2009年10月4日日曜日

俳句九十九折(51) 七曜俳句クロニクル Ⅳ・・・冨田拓也

俳句九十九折(51)
七曜俳句クロニクル Ⅳ

                       ・・・冨田拓也


9月27日 日曜日

渋柿が枝に惨たり愕然と知るや芭蕉のなかなる定家  林和清『ゆるがるれ』より

雨月の夜蜜の暗さとなりにけり野沢凡兆その妻羽紅  高野公彦『雨月』より

息ながき海風やわが春の雪耕二涅槃の地にふりしきる  小野興二郎『紺の記憶』より

瀧しぶきあびるこの身ゆ息づきて茅舎の年へ近づきにけり  小中英之『翼鏡』より

摂津幸彦うつつは知らね茜さす真昼の空に降る星の声  照屋真理子『抽象の薔薇』より

ふと「短歌の中の俳人たち」というテーマが思い浮かんだ。しかしながら、そのような短歌作品についてどうにか思い出すことができたのは、情けないことながら、結局のところ上記の5首のみであった。ちなみに簡単に注釈をすると「耕二」は「福永耕二」のことであり、「茅舎」は「川端茅舎」のことである。

この「短歌の中の俳人たち」に対して「俳句の中の俳人たち」というテーマも考えたのであるが、こちらの場合となると、短歌作品よりもまだ多くの俳句作品を思い出すことができた。

実際のところ短歌にしろ俳句にしろ、どちらももう少し探せば、他にもこういった作品は数多く存在するはずであると思う。

小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん  正岡子規

子規逝くや十七日の月明に  高浜虚子

風生と死の話して涼しさよ  高浜虚子

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太『麓の人』より

誓子三鬼遊ぶや春の鴨あそぶ  鈴木六林男『谷間の旗』より

ニ階に漱石一階に子規秋の蜂  金子兜太『両神』より

青春が晩年の子規葱坊主  金子兜太『両神』より

傘ひらくときふと赤黄男こぼれけり  折笠美秋『君なら蝶に』より

濤音は三橋敏雄夜の秋  高野ムツオ『雲雀の血』より

雪降れり橋間石の雪降れり  永末恵子『留守』より


9月28日 月曜日

大石悦子句集『耶々』(富士見書房 平成16年)を再読。

この句集は、大石悦子さんの第4句集で、平成9年から平成16年までの339句が収録されてある。

こころざし青き粽を結ふときも

雪代の大き濁りを抱き眠る

貝桶に鳥声まぎれゐたらずや

穀象に食はせる秋田小町かな

鹿笛を野に吹きならふ野守かな

亀売に夕立青く降りきたる


このような作品を見ると如何にも俳句らしい高水準の技量から成る句という他はなく、さすがは長いキャリアを積んだ練達の作者の作品だけのことはある、といった具合に単純に賛辞を送っておけば済むようなところがあるが、ただ、それだけではなく、この句集には、このような積年の高い技量を誇るような作品のみならず、次のような作品の存在も見られる。

斧噛ませたるまま春の樹となりぬ

はんざきの身じろぎを混沌といふ

父の帯どろりと黒し雁のころ

まひるまを断念の鮎落ちゆけり


こういった作品となってくると、なにかしらその作品に、ややただならない雰囲気が漂っていることに気が付くであろう。あきらかに普通の俳人たちの作品とはなにかしら一線を画す異質性、それはいうなればまさしく「混沌」ともいうべき要素が作品のうち側に内在し底籠っているかのような迫力とでもいうべきものであろうか。

これらの作品だけ見ても大勢の作者たちを平然と凌ぐ内実を有しているということになろうが、まだ、それだけでなく、この句集には、さらに、次のような作品の存在までをも見出すことができる。

朱雀くる日のために竹植ゑにけり

篠笛や月に化鳥を喚び出しぬ

こののちは秋風となり阿修羅吹かむ

海溝を目無きものゆく去年今年

孵らざるものの声する青蘆原

ひよんの笛吹けば山から風童子

虹の根を千年抱いて霓(げい)となるか

懸想して天蚕蛾(やままゆ)となるほかはなし


これらの作品を見ると、この句集に至って、大石悦子という作者の内部で、それこそなにかが目を醒ましたのではあるまいか、といってもおかしくないところがあろう。

これらの作品のいくつかに見られるのは、いうなればメタモルフォーゼへの志向とでもいうべきものであろうか。特に「秋風」「「虹の根」「天蚕蛾」の作にその傾向は顕著である。そして、以前の作からは、このようなフィクショナルな内実を感じさせる作品というものの存在は、さほど見られないものであったはずである。

