『川口重美句集』を読む
・・・高山れおな
冨田拓也の「俳人ファイルXV」(当ブログ第二十六号)で、川口重美という俳人の作品に驚き、ついで昨秋『川口重美句集』(*1)の復刻版が出ていたことを知った。遅ればせに発行者である「山繭」主宰の宮田正和氏に購入の問い合わせをしたところ、さいわいご厚意によって入手が叶った。ここに記して御礼申し上げる。川口重美は、髙柳克弘の『凛然たる青春 若き俳人たちの肖像』(*2)に紹介されている二十三人の俳人のうちのひとりなので、そちらでも読んでいるはずなのだが、記憶に残っていなかった。今回、髙柳の本を読み返し、また、沢木欣一の「川口重美聞き書」や「風」誌一九六四年三月号における『川口重美句集』の特集記事などに目を通した。沢木の「聞き書」は、エッセイ集『俳の風景』(*3)に入っている。特集記事は、これも宮田さんがコピーをお送りくださったのである。
「風」誌の特集には、志城柏、田川飛旅子、上野燎、鈴木六林男、西垣脩、林徹、高島筍雄、中山純子の八人が文章を寄せている。中山は句を引いていないので除くとして、これに『川口重美句集』の沢木による序文、冨田、髙柳の文章を併せると、この句集からの選句が十人分得られることになる。比べると、冨田と髙柳の選は比較的傾向が近い印象があり、川口重美の仲間だった人たちは沢木を別にすると、この二人とほとんど重ならない句を挙げている。ちょっと興味深い。
まず、冨田の十五句選は以下の通り。
渡り鳥はるかなるとき光りけり
兎死に夜となり牡丹雪が降る
秋風のかゝる香かつて希望ありき
霜柱青春の骰子七も出でよ
妙に深いソファー、時計が止つてゐる
石蹴りの地に画きし輪に蝶よ下りよ
夏氷錐効かぬまで心蒼し
⇒ 「心」に「しん」とルビ
餓鬼の忌や水に漬けたる眼を開く
文待つやみどりに透ける蟬の翅
秋風や生きのこりたる黒金魚
炎天の羽音や銀のごとかなし
夕焼や裁かるゝごと木にもたれ
夕焼けてゐたりしシャツを今日著て出づ
死が去らず月光にてるてる坊主
春の灯へ積木の塔がつみあがる
次に、髙柳が書中に引いている句。
見てをれば鶏頭の門に入りにけり
渡り鳥はるかなるとき光りけり
かなしからずやチューリップ影もチューリップ
耳に手をおほへばひゞく秋の雨
炎天下穴に沈めり穴掘りつゝ
夏氷錐効かぬまで心青し
霜柱青春の骸子七も出でよ
妙に深いソファー、時計が止まつてゐる
秋風や添ひゆく柵のふと切れぬ
髙柳の選句中、「渡り鳥」以下の四句は、沢木による句集序文に言及するに際しての再引用なのであるが、序文に十七句が挙がっているところからこの四句を肯定的な文脈でピックアップしているので、髙柳の選に準じて扱うことにする。ともあれ二人が共通して選んでいるのは、〈渡り鳥はるかなるとき光りけり〉〈夏氷錐効かぬまで心青し〉〈霜柱青春の骸子七も出でよ〉〈妙に深いソファー、時計が止まつてゐる〉。このうち「渡り鳥」の句は今述べた通り沢木の序文にも見えるものの、他の三句は沢木も他の七人も選んでいない。拙稿の終わりに評者自身の十句選を掲げているが、やはり「夏氷」と「霜柱」は入ってきた。また、現在の俳人・俳句愛好者一般のことを考えても、この両句を採る人は少なくないのではないかと、なんとなく想像される。七人の俳人が選句してひとりもこの両句を採らないのは、句に対する好みの時代による移り変わりを想定してもよいのだろうか。
ところで両句のうち「霜柱」の句についての、冨田と髙柳の鑑賞は以下のようなものである。まずは、冨田の「俳人ファイル」から。
B 続いて〈霜柱青春の骰子七も出でよ〉です。1944年から1947年の作です。
A やはりこの句からも、現実の絶対性へのほとんど自棄にも近い一種の諦念とでもいったような心情を感じさせるところがあります。
B 普通のサイコロは当然1から6までしか存在しません。ですから、どうあっても「七」の目なんて出るわけがないんですよね。そういった不可能性を前提として「七も出でよ」と表現しているようですね。
