるし)のごとし冷かに
人は逃れ枕は討たれ秋深む
露の夜々枕慣れざる旅ならん
枕捨てゝ落チ行く先や夜々の月
落びとの良夜の枕いかならん
長き夜の枕の咎を噺かな
物語の流れを追いやすいよう十句すべてを引いた。「枕討」という見慣れない言葉に、これは「女敵討(めがたきうち)」にかこつけた造語だろうか、あるいは元々そんな言葉があるのか、それとも「後妻討(うはなりうち)」の類か、「粥杖」や「成木責」のような年中行事かとまずは戸惑いが先に立つ。順に読んでゆくと女敵討風の情景のように思えるものの、なにしろ肝心のキーワードに確証を持てないのだから句意も治定(じじょう)しようがない。ではとエッセイを読むと、〈江戸時代の姦通した二人、いわゆる姦婦・姦夫が逐電、つまり身を暗ました後、寝取られた夫の側が二人の密通の場に踏ん込んで、せめてもの腹いせにそこに残された二人の枕を討つという状況を想像しての、筆者の我儘な造語である。〉と明かされていて、委細ようやく腑に落ちる。エッセイの方は、近松の世話物を例に引きながらの、高橋独自の恋愛小論にして江戸文化小論といった按配で、十句目に出てくる「枕の咎」(これも造語であろう)という言葉については、〈二人が不義密通に落ちたのもあながち二人のせいではない、枕というものがあればこそ、男女が枕を共にするという習いがあればこその罪〉との説明もなされる。文章の後に付けられる一句は、
この枕なくばあらずよ秋の翳
虚子の〈もの置けばそこに生れぬ秋の蔭〉とおなじことを、別の言い方で述べているわけだ。虚子の句がそうであるように、必ずしも男女のことに結びつけず、秋思一般を詠んだ作としても解せるが、あくまで反歌ならぬ反句として読めば「枕の咎」の気配を見せ消ちに見せた句ということになるだろう。さて、「枕討」の説明を受けて十句の方へ戻れば、〈人憎し枕憎しや残る蠅〉〈両タ枕討たれ了んぬ露四散〉の両句が、句の出来としてはぬきんでているように思う。前者は、「残る蠅」の斡旋がほとほと巧みで、閉てきった室内にこもる濁った熱気までを感じさせるし、後者は、まるで軍記物のような大仰な語調で報告される戦果が「両タ枕」でしかない落差がなんともおかしい。それから、一句目の〈電(いなづま)を逐うて失せしを枕討〉は、「逐電」の語を読み下し文にひらいているのはもちろんとして、句形が蕪村の〈御手討の夫婦(めをと)なりしを更衣〉を思い出させるのも、この作者のことだから、プレテキストとしておそらく意図的に利かせているのに違いない。
以下、個別に、興に入った句をいくつか読んでみたい。
鬆(す)の入りし頭ラ一つを籠枕
第一章「籠枕―七月」より。「鬆(す)の入りし頭ラ」を横たえるなら、これも隙間だらけの「籠枕」こそがふさわしいというのが心か。巻頭の一連のうちにある句であることを思えば、これからお見せするあまたの句々も、所詮この鬆の入った頭から出たものですよという絶妙の謙辞としても働いていよう。自嘲というほど苦くない、軽やかな諧謔であり、挨拶である。
波枕下の地獄も夏果つや
第二章「長枕―八月」より。章題の「長枕」は〈二人寝に用いる長いくくり枕。〉だそうだが、高橋は若者宿で用いられたという〈丸太ん捧の両端を断ち落としただけの殺伐〉たる長枕を持ち出し、それからそれへと連想の景をくりひろげてゆく。若衆宿の若者たちが漁師の青年たちに読み換えられるあたりは、連句の呼吸ということになるか。掲句はもちろん「板子(いたご)一枚下は地獄」の慣用句を下に敷いて、死と紙一重の危険に生きる若い漁師たちの姿を、夏の終わりの海と太陽の輝きの中に観想する。「夏果つ」という季語が、これほど官能的に、胸に迫るように感じられたこと、評者には初めてだ。
凩赤時雨うすゞみ枕何
手枕を解いて灯入るゝ時雨かな
第五章「時雨枕」より。時雨と枕の関係をいろいろに取りなす章で、エッセイでは高橋が師と仰ぐ三好達治の凩の句にはじまって、時雨論議、凩論議、さらに宮中祭祀へと短い中によくぞと思うほどに話題が転じてゆく。一句目、凩の色を赤とするのも、時雨の色を薄墨とするのもむしろ類型的な比喩であり、しかしその類型性が「では、枕の色は?」という問いを際立たせることになる。二句目はまるで蕪村か太祇かというような古風さだが、手枕をして思いに耽っていた人物が時雨空の翳りに驚いて灯を入れる、そのとっさの動作のうちに写しとられた、心理描写なき心理の綾を味わうべきか。
蛞蝓の化けて枕や梅雨長き
第十二章「梅雨枕―六月」より。これは『なめくじ艦隊』(*14)かと思ったら、案の定、短文では四十年前、上京して間もない頃に落語に熱中した思い出が語られている。梅雨時ともなれば、人間自身がナメクジになったような気分にさせられるのだから、枕が化けたナメクジだったとしても今さら驚かない。この句の背後に湛えられているのはけれど、そのような、否定的に言われがちな季節への逆説的な愛のような気が、むしろせぬでもない。じつは梅雨冷えの皮膚感覚が嫌いではない評者の偏向読みであろうけれど。
佐保姫は怖(おぞ)の虚女神(ひめがみ)菅枕
