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2010年4月25日日曜日

壊れそうな西日の中で 室生幸太郎『昭和』を読む・・・岡村知昭

■壊れそうな西日の中で
室生幸太郎『昭和』を読む

                       ・・・岡村知昭

物心ついたときからずっと「天皇誕生日」だった4月29日は、天皇の代替わりによって「みどりの日」に、そして何年か前には「昭和の日」となり現在に至っている。名称がどうなろうとゴールデンウィーク最初の祝日には変わりないので、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。」(内閣府ホームページより)との意図がどこまで通じているかは、はなはだ心もとなく思うばかりなのだが、何より「昭和」はあまりにも長かった、その期間は63年と何日か。帝国の興亡に費やされた20年と核兵器を背景にした冷戦構造の中での復興と発展に費やされた40年。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返した国で過ぎていった、それぞれが背負った個人的な日々の思い出は、高度成長期へのノスタルジーの衣を纏いながら、それでも確かに遠のきつつある。

中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」がまぎれもなく「昭和」の俳句であるように、室生幸太郎氏の句集『昭和』は間違いなく「昭和」を離れての20年なくしては生まれなかった一冊である。室生氏は「戦中、戦後を肌で感じながら育った」(あとがきより)昭和八年生まれのいわゆる「昭和一ケタ」と呼ばれる世代を生きた自覚と自負を見てとることはたやすそうなのだが、「昭和」という語が一句に現れる作品からは、なかなかどうしてと思わず呟かせる著者の手強さが随所に顔を見せてくる。

昭和ヒトケタ前に進めず花の中
昭和一桁せかせかと行き芒原
咲き満ちてさくら昭和を遠くする
飛花落花昭和を忘れたい人に
芒原昭和の波の音ばかり

前に進めない戸惑いの中にある桜のなかの「ヒトケタ」、自分自身ですら戸惑ってしまう速さで芒原を歩き続ける「一桁」。どちらも自画像であり、また著者自身と同世代の人々の現在の姿といえば言えるだろうが、一句に現れるひとりの人物の像はどこか淡く、儚さすら感じられ、なにより「昭和」という時間を生きたというノスタルジーからは無縁のところに立ち尽くしているように見える。桜散る中に立つ「昭和を忘れたい人」も、芒原で「昭和の波の音」をただ聞くほかない人もそうで、過ぎていった時間を懐かしむでもなく恨むでもなく、ただ立ち尽くしながら自らを見届けているのみ、いや見届けることを選んでここにいるといった風情なのである。もちろん自らの原風景がどうとか、あの時代をどう生きたかといった問いとは無縁であろうとするわけではないのだが、その前に過ぎていったものを解釈して結び付けようとせず、ただ感じ取っただけのあるひとりの「昭和一ケタ」像を作ろうとしている。

でもそうなると「昭和を遠くする」の句は一冊の冒頭に置かれているだけに著者の感慨が現れている作品ではないのかと言われそうで、その点はきっと著者自身も深い思い入れをもって一句を冒頭に据えただろうことは容易に見て取れるのだが、満開の桜を見ている、「昭和」は遠くなりつつあるなあと感慨にふける、との流れは草田男の「降る雪や」と同じようでありながら、ため息や遠いまなざしのありようは草田男の断言から発せられるものよりも淡く、より儚げであろうとする。著者自身の中でこの姿勢は徹底されているのだなと私は受け止めたのである。

ひろしまを消すひろしまの蝉時雨
ヒロシマに消えに行くため夏帽子
ヒロシマ風化して広島の夏帽子
夏帽子ながさきの坂上がったまま
かなかなの途切れ途切れにながさき泣く
八月六日乾いた目玉ばかりが来る
八月九日見えない空を見るマリア
死んでいるわたしと歩く爆心地


