2009年10月4日日曜日

閑中俳句日記(14)

閑中俳句日記(14)
大畑等句集『ねじ式』


                       ・・・ 関 悦史


『ねじ式』は半年くらい前に著者からお送りいただいた私家版の句集で2009年2月刊、大畑氏とは面識はあったが句をまとめて読んだのはこれが初めて。「PERSONA」「黄金虫」「半陰陽の午後」「灰存在す」「ねじ式(マリア頌)」の5部から成る。

国ひとつ滅ぶ音色のハーモニカ

予言書に白いコートがぶらさがる

案山子見て夜汽車に乗って来た男

傾斜角七十五度のおかまである

往ける者たくあん二切れを怪とせり

新興宗教のコートの奥の歌謡曲

犬捕りの影折れ曲がる土塀かな

水平線にうどんを垂らす頭痛かな

中空より踊る阿呆をうかがいぬ

吉野家も村の踊りを懐疑せり

以上、句編「PERSONA」から。

一句一句の射程が短いのは句集全体を貫く特徴だがこの章はそれが特に顕著で、それもそのはずこれらの句は鬼海弘雄写真集『PERSONA』(2003年・草思社)に唱和したものとのこと、写真一点一点に一句ずつ付けたものらしい。モデルになっているのは浅草に流れ寄った無名の人々。写真自体は句集には収録されていないから制作事情自体は単なる足場として意識から外して読むと視覚的な再現性の奥に時空の広がりを探ろうとしてもすぐつきあたる句が多くて「浅草」という空間の情緒に読者を遊ばせるといった要素も目立たず、心情や狙いも素材の選択そのものからのみ観取されることになる。

著者は後記で《行為としての俳句定型、その短さの故にいつも断念の上にある。それが「現在」に生きることと見合うように》と「現在」重視の姿勢をあらわにしていて、やや突飛な連想だが、ことによったらこれはバラバラに刻んだ言葉を出鱈目に繋ぐカットアップの手法を用い、作家が書くものは今心にあるものだけと見切ったウィリアム・S・バロウズの姿勢に通じるものなのかもしれず、実際バロウズのテクストも奥行きや情緒性といったものには背を向けている。

こうした行き方が俳句という器のなかでどういう成果を示したかを問えば、五七五自体が断片に近い形式であるためか、荒っぽく元気にかけ違ったような佳句とは呼びがたい作も多い。ある意味波多野爽波の多作に近いやり方なのかもしれないのだが、《伐りし竹ねかせてありて少し坂 爽波》のような意識からこぼれおちる非意味の景を掬うことで世界があることの不気味さに触れ得たりもする爽波の写生に対して、ここでなされていることは意識のなかに既に取り込まれた概念たちの組み合わせが主となるので、奥行きの浅さの感覚は半ば必然となる(概念的な作りの結果として、先行する俳人の誰彼に似てしまう句も当然散見される)。ここで発生する「佳句」はいわば「事故」に近い。そしてバロウズや爽波ほどその作風は良くも悪くも非情ではなく、乾いたあたたかみがある。

イエスの足ニワトリの足梅雨寒し

野火放つアフリカ地図のくらがりへ

銃声のくらきところを蝶飛べり

《野火放つアフリカ地図のくらがりへ》は隠喩的な作りの句だが、文学者・文学テクストを詠んだ句も少なくないこの句集のなかに置かれると「野火」は春の季語であると同時に大岡昇平の戦争小説の題名、そして「アフリカ地図」が大江健三郎『個人的な体験』をも連想させる。どちらも自伝的要素の強い作品で前者は戦場での敗走と飢餓の末に人肉を喰うか否かの決断を迫られ、後者は頭に障害を持って生れた長男の存在を受け入れるまでの苦悩を描く。戦後文学の名作が「くらがり」に見せ消ちのように浮き上がり、珍しく重層性を持ってしまった句だが、それが「事故」なのだろう。

男の首絞めたり葱を作ったり

これは永田耕衣の《夢の世に葱をを作りて寂しさよ》を男女の仲に転じてみせた変奏だろう。この少しあとに《栗の花からくり時計の腸が見える》と、ミシェル・カルージュの『独身者の機械』を連想させないでもない句が見える。男は男で寂しい。