A 「青春」という言葉からも窺えるように、そういった「七」の目など出ることはないという絶対的な自明の事実を深く認識しつつも、それでもその現実に対して苦しい胸の内を表現せずにはいられなかったということなのかもしれません。
B 「奇跡」という言葉がありますが、その言葉の意味をこの句を前にして考えた場合、それがどれほど儚いものであるのか、存分に思い知らされるところがありますね。
A 取り合わせられた季語も「霜柱」ですから大変荒寥とした心象を思わせます。
B 波多野爽波の〈骰子の一の目赤し春の山〉という春の温かい世界と比べると、随分と大きな隔たりが感じられます。
次に高柳の前掲書所収の「川口重美――鶏頭の門」より。
川口重美の句には格のある堂々たるものもある一方、冒頭の「鶏頭」の句のように、俳句というものの既成概念で簡単に片付けられない異様な作も散見される。時代性や境涯性を感じさせない句には、そうしたものが多いようだ。
霜柱青春の骰子七も出でよ
「青春の骰子(さい)」という言葉にまず目がいく。サイコロはあくまでサイコロであって、それを使う人間の年齢によって変質するものではないだろう。そのように一笑に付してしまいそうになって、はっと気付く。
サイコロはしばしば、運命そのものの仮称として捉(とら)えられてきた。カエサルがルビコン川を渡るにあたって、運命の歯車がすでに回りはじめたことを自覚した台詞(せりふ)、「賽(さい)は投げられた(Jacta alea est)」は、つとに有名である。院政を実現させた白河法皇が、権力を極めた自分にも制することができないものとして、「加茂川の水、双六(すごろく)の賽、山法師」をあげたのも、運命というものの理不尽な力を、サイコロに見ていたからに他ならない。
いくたびサイコロを振ったとしても、いつも同じ現象しかあらわれてこないという、絶対的な世界の法則への違和感が、彼をして「七」というありえない数字を期待させるのではないだろうか。この絶対性に敗北し、当然と片付けてしまうには、青年(あえて川口とは言わないでおきたい)はまだ若過ぎるのだ。「青春の骸子」という言葉には、そうした意味合いがこめられているように思う。
この句はもうひとつ、不可思議な特徴を持っている。上五の「霜柱」の置き方だ。この配合は中七下五の措辞に対して唐突な印象があるが、「霜柱」ははかなさや脆(もろ)さを喚起する季語であるから、一句からは失われやすい若さを哀惜する気持ちが読み取れる。ただし、はかないにせよ、ひととき鋭さと美しさを示す「霜柱」であるから、若さに対する矜持(きょうじ)もこめられているだろうか。
句意明瞭な作ではあり、二人の解釈にはかすかなニュアンスの差こそあれ、決定的な違いはないようだ。ただ、髙柳の方、句の内容の読み取りはともかく、位置づけについては若干違和感を覚えた。高柳はこの句を、「時代性や境涯性を感じさせない」句のうちに数えているようだが、果たしてそうだろうか。評者は、この句にそれこそ強い時代性と境涯性を感じる。「七も出でよ」の一見すると果敢な言い切りは、実のところ複数の女の間を行きつ戻りつした挙句、そのうちのひとりと心中自殺を遂げてしまった川口(興味のある人は先ほどの沢木の本を探して読んでください)の煮え切らない弱さ、虫の良いナルシシズムの表現として申し分がないと言うべきなのだ。彼のそんな甘えた口調が女たちを引きつけたのだし、我々にも魅力的なのではないだろうか。髙柳が、「絶対的な世界の法則への違和感」といったふうに一般化したい気持ちもわからなくもないが、この句をそう無闇に立派なものにしてしまう必要はない。また、「青春の骸子」という言い回しの、強い時代性も評者には自明と思える。参考までに、関悦史による現代俳句協会青年部シンポジウムのレポート(当ブログ第三十二号)で、歌人の荻原裕幸が「青春」という語について触れた発言を引いておこう。
荻原 80年代くらいに文芸全般ですごく大きな断絶があった。俳句ではどうだかわからないのですがポストモダンと呼ばれる動きですね。
宇井 断絶とはどういう?