ノスタルジーに対しての淡さと儚さへの志向、という著者の姿勢は、繰り返し書かれる「昭和」の戦争がもたらした原爆の惨禍をモチーフにした作品群において、よりはっきりとした形で表れる。これらの作品においても原爆の惨禍への告発や平和への決意といった要素はことごとくかき消され、現実の広島や長崎ではない「ひろしま」「ながさき」の街をゆくひとりの人間の像のみが淡く顔を見せ、そのことによって原爆の惨禍がほかならぬ人類の手によってもたらされ、その傷がいまもなお癒えない様子を描こうとしている、とひとまずは思いつつも、作品を読めば読むほどに見えてくるのは、原爆投下から60年以上が過ぎたにもかかわらず、いまだに廃墟のままの姿をとどめる「ヒロシマ」「ナガサキ」。現実の広島との自ら思う「ヒロシマ」との齟齬を記憶の風化を思いながら、原爆の死者と一緒に自ら歩く爆心地はあの日のまま変わることなく、むしろ廃墟としての姿をより鮮明にしてるかのようだ。淡さと儚さ、さらには脆さをも兼ね備えた自分自身、そして同世代の人々の生きた時間の中で最大の脅威として「昭和」を襲った(いや帝国たらんとしたこの国が自ら招いたというべきか)世界大戦がもたらした惨劇への怒りはそこにはない。告発からも祈りからも遠く、ただ彷徨うしかできない姿にのみ徹する姿勢のみが、爆心地の死者たちと自らを繋ぐ唯一の手立てではなのだと静かにうなずき、また歩き出すひとりの姿ばかりが廃墟のままの街を漂い続ける。確かに被爆地の「マリア」はいま涙を流しているかもしれないし、「蝉時雨」に「かなかな」はあの日のように鳴いているのかもしれない。だが声高に何かを叫ぼうとする前に、廃墟の街をゆくひとりの人物は、廃墟のありさまを胸中深くに沈めながら自らが生きてきた「昭和」の淡さであり儚さ、そして脆さを感じ取らずにはいられないのだ、壊れものとしての自らと「昭和」をひたすらに見つめ、抱きしめようとするかのように。

花ふぶきひとひら地球を捨ててゆく
花らんまん地球が滅ぶ日のように
地球儀きしむ地球の鬱に汚染され
大型ゴミの地球儀回る落葉の中
マヌカンの鮫肌見える落葉して
マヌカンに老はん目立つ落葉して


ここに登場する「地球」に「マヌカン」を見てみるとき、どうしてこうまで壊れものとして存在するのだろうかと、思わず嘆息したくなる気持ちがどうにも抑えられなくなる。老いた地球を捨てるかのように宙を舞うはなびら、地球最後の日にあらゆるものを焼き尽くそうとする炎と見立てられる満開の桜たち。原爆を手に入れてしまった人類の軋みが移った地球儀は、大型ゴミ置き場に捨てられながらなおも自転を続けてやまない、いや捨てられたのは地球そのもの、人類そのものではないのか。室生氏の作品にたびたび登場する「マヌカン」たち、ショーウインドウで色とりどりに着飾って美を誇示しているはずの彼ら彼女たちが、落葉の季節に訪れた鮫肌に老班の無残さからは、あらゆるものが時間のもたらす軋みから逃れられはしない現実を露わに見せつけるのだが、ここでも目線は軋みに抗おうとか、地球に軋みをもたらす文明に対する批評を発揮しようとする態度からは遠い。軋みや老いの様子を自らに刻みこみ、すべてを壊れものとして受け止めようとする姿勢は一冊の中であくまでも一貫している。そして雪月花の風情やいわゆる「社会性」とは一線を画し、絞り込んだ語彙を駆使しながら独特の叙情性を持った作品世界を作り上げていったのである。

だが著者はここであえて自らの「昭和」の原風景を収めずにはいられなくなった。

巴里祭靴下その他は部屋に干す
藤くらし血を売って外国書得ぬ
壁の汚点したし学生服吊るす
メーデー終へ広場の林檎母へ買ふ
寝おちゆく孤児ら噴水力抜く
歌留多取る母に銃後の日のありき


「私の俳句の原点」(あとがきより)と語る昭和27年か31年までの5年間の作品を収めた「巴里祭」の章の作品は、当然のことながらここまで述べてきた方法を持って書かれたものではない。若き室生氏にとって「昭和」は現実に流れる時間としてあり、自らを養わなければならない生活があり、目の前には病める日野草城と草城を慕う若い仲間たちがいる。「巴里祭」への憧れを胸に秘めながら靴下を干し、学生服を吊るしながら壁の染みに対して「したし」と自嘲してみせる、時には一冊の本を手に入れるために血を売るほかない生活のまっただなかで、メーデーの労働者の中に入ろうとし、公園に野宿する孤児たちに思いを馳せずにはいられない日々。背景には誰も逃れることのできなかった「銃後の日」が重くのしかかる。そんな中で何とかひとりの人間として、そして俳人として自らを立てようとする姿は何者にも変えがたい室生氏の青春そのものだ。

