■遷子を読む〔3〕
『雪嶺』所収
深谷:死を間近にした晩年の句が続きましたので、少し目先を変えてみました。正直に言えば個人的に最も好きな句です。
さて、句意は簡明。難しい解説など無用でしょう。中年の夫婦とそれを取り巻く穏やかな時の流れを味わうだけです。まるで小津安二郎の映画のワン・シーンのようです。
ただ、そこに至るまでには、終戦直後の混乱した時期に帰郷、以後一貫して地域医療に身を捧げた遷子の多忙且つ壮絶な毎日がありました。
だからこそ銀婚記念日を失念してしまった訳であり、結婚後四半世紀の間そうした夫の格闘を間近で見てきた妻もまたそうした遷子を責めることなどなかった筈です。
苦楽をともにした夫婦のみが共有する信頼感こそが、この句のバックボーンなのです。
その意味では、森澄雄の「妻がゐて夜長を言へりさう思ふ」と通底するかもしれません。
そして、斡旋された「葡萄食ふ」が動かないと思います。こうした二人の、ポツリポツリとしたやりとりを彷彿とさせる季語は他に思い当たりません。
中西:信州は果物の産地です。林檎、杏、栗、葡萄、胡桃などが栽培されています。「葡萄食ふ」は日常の生活の一コマを、現実的に描いているようです。
銀婚の年、
母病むや闇に真紅の躑躅燃え
別れ霜母の血潮の赤かりしよ
という句から母が病であったことが分かります。母の病気はその三年前からで、
母病めり祭の中に若き母
がありますから、このころから、母が病気がちだったことが分かります。また血潮の句から手術を自ら執刀したのかも知れません。さぞや心配だったことでしょう。
その前年には
寒うらら危機感はわが胃のみに
寒卵わが壮年期陥没し
があります。自身の病気に希望の持てない状況が「壮年期陥没し」なのではないでしょうか。
忙しい仕事、母の病気、そして自身の胃病。こんなに色々あっては、銀婚など気がつかなかったのかも知れません。後で、「ああ、銀婚だったのだな」と思ったからできた句なのでしょうね。もともと、それほど銀婚を気に留めていなかったというのが真相なのかもしれません。年齢的にも、人生で最も忙しかった頃だったのではないでしょうか。向き合って休息をとっている夫婦の一心さが出ている句です。
原:深谷さんは十句選に生活感のある句を多く選んでいらっしゃいましたね。これもその一つですが、葡萄の一粒一粒を口に運ぶ動作に眼を留められたのはこまやかな感じ方だと思いました。
数人での鑑賞は作品を多面的に見ることができて有り難いですね。前回の補足を少し。日常生活を背後に負った心境として
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな
を取り上げましたが、その前の「冬麗の」の句の印象が強かったせいか死の意識に比重をかけた鑑賞になったようです。そういえば、句を読みながらかすかな違和感が残ったのは「冷え冷え」の語でした。死後の「わが家」を思うのであれば祈るような心がはたらくのではないか、人間感情としてはもっと温もりのある言葉を選びたくなるのではないかという気がしたのです。死のことは念頭を去らないにしても、この句は先ず、実際の不在として考えることから始めるのがよさそうです。
筑紫:他のメンバーの鑑賞を見ながら考え方の整理を出していただけると、この「遷子を読む」も深まります。次回でもよし、その回のうちでもいいですので是非ご意見をください。「わがゐぬ」が「死」ではなく「不在」だという指摘は今回が初めてではないでしょうか。遷子を読むとき、我々の主観を過剰に投影してはならないという点は確かに大事なことであります。
窪田:私が子供の頃、庭に葡萄の木が一本あって、秋の運動会の頃になると黒々と熟しました。今の巨峰とかデラウエアーような品種ではなく、野葡萄を大きくしたような感じで、熟し方も馬葡萄と同じように不揃いでした。小学校から帰ると熟した粒だけを祖母の目を盗んで食べたものでした。甘い汁に包まれてはいましたが、種のある芯の方が酸っぱかった。いずれにしても、信州ではまだ珍しい果物だったように記憶しています。その葡萄を一粒一粒口にしながら夫婦揃って、たわいもないことを語っているのでしょう。これが、梨とか林檎ではこういった雰囲気は出ません。一粒一粒食べるといところに、記憶を辿りながらぽつぽつと語る様子が感じられるからです。また、葡萄はどこか西欧的なエロチシズムも感じさせます。葡萄は、遷子のお洒落な感覚を思わせる道具でもあります。