それこそ、集中に〈黒レース着て憑くものは憑かしめむ〉といった作品があるが、まさしくこの「憑きもの」の存在が、これらの作品世界においてそのまま作用しているかのような雰囲気すら感じられるところがある。

そして、このようにフィクショナルな要素を混入させても、作品そのものに安定感があり、危うさがほとんど感じられないのは、これまでに培ってきた句作における積年の技量が揺るぎない土台として存在しているためであろう。

俳句の世界では、時折、中尾寿美子や清水径子といった作者のように、自在な想像力による飛翔によって独自の作品世界を創出させる女性作者というものがあらわれる。以前、高野ムツオさんが「こののちは秋風となり」の句を総合誌の作品評において高く評価していたのを読んだ記憶があるが、それも諾なるかな、という思いがした。

波郷門の作者は、多くここまでの達成を示し得ないと思われるが、それに反して大石悦子という作者がこのような成果を成し遂げることができた要因としては、単にこの作者が俳句のみを学んでいただけでなく「万葉集」などの和歌を学んでいたという事実が作用している可能性もあるのかもしれない。また、それだけでなく、他に、宇多喜代子や柿本多映といった超現実的な作品世界を現出させる手腕を持つ作者の作品からの影響といったものも少なからず考えられそうである。

「秋風となり阿修羅吹かむ」「海溝を目無きものゆく」「孵らざるものの声」「霓(げい)となるか」など、こういった作品を成し得る作者は、現在、俳句の世界における様々な系統の作者を見渡してみても、容易に見つかるものではないであろう。そして、現在においても、俳句における優れた成果というものは、これらの作品のように、やはり存在しているのである。

今後、この作者の『耶々』以後における成果についても、大いに注目されるところといっていいであろう。


9月29日 火曜日

桜散るときメビウスの環のひかり  五島高資

『五島高資句集』(文学の森 平成16年)を再読。

五島高資さんは、昭和43年生れ。句集に『海馬』『雷光』『蓬莱紀行』などがある。現在「俳句スクエア」代表。

掲句は五島高資さんの作品の中では、あまり取り上げられることのない1句であるが、自分にとってはかなり以前から随分と気にかかっている作品のひとつである。第1句集『海馬』に所載の作で、おそらく五島さんの20代前半における作品ではないかと思われる。

「桜」に象徴される「繰り返し運行する日本の四季の時間」と、果てしない循環を表象する「メビウスの環」。この句の根底にあるのは「時間論」とでもいったようなものであろうか。眼前の風景が、一瞬であると同時に永遠でもあるかのような、それこそ自己の生や死をも超越した時間感覚。そのようなこの世界の実質といったものを言葉によって摑み取ろうとしたのがこの作品であるように思われる。

時間であれ、存在であれ、あらゆる事象というものは、究極のところ遂に人智では解き明かし得ることが不可能な謎に包まれたままの存在であるのかもしれないが、そういった世界の秘める謎そのものの正体へと迫ろうとする強い意思が、この句の中には内在しているということについては、少なくとも感取できる気がする。

五島さんには、他にもこのような、この世界、さらにいえばこの宇宙空間そのものを成り立たせている普遍性ともいうべきものを捉えようとした作品が少なくない。

玉繭の外にいて玉繭のなか

滴らす五十六億余年かな

冬の波はるか二人は一人なり


9月30日 水曜日

春満月ユダも内なる十二使徒  中丸義一

ユダは、当然のことながらイエスに背いた人物。春のぼんやりとした空の上に完全なかたちで浮かぶ満月の姿、その全円が今後欠けて行くさだめにあるということを、ユダという存在によって強く予感させる、異様な詩性を秘めた異色の俳句作品といっていいであろう。他にこの作品に近いものを連想させる作品といえば、せいぜい次のような作品が挙げられようか。

炎昼や師を売る銀貨三十枚  野見山朱鳥

売るべきイエスわれにあらねば狐色の毛布にふかく没して眠る  塚本邦雄

この中丸義一という作者について、その生没年など自分は殆んど知るところがない。一応、飯田龍太の弟子であったという事実だけを知るのみである。おそらく句集についても存在しないのではないだろうか。以下、自分のメモよりこの中丸義一の作をいくつか。

風車廻して風のうすれゆく

昔日を悉く捨て春の鷹

梨の花湯殿にしづむ魂ひとつ

越前の水仙を剪る鎌の音

手毬歌賽の河原の児も冷えて

桜貝小振りの門の暮れにけり

百合提げてひとつの径の極みとす

白魚火の闇を一つ目小僧ゆく

日に月にひかりを返す千鳥かな

冬満月一匹の虎渉りけり



10月1日 木曜日

「斎藤茂吉と俳句」という命題が思い浮かぶ。

実際のところ、俳句への茂吉の影響というものは、どの程度のものであったのであろう。山口誓子が茂吉の短歌作品から影響を受けていたという事実については、以前どこかで読んだような記憶があるが。