西日充ち男の部屋は釘だらけ
部屋ぢゆう西日バターと葡萄酒買ひ来れば
マンボ・バカーン寝ころべば顔にまで西日


これらの作品で現れる「西日」によって照らされるのは生活の現実と、どうにもできない焦燥を抱え込んだ自分自身の姿である。部屋を照らす「西日」は部屋のあちらこちらから飛び出す釘をはっきりと見せつけ、憧れのバターと葡萄酒を買い求めた高揚感をそのままに戻ってきた部屋を包み込む「西日」は一瞬訪れたモダンな幻想から現実の生活に自らを引き戻す役割を果たす。こうなればマンボも西日もただ自分にとっては疎ましい存在でしかないだろう、音楽も光線もなにもかもが自らの現実をさらけ出そうとするだから。どのようにしていまの自分に対し、社会のありように対していけばいいのかを模索し続けたこの時期は確かに原点であり、「昭和一ケタ」生まれの自らにとっては忘れられない、いや忘れてはいけない時間だったからこそ、あえて一冊に収めるだけの価値を見出したのだ。ここから始まった長い時間の中で「昭和」は幕を閉じ、草田男ならずとも「遠くなりにけり」の感慨は幾たびも訪れただろうが、そのたびに感慨を振り切り、物にとどまらず、あらゆる事態をも「壊れもの」として受け入れようとしながら書き続けられた作品がこの一冊にはまとめられている。

眼帯して少年の日の西日に会う

「平成19~20年」の章にある一句。若い頃に部屋で自らを照らした「西日」からはあまりの隔たりを感じずにはいられないのだが、さまざまな意味で苦しかったあの日々から遠く離れてようやく書くことのできた「西日」は、「眼帯」という自らの肉体に訪れた違和を通じて見出すことができたものだった。「昭和」の日々に自らを照らした「西日」は自らを打ち据えるかのようだったが、いま眼帯を通して受け止める「西日」はあの頃とは違い、淡さと儚さと、そして脆さをも兼ね備えた「壊れもの」として自らを照らしている。またもや訪れつつあるノスタルジーを振り切りながら、壊れそうな「西日」の中を歩くこのときにも、「昭和」は確かに遠くなりつつあるのだ。

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■関連書籍を以下より購入できます。


2009年11月15日日曜日

【落人の会】合評ノオト

■【落人の会】合評ノオト

                   ・・・堺谷真人、岡村知昭

さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな

『千載集』春歌の部に「故郷花といへる心をよみ侍りける、読人しらず」として見える歌。薩摩守忠度が都落ちに際し、将来、勅撰集編纂の沙汰があれば一首なりとも入集させてほしいと俊成卿に託した百余首のひとつ。源平の争乱が終わり、世の静まったとき、俊成卿は忠度の悲願に応えたいと思った。が、勅勘を蒙り朝敵となった人の歌を、インペリアル・アンソロジーにクレジット入りで載せるわけにはゆかない。かくて、冒頭の歌はよみびとしらずとして後世に伝わることとなった。
・・・という『平家物語』の挿話とは全く関係ないが、第27回現代俳句新人賞で落選した応募作品の合評会を、過日、大阪で開催した。名づけて「落人の会」。
入選作品以外の句を読んでみたいという素朴な好奇心から発した試みに、落人(落選者)4名と介錯人(解釈人)4名が参集。応募作品1篇(30句)から3句づつを選び、句会の選評の要領でコメントを述べあった。以下は、当日の発言の抜粋である。
なお、発言内容の公表については事前に発言者の許諾を得ているが、記述の煩を避け、すべて匿名とさせて頂く。ご諒察を願いたい。また、字句・表現は、あくまでも記録者(堺谷・岡村)のメモと記憶に基づくものであることを予めお断りしておく。

■日 時 平成21年10月31日(土)午後1時~5時

■会 場 大阪市北区中津 カフェ「ピエロハーバー」

■テキスト 第27回現代俳句新人賞応募作品4篇

「党員未満」「ひとしずく」「金塊」「水は水に」各30句。


●岡村知昭「党員未満」より

雪晴れを言われたくなし大鳥居

(この句がなぜ30句の冒頭なのか分からない/鳥居が全体の導入部?)

建国日こむらがえりの酸っぱいよ

(「建国日」を自分の体にひきつけて詠んでいる/空間性が面白い/筋肉の感覚(こむらがえり)と味覚(酸っぱい)との混乱具合がうまい/「建国日」へのアイロニーとするなら古い)

マフラーの粗さよ十五歳未満

(「十五歳」の設定に異性への意識と失敗の機微と青春性/かっこよく見せようと安っぽいマフラーを巻く少年の姿に実感/手編みの編み目の粗いマフラーともとれる/読者として感情移入しやすい/30句全体のなかで異質。連作の一部としては周りから浮いている/置き場所が疑問。冒頭に持ってきてもよかったのでは?/ほかの句と違ってストレートに書いている/黒や灰色のモノトーンにあしらわれた明るい挿し色のような効果を狙ったか?)