荻原 例えば私の師匠である塚本邦雄に、「青春」という語が入っているこういう歌があるんですね。「ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春」(会場、微妙な笑い)。この青春という言葉、当時でもギリギリだったんですが今はもうありえない。皮肉としてすら効かない。短歌では“私語り”を超えようとして、前衛短歌の後は、結局“私語り”に戻ってしまったのではないかという気がします。
この荻原の発言を見ると、「ロミオ洋品店」の歌があたかも塚本の一九八〇年代の歌集(*4)にあるような感じだが、そうではなく一九五八年の『日本人霊歌』(*5)所収である。塚本三十六歳の年だ。荻原発言にある“当時”が、一九五八年前後をさしているのか、あるいは八十年代をさしているのかにわかには判じ難いものの、論旨からすると後者なのだろう。作歌の年としてこう言ったなら荻原の記憶違いということになるが、一九六二年生まれで二十歳代が八十年代にほぼ重なる荻原が、享受者の実感として「当時でもギリギリだった」と述べているのであれば問題はないわけだ。それはそれとして、問題なのは、「今はもうありえない。皮肉としてすら効かない。」のくだりで、評者の実感としても基本的に首肯できる。「青春の骸子」などという表現は、「今はもうありえない」のだ。ではいつならありえたのかということについては、例えば三浦雅士の『青春の終焉』(*6)に詳しく書いてある。
青春の規範とは根源的かつ急進的に生きることにほかならなかった。近代の過程で、この青春の規範は、表現行為のほとんど全域を席巻したのである。革命の挫折も、恋愛の挫折も、その裏面にほかならなかった。むしろ、この裏面によってもたらされる苦悩と絶望こそが、青春の主題を形成するにいたったのである。
一九六〇年代の日本においては、小林秀雄と太宰治が青春の典型として仰がれていた。自殺未遂の経験は、この二人が根源的であることを立証していた。
自殺とは自分を殺すことではない。自分以外のものすべてに向かって、すなわち全世界に向かって死刑を宣告することである。(中略)「生れて、すみません」という太宰治の言葉は、世界に謝罪を要求しているのであって、その逆ではない。
三浦は、〈一九六〇年代を最後に、青春という言葉はその輝きを急速に失ってゆく。学生反乱の年として知られる一九六八年、おそらくその最後の輝き、爆発するような輝きを残して、この言葉は消えていった。〉とも述べていて、荻原の発言とも符節が合っている。三浦のこの本は実証的とは言いかねるところがあるから話半分に受け取っておくとしても、上に引いたあたりの記述から川口重美その人を連想しないわけにはゆかない。「七も出でよ」という表現もまた世界に謝罪を要求していると読めなくはないのである。「夏氷」の句にしても、一方で完全に「青春」の寓意であり、且つ写生句としても過不足なく成り立っているところが、そのすぐれている所以だろう。 髙柳は、
啄木鳥やSTRAY SHEEPと大地ゆ声
世界おほふサタンやためしに子蜥蜴蹴る
雲雀・土竜罪とおもはば告げて来よ
などを例に挙げ、これらの作が〈理解の範囲外にある。〉と述べ、さらにこう続ける。
「戦後混乱の日本を背景として、インテリゲンチャの深さと弱さが美しくきらめいた俳句」(「『負』の意識」、「風」昭和39・3)とは、川口の俳句を評した林徹氏の言葉であるが、こうした句に接するにあたっては、「背景」の共有は必然である。それをもたない者にとっては、それぞれの句は、古い句は、古い新聞の見出しと変わることがない。