もう一つ、銀婚がすごく佳い。金は豪華であるが完成してしまったという感じで、銀のような深みが出ない気がします。人生の過程をじっくり思うには、銀がふさわしい。「忘ぜし」とは言っているが、忘れたわけではない。しみじみと、来し方を振り返っているのだと思います。こう考えてくると、この句には一語の無駄もないことに気付きます。遷子の繊細な神経が行き届いた句と言えるのではないでしょうか。
筑紫:3回目ともなり色々な句集が登場するようになってきました。遷子には3つの句集があります。正確には『山国』に抄録して収められている『草枕』という句集を含めると4冊の句集があることになりますが、一応3冊の句集で遷子の生涯を代表することができるでしょう。『山国』は高原派俳句、『雪嶺』は社会性俳句、『山河』は闘病俳句と言ってしまっては簡単すぎるかも知れませんが、まずはそう思っていただきたいと思います。今まで見てきた『山河』が非常に重苦しい句集であったのに対して、深谷さんがあげた句がやや軽やかなのはそうした事情があると考えると納得できます。
すでに10句選でおわかりのように、中西さんと窪田さんが『山国』派、原さんと深谷さんが均等派、私が『雪嶺』派、と名付けては誤解があるかも知れませんが、関心のありどころがこれで分かるようです。だから深谷さんから見た『雪嶺』と、私から見た『雪嶺』はポイントが微妙にずれているかも知れません。
「銀婚を忘ぜし」というのが身辺の多忙さを示しているのは皆さんが言うとおりだと思います。「葡萄食ふ」も確かに長野の郷土性を踏まえているでしょう。ただ加えるとしたら、確かに多忙であるのでしょうけれど、遷子を囲む環境が、『雪嶺』の社会性俳句的風土、つまり多くの憤るべき外部社会の中で生まれた多忙さであることは忘れてはならないでしょう。また葡萄の美しさ、味の甘美さは、南欧のそれとは違ったところがあることも知らねばならないと思います。
まず第一に、掲出の句は昭和38年の句ですが、この句を鑑賞するに当たっては、その少し前に公開された木下恵介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(昭和32年)に重ね合わせて見たらどうかと思います。この映画は日本中の灯台を転勤する灯台守夫婦の物語ですが、佐久に定住した遷子の生活とは対照的ながら、義務感に燃えた多忙な生活の中で長く連れ添った夫婦の信頼関係をたとえるのにこれほど適切な例はないと思います。映画の主人公有沢四郎・きよ子夫妻(佐田啓二・高峰秀子が演じる)のこの物語は実話があり、塩屋崎灯台長田中績氏の妻きよ子が「婦人倶楽部」に応募した「海を守る夫とともに二十年」に基づくものです。実際読んでみると、映画と違ってほのぼのとした彼らの生活が描かれていますが、田中きよ子が書いた「思えば海鳴りと潮風にあけくれた私の二十年の生活は、そういうよろこびや苦しみの歴史でもあったのです」の一節は木下監督の「喜びも悲しみも幾歳月」の題名にもなっただけではなく、この時代の職業人(灯台守や医師、その妻)の倫理や思いと重なり合うものがあったように思えます(この句の「銀婚」はもちろん結婚25年目を指しますが、きよ子の執筆は23年目でした)。現在の、単なる生活のための職業ではない、高揚した意識を自覚することなしにこの句を鑑賞することは少し物足りなく思えるのです。
