■閑中俳句日記(02)
宇多喜代子は鈴木六林男をこう語った
・・・関 悦史
今回は句集ではなく、去年行われた勉強会での宇多喜代子氏のお話を紹介する。現代俳句協会青年部が定期的に行っている勉強会で去年から「前衛俳句再考」シリーズが始まったのだが、そのシリーズの第2回(第3回が先日のシンポジウムに当たる)、2008年6月7日に行われた「〈前衛俳句再考Ⅱ〉宇多喜代子氏を迎えて 鈴木六林男の立場―関西前衛派とのかかわりから」のときのメモで、戦争の時代を生きた俳人同士の濃密な交流の一旦がかいま見られる。
前々号の豈weeklyに上がった私のシンポジウムレポート記事の懇親会のくだり、宇多喜代子氏、田中亜美さんらとの立ち話の場面で出てきた「メモ」というのが下記のものである。シンポジウムのレポートに比べるとかなり簡単で断片的な記述になっていて、話も順不同である。
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(六林男は)がにまたでヒョコタンヒョコタン歩く。
「紳士」ではなかったですね。
当時折りたたみの傘なんてなかったから長いのを肩にかついで、その先にフロシキ包みぶらさげてね。
◆
下手な句は嫌いと(六林男は)言っている。
無季はテーマで、言葉で、柱を立てる。
(六林男にしても重信にしても)みな季語の何たるかを知り抜いてやっていますよ。ちょっと何か季語を入れようかなんて作り方はしてない。
◆
大きなテーマとして最後まであったのが「戦争」ですが、『荒天』で若いエネルギー、溜まっていたものを出したのが昭和25年頃。
(『荒天』について)これ(一冊だけ)あったらいい。鈴木さんの本質が出ている。
「吹田操車場」(連作)は、発表者もおっしゃったけど、一句一句見たら名句ではありませんよね(でもまとまった時に全体としての力がある)。
たまにあるでしょう。雑誌で一句一句別に見たときはああ良い句だと思ったのに、句集にまとまると魅力がないっていうのが。
私は逆の方が好きですね。
◆
私がこの人裏切っちゃいけないと思ったのは、私、石井露月の系譜の人のところで勉強していて、どうもこれは合わないなと思って桂信子のところに行ったのが昭和40年頃。
橋本多佳子の句で見たいのがあって、ある人が『天狼』の何号に乗っている、それを鈴木(六林男)さんが持ってるはずだと教えてくれたもので、電話をかけたんですね。夜8時頃。してはならないことをしてしまった。
「こういう句があるというが本当か」と訊いたら、これから整理するからちょっと待てと言われ、まもなく返事が来たんですね。電話で。『天狼』の号数を調べてくれて「夜かけてきたということは、今夜中にほしかったのだろう」。
◆
(発表者がネットでいろいろ調べてくださって、機械の部品とかわからないとすら意識していないことまでわかったけど)六林男はネットじゃなくて、自分で歩いていった人ですね。クネクネした字を書く。
◆
書かれた時期が問題ですね。昭和30年代以前というのは、時代が書かせた。大きなメカニズムのなかの個人として。
林田(紀音夫)さんとも愛憎愛半ばするようなところがあったんでしょうし、(高柳)重信とも(俳句における)《戦友》ですよね。
摩擦の力が作品を書かせる。
本来、(六林男は)古格を踏まえたうまい作家なんです。それがなりふりかまわず書く。
◆
歳時記の「終戦」は「敗戦」というべきだという点で同意しましたね。
くだらない内容で電話してくる。
(西東)三鬼は(どんな観念的に見える句でも)必ずリアルな何か(私生活上の実体験・契機)があったんだと、大発見したように電話してきましたね(例えば「秋の暮大魚の骨を海がひく」の大魚の骨)。
◆
(六林男の師・西東三鬼が没後、小堺昭三の『密告』において京大俳句事件の際にスパイを働いたと謗られ、死者の名誉を回復するために六林男が三鬼の次男と語らって起こした裁判について)
私ずっと傍聴に通っていましたが、大体いつも奥さんと息子さんと六林男と私と4人だけ。
◆
(同じく弟子だった)三橋敏雄さんが証人に立ったことがあって、質問に答えて三鬼との関わりをはじめから、これこれこういう具合に知り合ってというところから淀みなく全部語る。