赤茄子(あかなす)の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 『赤光』より


10月2日 金曜日

岸本尚毅句集『感謝』(ふらんす堂 2009年)を読む。

岸本尚毅という作者は、自分にとって当然のことながら、やはりなかなか脅威的な存在である。自分もこれまでに、第1句集『鶏頭』、第2句集『蕣』、第3句集『健淡』といった句集を何度か読み返してきたわけであるが、その作品の表現におけるあまりの無駄のなさと巧緻さには、それこそ自作を脅かされるような思いをするところが多分にあり、結構「しんどい」ので、正直なところ、個人的にはその作品についてはなるべく触れることなく避けて通りたいと思う作者のひとりではある。

しかしながら、この作者の新句集がこのたびほぼ10年ぶりに出版されたとあっては、さすがにそのまま見なかったことにして通り過ぎてしまうわけにもゆかない、というわけで、今回の新句集である『感謝』についてここに取り上げる次第であるが、まずこの句集の概要について説明すると、この句集は岸本尚毅さんの第4句集ということになり、平成10年から平成20年までの期間における400句が収録されている。

最初から、まず、いわずもがなのことであるかもしれないが、人間というものはそもそも大概において誰もが似たような発想や考えを持っているものであり、それゆえに俳句作品においても、誰もが思い付くような発想による作品というものが日々量産され犇めき合っているという状態となっている。そういった凡庸な内容を持つ多くの作品のことを有り体にいえば「月並」と呼ぶのであろう。

この句集における作品はいずれも、その月並の表現といったものからぎりぎりのところで身を翻すことによって生成された作品といっていいであろう。

俳句におけるありきたりな発想や内容から、その作品の着地ポイントを微妙に「ずらす」ことによって僅かな差異が生じ、その差異から感じられる「意外性」といったものをうまく感知できなければ、この作者の作品の持つ妙味、面白さというものはわからない場合が多いということになるはずである。

実際の作品を例にとって見てみると、

紅葉してゐるや茶色に紫に

という句が集中にあるが、まず多くの俳人たちは先入観から「紅葉」というものは「黄色」や「赤色」であると思いこんだまま眺めてしまい、それをそのまま俳句として表現してしまうケースが大半を占めることになるであろう。しかしながら、この作者は、「紅葉」そのものの実態を自らの目で確かめることによって、紅葉には「赤」や「黄」のみならず、「茶色」や「紫」のものも存在するという事実を発見し、単純な「紅葉」に対する固定観念を一蹴したわけである。まさしく目の付けどころの違う作品といっていいであろう。

作り滝作り蛙を打ちに打つ

この句では、内容としては単なる、「作り滝」を描写したものに過ぎないが、そこに存在する蛙の置物を「作り蛙」と表現した意外性と、さらにその「作り蛙」を「作り滝」が打つさまを「打ちに打つ」とまで踏み込んで描写し(普通なら「打ちてをり」となる)、やや大袈裟に表現したところにおかしみが感じられる。

このような一見端正な見かけながらその実、やや過剰ともいえる細部へのこだわりをその内に宿している作風というものを、是とするか否とするかは、読み手の各々の俳句観によって別れるところであろうが、このように常凡な表現から紙一重のところで、ひらりひらりと身を躱し、無味乾燥に陥ることなく軽やかで伸びやかな句を次々と生み出してゆく姿は、やはり壮観というべきであろう。

このように様々な俳句のパターンをインプットし、踏まえたうえで、常凡に陥る結果を巧妙に避けて作品を成すとでもいったような詠み方は、それこそ「将棋のプロの棋士」の思考パターンに似通うものがあるといってもおかしくないのかもしれない。

この句集については、この「―俳句空間―豈weekly」において、どなたかが詳細に論じてくださることとなると思うので、以下、感銘句だけをいくつか挙げさせていただき、自分は早々に逃散することにしたい。

日沈む方へ歩きて日短

一僧の身を柔らかに除夜の鐘

深淵に浮いて平たき蛙かな

夏よりも秋の暑さの萩の露

人の世の余寒の上の朧月

そのそばに月あざやかに大花火

腐臭とて物の力や葛の花

茄子と煮てちりめんじやこが茄子の色

ゆるやかに光陰夏を離れけり

秋果皆玉の如くに樹下樹上

秋の日や天心にして雲の辺に

夏蜜柑大空いつも雲の旅

夕潮の満ちくるままに泳ぎけり



10月3日 土曜日

今年も早くも10月となったわけであるが、この現時点だけで見ても、今年は随分と色々な句集が刊行されたようである。いくつか目についた句集を挙げてみると、以下の通りになる。