ちなみに、相馬遷子の医療活動は佐久野沢の相馬医院を中心に行われたのですが、この近隣には、日本の地域医療システムの模範を作ったことによりマグサイ賞を受賞した著名な若月俊一博士【注】の佐久総合病院があります。この二つの病院の関係はよく分かりませんが、遷子の俳句を読むと、われしらず若月博士の活動がオーバーラップして映ってくるような気がします。地域医療の劣悪な環境の中で格闘する地方病院は日本全国に共通するものですが、とりわけ長野県はこうした意識への目覚めが強い県でした(このほかにも、地域医療活動を進めた諏訪病院、浅間病院があります)。深谷さんの「『葡萄食ふ』」が動かない」というのはこうした長野を象徴する「葡萄」そのものが動かないと言うべきかも知れません。
【注】若月俊一(1910年―2006年)、東京都出身、東京帝国大学医学部へ進学。1945年に長野県南佐久郡の佐久病院に赴任、無医村への出張診療、全国に先駆けた全村の健康管理および集団検診を手がけた。また外科医としても先駆的な脊椎カリエスの手術をおこなった。1976年には農村医療に尽くした功績により「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイ賞を受賞。
・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
『雪嶺』所収
深谷:死を間近にした晩年の句が続きましたので、少し目先を変えてみました。正直に言えば個人的に最も好きな句です。
さて、句意は簡明。難しい解説など無用でしょう。中年の夫婦とそれを取り巻く穏やかな時の流れを味わうだけです。まるで小津安二郎の映画のワン・シーンのようです。
ただ、そこに至るまでには、終戦直後の混乱した時期に帰郷、以後一貫して地域医療に身を捧げた遷子の多忙且つ壮絶な毎日がありました。
だからこそ銀婚記念日を失念してしまった訳であり、結婚後四半世紀の間そうした夫の格闘を間近で見てきた妻もまたそうした遷子を責めることなどなかった筈です。
苦楽をともにした夫婦のみが共有する信頼感こそが、この句のバックボーンなのです。
その意味では、森澄雄の「妻がゐて夜長を言へりさう思ふ」と通底するかもしれません。
そして、斡旋された「葡萄食ふ」が動かないと思います。こうした二人の、ポツリポツリとしたやりとりを彷彿とさせる季語は他に思い当たりません。
中西:信州は果物の産地です。林檎、杏、栗、葡萄、胡桃などが栽培されています。「葡萄食ふ」は日常の生活の一コマを、現実的に描いているようです。
銀婚の年、
母病むや闇に真紅の躑躅燃え
別れ霜母の血潮の赤かりしよ
という句から母が病であったことが分かります。母の病気はその三年前からで、
母病めり祭の中に若き母
がありますから、このころから、母が病気がちだったことが分かります。また血潮の句から手術を自ら執刀したのかも知れません。さぞや心配だったことでしょう。
その前年には
寒うらら危機感はわが胃のみに
寒卵わが壮年期陥没し
があります。自身の病気に希望の持てない状況が「壮年期陥没し」なのではないでしょうか。
忙しい仕事、母の病気、そして自身の胃病。こんなに色々あっては、銀婚など気がつかなかったのかも知れません。後で、「ああ、銀婚だったのだな」と思ったからできた句なのでしょうね。もともと、それほど銀婚を気に留めていなかったというのが真相なのかもしれません。年齢的にも、人生で最も忙しかった頃だったのではないでしょうか。向き合って休息をとっている夫婦の一心さが出ている句です。
原:深谷さんは十句選に生活感のある句を多く選んでいらっしゃいましたね。これもその一つですが、葡萄の一粒一粒を口に運ぶ動作に眼を留められたのはこまやかな感じ方だと思いました。
数人での鑑賞は作品を多面的に見ることができて有り難いですね。前回の補足を少し。日常生活を背後に負った心境として
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな
を取り上げましたが、その前の「冬麗の」の句の印象が強かったせいか死の意識に比重をかけた鑑賞になったようです。そういえば、句を読みながらかすかな違和感が残ったのは「冷え冷え」の語でした。死後の「わが家」を思うのであれば祈るような心がはたらくのではないか、人間感情としてはもっと温もりのある言葉を選びたくなるのではないかという気がしたのです。死のことは念頭を去らないにしても、この句は先ず、実際の不在として考えることから始めるのがよさそうです。