心は腸である高感度フィルム

心理的なストレスとその調子が直結しやすい腸から「高感度フィルム」の隠喩を導き出した句で、ここでも内臓と機械の結びつきが見られる。

種明かし的に句集最後の句を先に見てしまうと

ねじ式で卵うみたる秋のマリア

というのが最後の句で、これは句集全体の中でも最も印象的な句だがここに句集を貫くひとつの原理のようなものが集約的に現われている。

「ねじ式」はいうまでもなくつげ義春の伝説的短篇マンガ、その題名を踏まえつつ“機械”と“人体”と異様な生殖方法(卵生)とが「マリア」の居丈高でない聖性のなかで絡み合っていて、要するに人為的なカットアップの結びつけの手法がそのまま通常とは別の仕方での生体の存続に通じていて、その構造全体がマンガ「ねじ式」と「秋」により、思いのほか慎ましやかな姿態で郷愁的親密さのなかに定位されているのだ。

以下、その他の印象的な句を拾う。

ベツレヘム海鼠ほたりほたりかな

進むとき鉄のようなる盆踊り

退
(すさ)るとき紙のようなる盆踊り

塩辛とんぼ老海賊がうどん出す

おおまかな地獄に行ってあんたと会う

人焼いて白いおつりを貰いけり

これも一種の機械(貨幣経済というシステム)と人体との関わりの句。「白いおつり」という残余が、単純極まる線だけで描かれたナンセンスマンガの空白部分のようなべたつかない奇妙な懐かしさを漂わせる。《八月や骨まで燃える三輪車》という句もあって、これも機械(三輪車)と人体(骨)と生死が一体となった佳句。

死んでから踊る阿呆や浮いてこい

鞦韆に遠のく父には目礼せよ

なめくじに坊主は屏風の絶壁

十人中九人は女濁流見る

市川崑監督の『黒い十人の女』でも踏まえたものだろうか、珍しく劇性のあらわな句。

空白や水のかたちに蛸泳ぎ

これは萩原朔太郎の「死なない蛸」を踏まえたと思しい。飢えて誰からも省みられない水槽の蛸が己の足を喰い、やがて全身を喰い、実体としては消滅しながら永遠に生き続ける話である。

木蓮に海の裂けたる記憶あり

筍に手かざす紀伊の半陰陽

「半陰陽の午後」の章では《春の蠅半陰陽は即位して》《半陰陽おんな乞食に微笑まん》《半陰陽蟹の騒げる悲歌流れ》《半陰陽幼き虫を知悉して》《半陰陽人体模型に涙しぬ》《半陰陽図書館裏に没(もつ)として》《白砂を厠としたり半陰陽》等々12句ほど半陰陽の句が続き、これはその最初の句。“異なる質同士の合成”によって成立する“生”とそこに漂う“奇妙な郷愁”といった句集全体の特徴からすれば、「半陰陽」は必然的に出てくる主題だろう。

黒い赤い白い聖書に鳥帰る

芽吹くかに見せて神学者のパンツ

目の前にげんげ田がある毛生えぐすり

金屏風立てて水飲む秋の蛇

補陀落
(ふだらく)や雨粒一つずつ大きい

秋立つやむかし厠に無駄ひとつ

かなかなの声の白骨死体かな

かたつむり男はみんなお陰様

つまり愛刺繍の裏の恐ろしき

金閣寺冬蝶の構造である

鮟鱇の鍋の鎌倉幕府かな

新しき尿ほとばしり枯野人

牡蠣フライ女の腹にて爆発する

刻々と田芹はびこる聖母かな

死者またもほめ殺さるる鰤大根

漉餡が足りない夜の蛙かな

家々に灰存在す茄子の花

白飯を颱風自体の過ぎしかな

秋口はするめを持って踊りおり

嫁が君渡世は意外に簡単だ

寒鮒を見捨てる不死の女かな

冬の蝶はんこを持って上野へ行く

来し方はあぶく一つの海鼠かな

蛇穴を死んだ男と出でにけり

蓑虫を愛しておれば隣人来る


大畑等…1950年和歌山県新宮市生まれ。麦新人賞、麦作家賞、現代俳句評論賞受賞。現在「遊牧」同人、「西北の森」会員。

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4 件のコメント:

湊圭史 さんのコメント...

大畑さんの句、「奥行き」や「非情さ」はないですが、
独特の「軽み」があっていいですね。
関さんの「カットアップ」(バロウズ)についての指摘も含めて、
取り合わせの手法を現在に向けるとこのようになるな、
という納得もあります。

男の首絞めたり葱を作ったり

は、耕衣の句と、あと

怒らぬから青野でしめる友の首  島津亮

から、かなり意識的に構成されたように思います。
現代俳句を書くことの自虐的悲哀(?)でしょうか?