風まみれ紐まみれなる御真影

(一句にイデオロギーの切実さが読めない/直接的に読もうとするのではなく「御真影」を背景にとどめようとしている/言葉のとらえなおしを通じて、一句のバランスが取れている。完成度は高い/イメージと意味の間で二重構造になっていることで、風刺にもそうでないようにも読めるようになっている/思い入れを感じられるかどうかで評価が変わる/歴史的存在としての君主への風当たりや立場上の束縛のメタファーか?)

迂回路の土筆はつくし摘みにけり

(状況の描き方がきれいで、一番よかった/リフレインを使いつつ「土筆」「つくし」の違いを出している/通勤途上に見るのは「土筆」。休日の散歩中、摘みたくなるのが平仮名の「つくし」)

春光の国の殺菌はかどらぬ

(春光と殺菌、一見すると対照的のように見せながら実は繫がっていて、光を感じる/「春光」の明るさと「殺菌」の皮肉/「春光」は季語として「春光や」とはっきり切ったほうがよかった/殺菌に日光を配したところ芸が効いている/春光は、だと川柳的になる)

失業や包みひらけば桜餅

(やさしさを感じる一句)

晩鐘よ即戦力のはなびらよ

(厳しい一句。「即戦力」に今の若い人の姿が浮かんで、かわいそう・・・/晩鐘は衰亡する日本への弔鐘。即戦力の名の下に使い捨てられる人々の姿)

間道へこでまりほどの国産むや

(こでまりほどの「国」が神話的な面白さを持っている/ささやかな、物語的な国/こでまりと「国」との結びつきがいい。間道も効いている/30句全体に漂う「未満感」がこの句では合っている/きちんと景が押さえてある感じがいい/諷刺を抑え、反体制を抒情的に表現/「社会諷詠」的な書き方、そのなかに屈折が出ている)

前世は党員たんぽぽの熟す

(「熟す」がよかった、革命や決起のイメージだろうか/たんぽぽの綿毛と飛び立つものとのイメージは重なりそう/対象に対する角度の違いから面白さが来ているのでは)

浜風や伏字にぎわう車掌伝

(一番わかりにくく書かれているのが、逆に楽しい/なにかが隠されていそうだが、ここまで隠すと一句が独立する)

神兵に水筒ありや麦の秋

(句の形としてはいい典型。「麦の秋」が効いている/広大な大地をずっとひたすらに歩き続けなくてはならないやるせなさが溢れている)

よくねむり恩給入りの茶封筒

(わびしさが感じられる/「よくねむり」といいながら、いくら眠っても疲れが取れないような雰囲気/逆に恩給をもらって悠々自適の生活か?)


●小林かんな「ひとしずく」より

凧上がる恋とはこんなものかしら

(風をとらえてするすると揚がってゆく凧。個人の意志や努力を越えて進展する事態への驚き/恋の昂ぶりとともに、落ちてゆく姿までが遠くに見える句)

光へと押し出されきて寒卵

(寒卵が生まれる瞬間を詠んだのは珍しいのではないか/シンプルな書き振りが良かった、生き生きしている/シンプルさに物足りなさも感じる/「押し出されきて」に違和感が残った/卵と光とはイメージが合いすぎるのではないか?/工場のような雰囲気、インフルエンザワクチンの製造ラインが浮かんだ)

ペンペン草有給休暇余りたる

(せっかく取得した有給休暇の時間を持て余している/忙しくて年次有給休暇が消化できない)

囀りや自転車ふくらんで曲がる

(自転車が軽やかにカーブを曲がる様子がよくわかる/一句が楽しく弾んでいる、浮遊感がある/捉え方が動態的。千鳥文様が実際の千鳥より膨らんで見えるのと同じ/「囀り」が効いている/自転車が速度を出し過ぎて、勢い余って「ふくらむ」のでは?)

菠薐草翡翠色なる水残る

(菠薐草、翡翠色と続く漢字の並びが視覚的効果を挙げている)

そのなかに静かな一樹花吹雪

(花吹雪の中、しずかにすっと立っている樹の姿が浮かんだ/一樹は桜ではない樹かもしれない)

引き出しを順に引き出し春深し

(リフレインが心地いい感じ/探し物があるのに引き出しを順番に開けるところに物憂げな雰囲気がある/「春深し」が利いている)

麦の秋サンドイッチのなれ具合

(「なれ具合」に男女の関係のありようが見えて、ストーリー性が出てくる)

青みどろ暗がりにある消防車

(「青みどろ」と「暗がり」は近い/駄目押しが効果を分けそう/下五「消防車」はなかなかいい)

マンボウのように日傘の傾いて

(直喩が利き、動きが入っていきいきしている/傘の存在感・生命力/すっと一句に入り込むことができた。余裕のある情景/マンボウの雰囲気が日傘の人とよく合っている/「ように」はどこにかかる?→「傾いて」でしょう/比喩に納得するかしないかにかかっている一句/かなり飛距離のある比喩/当たり前すぎないかと思っていました・・・作者弁)