第二十章「枕神―二月」より。枕神は、〈夢枕に立つ神〉のこと。〈とすれば、ふさわしい動詞は「立つ」。これを二月にもってくれば、春立つ日の女神、佐保姫ということになろう。〉との説明で、ここになぜ「佐保姫」が登場するかは分明であるが、慕わしかるべき春の女神が、「怖(おぞ)の虚女神(ひめがみ)」とされるのはだがなにゆえか。これを、〈四月は残酷極まる月だ/リラの花を死んだ土から生み出し/追憶に欲情をかきまぜたり/春の雨で鈍重な草根をふるい起すのだ。〉(*15)という具合に、春という季節がはらむ生長することの苦しみ、それへの恐れゆえと解しても悪くはない。実際、睦郎自身の〈虫鳥のくるしき春を不為(なにもせず)〉(*16)という知られた佳吟は、この解釈をうべなってくれよう。が、ここは本章に付せられたエッセイにしたがっておけば、なんとこの佐保姫は「詩(ポエジー)」の比喩なのだという。『新撰犬筑波集』に載る有名な〈霞の衣すそはぬれけり/佐保姫の春立ちながら尿(しと)をして〉という付合を、〈春先、小児(しょうに)の寝小便はじつは春の女神の悪戯(いたずら)の濡衣(ぬれぎぬ)なのかもしれない。〉と読み換えた高橋は、女神の寵童となった男児の物語を「詩(ポエジー)と詩人(ポエト)の関係式の比喩」として官能的に織り上げてみせる。
詩人は詩という女神に召されながら、ついに女神その方(かた)に触れることを許されない。詩との巫山雲雨(ふざんうんう)の交わりは、詩人にとって永遠に叶えられることのない夢にほかならない。
もちろんこれは絶対言語を夢想しながら相対言語へ帰ってくる、というところへいつも意識を追いつめている人の場合であって、普通に伝習的な俳句を書いている分にはほとんど関係のない話です。念の為。
日闌(た)くるも目覚めぬ者に枕経
第二十一章「枕経―三月」より。「枕経」とは死者の枕頭でする読経のこと。この句の興は、一にかかって死者を「日闌(た)くるも目覚めぬ者」と看破したところにある。日が高くなっても目覚めない者、それが死者である――こはまた、なんと残酷でユーモラスな箴言であろうか。
枕大刀銘は春往く粟田口
第二十二章「枕大刀―四月」より。「枕大刀」は就寝する武士が、護身のため枕元に置いた刀のこと。「粟田口」は東海道の京都への入口で、三条白川橋の東にあたる。東山の青蓮院の所在するあたりである。この地名が、同地に住した山城鍛治の刀工一族の家名ともなった。粟田口国綱は作刀に趣味のあった御鳥羽院の御用鍛治だったといい、また粟田口吉光は岡崎正宗、郷義弘とならぶ史上屈指の名工とされる。枕大刀の銘が粟田口某だというだけの句意だが、「春往く」を「粟田口」の枕詞のように置いたことで、刀工の名がその苗字の地の実景をも引き出すことになっている。現在ではほとんど高橋以外誰もあえてしない、古風な詠み口である。その古調をたのしむべき句。
われを待つ晦枕年の淵
第三十章「枕の果て―十二月」より。最終章だけあって、〈枕に謝す三百六十五夜の寝(しん)〉〈坂まくら枕(ま)ける異形や年の神〉〈坂枕その坂の果て年くだつ〉〈時の恩枕の恩や年ほろぶ〉など、さすが万感の思いのこもった力作がそろう。掲句はエッセイの後に出る反歌/反句で、「晦枕」は「つごもりまくら」と読ませる造語である。〈夢一つ見ぬ、ひたすら眠りという名の闇〉が詰まった枕であり、〈その枕に疲れ果てた首(こうべ)を預けたまま目覚めぬというなら、なおさらめでたいではないか。〉とが作者の弁。
句文集『百枕』の概要は以上だが、あえてふれずにきた謎がある。それはなぜ枕か、ということ。そしてなぜ俳句かということ。関悦史は、前号の『百枕』評で、次のように述べている。
高橋睦郎の句には専業俳人のそれとはやや異なる感触がある。そしてそれは必ずしも俳人と詩人一般の差異に還元出来るものではない。一言でいえば、虚ろなもの、虚空的なものがそのままで餅菓子か何かのようにしっとりと重く身の詰まった実体感へと転じて鎮座しているといった奇観的な感触であり、これは意識が虚ろとなることがそのままで充実に転ずる眠りというものの逆説的ありように通じている。ここにおいて「枕」とは「眠り」の換喩(メトニミー)に他なるまい。
関のこの分析をほとんど受け入れるが、評者としては高橋睦郎の俳句が専業俳人のそれとも、詩人が余技で書く俳句とも異なる感触を持つという事実を、なぜ高橋にはそのような俳句が書けてしまうのかという方向に転じてみたい。実際、高橋は一級の自由詩の作者でありながら、なぜ同時に一級の短歌や俳句が書けてしまうのか。いや、短歌・俳句どころの話ではじつはないのだ。二〇〇一年に出た『倣古抄』(*17)において高橋は、「祝詞」「催馬楽」「旋頭歌」「今様」から「常磐津」「小唄」の類まで、古代から近世にかけて栄え、かつは滅んだ二十一もの定型を駆使してみせてさえいる。それらの出来栄えを検討することはいま置くとしても、なぜひとり高橋睦郎だけにそのようなことが可能なのか。これを才能と言って片付けるのがためらわれるのは、少なくとも自由詩において高橋に劣らぬ声望とキャリアのある何人か――谷川俊太郎、吉増剛造、入沢康夫など――の名前を思い出してみたところが、誰ひとりすぐれた短歌もすぐれた俳句も書いてはいないからだ。いや彼らは付き合いで句会に出たことくらいはあったとしても、おそらく精魂を傾けて短歌や俳句を作ろうとしたこと自体がないのにちがいない。だから、先の問いをこう言い換えてもいい。なぜ、高橋睦郎だけに、かくも強い古典詩型制作へのうながしがあるのか、と。
