2009年11月7日土曜日

岸本尚毅『感謝』書評

ハイカイの詩情―次に「現れる」ものは何か
岸本尚毅句集『感謝』を読む


                       ・・・山口優夢




秋晴のさらに明るき方へ行く

彼の句を読むと、いつも、ふらふらと辺りを徘徊している男の姿が見えてくる。町を行く人々は誰も目的地を持つ。学校へ行く子供や、会社へ行く男や、スーパーに行く女や、家路をたどる者たち。彼らの歩みは力強く、迷うところはない。しかし、そんな中にあってただ一人、彼の歩みだけが、なぜかふらふらふらふらと定めない。

日沈む方へ歩きて日短
船宿の名が電柱に日短

「日沈む」の句は、最初に出した「秋晴」の句と似た構造を持つ。構造だけではなく、歩いていこうとしている方向に生活上の必然的な意味(会社へ行く、スーパーへ行く、といったような)が全くないところも同じだ。このような浮遊感が句集全体の調子を決定づけている。

「船宿」の句には、薄く夕暮れてゆく川べりの町を思う。僕は江戸川近くに住んでいるので、こういう電柱は実際よく見かける。その場面を切り取ってきた「うまさ」や「あるある感」もさることながら、僕にはこの句から受ける徹底した無意味さに引き込まれるところがある。彼はこの電柱を探し出して見つけたのではなく、目的を持たずに歩いた結果偶然見つけたのであり、そういう何の意味もない偶然性の中にしか彼は生きていないように感じられる。もっと言えば、人は誰も、そういった偶然性の中にいる。彼の句はそれを主張する。

コーヒーかコーラか雪に缶赤く
この辺り小松菜多し初景色
丸まりし木の葉の下を蟻の道
いつも薔薇一つ咲く家梅雨に入る

浮遊しながら町を歩き、これらの景色を見つける。彼にはこれらの偶然目に入ってきた景色を客観的に写生しようなどという気持ちは一切ないように思える。自分の目にした景色に対して自分の意識がどのように動いているのか、現実そのものよりも、むしろそういった意識の軌跡に対して、彼は忠実だ。

たとえば「コーヒーか」の句を客観的に写生するとしたら、
雪の降る○○○に赤き缶
のような形にして、○○○に缶を見つけた場所(塀の上とか道路の隅とか)を入れれば、むしろ客観的なスケッチになる。「コーヒーかコーラか」というのは彼自身の勝手な推測であり、せめてもう少し缶に近づいて、コーヒーかコーラかちゃんと判別がついてからその情報を書くこともできたはずだ。

しかし、彼は「コーヒーかコーラか」と思った自分の意識の流れを写し取る方を選んだ。つまり、「コーヒーかコーラか」などと疑問を口にしていながら、実際には、彼自身はそれが本当はどちらであるかという最終的な判別には興味がないのだ。そういう無意味なことに対する自分の疑問の持ち方を、面白がっているのである。

それは、電柱に書かれた船宿の名前というこれと言って意味のない景色を写し取る彼の意識に通じている。この句は、下五で「日短」という辺りの雰囲気を示す季語にフォーカスが移ってゆくことで、上五中七の情景は意味性がキャンセルされ、実際的で意味のある行動には通じることがない。断言してもいいが、彼は電柱にその名を見つけた船宿など泊まったこともなければ見たこともないはずだし、電柱で名を見たからと言ってその船宿に行こうなどという気を微塵も起こしはしないであろう。

「この辺り」の漠然とした景色の切り取り方、そしてその割には断定的な物言いも、現実というよりは彼の意識のありようを写し取っているし、「いつも」の句も「いつも」という措辞が、その場限りの風景ではなく、昨日や一昨日や去年といった過去の時間と現在目の前にある風景との共通性を意識させ、そういう立場でこの家のことをいつも見ている「目」の存在を読者に意識させる。