筑紫:他のメンバーの鑑賞を見ながら考え方の整理を出していただけると、この「遷子を読む」も深まります。次回でもよし、その回のうちでもいいですので是非ご意見をください。「わがゐぬ」が「死」ではなく「不在」だという指摘は今回が初めてではないでしょうか。遷子を読むとき、我々の主観を過剰に投影してはならないという点は確かに大事なことであります。
窪田:私が子供の頃、庭に葡萄の木が一本あって、秋の運動会の頃になると黒々と熟しました。今の巨峰とかデラウエアーような品種ではなく、野葡萄を大きくしたような感じで、熟し方も馬葡萄と同じように不揃いでした。小学校から帰ると熟した粒だけを祖母の目を盗んで食べたものでした。甘い汁に包まれてはいましたが、種のある芯の方が酸っぱかった。いずれにしても、信州ではまだ珍しい果物だったように記憶しています。その葡萄を一粒一粒口にしながら夫婦揃って、たわいもないことを語っているのでしょう。これが、梨とか林檎ではこういった雰囲気は出ません。一粒一粒食べるといところに、記憶を辿りながらぽつぽつと語る様子が感じられるからです。また、葡萄はどこか西欧的なエロチシズムも感じさせます。葡萄は、遷子のお洒落な感覚を思わせる道具でもあります。
もう一つ、銀婚がすごく佳い。金は豪華であるが完成してしまったという感じで、銀のような深みが出ない気がします。人生の過程をじっくり思うには、銀がふさわしい。「忘ぜし」とは言っているが、忘れたわけではない。しみじみと、来し方を振り返っているのだと思います。こう考えてくると、この句には一語の無駄もないことに気付きます。遷子の繊細な神経が行き届いた句と言えるのではないでしょうか。
筑紫:3回目ともなり色々な句集が登場するようになってきました。遷子には3つの句集があります。正確には『山国』に抄録して収められている『草枕』という句集を含めると4冊の句集があることになりますが、一応3冊の句集で遷子の生涯を代表することができるでしょう。『山国』は高原派俳句、『雪嶺』は社会性俳句、『山河』は闘病俳句と言ってしまっては簡単すぎるかも知れませんが、まずはそう思っていただきたいと思います。今まで見てきた『山河』が非常に重苦しい句集であったのに対して、深谷さんがあげた句がやや軽やかなのはそうした事情があると考えると納得できます。
すでに10句選でおわかりのように、中西さんと窪田さんが『山国』派、原さんと深谷さんが均等派、私が『雪嶺』派、と名付けては誤解があるかも知れませんが、関心のありどころがこれで分かるようです。だから深谷さんから見た『雪嶺』と、私から見た『雪嶺』はポイントが微妙にずれているかも知れません。
「銀婚を忘ぜし」というのが身辺の多忙さを示しているのは皆さんが言うとおりだと思います。「葡萄食ふ」も確かに長野の郷土性を踏まえているでしょう。ただ加えるとしたら、確かに多忙であるのでしょうけれど、遷子を囲む環境が、『雪嶺』の社会性俳句的風土、つまり多くの憤るべき外部社会の中で生まれた多忙さであることは忘れてはならないでしょう。また葡萄の美しさ、味の甘美さは、南欧のそれとは違ったところがあることも知らねばならないと思います。
まず第一に、掲出の句は昭和38年の句ですが、この句を鑑賞するに当たっては、その少し前に公開された木下恵介監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(昭和32年)に重ね合わせて見たらどうかと思います。この映画は日本中の灯台を転勤する灯台守夫婦の物語ですが、佐久に定住した遷子の生活とは対照的ながら、義務感に燃えた多忙な生活の中で長く連れ添った夫婦の信頼関係をたとえるのにこれほど適切な例はないと思います。映画の主人公有沢四郎・きよ子夫妻(佐田啓二・高峰秀子が演じる)のこの物語は実話があり、塩屋崎灯台長田中績氏の妻きよ子が「婦人倶楽部」に応募した「海を守る夫とともに二十年」に基づくものです。