高橋に「そなしのむなくに」(*18)と題されたエッセイがある。ごく短いものだが、高橋の日本ないし日本文化に向けた考察がコンパクトに纏められている点でなかなか興味深い。
日本の文化財として私たちが誇るべきものの第一は、げんざい私たちが住む日本列島弧の位置ではあるまいか。地質時代の地殻変動によってこの列島弧がユーラシア大陸の東側から離れて独立した時、日本文化なるものの性格は決定した、といえるのではなかろうか。それはユーラシアという母胎から切れ、切れたゆえに母胎を希求し、さらに切れ……という永久運動を繰り返すという性格である。
この雄大な鳥瞰図的歴史観を踏まえつつ高橋は、政治外交的には開国と鎖国を繰り返す日本は、開国時にはユーラシア文化を希求・吸収し、鎖国時にはそれを咀嚼・日本化するプロセスを反復してきたと、より具体的に述べる。日本化した外来文化が地層のように積みあがったのがすなわち日本文化であり、新文化の到来時こそ熾烈な闘争が発生するとしても、やがてそれが〈時間の中で鎮静化し、共存していく。〉というのがその特徴であるともいう。
鎮静化し共存するのは、列島弧の先には大洋しかなく、逃げ場がないため、そこで吹き溜るほかないからだ。吹き溜った宗教は宗教というよりは宗教の遺跡となる。
「宗教の遺跡」とはまことに辛辣だが、宗教以外の文化、たとえば芸能はどうなのか。それは遺跡ならぬ遺骸だというのが高橋の答えだ。
その地層化は、神楽・雅楽・平曲・能・狂言・人形浄瑠璃・歌舞伎・新派・新劇……の現状を見るだけで明らかだろう。それらは遺骸であるおかげで、何の抵抗もなく共生、ひょっとしたら共死できるのだ。茶道、花道、香道についても同じ。これらが言葉の真の意味での生命力を失ったのは、官僚化・妻帯世襲化によって下降した宗教者の場合とは逆に、特権階級化によって芸能者が上昇したからだろう。芸術と呼ばれるものもこれに準ずる。
こうした事態によって、〈日本文化なるものは虚構化せざるをえない。〉と高橋はいう。エッセイタイトルの「そなしのむなくに」とは、そのような虚構の文化、虚無の価値を生きる国としての日本を、記紀の語彙をアレンジしつつ規定した高橋一流の言い回しである。すなわち、〈わが日本とは膂肉(そしし)の虚国(むなくに)、いや膂無(そなし)の虚国、敢えていえば豊穣なる膂無の虚国なのである。〉
こうして見ると、『倣古抄』において極限的なあらわれ方をした古典詩型と高橋の関係がはらみもつ深い射程がよくわかる。それらはまさに遺骸であり、「何の抵抗もなく共生、ひょっとしたら共死できる」存在だったのである。だが、実際、とっくに死んでいる催馬楽や今様にとってその事実はなんの痛痒ももたらしはしない。むしろ、普通にはいまだ生きているとみなされている短歌、俳句、自由詩にとってこそ高橋のこの日本文化観は痛切であり、容赦がないというべきだろう。
わが国の詩歌文芸では古来大切にされ、おそらくは土地信仰起源の修飾語としての枕詞があり、古歌名歌を踏まえた歌作の題材としての名所をいう歌枕がある。この二つについてはすでに『爾比麻久良』『歌合枕』の二冊を世に問うているが、筆者としては具体的な枕そのもの、また具体的な枕を含む類語を用いて詩歌作品を試みたいとの私かな望みがかねてあり、その作品は自由詩でも短歌でもなく、俳句でなければならないと思いつづけてきた。
すでに一部を本稿中に引いた、『百枕』巻頭のエッセイの一節である。「枕」について作品化するのは「俳句でなければならないと思いつづけてきた」事実が、理由を明かさぬままに記しつけられている。それは高橋自身にも説明がつかない直観なのに違いあるまいが、一読者たる評者にもそれを肯んずる直観がはたらいているらしいのが不思議だ。ここでおなじエッセイの、枕の語源を探っている部分も見ておこう。高橋は白川静の『字訓』によって「枕」という漢字の語義をさぐり、ついで小学館の『日本国語大辞典』に載る大和言葉「マクラ」の語源を八つ列挙したのち、〈ここに挙がっていない「枕に頭をあてがうと魂が肉体から遊離して枕の中に宿る、これが睡眠であるとすることから、魂の倉(容物 いれもの)」(平凡社『大百科事典』)とする説を欠かすわけにはいくまい。〉と付け加えている。もちろん高橋がいちばん固執しているのは、最後に挙げられているこの「魂の倉」説なのだろう。そして、高橋の先の直観の根にあったのが、「枕」=「魂の倉」=「俳句」というアナロジーだったと仮定した時、ではなぜこの式の俳句の位置に短歌や自由詩が代入され得ないのかが次の問題となる。
高橋自身の自由詩、短歌、俳句を比較する時、共通する性格として叙法が端正で、一義的な了解性に富んでいることが挙げられよう。要するに、意味がとれずに困惑させられるようなことは、高橋の詩歌作品にあってはほとんどない。一方、三者の違いであるが、自由詩、短歌、俳句の順で主題性が後退し、同時に言葉それ自体に対するフェティシズムと、アナクロニスティックな形式への固執が増す傾向があるのをみとめてもよいだろう。