笑えるところもあって、個人的に、とても好みな作風です。

さんのコメント...

おもしろい着想の俳句群ですね、「ふつう」の「過激モダニズム」のおさまるところ、近代俳句の超克を、ふつうの文脈から立ち上がる意味の世界のなかで果たそうとするう思考も,確としてありそうです。

関さんいわく。
「著者は後記で《行為としての俳句定型、その短さの故にいつも断念の上にある。それが「現在」に生きることと見合うように》と「現在」重視の姿勢をあらわにしていて、やや突飛な連想だが、ことによったらこれはバラバラに刻んだ言葉を出鱈目に繋ぐカットアップの手法を用い、作家が書くものは今心にあるものだけと見切ったウィリアム・S・バロウズの姿勢に通じるものなのかもしれず、実際バロウズのテクストも奥行きや情緒性といったものには背を向けている。」〔関さん)

作者と読者をつなぐテキストのフレームとして、こういうところが正しい私的かな、と思いました。


案山子見て夜汽車に乗って来た男
往ける者たくあん二切れを怪とせり
水平線にうどんを垂らす頭痛かな
〔大畑)

これらは、おっしゃるようなカットアップ、みたいです。


ベツレヘム海鼠ほたりほたりかな
進むとき鉄のようなる盆踊り
退(すさ)るとき紙のようなる盆踊り
(大畑)


これらは、湊さんの感想近いですが、いままでもあるけれど、斬新なよくわかる機知です。



私のこのみは 以下のような者、

国ひとつ滅ぶ音色のハーモニカ
予言書に白いコートがぶらさがる

言葉の現在について、思考がある、ということ。「存在ということへの問題意識」があること。かつきままにつくっていらっしゃるところ・・
このような作者の影がちらちらと窺えてたのしかった。


末尾ながら。関さん、またしても現俳協会で評論小をとられ、おめでとうございます、

さんのコメント...

関さん。字の入力ミスです。ごめんなさい。
● 訂正1。
「こういうところが正しい私的かな、と思いました。」        ↓
            指摘  
● 訂正2
末尾ながら。関さん、またしても現俳協会で評論小をとられ、おめでとうございます、 ↓

  評論賞


「指摘」 のつもりが「私的」になり。
「評論賞」のつもりが評論小とうちこんでしまし、まちがって失礼しました。

皆さんは、とくに若い人は、なぜ、PCが上手に扱えて、手書きの時にはキチンと美しい文字で書けるのかな、と感嘆と反省がしきり、です。私は、とにかくこういうまちがいが多いので、脳内の何か、こういう能力を司る細胞が欠如して居るのかも知れません。
気がついたときには、とくに相手にたいして失礼な悪いまちがいのときには、すみやかに訂正おわびいたしますので、ご寛恕下さい。

関さんは、言葉の周縁地帯の、囲い方がとても巧い方です。文学とは、曰く言い難いものの表現ですから、ぞの場所の「理論的フレーム」は本当は成り立たない、作ってみてもそれはあくまで近似値ですけれど、その最も近い近似値に達せられる人が、今までにもあまりみあたりません。
曰く言い難い場所、というのは、対象の深い内面とか、人間性や精神界を統治する無意識境界といわれてきたものですが、俳句の領域でも、俳句作品を使って、そう言う問題が語りうるはずなのです、作品的には材料はいっぱいあるはずです、関さんのあたまのなかで理論的なフレーム造りは、 そういうところにふれてゆくかもしれません。期待しています。rerith

関悦史 さんのコメント...

>湊さん
ああそうか、「首を絞める」名句というのもありましたね。「男の~」と始まったもので女の立場の句とのみ見てしまい、男同士らしい島津亮の句は思いつきませんでした。

自虐的なのかどうかはともかく、明らかにリアリズムではないヘンなことをやっているのに等身大という親しみやすさがありますね。
好評いただけたようで、紹介してみて良かったです。


>吟さま

ありがとうございます(「佳作」というのがどういう位置付けなのか今ひとつわからないままなのではあるのですが)。
「曰く言い難いもの」を説明するために、私の場合とんでもないところに補助線を引きまくることが多いので、さぞ読みにくいのではないかと思います。

大畑さんの句集、キリスト教関係の語彙とか、故郷・熊野とか、ここで拾いきれていない要素もまだまだあるので、興味おありの場合は大畑さんに連絡すればまだ在庫はあるかもしれません。

私も文章の誤脱は多いですよ(特に印字しないでディスプレイだけで済ませると)。あちこちに御迷惑をおかけしてます。