七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅦ
・・・冨田拓也
3月7日 日曜日
先週、「北斗賞」、「超新撰21」についてすこしふれたのだが、やはり、このところ「新鋭ブーム」とでもいうような流れが、徐々に顕在化しつつあるというべきであろうか。
『新撰21』(邑書林)だけを例にとって見ても、現在においても優れた存在というものはけっして皆無ではないという事実が明らかになったところがあるのではないか、という気がする。
やはり何時の時代であってもそのような存在というものを如何にしてピックアップしてゆくことができるか、というところが大事なポイントということになるのであろう。
今後も「俳句甲子園」、「芝不器男俳句新人賞」、「北斗賞」、「超新撰21」などを通して、優れた人材がまだまだ登場してくる結果となるであろうことは、おそらく間違いのないところではないかと思われる。
3月8日 月曜日
なんとなく、岩片仁次という俳人の方が、もし資金があればある句集のシリーズを刊行したい、といったような内容のことをどこかで書いておられたな、ということを、ふと思い出した。
どこでそのような記事を見かけたのだろうと思い、色々と資料を探っていたのであるが、それが俳句誌である『鬣』の19号(2006年5月)の林桂氏の俳句時評「喪失と拾遺」の中における内容のものであったことがわかった。
この時評によると、岩片氏は、5千万円あれば「紙飛行機屋俳句文庫」として全50冊による、現在の俳句の歴史からこぼれ落ちてしまった俳人の句集のシリーズを出すことができる、と書いておられた、とのことである。
当時の時評が2006年のものであるから、この「紙飛行機屋俳句文庫」の50冊の構想というものは、現在では一体どうなってしまったのであろうか。やや無粋な意見であるかもしれないが、資金の問題で書籍というかたちではこの句集シリーズの刊行が不可能であったとしても、現在ではインターネットの上でデータとして残すことは可能なのではないか、という気のするところもある。
3月10日 水曜日
昨日、安田笙という俳人の『きりぎりすの退屈』(冬青社 1993)という句集をネット古書で見つけたので、早速注文してみた。注文後、すぐに発送していただけたようで、本日早くも自分の手元へと到着。
この安田笙という作者は、宮崎重作という俳人の主宰誌「葦」に所属していた作者であるとのことである。序文はその宮崎重作ではなく、版元である宮入聖が執筆している。思えばこの宮入聖という俳人は、その作品については言うに及ばず文章の方面においてもまさに一級の作者であった。
ともあれ、このようなやや特殊な句集というものは、自分のようなある種の重度の「俳句中毒者」にとっては、まことに喜ばしい逸品であることはいうまでもないところである。よく考えてみれば自分のこれまでの俳句人生というものは、振り返ってみるとこういった類の資料ばかりを手にして一人でただ喜んでいるだけのものであった、というような気もしないではない。
一応、句集の収録句は合計で200句となっており、この句集刊行時において作者は既に句歴18年のキャリアを誇るということになるようで、それだけの期間の内からたったの200句であるからやはり相当に厳選であるように思われる。
以下、句集より興趣をおぼえた句をいくつか。
幻の鹿見る我もまぼろしか
君が見し六千回の夕陽かな
青あらし李白になれぬ漢たち
帰れない一人のための雪明り
眺めてる瀬戸内海になる雨を
鳶の輪も春にて候トートロジー
古写真花野の端から燃えてゆく
遠雷をたづねて歩くセールスマン
これきりと霧をこぼれて化野へ
玄関へ来た夕立を入れもせず
夜霧へと戻れぬことを怖れつつ
炎帝や篠原鳳作いま不在
春愁と並走している馬鹿な俺
転生の最後はきっとキリギリス
句集全体から感じられるのは、この世界への軽い諦念とそれに対する軽微な自嘲の感情といったものが溶け合ったような色合いの作風ということになろうか。そして、これらの句を見ても分るようにどこかしら形式の内部において確かな骨格というかある「裏打ち」による手応えとでもいったものを感じさせるところがあるのは、やはりある程度の伝承的な俳句技法をこの作者が身に付けていたがゆえということになるのであろう。
また、現在の視点から見た場合、この句集の中にはただ華美な言葉の印象やイメージに頼っただけの趣きの作品というものも少なからず散見されるところがあり、そういった側面がこの句集における弱点ということにもなるのであろうが、ただそういった範疇の内にとどまることのない作品強度を示す句の存在といったものもいくつも見出すことができ、またそのような単なる耽美主義的な作風から身を翻した結果としての、口語による道化的な笑いを誘う句(「セールスマン」、「馬鹿な俺」、「キリギリス」など)の存在などをも若干確認できるところもあり、このあたりにもこの句集における一律ではないよさというものがあるといえよう。
3月12日 金曜日
書店で『文学界』の4月号を立ち読み。
小笠原鳥類氏の詩が巻頭に掲載されている。クジラなどの動物が登場し、いつもながらの小笠原鳥類の世界がそのままに展開されているといった感じである。また、今回の詩作品の中には「俳句歳時記」といった言葉も出てきて、このあたりにもこの詩人のやや独特な側面が窺えるように思われる。
この詩から、以前そういえば「もっと現代詩の世界と俳句の世界との交通が盛んにならなければならない」といった意味の発言をご本人がしておられたことを思い出すところがあった。いまから考えると、大分まともな意見も仰っておられたのである。
あと同号に高柳克弘氏のエッセイが掲載されており、その内容は、相子智恵氏の作品を引用しての都市空間の中における自然の存在とそのリアルについての言及。
しかしながら、よく考えてみれば、文芸誌における「俳句」の扱いというものはいつも随分と僅少というか、それこそほぼ不問に付されてしまっているような感すらある。一応『文藝春秋』には、毎月俳句の作品欄があるが、俳句が恒常的に取り上げられているのはせいぜいのところこのくらいであろうか。
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