大根も高速道路流れたり

(虚子の「大根の葉」の句を思い出す/高速道路を大根そのものが流れるとの見立てか/「高速道路が豪雨で流され、大根も一緒に流れた」という読みはやはり無理か・・・)

大河ドラマ蜜柑の皮の散り散りに

(「大河ドラマ」もいよいよ終盤、手元もおろそかにテレビに見入っているという家庭の情景/蜜柑の皮を剥く動作の面白さ、小さな物語の発見がある)

白鳥のように食器をひいてゆく

(比喩の意外性が大きい。「ように」は白鳥か自分自身か?/「ひいてゆく」で誰かの姿が浮かんできそう/省略は大きいが、自然にできている句/冒頭の「凧」の垂直移動に対して末尾の「食器」は水平移動で、首尾照応している)


●堺谷真人「金 塊」より

春風にめくれて民事訴訟法

(民事訴訟法という観念を言いながら、リアリティや実体を感じさせる「詐術」/なぜ春風か納得できない/一句に技術を感じる/なぜ「春風」なのかが納得できなかった。面白がりで終わったのでは?/自分なりの川柳的なアプローチ。季語の本意を逸脱してみたかった・・・作者弁)

咲き満ちて百のカメラの上にあり

(「咲き満ちて」とは桜だろうか、「桜」と言わずに暗示にとどめるのはうまい。桜とカメラの位置関係が今ひとつわかりにくいのが不思議さを出している/桜の風景が複雑になり、さらに増幅されている。省略がいい/撮影する百のカメラに対する桜の優位がはっきりとわかる/虚子「咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり」のイメージを土台に、桜の周りにひしめくカメラマンの群れの実景からできた一句。桜が持つ抗いがたい魅力を詠みたかった・・・作者弁)

春の土はるかより雨はじまりぬ

(「はるかより」とは景の捉え方が非常に大きい/春の土の匂いが鼻に訴えてくる。はるか遠くで降り始めた雨、今ここではまだ降っていない雨を感じ取る繊細さ/自分が春の土とすでに一体化し、遠方の雨を感じている/春、はるか、雨、はじまり、という頭韻(ha・ha・a・ha)の踏み方が巧い)

楠若葉雨後の鉄棒にほひけり

(手法は真っ当。従来の表現の枠内で新しい発見。鉄棒の匂いに好感を持った/上五は疑問。鉄棒よりも楠若葉という強い言葉に目が行ってしまう)

背伸びしてこの世を覗くまむし草

(この世を覗くまむし草はこの世ならぬ異界のもの。異界からの視線を感じている作者)

脳幹に白藤通す遊びかな

(訴える力に溢れた一句。人体に花を持ち込むイメージはすっきり鮮やかで果断。脳幹中枢に何かが通っている感覚がいい。しかし、「遊びかな」は類型化し過ぎ。根源俳句だと中七までしか言わないだろう/中七まではいいが、下五の「遊びかな」はいらない。類型がありそうで、逃げを感じた)

某子爵旧蔵といふ黴の花

(ものものしく大きく出て、最後は卑小な黴に落とすところに、ユーモアと皮肉、滑稽を感じた)

泳ぎ疲れて金塊を手放しぬ

(一見、寓話・教訓風だが、金塊が沈んでゆく感覚がリアル。一句から立ち上がる物語性と情景の交わり方ががスリリング/一行の散文として読める。泳ぐは夏季だが、これは俳句か? 単純なメタファーとして読めそうで読みきれない/不思議さに溢れた、あっぱれな句。こんなシチュエーションを考え出した想像力には呆気にとられた/作者には寄物陳思(物に寄せて思ひを陳ぶ)という傾向がある/歴史小説的な虚構の部分、フィクションとしては作りすぎ/一番大切なものを捨てないと生き残れない極限状況。速度と重量のある喪失感のクオリアを詠みたかった・・・作者弁)

鱗なき身をよこざまに日焼かな

(よこざまに、が良い)

白蟻のごとく神官騒ぎだす

(比喩が巧い。柱を食い荒らし、遂には倒してしまう白蟻/フィクションとして一つの世界を作り上げている。蕪村「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉」を連想)

碧眼の兵碧眼の蠅を打つ

(碧眼の兵だから蠅も碧眼に見えて打ってしまった?/古代ローマ帝国の兵士のようでかっこいい)

酔芙蓉影よりも人淡かりき

(巧い句)

櫂そろへ急ぐ色なき風の中

(最初、急ぐ気色がない=遅いボートと読んでしまった。淀川などでよく見かける光景だが、よく書けている)