実際読んでみると、映画と違ってほのぼのとした彼らの生活が描かれていますが、田中きよ子が書いた「思えば海鳴りと潮風にあけくれた私の二十年の生活は、そういうよろこびや苦しみの歴史でもあったのです」の一節は木下監督の「喜びも悲しみも幾歳月」の題名にもなっただけではなく、この時代の職業人(灯台守や医師、その妻)の倫理や思いと重なり合うものがあったように思えます(この句の「銀婚」はもちろん結婚25年目を指しますが、きよ子の執筆は23年目でした)。現在の、単なる生活のための職業ではない、高揚した意識を自覚することなしにこの句を鑑賞することは少し物足りなく思えるのです。
ちなみに、相馬遷子の医療活動は佐久野沢の相馬医院を中心に行われたのですが、この近隣には、日本の地域医療システムの模範を作ったことによりマグサイ賞を受賞した著名な若月俊一博士【注】の佐久総合病院があります。この二つの病院の関係はよく分かりませんが、遷子の俳句を読むと、われしらず若月博士の活動がオーバーラップして映ってくるような気がします。地域医療の劣悪な環境の中で格闘する地方病院は日本全国に共通するものですが、とりわけ長野県はこうした意識への目覚めが強い県でした(このほかにも、地域医療活動を進めた諏訪病院、浅間病院があります)。深谷さんの「『葡萄食ふ』」が動かない」というのはこうした長野を象徴する「葡萄」そのものが動かないと言うべきかも知れません。
【注】若月俊一(1910年―2006年)、東京都出身、東京帝国大学医学部へ進学。1945年に長野県南佐久郡の佐久病院に赴任、無医村への出張診療、全国に先駆けた全村の健康管理および集団検診を手がけた。また外科医としても先駆的な脊椎カリエスの手術をおこなった。1976年には農村医療に尽くした功績により「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイ賞を受賞。
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遷子を読む はじめに・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔1〕 冬麗の微塵となりて去らんとす・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔2〕 冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
■関連書籍を以下より購入できます。
2 件のコメント:
みなさま
いつも興深く拝読しております。銀婚で盛り上がっているあたりに、皆様の年齢的な感慨も出ていようかと、ミーハーなところでも楽しませていただきました。かく言うわたくしは、錫婚か鋼鉄婚(こんなのもあるのですね)だと思うのですが、家人がすでに寝てしまったために正確にいつ結婚したのか確認できません。金婚では銀婚ほど深みが無いという窪田さんのご意見はどうかとも思いますが(金婚の場合は二人揃って生きていることのプチ奇蹟感が前に出てくる気がします)、錫婚では話にならないことだけは確かなようです。
よくあるはなしなのですが、さすがに上品で優雅ですね。こういう葡萄の食べ方。
なんか真剣な雰囲気に圧倒されますが、楽しく拝見しています。
私たちは、8月だったから
吟との婚を忘ぜしを詫び西瓜切る なんて夫にいわせたりして・・。(笑)
以前筑紫磐井さんの「水原秋桜子論」(12の現代俳人論)を読んでいて、私の知識の中にも秋桜子の系列が俳人がかなりいることに気がつきました、高原俳句というのは相馬遷子のことだったんですね。
小津安二郎や、映画「喜びも悲しみも幾年月」、が併せて話題になるところは、遷子のこのような句に「日本人」の結婚観の理想の姿が出ているからなのだろう、とおもいつつ方々の座談会(?)を読みました。
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