「渡り鳥」のような純然たる自然詠(しかしそれが本当に自然詠なのかは微妙だが。引用したのとは別な箇所で冨田はそのことに触れている)ならともかく、実際には「霜柱」や「夏氷」の句がこれら三句と時代性や境涯性を等しくしていることは上に述べたところであきらかだろう。とにかく、これら三句の読解には、「『背景』の共有が必然」であると髙柳には信じられたのであるが、評者にはそれは全く相対的な話にすぎず、むしろある種の傾向を排除するためのレトリックに過ぎないように思われる。上掲三句に関していえば、後二句は単に言葉足らずの失敗作だというに過ぎないのだし、「啄木鳥や」の句が「古い新聞の見出しと変わることはない。」などということは断じてない。心意においてこの句など「霜柱」や「夏氷」の句と異なるところはないのであり、表現としていちおう過不足のないものになっている。要は、中村草田男の一面に強く影響されたこの種の詠みぶりが、現在の俳句表現のトレンドから外れているというだけのことであろう。髙柳は「青春」概念の歴史性には無頓着(だからこそ「青春」に「凛然たる」という形容を被せた「ありえない」書名が可能になる)な一方で、修辞の歴史性にはひどく過敏に反応しているということではないのか。
なお、「霜柱」という季語の斡旋について言えば、冨田の述べるように「荒寥とした心象」ということでも、髙柳が述べる「はかなさや脆さを喚起する」ということでもよいが、もうひとつ句頭韻の効果の面も指摘しておきたい。すなわち、「霜柱」を選択することで、「シもばシらセいシュんのサいシちもいでよ」とサ行の音が六音、そのうち実に四音がシ音になるのである。最後に評者の十句選を掲げておく。
秋風や遮断機胸のべに下りる
獣めき終電車馳せ月一つ
秋風や添ひゆく柵のふと切れぬ
霜柱青春の骸子七も出でよ
蛇ゆくごと去年今年なき寝汗の中
かなしからずやチューリップ影もチューリップ
夏氷錐効かぬまで心蒼し
炎天下穴に沈めり穴掘りつゝ
夕焼けてゐたりしシャツを今日著て出づ
鱗雲なんでもポケットから出そう
⇒「出」に「で」とルビ
(*1)『川口重美句集』 原本:私家版 一九六三年/復刻版:「山繭」発行所 二〇〇八年十月刊
(*2)髙柳克弘『凛然たる青春 若き俳人たちの肖像』 富士見書房 二〇〇七年
(*3)沢木欣一『俳の風景』 角川書店 一九八六年
(*4)序数歌集としては、『歌人』『豹変』『詩歌変』『不変律』『波瀾』がある。第十三歌集から第十七歌集にあたる。
(*5)塚本邦雄第三歌集『日本人霊歌』 四季書房 一九五八年
(*6)三浦雅士『青春の終焉』 講談社 二〇〇一年
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■関連記事
俳句九十九折(23) 俳人ファイル ⅩⅤ 川口重美・・・冨田拓也 →読む
極私的『第21回現代俳句協会青年部シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか』レポート(後篇)・・・関 悦史 →読む
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1 件のコメント:
髙山れおな様
〈霜柱青春の骰子七も出でよ〉の読み感服いたしました。この句からは、境涯性は感じられるところでしたが、「青春」という言葉から時代性も読み取れるというところには、成程という思いがしました。現在ではさすがに「青春の骰子」という表現はあり得ないでしょうね。
また、昭和14年に〈焚火火の粉吾の青春永きかな〉という句が中村草田男にありますから、この句も草田男からの影響が少なくないのかもしれません。
あと、〈渡り鳥はるかなるとき光りけり〉も、草田男の〈乙鳥はまぶしき鳥となりにけり〉と関係しているような気もします。
髙山さんの10句選についてもいろいろと考えさせられるところがありました。
〈秋風や遮断機胸のべに下りる〉、〈蛇ゆくごと去年今年なき寝汗の中〉あたりを選ばれるのか、と。
やはり川口重美では〈秋風や添ひゆく柵のふと切れぬ〉が忘れ難いですね。
〈秋風のかゝる香かつて希望ありき〉よりもこちらの方が印象深いものがあると思いました。
最後に〈鱗雲なんでもポケットから出(で)そう〉ですが、私の方の引用は間違って、「出(で)そう」を「出(だ)そう」としてしまっていますね。
正しくは「出(で)そう」でした。お詫び申し上げます。
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