鰭酒をこぼし琥珀のループタイ

(冴えないおっさんの句だが、琥珀は綺麗だし、鰭酒はおいしそう/今ひとつさえない男性のループタイ姿が浮かんだ)


●中村安伸「水は水に」より

水は水に欲情したる涼しさよ

(30句のはじまりとして戦略的に冒頭に置かれた句。30句の構成としてよく練られている/冒頭に据え、タイトルにしたのはインパクトあり/鮭の群れが発情しながら繁殖のために生まれた川を溯行するイメージ/「水は水に欲情」との表現が正確/「涼しさよ」が浮かんだときはやったと思った・・・作者弁)

秋雨の空母は誰が妻ならむ

(空「母」というからには女性、ならば夫は誰だろうという発想が秀逸)

この穴を所有してゐる天の蝉

(蝉の穴の所有を天地のあわいから見たのは面白い/蝉の穴は一度出て行ったら二度と使われない、だから天上の蝉のものでもある/穴=無が所有物であるという奇妙さ)

いなづまの刺青を負ふ人魚姫

(良いフィクション。「負ふ」がよかった/「負ふ」のは「傷を負ふ」ようなニュアンスか、もしくは荷物のように身体に載せるニュアンスか?/白い肌に稲妻が鮮やかに映っている)

時を告げさうな沼なり秋彼岸

(沼は俳句によく使われるが、「時を告げさうな」という見方は相当にいい/よくありそうな設定ながら、うまくできている/何の時を告げるのかが気になる。救世主降臨の時、使命自覚の時、最期の時・・・/「秋彼岸」が説明的になったのではないか)

ひとりだけ菌のやうに白く居り

(孤絶感にあふれ、共感できる。「菌」がよく引き出している/ほかの人のこと?→自分でもいいしほかの人でもいい/「白」のせいかあまりネガティブさを感じない、薄く光が当たっているような感覚がある)

冬薔薇小学校が捨ててある

(「小学校」とはすでに自分とは縁のなくなった空間、記憶も失われがちになるが、一句から思い出せずに忘れられた記憶がリアルに呼び起こされた/「捨ててある」の素っ気なさで選んだ/会社の近くに廃校後20年以上取り壊されずに残る小学校の校舎がある。消えてこそいないが、無用の存在として捨てられている)

ネクタイに奔馬閉ぢ込め冬青空

(「奔馬」が生きている。ネクタイの存在で日常生活と繋がった/「冬青空」で一句が生きた/奔放不羈な性格をもつ男が冬空のもとを行く。ネクタイで緊縛されてこそいるが、奔馬のような性情はなお健在/下五がどうかと思いつつも、それを問わないぐらいのかっこよさがあり、詩的/ありがちな感じも残る)

飴色の筮具が遺品竹の秋

(故人が長年使い込んで飴色となった筮竹。多くの依頼人の悩みや迷いと付き合い続けた歳月がつまっている/筮竹と「竹の秋」は少し着きすぎの感も)

春浅き果実は炭に祖父は灰に

(祖父が亡くなった際の実景・・・作者弁)

風船に尻載せてゐる少女歌手

(「少女歌手」へのエロティックな視線がなんとも・・・)

地球儀の前で下着を脱ぐ虚子忌

(「虚子忌」の使い方にダイナミックさがあって面白い/地球規模の野望の大きさと自分の肉体や動作の卑小さとの対比/チャップリン『独裁者』のワンシーン、地球儀の風船と戯れるアデノイド・ヒンケル総統の姿がだぶった/「虚子忌」の使い方が矢印みたい。「ここに注目!」)


●岡村、堺谷、中村の各作品は「週刊俳句」に掲載の「落選展」を参照。

岡村知昭「党員未満」全三十句

堺谷真人「金 塊」全三十句

中村安伸「水は水に」全三十句


●小林かんな「ひとしずく」全三十句

凧上がる恋とはこんなものかしら
光へと押し出されきて寒卵
バレンタインデーや日向の引込線
ペンペン草有給休暇余りたる
囀りや自転車ふくらんで曲がる
蜃気楼鳥籠高く吊るしある
菠薐草翡翠色なる水残る
そのなかに静かな一樹花吹雪
引き出しを順に引き出し春深し
麦の秋サンドイッチのなれ具合
蚊を打って肉親の血のにじみけり
青みどろ暗がりにある消防車
風あれば帆をすべて上げ立浪草
夜濯やTシャツに英雄の貌
マンボウのように日傘の傾いて
三振の涼しき音と思いけり
銀紙に魚つつみ込む晩夏かな
鳥渡る浄水器よりひとしずく
桃の皿喪主は喪服のままに坐し
尾の長き携帯電話天の川
コンビニのおにぎりふたつ初時雨
紅葉かつ散りぬ月極駐車場
大根も高速道路流れたり
ステップというラグビーの奔流を
大河ドラマ蜜柑の皮の散り散りに
湯冷めしていると言われるまで知らず
水鳥よ缶珈琲の冷めゆく間
針箱に綺羅のこみ合う寒夜かな
テレビより勝利演説布団叩く
白鳥のように食器をひいてゆく


