2009年4月5日日曜日

遷子を読む〔2〕

遷子を読む〔2〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井



冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな
                 
              『山河』所収

原:昭和49年春、胃摘出手術ののち肝障害を併発した遷子は50年夏再び肝炎の悪化にみまわれています。

わが病わが診て重し梅雨の薔薇  『山河』
梅雨深し余命は医書にあきらかに  

と自己の病状を分析しつつもなお

死病とは思ひ思はず夏深む  『山河』

と自問自答の明け暮れだったのでしょう。季節は容赦なく巡り、遷子にとって最後の秋が訪れています。

「冷え冷えと」の句は『山河』中、昭和50年秋季一連の冒頭に置かれています。死期を自覚した人の肉声を聞くようでしみじみつらい一句です。己れ一人の死を考えているうちはまだいい、けれど自分が置き去りにしていく大切な者たちを思ったとき、胸が締めつけられたに違いありません。遷子は家族を大切にしていた方のようですね。

冬麗の微塵となりて去らんとす  『山河』

のような句がある一方で、このように普通の人なら当たり前に抱くであろう感慨も詠まれています。静かな句です。この詩型に思いを預けて、抑制された一行から、声にならない慟哭が聞こえてきます。

中西:「冷え冷え」は「冷やか」という秋の季語の傍題なのですが、これはたぶん外気のこととして使われているというより、心理的に使われているのでしょう。句集の一句前は

汗の髪洗ふ頭蓋も痩せにけり  『山河』

で、一句後は、

熟睡して潔き目覚や草雲雀  『山河』

です。どうも、この句ができたのは、時期的にそんなに冷えるまでいっていなかったような気がします。遷子はこの「冷え冷え」に自分の不在感を強調したかったのではないかと思うのです。一家の柱である自分がいない不安な、重いうち沈んだ空気、この空気を言い表す「冷え冷え」なのです。自分の死に家族たちが直面する不安、そしてそんな家族を思う遷子自身の不安を描くのに、是非とも必要だったのでしょう。「思ふかな」の「かな」という切字も「思い」を強く引き出しています。「ひえびえ」「わがゐぬわがや」の「ひえ」「わが」という音の繰り返しが急き立てるような不安を感じさせます。

この時、遷子は何を思ったのでしょう。死を覚悟した時点で、死後の準備もそれなりにやられたのではないでしょうか。病院の引継ぎもあるでしょう。家族の生活もあるでしょう。しかし、この句はそういう実際の生活の心配というより、家族の気持ちに焦点が合わされているように思われるのです。自分の抜けた穴を見ているような、そんな気持ちだったのではないでしょうか。奥さんは体も弱そうですし。

深谷:「わがゐぬ」という措辞は、一次的には入院に伴う不在を指すのでしょうが、その先には死による家族との別離も視野に入っているのだと思います。

そうした二重構造がこの句に厚みをもたらし、読む者に遷子の静謐な哀しみを伝えます。

大袈裟な嘆きより、むしろこのような淡々とした表現の方が哀切の深さを訴えかけてくるということの代表例と言ってもいいでしょう。

窪田:原さんの鑑賞「おのれ一人の死を考えているうちはまだいいけれど自分が置き去りにしていく大切な者たちを思ったとき、」云々は、確かにそう思います。「自分のいなくなったあとの吾家を想像するだけで、あたりは一そう冷々としてくる。いずれこの家から自分は去ってゆく」(脚註名句シリーズ『相馬遷子集』 堀口星眠註 昭和59年 俳人協会発行)という場面を想像する時、遷子の中に広がる喪失感を思わずには居られません。それとともに、自分が遺していく者に対する愛惜の念はどれほど強かったか。病気の進行により家を去る時、再び戻ることがないと遷子は

入院す霜のわが家を飽かず見て

と詠みます。死期が近づくにつれ、自分を離れ他の人への思いが深くなっていったのでしょうか。

師恩友情妻子の情冬深む
かく多き人の情に泣く師走

と詠んでいます。昭和50年の一連の作品を読んでいると、遷子の病との戦いの様子がひしひしと胸に迫ってきます。遷子はその人柄通り、真面目に死と向き合っているという思いがしました。

筑紫:前回私が「冬麗の微塵となりて去らんとす」の句を取り上げたせいか、晩年の句が続いてしまうのかもしれません。読者には逆編年で続く点で読みにくいかも知れませんがお許し頂きたいと思います。ただ、遷子の人生は逆にたどってみることによって浮き彫りになるいい点もあるでしょう。

「冬麗」の劇的な句に続くと、「冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな」は散文的であり、抑制された調子は、しばしば見る療養俳句に近いと思います。少し違うのは、普通の闘病者が想像する内容は一種の空想や妄想のようなものかも知れませんが、遷子の場合は医者としての冷厳な眼があるように読めるのです。遷子自身は佐久周辺の患者(彼)とのつきあいの中で、「冷え冷えと彼がゐぬ彼が家」を沢山見てきたわけです。

大寒や老農死して指逞し  『雪嶺』
卒中死田植の手足冷えしまま  
酷寒に死して吹雪に葬らる  
凍る夜の死者を見て来し顔洗ふ  同

おそらくこれらの句の実証的な帰結として、自らに照らしたとき、「冷え冷えとわがゐぬわが家」はあり得たわけでしょう。「わが」と言いつつ他者を見る俳句特有の視点が感じられ、「冬麗」の句のような高調した句のしらべとは違ったおもむきとなっているのです。例えば、同時期であれば、

冷厳に病はすすむ虫の夜も  『山河』
病むわれの時冷え冷えと流れ去る  (句集未収録)

などは客観視しようとする点で共通するかも知れません。そしてこのような抑制をこそよしとする見方も十分理解できます。ただ、原さんの解釈のように「置き去りにしていく大切な者たちを思ったとき、胸が締めつけられた」という思いを感じ取るかどうかは微妙なところかもしれません。

【注……筑紫磐井】
前回述べた「遷子は一流の俳人ではない」は誤解を生じやすい言い方であったかも知れません。富田氏が、「俳句九十九折(26)」で引用している、「飯田龍太も、遷子の作品については「山河遼遥 ―『相馬遷子全句集』について」という文章において〈必ずしも生得詩才に恵まれたひととは思われぬ。〉と評しています」と同じことを言っているのですが、「一流の」が言い過ぎであれば、虚子や龍太のような「巧緻な」俳人ではないのではないか、と言いかえてもいいでしょう。現代の俳句は、一流巧緻な表現を求める傾向が強いようですが、それによって見失う世界や真理があります。それを俳句の外の人は「文学」と言っています。「文学」のない俳句もいいかもしれませんが、「文学」にたちかえる必要もあるのです。前回例に挙げた社会性俳句や加藤楸邨を我々は一流巧緻な表現で裁断してしまって、時代の評価は済んだと思っているようですが、大きな間違いでしょう。時代の流れは、現代の俳句を木っ端微塵とし、「文学」を復活させないとも限らないのです。二つの基準を常に謙虚に考えることが俳人には必要です。


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