以上のような諸点をあわせ考えると、枕及び眠りと三位一体を形成するのが、自由詩でも短歌でもなく俳句でなくてはならないことの意味がはっきりと浮上してくるようだ。自由詩のような主題の展開力もなく、短歌のような韻律の喚起力にも乏しい俳句定型とは、まさしく「虚ろ」な「容物(いれもの)」以上でも以下でもない、この認識こそが高橋の直観の実体だったのではないか。先の引用で関悦史は、「意識が虚ろとなることがそのままで充実に転ずる眠りというものの逆説的なありよう」を指摘していた。すなわち「『枕』とは『眠り』の換喩(メトニミー)」であり、引用につづく箇所では、「魂の遊離まで視野に入っていることからすれば、ここから永眠まではほんの一歩である。」との言葉も見えた。詩神(ポエジー)そのものが、日本という圏域にとらわれて共生し共死するなにものかにすぎない――そう観じてしまった詩人(ポエト)の手に最後に残されたのは、死/眠り/枕への渇仰であり、その渇仰を癒す甘美な酒――フェティシズムとアナクロニズム――を注ぐのには、純粋な「容物(いれもの)」たる俳句こそが最もふさわしい。いまさら主題がなんになろう、いまさら黄金律がなんであろう。そんなものは我が眠りには邪魔なだけではないか! このようにも想定され得る高橋の俳句観を、ただちに一般化して語るわけにはゆくまい。だとしてもなお、 『百枕』を俳句によって実践された一個の稀有な俳句論と見ることは、ゆるされるように思われる。
◆高橋睦郎氏の句集では、漢字は正字で組まれているが、本稿では現行字体で引用しています。
◆高橋睦郎『百枕』は著者より贈呈を受けました。記して感謝いたします。
(*1)赤城さかえ『戦後俳句論争史』 俳句研究社 一九六八年
(*2)『短詩型文学論』 八雲書店 一九四八年
同書は以下の十二編を収録している。
和歌の永続性と現代短歌……近藤忠義/貴族的文学のゆくへ……土居光知/短歌への訣別……臼井吉見/歌の条件……小田切秀雄/短歌の運命……桑原武夫/他山石語……吉川幸次郎/短歌の新方向……クボカワ・ツルジロー/詩人への畏敬について……渡辺一夫/第二芸術―現代俳句について―……桑原武夫/俳句の近代詩への発展―俳句は「第二芸術」か―……栗林農夫/俳句は生き得るか……加藤楸邨/近代俳句の建設―詩人の反省に触れて―……赤城さかえ
(*3)孝橋謙二編『現代俳句の為に 第二芸術論への反撃』 ふもと社 一九四七年
同書は序を孝橋謙二が記すほか、以下の十七編を収録している。
往復書簡……山口誓子/教授病……中村草田男/文学の一世界……中村草田男/手近の更に手近の問題……中村草田男/「第二芸術」論に答へる……西東三鬼/現代俳句は第二芸術か……頴原退蔵/現代生活と俳句……頴原退蔵/俳句と芸……頴原退蔵/俳句といふもの……日野草城/俳句の命脈……山口誓子/俳句は生き得るか……加藤楸邨/俳句人の道……東京三/俳句否定論に対す……富澤赤黄男/「第二芸術論」以後……栗林農夫/俳句作家の立場から……三谷昭/最短詩型の生構造……高屋窓秋/俳句は近代詩である……孝橋謙二
(*4)坪内稔典『モーロク俳句ますます盛ん 俳句百年の遊び』(岩波書店 二〇〇九年)所収
(*5)岡井隆『短歌―この騒がしき詩型 「第二芸術論」への最終駁論』 短歌研究社 二〇〇二年
(*6)高橋睦郎『百枕』 書肆山田 二〇一〇年七月十日刊
(*7)『新選高橋睦郎詩集』 新選現代詩文庫120 思潮社 一九八〇年
(*8)高橋睦郎『稽古飲食』 不識書院 一九八八年
(*9)高橋睦郎『私自身のための俳句入門』 新潮選書 一九九二年
(*10)掲句は後に、句集『賚』に収録されている。
(*11)高橋睦郎『賚』 星谷書屋 一九九八年
(*12)高橋睦郎『花行』 ふらんす堂文庫 二〇〇〇年
(*13)高橋睦郎『遊行』 星谷書屋 二〇〇六年
(*14)古今亭志ん生『なめくじ艦隊』 朋文社 一九五六年
(*15)T・S・エリオット「荒地」 西脇順三郎訳
(*16)句集『賚』所収
(*17)高橋睦郎『倣古抄』 邑心文庫 二〇〇一年
(*18)高橋睦郎「そなしのむなくに」/「芸術新潮」二〇一〇年一月号 特集「わたしが選ぶ日本遺産」所収
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■関連記事
閑中俳句日記(40) 高橋睦郎『百枕』・・・関 悦史 →読む
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2010年7月17日土曜日
筑紫磐井終刊メッセージ
・・・豈発行人 筑紫磐井
「週刊俳句」や「―俳句空間―豈weekly」によって俳句の世界が活気づいていることは間違いない。インターネットの効果と呼んでよいだろう。もちろん、インターネットが効果を生む背景には、「週刊俳句」や「―俳句空間―豈weekly」だけでなく、これらとネットワークを構築している多くの個人のブログも相互に影響しあって力を発揮していることは言うまでもない。
しかしこうしたブログが共時的には結社誌以上の影響力を持つ反面(『新撰21』の爆発的な評価はその1つであろう)、通時的(歴史的といってよいであろう)な影響力をどう持てるかはまだ不明である。