真鍋呉夫『月魄』(邑書林 1月25日)

長谷川櫂『新年』(角川学芸出版 1月31日)

阿部完市『水売』(角川学芸出版 2月28日)

深見けん二『蝶に会ふ』(ふらんす堂 3月)

坪内稔典『水のかたち』(ふらんす堂 5月20日)

金子兜太『日常』(ふらんす堂 6月5日)

正木ゆう子『夏至』(春秋社 6月12日)

高柳克弘『未踏』(ふらんす堂 6月22日)

今井杏太郎『風の吹くころ』(ふらんす堂 6月23日)

久保純夫『フォーシーズンズ++』(ふらんす堂 7月7日)

中岡毅雄『啓示』(ふらんす堂 7月11日)

加藤かな文『家』(ふらんす堂 8月8日)

山西雅子『沙鴎』(ふらんす堂 8月8日)

中原道夫『緑廊(パーゴラ)』(角川学芸出版 9月11日)

岸本尚毅『感謝』(ふらんす堂 9月17日)

永島靖子『袖のあはれ』(ふらんす堂 9月22日)

他にも挙げるべき句集は少なくないのかもしれないが、とりあえずここに挙げたものだけを見ても、いまさらながら「ふらんす堂」からの句集が多いので驚く。あまりよく知らないが、俳句関係の出版社というと、他には、邑書林、角川学芸出版、深夜叢書社、花神社、沖積舎、本阿弥書店あたりということになるのであろうか。

ともあれ、ここに11月25日発売の『新撰21』(邑書林)が加われば、2009年の句集の主たるところは、大体このあたりになるといってもいいのかもしれない。

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■関連記事

俳句九十九折(48) 七曜俳句クロニクル Ⅰ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む
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■関連書籍を以下より購入できます。


4 件のコメント:

岡村知昭 さんのコメント...

そう言われてみると、ふらんす堂多いですね。
自分がここ最近新刊で買ったのも、またブックオフ系の店で買ったのもふらんす堂発行のが多かったような。あ、以前に高山さんが書評を書いた高遠朱音さんの「ナイトフライヤー」もそうでした。

めぐり合わせなのか、それとも本の作りのよさが俳人たちに気にいられているのか、興味深い傾向ではありますね。

冨田拓也 さんのコメント...

岡本知昭様

コメントありがとうございます。

大きな新刊書店の本棚を見ても俳句関係の本は(特に新刊の句集は)ふらんす堂か角川のものが多いようですね。

しかしながら、句集はやはりあまり売れないのか、割合有名な作者の句集でも(蛇笏賞作者とか)、本棚には置かれていなかったりすることがあります。

句集にしても、歌集にしてもたいてい3000円前後ですから、1冊の値段としてはやや割高な感じがしますね。(買うのにやや勇気がいるというか)

著名な作者の句集であっても1000円前後だとまだ手が出やすいところがあるのかもしれませんが。

それでも「誰も俳句など読んでいない」状況では厳しいのかもしれませんね。

結局のところいま一番読まれている俳句は、現在の作者のものではなく、山頭火や放哉、住宅顕信あたりということになりそうです。

さんのコメント...

人名を入れるのは、詠み手の方にもちろん追悼句(歌)への遺志があるためでしょうが、言葉の中に人格とか肉体ナマの存在をとけ込ませる高度で真摯な言葉遊び、というようになりますね。

読み手としての冨田さんが、句の中でこのように遊び始めているのを感じて、たのしかったです。のびのびしておられます。

なお大石悦子さんの項は、(あまり読んでこなかったので、新境地かどうかはわかりませんが)、紹介された句は、深いものをさらりと書いておられて感銘致しました。

今年刊行された句集リストは参考になります。(山西さん、とか。中岡さん、の良かったです。「伝統俳句」読み、が趣味になりそう・・。)(笑)

冨田拓也 さんのコメント...

吟様

いつもコメントいただき感謝いたします。

人名の俳句と短歌もう少し多くの作品を思い出せればよかったのですが、せいぜいのところこの程度ですね。また第2弾をいずれお送りしたいところです。

今回取り上げさせていただいた大石悦子さんの句集は4,5年ほど前のものですから、今後近い将来にまた句集をまとめられるかもしれませんね。

山西さんと中岡さんの句集、私も拝読いたしましたが、どちらも立派な作品集ですね。中堅俳人(でいいのでしょうか?)の底力といったものを強く感じました。