そのまま、新興俳句の歴史ですよ。裁判官が聞きほれてましたね。
(自分が裁かれるわけでもないのに傍聴席でカチカチになっていると)六林男が私の緊張をほぐすために戦後すぐの頃自分が経験した裁判の話をしてくれましてね。
弁護人なんかいないから、今まで被告席で答えていて、裁判官が「弁護人」と言うと弁護人席にさっと走っていって自分で弁護する。そんなのを身振り入りで話して笑わせてくれる。
戦後すぐですからね。
◆
六林男は、三鬼は“チョコチョコと悪いヤツ”だったと言ってますね。
当時もう重病で臥せっていた石橋秀野を助けるためにタマゴをあちこちから工面して10個揃えてね、当時はタマゴ食べれば助かると思ってましたからね。
それを三鬼に「六林男からだと渡してくれ」と言付けたら、しばらくしたら(タマゴで回復するはずの)秀野が亡くなった。
「三鬼が食うたんやろ」
冗談ですよ、もちろん。
しかしそういうくらいの悪いことはする、しかねない、そういう人と思われていたわけですね。
それでも皆に愛される。
三人でご飯食べに行ったとき、六林男も三橋(敏雄)さんも全く肩肘はらなくて、仰ぎ見るような巨人ではなくて、三鬼に入門した頃の、少年のようでした。
重信もあの裁判で命を縮めたかもしれない。
◆
書き残したい句はと訊いたことがあって、戦争の句を答えるかと思ったら
月の出の木にもどりたき柱達
だったんです。リリカルな本質が出ている句。
「柱」というのは人のことも数えますからね、死んだ人を。
◆
どうしようもない高校生だとかいるでしょう。ビンタしたくなるようなの。
そういう高校生でも戦争が起きたらこの子たちが死ぬと思うと可愛く見えます。
(六林男における「戦争」は一般化を許さないので)「戦争“論”」になると、違う。
◆
おいしいものが今目の前にいくらでもあるのに(一緒に飲み食いしている最中に六林男が話すのが)ひどい話ばかりでね。
一緒に行軍していて脇を歩いていたやつが急に倒れる(撃たれて死ぬ)。
その戦友の腕を切り取って持ち歩く。しばらく行くと次のやつが撃たれる。その腕も切り取って両手に持って歩く。
三人目が撃たれると切り取った腕三本を縛って腰から提げる。それが歩くたびにピシャンピシャン当たる。
呑んでそういう話をするのよ。
個人の体験であって時代の体験ですね。
顔を上げられないのは、死者に対して。
私、言っちゃいけないことを言ったことがあって、「あんた生きて帰ってきたじゃない」。
(片山桃史は戦死していて)だから桃史(について)は書きにくい。
◆
「戦争」の六林男といわれると承服しかねる。
桃史の(句の)「敵と暑をともにせり」というのも、ヒューマニズムといわれると、違う。
◆
(私もいわれたことあるんだけど)戦争体験者はその話するときいきいきと話すらしいのよ。あの頃はイモしかなくてとか。嬉しそうに。
話せることはまだたやすいことですね。
◆
晩年は俳句の話せずに下らないことばかりで電話して…。文学論で語れないですね。喧嘩もしたし。個人の体験が想像を絶することが…。
もういっぺん会いたい人ですね。
作家としては一貫してます。
人を恋しがる、それでいてベタベタいくとピシャっとはねつける人。
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《それにつけても思い出す某日の一景がある。いまとなってはただただ懐かしく思われるばかりとなったが、何かの集まりのあと繁華街を歩いていた際のこと、私が歩いている前を三好潤子と腕を組んで歩いていた高柳重信が突然振り返って、あれが〈かなしきかな性病院の煙突(けむりだし)〉を書いた鈴木六林男だ、よく見ておくことだと、高柳重信の少し前をゆく鈴木六林男を指さした。風呂敷包みを結えつけた蝙蝠傘を肩にして蟹股でゆらゆらと歩いていた鈴木六林男。まさしく「あれが鈴木六林男」だったのだ。》
(宇多喜代子 「鈴木六林男全句集 栞」)
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