『新撰21』を編纂する時、私の視野には今から20年前の若い世代の噴出があり、現に『新撰21』を論じる時にそのことに必ず触れていた。実際当時出た処女句集シリーズ、新鋭句集シリーズや各種セレクションを眺めながらそうした歴史を再構築してみることが出来た。しかし、あと20年後に、この『新撰21』の出た背景は充分理解されるであろうか。『新撰21』の誕生はウェブの影響の中で生まれたのであり、『新撰21』が生まれた瞬間の様々な発言や情報(そして熱情)はおそらく20年後にもはや確認することも出来ない状況となっていることだろう。
個人の意志によって維持されるブログは容易に消滅する。それは今回の「―俳句空間―豈weekly」の終刊でまことに象徴的に示される。「―俳句空間―豈weekly」に保存されたアーカイブも、果たして間違いなく存続するかどうかは分からない。それは個人の善意・悪意を越えてインターネットの宿命だろうと思われる。
とすれば、古風な方法であるが活字にして残すしかない。『新撰21』の経緯を色々なところで私が書いているのもそうした歴史の証言の風化を防ぐためである。ブログで我々の活動を知った遠方の見ず知らずの人が『新撰21』スポンサーとなるのはウェブ時代ならではの事件であったが、活字にしておかなければこうした時代の存在もあっという間に風化するであろう。現在、「―俳句空間―豈weekly」で長期にわたって我々が連載した共同研究「遷子を読む」も、いまは手軽く過去の原稿を読むことが出来るが、それがいつまで続けられるかの保証はないそうである。プロバイダーの都合である日突然アクセスできなくなる可能性もあるらしい。そこで現在これらを活字の冊子本化すべく検討中である。
ただし注意しなければならないのは、できあがった冊子本はブログの「遷子を読む」と大幅に異なっているはずである。ブログの文体を、活字本で維持できるはずがない。そんなことをすれば膨大な頁数を必要とするが、参加者の発言したかったことはもっと簡明に記述できるはずだからである。また、ブログであればこそ書けたいささか責任を欠く文章は各自が評価し活字本にふさわしい品のある文章に書き直すはずである。不正確、挑発的、誤解に基づく超論理的文章は抹殺されるであろう。何のことはないそこに生まれるのは、ブログを契機として生まれた、新しく書き直された深い思索に満ちた活字としての「遷子を読む」でしかない。しかし、それでも活字として残す価値はあると思う。未来の人々は冊子本の向こうに生々しい精神があったことを推測してくれるからだ。現在我々が行おうとしていることはいかに知的産物として生まれたブログ上のアーカイブを、安価に、永続する方法(活字)で後世に残すか、という作業である。安価であることは是非必要だ、無料のインターネットから高価な価値が生まれてはならない。
それでも「―俳句空間―豈weekly」は評論を中心とするブログだからそれを活字化することはまだ工夫の余地がある。問題は、俳句作品のような再利用の困難なブログである。高柳克弘は「いま短詩型であること」(「現代詩手帖」2010年6月号)で「『週刊俳句』や『豈weekly』というホームページでは、基本的に作品発表はおまけみたいなもので、批評に特化しています。そういう現象から考えてもどうも[俳句作品が(筑紫注)]居心地が悪いというのは否めないところかなと思います」と辛辣に述べているのは我々と同じ認識といえるであろう。これはそれぞれのブログ管理者に考えてもらわねばならない。
私の「―俳句空間―豈weekly」で執筆した評論は「遷子を読む」に限らない。多種多様な評論が存在した。これをどうするか。初めから評論として執筆したから、これをばらばらとして一つの体系にまとめることが可能である。と言うよりそのつもりで執筆してきたのだ。おそらく私の次の新しい本の中でその発言は復活するであろう。通常の評論では出来ない、新しい本の執筆の試行をここで行ってみたのである。
私にとって「―俳句空間―豈weekly」とはそうしたものだったと言うことである。そして、「―俳句空間―豈weekly」の終了後、ふたたび「豈」と「海程」の若手によって新しいブログが模索されている。開始時期9月、と早くも予定されている。しかしどのようなものが始まるとしても、上に述べた認識は変わらないであろう。
以上の結論は決してブログに対して悲観的な見方を示しているわけではない。通時化の過程で、早晩ブログが紙媒体の俳句雑誌を規定してゆくことになるのは間違いない(原稿依頼や送稿、編集、校正などが無人化・少人化してゆく。今行っている単行本『超新撰21』の公募作品が短期間で直ちに活字化されるのも、こうしたシステムを部分的に導入したからに他ならない)。その場合の、ブログと雑誌を統合する編集人の徹底したダブルスタンダードぶり(例えば雑誌編集の厳格責任のスタンダードと、ブログ管理の放漫自由なスタンダード)こそが見ものであるということなのである。そして、それに成功しなかった雑誌が順次滅んでゆくのも間違いないことである。
2010.7.15.