2009年6月28日日曜日

「村人」的時間 ―廣瀬直人『風の音』を読む・・・岡村知昭

■「村人」的時間
―廣瀬直人『風の音』を読む

                       ・・・岡村知昭


先ごろ「第43回蛇笏賞」を受賞したこの句集に収められた作品は、ふたつの「村」が描かれている。ひとつは作者がただいま住んでいる現住所「笛吹市一宮町」であり、もうひとつは作者が俳人として過ごしてきた長い時間を通じて求め続けてきた、理想の境地としてのわが内なる「村」、さらに言うなら自らが求めた俳句そのものということになろうか。

このふたつの「村」で繰り広げられるのは、たとえば農耕であり、祭りであり、動植物との出会いといった日々の生活の様であり、時には村を離れての旅、そして親類・友人・恩師との永別といった場面で口を衝いて出る詠嘆であるのだが、どのような場面においてもまずは淡々と、そして徐々にはっきりと現れてくるのは、同じ陰影、同じ質感を保とうとする作者の姿勢そのものだ。『俳句』6月号の蛇笏賞小特集での、宇多喜代子氏の選評にある「広やかで明るい世界、人も村も草も木も、人の世の吉兆の様までが同じ呼吸で句の中で生きている爽やかな心性が際立ってくる」との一節は、句集の背後でかすかな響きを立てて流れ続けるものについて的確に述べているが、さらに言えば「広やかで明るい世界」は、一句の背後に広がる時間の安定感に対しての作者の絶対的な信頼感あってのもので、その信頼感の源となっているのは、実際に生活を営む舞台としての現実と、自らが長年育んできた内面とが等しいものとして成立するという積み重ねを通じて手に入れた、疑いようのない自信そのものだ。

葱下げて蛇笏の村の女の子

日脚伸ぶ村の錆色おのづから

春の猫村を離るる気などなし

梟の闇村の闇別にあり

村へ引く水鼯鼠(むささび)の森通す

一句の中に「村」が出てくる句を挙げてみて気がつくのは「蛇笏の村」の句とそのほか4句との間にある立ち位置の微妙な違いである。作品が書かれた2002~2008年の間には合併により自ら住むところの古くからの名前が変わるという大きな変化を迎えることになったのだが、「日脚伸ぶ」の句に出てくる錆色とは変化と共に訪れた現実の「村」を覆う軋みの現れとも見て取れるし、「村を離るる気などなし」との断定の裏側には、この場を離れるか離れざるべきかを悩む隣人たちの姿が見え隠れする。天然自然の「梟の闇」と「村の闇」との対比からは、人々の中に漂う不安感の在り様も伺えるし、田畑を潤し、生活に欠かせない水が通るのではなく「通す」と書かれることにより、生活空間の一翼を担ってきたムササビの棲む森が切り開かれ、「村」にも影響が及ぶことを暗示しているかのようである。

一方、「蛇笏の村の女の子」との把握は、自ら住むこの「村」が、どのようなものであるべきかとの想定をもとに成立する。このとき「蛇笏」とは偉大な先達としての飯田蛇笏という存在にとどまらず、かつてこの村で生きた祖父母・曾祖父母と連なる係累と同じく、いまこの村を背後から支える一種の地霊的な存在として、いまここに生きる自ら、葱を下げながら家路を歩く少女と同じように「村」に息づいている。彼女も含めた村人、そして草木や獣たちもまた、かつてこの「村」に生きたものたちの支えを受けながらいまがあるとの確信のもとで、少女は作者が思い続けるわが内なる「村」を流れる時間の中に組み込まれる。

