2009年11月7日土曜日

俳句九十九折(56) 七曜俳句クロニクル Ⅸ・・・冨田拓也

俳句九十九折(56)
七曜俳句クロニクル Ⅸ

                       ・・・冨田拓也


11月1日 日曜日

本日から11月。もはや今年も終りに近いのかと思うと愕然とする。

邑書林から出版される若手俳人のアンソロジー『新撰21』についてであるが、一応、今月中には刊行される予定であるそうである。(大体11月の下旬から末日、ということになると思われる)

自分の作品を読み返すのはなんとも気鬱であるが、他の人達の作品を読むのは非常に楽しみである。このところ、自分は、自ら俳句を書くよりも、他人の作品を読む方が好きなのではないかという気さえするところがある。


11月2日 月曜日

俳句における「口語表現」というテーマが、ふと思い浮かぶ。

海に入りて生れかはらう朧月   高浜虚子『五百句』より

また微熱つくつく法師もう黙れ  川端茅舎『白痴』より

永き昼子よ飴玉をくれないか   野見山朱鳥『野見山朱鳥全集1』より

みんな夢雪割草が咲いたのね   三橋鷹女『向日葵』より

水枕ガバリと寒い海がある    西東三鬼『旗』より

頭の中で白い夏野となつてゐる   高屋窓秋『白い夏野』より

まんじゆしやげ昔おいらん泣きました  渡辺白泉『白泉句集』より

柿の蔕みたいな字やろ俺(わい)の字や  永田耕衣『狂機』より

踏切のスベリヒユまで歩かれへん     〃 『自人』より

池涸れる深夜 音楽をどうぞ    鈴木六林男『第三突堤』より

想像がそつくり一つ棄ててある   阿部青鞋『ひとるたま』より

いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく  折笠美秋『虎嘯記』より

葛の花来るなと言つたではないか   飯島晴子『平日』より

がんばるわなんて言うなよ草の花   坪内稔典『猫の木』より

百千鳥ほんとうは来ぬ朝もある    宇多喜代子『半島』より

針は今夜かがやくことがあるだろうか  大井恒行『風の銀漢』より

秋夜寒オートバイだけが友達なの    栗林千津

葱坊主きつと助けてあげるから   小林千史『翔臨』62号より

探してみると、口語による俳句というものは、意外にもその数が多い。新興俳句系の作者には、口語表現を多用する傾向があったようである。また、当然のことながら、自由律俳句の作品については、その大半が口語による表現ということになる。

永田耕衣の句を見ると「関西弁」がそのまま使用されている。「方言」による表現の可能性についても考察してみると面白いかもしれない。たしか、星野麦丘人に〈せごどんと団栗拾ふつもりなか〉という句があったはずである。


11月3日 火曜日

文化の日。大型書店を徘徊。

新刊の『現代の歌人140』小高賢編(新書館 2009)と、森澄雄『俳句への旅』(角川ソフィア文庫 2009)を、2冊とも本当に欲しいのかどうかよくわからないまま購入。

『現代の歌人140』をみてみると、俳句の作者の数というものも非常に多いが、歌人の数というものもなかなか少なくないようである。本書には、タイトルの『現代の歌人140』が示すように、140人の歌人の短歌が1人30首づつ収録されている。傍から見ると、どことなく重要な作者の存在が何人も落ちてしまっているような気もしないではないが、全体的には割合バランスが取れた編集というべきなのであろうか。

森の上をだいだい色の月が出る もうおやすみという声がする  岡部桂一郎

斎藤茂吉斎藤茂吉とつぶやきて教室に入り教室を出づ  清水房雄

会ふ人の皆犬つれし小公園吾が曳く白狐他人(ひと)には見えず  富小路禎子

闇の彼方に観覧車青く光りをり死ののちも人間に遊園地あり  佐藤通雅

風荒れて丘は花びらだらけなり千年変わらぬ季節おそろし  三枝昂之

生の岸にとどまる俺は涙のごひ濃き珈琲を堪能するかなや  島田修三

死もて師はわれを磨かむ秋天の青こぼれたるごとき水の辺  大塚寅彦

唯一の存在という危うさを子と分かちあう冬空の下  俵万智

縞馬の縞はてしなき風の夜の長い手紙を生きているよう  東直子

いちにちは音楽ブンガクレキシガクガクシカイカン蔦の黄落  紀野恵

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

短歌作品の中には、それこそ俳句と似たような発想、素材で書かれている内容のものが割合目に付くところがあり、少し意外な感じがした。結局のところ、人間というものはやはりどのような表現においても、大概同じような発想しかできない傾向にあるというべきなのであろうか。そして、そのような類型的な発想に捉われない表現内容を獲得していると思われる短歌作品に、やはり食指を動かされるところがあるようである。


11月6日 金曜日

火渡周平、加藤郁乎、攝津幸彦といった3人の作者の存在が思い浮かぶ。

この作者たちに共通するのは、その俳句作品における「無意味性」であり「無内容性」ということになろうか。この3者は、1本の線によって繋がっているところがあるのではないかという気がする。

東西に南北に人歩きをり  火渡周平『匠魂歌』より

飛行機が扉をとざし飛行せり  〃

天才の十一歳を駈くるなり   〃

     ↓

冬の波冬の波止場に来て返す  加藤郁乎『球体感覚』より

切株やあるくぎんなんぎんのよる  〃

雨季来りなむ斧一振りの再会    〃

    ↓

かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や  攝津幸彦『攝津幸彦選集』より

生き急ぐ馬のどのゆめも馬       〃

露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな     〃


火渡周平と攝津幸彦の言葉を、以下に引用しておきたい。

火渡周平『匠魂歌』(深夜叢書社 1978年)「後記」より

虚無(ニヒル)とは何であるか、この課題が作句の要諦でもあった。虚無の極限を追求してやまなかった。虚無の形骸すらもとどめない俳句を、五、七、五、に希求し、実践した。

攝津幸彦『鳥子』(ぬ書房 1976年)「後記」より

この最短定型詩型なる俳句形式の中に塗り込められた数多くの言葉が、果して何を意味し、遂に何を意味しなかったのかに想いを馳せる時、言葉とほとんど同時的に存在してしまう意味なるものにとても不快を覚えてしまうのはどういうわけであろう。ましてそれが人間存在に必要不可欠であったとしようものならなおさらで、人間は遂に不在であるとなす一種の証明であるとするならば少しは救われた気にもなるのだが……。


11月7日 土曜日

今週もぐずぐずしている間に早くも土曜日となってしまい、また「七曜」というわけにはいかなかった。無念。

というわけで、また来週にお会いいたしましょう。

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■関連記事

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俳句九十九折(54) 七曜俳句クロニクル Ⅶ・・・冨田拓也   →読む

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