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「遷子を読む」制作年順目次
・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井
「遷子を読む」で取り上げた遷子の句を年代別に分類しデータを付したものです(句・掲載回数・句集名・制作年・基調コメンテーター(43回までは窪田英治氏が参加))。
滝をささげ那智の山々鬱蒼たり (43) 『草枕』13/筑紫
梅雨めくや人に真青き旅路あり (17) 『草枕』-15/原
一本の木蔭に群れて汗拭ふ (31) 『草枕』16―17/筑紫
忽ちに雑言飛ぶや冷奴 (54) 『草枕』18/中西
くろぐろと雪片ひと日空埋む (5) 『草枕』20/窪田
昼の虫しづかに雲の動きをり (7)① 『草枕』20/原
自転車に夜の雪冒す誰がため (56) 『山国』22?/筑紫
木枯に星斗爛○たり憎む (37) 『山国』-26/仲 ○=火偏に干
寒うらら税を納めて何殘りし (8) 『山國』-26/深谷
燕来て八ヶ岳(やつ)北壁も斑雪なす (50) 『山国』27/仲
高空は疾き風らしも花林檎 (28) 『山國』28/深谷
戻り来しわが家も黴のにほふなり (9) 『山国』28/中西
農婦病むまはり夏蠶が桑はむも (10) 『山国』28/窪田
家を出て夜寒の医師となりゆくも (52) 『山国』28/仲
星たちの深夜のうたげ道凍り (26) 『山国』29/筑紫
畦塗りにどこかの町の昼花火 (27) 『山国』29/原
しづけさに山蟻われを噛みにけり (41) 『山國』29/窪田
春の町他郷のごとしわが病めば (4) 『山国』31/中西
山河また一年經たり田を植うる (13) 『雪嶺』32/深谷
汗の往診幾千なさば業果てむ (11) 『雪嶺』32/筑紫
山の虫なべて出て舞ふ秋日和 (22) 『雪嶺』32/原
雪山のどの墓もどの墓も村へ向く (33) 『雪嶺』34/深谷
筒鳥に涙あふれて失語症 (6) 『雪嶺』34/筑紫
母病めり祭の中に若き母 (58) 『雪嶺』34/仲
ちかぢかと命を燃やす寒の星 (65) 『雪嶺』35/筑紫
夕涼や生き物飼はず花作らず (40) 『雪嶺』35/中西
ストーヴや革命を怖れ保守を憎み (32) 『雪嶺』36/原
隙間風殺さぬのみの老婆あり (49) 『雪嶺』36/筑紫
酷寒に死して吹雪に葬らる (59) 『雪嶺』37/深谷
秋風よ人に媚びたるわが言よ (45) 『雪嶺』37/原
霧氷咲き町の空なる大初の日 (36) 『雪嶺』38/窪田
銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ (3) 『雪嶺』38/深谷
萬象に影をゆるさず日の盛 (38) 『雪嶺』38/原
百姓は地を剰さざる黍の風 (23) 『雪嶺』39/深谷
障子貼るかたへ瀕死の癌患者 (55) 『雪嶺』40/仲
卒中死田植の手足冷えしまま (46) 『雪嶺』41/深谷
ただひとつ待つことありて暑に堪ふる(61) 『雪嶺』41/筑紫
山の雪俄かに近し菜を洗ふ (30) 『雪嶺』41/窪田
暮の町老後に読まむ書をもとむ (29) 『雪嶺』41/中西
凍りけり疎林に散りし夕焼も (51) 『雪嶺』41/原
病者とわれ悩みを異にして暑し (16) 『雪嶺』42/筑紫
山深く花野はありて人はゐず (25) 『雪嶺』42/窪田
寒星の眞只中にいま息す (15) 『雪嶺』43/窪田
空澄みてまんさく咲くや雪の上 (20) 『雪嶺』43/中西
田植見てまた田植見て一人旅 (19) 『雪嶺』43/窪田
老い父に日は長からむ日短か (18) 『山河』43/深谷
凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ (42) 『山河』43/仲
幾度ぞ君に清瀬の椿どき (34) 『山河』44/中西
晩霜におびえて星の瞬けり (7)② 『山河』44/原
炎天のどこかほつれし祭あと (64) 『山河』44/深谷
雪嶺に地は大霜をもて応ふ (62) 『山河』44/仲
雪降るや経文不明ありがたし (24) 『山河』45/中西
大雪のわが掻きし道人通る (39) 『山河』45/深谷
薫風に人死す忘れらるるため (21) 『山河』45/筑紫
信濃びとわれに信濃の涼風よ (57) 『山河』45/原
甲斐信濃つらなる天の花野にて (68) 『山河』45/仲
患者来ず四周稲刈る音きこゆ (60) 『山河』45/中西
雪晴れし山河の中に黒きわれ (67) 『山河』48/中西
雛の眼のいづこを見つつ流さるる (12) 『山河』49/原
高空の無より生れて春の雲 (48) 『山河』49/中西
わが山河まだ見尽さず花辛夷 (35) 『山河』49/筑紫
癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ (44) 『山河』49/仲
葦切や午前むなしく午後むなしく (63) 『山河』49/原
わが病わが診て重し梅雨の薔薇 (66) 『山河』50/仲
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな(2) 『山河』50/原
鏡見て別のわれ見る寒さかな (14) 『山河』50/中西
冬麗の微塵となりて去らんとす (1) 『山河』50/筑紫
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遷子を読む〔61〕ただひとつ待つことありて暑に堪ふる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔62〕雪嶺に地は大霜をもて応ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔63〕葦切や午前むなしく午後むなしく・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔64〕炎天のどこかほつれし祭あと・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔65〕ちかぢかと命を燃やす寒の星・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
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遷子を読む(68)
・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井
甲斐信濃つらなる天の花野にて
『山河』所収
仲:昭和45年の作。これを読むと自ずから飯田龍太の
かたつむり甲斐も信濃も雨のなか
を思い浮かべます。どちらの句もそれぞれの作家の代表作の一つと言っていいでしょう。龍太の俳句は昭和47年の作なのでどちらかがどちらかの影響を受けてということではなく、たまたま同じ頃、一方は佐久から甲斐を望み、一方は境川村から信濃を望んで一句をなしたと思われます。まるで鏡のこちら側と向こう側のよう、とは言い過ぎでしょうか。