真つ先に鴉甲州百日柿

かりがねの道に雁坂甲斐の冬

存分の雷鳴北に甲武信嶽

どのような変化が現実に村を訪れようとも、ここは甲斐の国であり、遠くには険しい山々が連なり、季節は変わることなく流れるとの確固たる思いは揺るがず、空間を規定する。この3句に登場する甲斐に甲州もまたただの国名にとどまらない、自らがあるべき場所の名として深く刻まれた存在である。村人より先に鴉がついばみに来る柿、まわりの山々から雁坂に吹きおろす冬の風、そして険しい山々の向こうで高く鳴り響く雷、どれもが自らが抱える内なる「村」の一光景として、その姿は「村」の時間の中に位置づけられている、すべてが「存分」に。蛇笏賞選評で金子兜太氏は「気合を込めて郷土の厚みを抱き取ろうとする体があり、その野暮ったさを多としたいのである」と述べているが、その厚みは時間の流れの確かさを、わがものとして引き受けるところからはじまり、自ら求め続ける「村」と生活空間との幸福な一致によって成立して、そのとき現実の土の匂いは必要最小限にとどめられる、生活もまた「村」の一部である以上、自らの想念を乗り超えるようなことは、決してあってはならないのである。おそらく金子氏は「野暮ったさを多としたい」と言いながらも、この句集には「村」で生活する自らのからだを通じた葛藤の様子をなかなか窺いしれない、つまり「野暮ったさ」が感じられない点も見逃していなかったのではないだろうか、からだを流れているのはほとんどが「村」を覆う時間そのものであることを。
 
境川村小黒坂いつか夏

評伝といふ顔があり亀鳴けり

ありありと欅遥けき九月かな

句集後半のハイライトとなる恩師・飯田龍太との永別は、現実としても大きな衝撃であると同時に、自らが抱える内なる「村」にとっても大きな打撃となったことだろう、蛇笏から龍太とのつながりは、作者が認識する「村」の在り様を揺り動かす一大事でもあろうからだ。ここに挙げた3句では「境川村小黒坂」の句に「すでに百日」、「欅遥けき」の句には「偲ぶこころを」と詞書が付され、どちらも永別のときからしばらくの時間の経過を置いて書かれたのだが、句集に登場するほかの死者たち、たとえば「冬椿人に全き死などなし」と詠嘆した従弟のときや、盟友と自ら述べていた福田甲子雄氏などの俳人たちへの追悼とは異なり、自らの時間を支える大きな柱を失ったことへの衝撃の深さが、時を経るさらに実感されてきたことが伝わる。そこには自らにも訪れる肉体的な老いへの思いもあるのだろうが、あくまでもその点は注意深く避けながら、恩師との別れを自らが抱く内なる「村」の中にどのように自ら位置づけ、引き受けてゆくかを考えながら次の1年を迎えることになる。

龍太忌の砂とぶ丘の小学校

前景の村の月の出龍太の忌

龍太先生紛れずに春ひとり

1年後の3句からは、「龍太」が現実の人物から「村」の地霊的存在として位置づけられようとする様子が、改めて窺いしることできる。砂埃を上げながら小学校のグラウンドを駆け回る子供た地の姿の向こう側に、またあるときは村に訪れる月の出のはじまりとともに、「龍太」という存在が確かにいま、この「村」にいるという思いが、実感とともに確かめられる。そしてあまりにも大きな存在であったことへの思いが「春ひとり」の句にある。「龍太先生」はいまだに他の「村」の先人たちと違って生々しい存在であり、これから他の先人たちと同様に「村」の住人たちを流れる時間を支える存在となりながらも、先人たちの間に紛れ込むことなく自らの中を流れ続けるであろうことを、自らに言い聞かせるかのように確かめる、甲斐の「蛇笏の村」の住人であった自分はこれから、「龍太の村」の住人となるのである。その圧倒的な確信が根底にある限り、淡々とした筆致はむしろ時間そのものとして一句の中を流れてやまないわけである。

噎せるほど煙流れて桃の花

山々に気負いなどなし桃の花

千体の土偶の在所桃の花

空が一枚桃の花桃の花

ふたつの「村」を流れる時間の中にあって、精彩を放っているのがこれらの句に登場する「桃の花」だ。噎せるほどの煙の中で、あるときは土偶たちの背景に、そっと置かれたように佇みながら、「村」を彩ってやまない花々。繰り返し描かれる花の姿を見るとき、実際の生活の場とわが内なる「村」との幸福な一致を求めた作者の精神にとって、桃の花は求め続けた空間の在り様にもっともふさわしい花として目の前に、そして内面に咲き誇る。そこには「気負いなどなし」との思いを花と共有し、一面に広がる青空のもとひたすらに桃の花を堪能する自分の姿、そして村人たちの姿がある。「村」の時間を生きることこそが自らの俳句であると念じて、長い歳月を過ごしてきた人物の姿をそこに見て取ることは、実は相当に難しい、なにより自らの葛藤をいかに「村」の時間の奥底に静めるかに、これまでの全力を注いできたであろうから。

いまいる「村」はこれまでも、これからもずっと蛇笏や龍太の住むところであり、そこには必ず桃の花が咲き誇る。いかなる変貌が現実の空間に訪れようとも、わが内なる「村」には穏やかな時間が淡々と流れ、桃の花が咲く季節が、また訪れる。