もちろん二句の季節は梅雨の頃と秋なので全く印象が異なりますし、詠まれている風景はかなり違うものです。それでも同じ時代に同じ山国で互いの(俳句を詠む時に相手の存在は意識していなかったとしても)国に思いを致しながら暮らし、作句に精を出している二人の俳人がいたとは何やら運命的なものを感じます。以前龍太が遷子の死後に遷子の句集を読んだときの冷やかな感想について磐井さんが書いておられました。この二人の関係や互いが互いをどう思っていたかについてはもっと深く考察する必要がありそうなのでここで安易なことは申しませんが、中央俳壇から遠いところで土地に密着した生き方をしつつ俳句を作っているという立場は非常に似通っている訳です。こう書けば日本全国にそのような俳人は他にも沢山いたはずと言われそうですね。それはそうでしょうがこの時代の俳人ということで、そのような視点でこの二人を比較しながら論じるのも面白いのではないかと思いました。
さて、句意としては甲斐と信濃の境あたり、つまり小海線の野辺山(長野県)・清里(山梨県)の間に花野があり、その花野を介して二つの国(現在では二つの県)がつらなっている、ひと続きであるというものです。標高にして1300メートル(この付近にJRグループの最高標高地点があります)ということから「天の花野」と表現したのでしょう。昔の国名を持ち出すことで歴史を想起させ、大きな時間の流れの中の変らぬ自然を強調しています。また「天の」花野という表現は単に高い所にあるというのみならず一句のスケールを広大なものにする効果があります。国名二つに天と話が大きくなりすぎたのを「花野」という地に足のついた具体的なものを置くことでうまく現実に収束させています。非常に巧みな表現です。
中西:滝をささげ那智の山々鬱蒼たり
と詠んだ若い頃の遷子の面影が残っているような大きな風景句です。ここは日本の天辺の花野だと言っているのは故郷褒めですよね。甲斐信濃は、やはり昔の国名が、詩語にはふさわしいように思います。句が引き締まりますし、山梨長野ではちっとも美しくありませんもの。また、寒蝉さんのおっしゃるように、国名2つと天で話が大きすぎたのを、「花野」という具体的なものを置いて現実に収束しているという考え方もあるなあと思いました。
花野に来てその大きさと、美しさに圧倒させられた気持ちを、美辞麗句を使わずに表現しているところが遷子らしいところです。秋桜子はそこを昔の遷子の句のほうがふくよかだったと言っている訳ですが、同じ景色でも、自然の厳しさを体験しながら生活を営んでいる人の目と、秋桜子や星眠のように旅行者の目とはやはり違って、絵のように美しくは描けなかったのではないかと思いました。
ちょっと例えが不適当かもしれませんが、歩いて苦労して登った山の美しさと、車でひょいと登った山の美しさが違うようなもので、長い冬の厳しい寒さを味わった人が見た花野と、都会から来て良い季節として花野を眺めている人とでは、花野の見え方が違うのではないでしょうか、武骨な表現なのに遷子の花野を愛でる気持ちが伝わってきます。
【原さんは今回休憩です】
深谷:人間生活を対象とした作品と並んで、遷子には数多くの叙景句が残っています。いずれも、スケールの大きな堂々とした詠み振りの作品です。考えてみれば、遷子はその出発点からして「すぐれた自然描写の句を作して」(波郷の『山国』跋より)いたわけですから、当然といえば当然なのですが。その意味で、最終回に採り上げる句が雄大な叙景句というのは、この研究会の原点に回帰するようで、最適な選択だったような気がします。
さて掲出句の眼目は、仲さんも指摘しておられる通り、「天の花野」という表現だと思います。この句を初めて読んだ時、一瞬、甲斐・信濃国境の空、文字通りの「天上にある花野」と解してしまい、妙にメルヘンチックな作品という印象を抱いてしまいました。さすがに、すぐ考え直して、そうした天(空)の下にある花野だと気付きましたが、お恥ずかしい限りです。敢えてこのような恥を晒したのは、遷子の作品はどちらかと言えば「平明で率直な詠み振り」のものが多く、以前に筑紫さんが指摘しておられた「散文に近い」という特徴を思い出したからです。文字通りの散文であれば、小生が誤解したような解釈になりそうですが、掲出句は紛うことなき俳句作品であり、「天の花野」の「の」に込められた意味を抜きにしては作品として成り立ちません。その意味で、「省略の文学」たる俳句らしい俳句なのかもしれないと感じたわけです。
また、上五から中七にかけて一気に詠み上げた後の「の」で、少し間合いがあり、その小休止が天と地(花野)との間に横たわる空気のような質感を持っているようにも思えます。
何れにせよ、俳句という短詩形の醍醐味を味わえる作品だと思いました。
筑紫:「遷子を読む」最終回にふさわしい華麗な句となりました。否が応でも仲さんの言われているように飯田龍太の句を思い出してしまいます。雨のかたつむりと、快晴の下の花野です。龍太が「・・も・・も・・の中」といういかにも龍太調のゆったりとした詠み方なのに比べ、遷子は馬酔木調の颯爽とした風景句です。この句ならば秋桜子も激賞したのではないかと思います。のみならず、遷子の体力が、老いたりとはいえまだまだ余力を残して、何事かなすことあらむと気負っていた時期でもあったのではないかと思います。遷子の『山河』の華ではないかと思います。
とは言いつつも「天の花野」には天上の花野を思わせる雰囲気もあります。花野はある意味で遷子の供花としてふさわしいかもしれません。高原派の雄という呼称が遷子に必ずしもふさわしくはないと常日頃行っているのですが、世の常の評価がそうだとすれば、遷子ミステリーツアー(平成21年8月2日挙行)で訪れた貞祥寺にある秋桜子・遷子の師弟連袂句碑の句、
雪嶺の光や風をつらぬきて 遷子
よりもこちらの句の方が遷子の典型を表しており、いいのではないかと思えます。「山国」「雪嶺」「山河」という言葉こそ入っていませんが、高原派遷子の面目が躍如としているようです。
余計なことながら、微妙な助詞の働きですが「甲斐も信濃も」は2つの異なるものを別々に認識した上で「雨の中」でまとめていますが、「甲斐信濃」はほとんど連続した概念で2つのものに差異を見ていないともうけとれます。繊細さでは龍太の句に一籌を輸するようですが、大景の描き方としては遷子の方が正統派かもしれません。
* * * *
「―俳句空間―豈weekly」第100号のためのメッセージ
中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井
●「遷子を読む」では大変お世話になりました。一年あまりも管理人さんにはお手数をお掛けしました。
青い文字の本文と赤い文字の引用文、とてもおしゃれでした。
同時発表の高山れおな氏、中村安伸氏、関悦史氏、恩田侑布子氏の文章に啓発されるところが大きかったように思います。
また、堀本吟氏のコメントに深い文学への思いを感じました。
「遷子を読む」という場所を頂き、仲間を頂き、そしてまた豈weeklyの自由な発言の場で、すがすがしい空気を一緒に吸わせていただきました。感謝致します。
新しいブログがたちあがるとのこと、大いに期待しております。
時代が動いているのを肌で感じております。(中西夕紀)
●第100号、おめでとうございます。あまり熱心な読者だったとはいえませんが、このブログのおかげで共同研究「遷子を読む」が実現かつ継続しえた訳ですから、感謝の念に堪えません。管理人の高山れおなさんはじめ、関係者の方々に御礼申し上げます。ありがとうございました。また当研究会宛に時折いただいたコメントも、なかなか有意義かつユーモアに富んだもので、とても刺激的でした。重ねて御礼申し上げます。
(深谷義紀)
●メッセージが書けるほどの深い関わりとは言えませんでしたが、それでも筑紫磐井さんのお誘いで半年余りの間『遷子を読む』に投稿させていただきとても勉強になりました。関係者の皆さん、とりわけ磐井さん、本当にありがとうございました。『豈』には投稿こそしたことがありませんが邑書林に移って以来の読者ではありました。その若い(実年齢というだけでなく)パワーには圧倒される思いでした。もともと高柳重信や摂津幸彦は憧れの存在でしたから『豈』と聞くだけで気分が高揚するのでした。このたびは『海程』の若い人たちと新しいブログを立ち上げるとのこと、まことに俳句の世界にとってエクサイティングな出来事と言うべきでしょう。心からお慶び申し上げます。『豈』にも『海程』にも少しずつ知り合いがいるのでやや近い距離から見守って参りたいと思います。(仲寒蝉)
●原雅子さんは事故にあわれ最終回には欠稿となりました。重大なものではありませんが、一刻も早いご快癒をお祈りします。
●筑紫磐井は別に、「『―俳句空間―豈weekly』の終刊にあたってすべきこと」を執筆したのでこれに代えさせて頂きます。
長らくのご愛読を感謝します。 中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井
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遷子を読む〔38〕萬象に影をゆるさず日の盛・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔38〕-2 特別編 遷子はいかにして開業医となったのか・・・仲寒蝉 →読む遷子を読む〔39〕大雪のわが掻きし道人通る・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む(39)-2 特別編2 「遷子を読む」を読んで(上)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔40〕夕涼や生き物飼はず花作らず・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む(40)-2 特別編3 「遷子を読む」を読んで(中)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井 →読む
遷子を読む(39)-3 特別編4 「遷子を読む」を読んで(下)・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔41〕しづけさに山蟻われを噛みにけり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔42〕凍る夜の死者を診て来し顔洗ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔43〕瀧をささげ那智の山々鬱蒼たり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔44〕癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔45〕秋風よ人に媚びたるわが言よ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔46〕卒中死田植の手足冷えしまま・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔47〕蒼天下冬咲く花は佐久になし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔48〕高空の無より生れて春の雲・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔49〕隙間風殺さぬのみの老婆あり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔50〕燕来て八ヶ岳(やつ)北壁も斑雪なす・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔51〕凍りけり疎林に散りし夕焼も・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔52〕家を出て夜寒の医師となりゆくも・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔53〕かく多き人の情に泣く師走・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔54〕忽ちに雑言飛ぶや冷奴 ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔55〕障子貼るかたへ瀕死の癌患者・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔56〕自転車に夜の雪冒す誰がため・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔57〕信濃びと我に信濃の涼風よ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔58〕母病めり祭の中に若き母・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔59〕酷寒に死して吹雪に葬らる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔60〕患者来ず四周稲刈る音聞こゆ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔61〕ただひとつ待つことありて暑に堪ふる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔62〕雪嶺に地は大霜をもて応ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔63〕葦切や午前むなしく午後むなしく・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔64〕炎天のどこかほつれし祭あと・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔65〕ちかぢかと命を燃やす寒の星・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔66〕わが病わが診て重し梅雨の薔薇・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔67〕雪晴れし山河の中に黒きわれ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
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