このような句の並ぶ中にあるからであろうか。「丸まりし」の句は、自然を写し取ったものであるにも関わらず、そこで主題とされているのは蟻そのものの生命感などでは決してなく、蟻を見つめる誰かの虚無的な視線にあるような気がしてしまうのだった。世界を意味なく浮遊する中で偶然発見した景色との邂逅による些細な認識のゆらぎ。それこそが、この句集で繰り返し繰り返し起こっていることの正体ではないのか。



日おもてに現れにけり桜守
寒鯉の背なの高みの現れし
現れてしばらく遠し土用波
ふりやまぬ雪に現れ夜半の月
現れて消えて祭の何やかや
現れて一歩一歩や秋の海女
栗の虫頭振りつつ現れし
明易や山が現れ水が見え
わが前に月現れし涅槃かな

これから書くことは以前誰かが指摘したことがあるのだろうか? 寡聞にして僕は知らないが、句集を読み進めるうちにこういうことは「おや」と思い、気になるのである。

それは「現れる」という動詞の使用頻度の高さである。こうして書きぬいてみると、集中に九句存在することが分かった。句集全体で四百句ほどあるというから、そのうちのおよそ四十句に一句、「現れる」という言葉が現れることになる。きちんと調べたわけではないから分からないが、「あり」のようにこの句集に限らず大概の句集で使用頻度の高いものを除いて、これだけ使用頻度の高い動詞はこの句集には「現れる」以外ないのではないか。このことは一体何を示すのであろうか。

たとえば

わが前に月現れし涅槃かな

の句に端的に表れている通り、これらの「現れる」という言葉は、彼自身となにものかとの邂逅を示している。ふらふらと目的もなく歩いている彼の目の前に「桜守」やら「寒鯉」やら「海女」やら「月」やら、いろんなものがふと現れるのだ。それらは人間であったり、人間ではなくても動物であったり、動物ですらなかったりするが、彼自身が元々それらに触れようと思っていたわけではなく、それらとの邂逅が偶然性に支配されていたからこそ、「現れる」などというあちらから一方的に働きかけてきたことを示す動詞がたびたび使用されることになったのであろう。これは、前章で述べた、無意味さや偶然性といった彼の句の特徴に通じる。

彼の「現れる」俳句の中で僕が一番好きなのは、

現れて消えて祭の何やかや

の句である。屋台や提灯、組まれた櫓、鉄板焼きの匂い、あふれる原色、浴衣姿の女たち、お面をつけた子供たち…いろんなものがその場には現れるが、翌日にはもう全部消えてしまう。祭りの高揚感と、そのあとの淋しさ。それは「祭」と言った際に誰もが思い浮かべることではある。そのため、この句は当たり前の情感を詠んだに過ぎないではないか、という批判もあるだろう。もしもこの句が「消えて」というところにのみフォーカスしていたとしたら、それは全くその通りであったろう。

しかし、「現れて」と「消えて」が併置されていることが、この句の最大のポイントなの」である。この二つの行為が併置されることによって、祭りが現れることとそれが消えることが、同じスピードで起こっているかのように感じ取れる。しかもそれは両方ともあっという間に起こるのだ。あっという間に祭りのにぎわいを現出させるその力強さ、そしてあっという間にそれを消し去ってしまう祭りの儚さ。まるでおそろしく巨大な怪物がこの大地で息を大きく吸って、そして長々と吐いた、というのと同じような時間的感覚と空間的スケールで祭りが現れて消えた、とでも言うかのような、このような意識のありようは、実に新鮮だと、僕は思う。



人間だれしも恋や愛といったものには夢中になるものである。あるいは、恋や愛でなくてもよい、何か夢中になることがあるはずである。しかし、彼からはそういった気配がほとんど感じられない。夢中になりそうなところでふと心が他を向いたりすることもある。

目の前に巴里の踊り子夜は長し

「目の前に巴里の踊り子」がいれば、それに注目するのが普通だろう。踊り子の肌の白さやほのかな汗、リズムに合わせて揺れる胸などに目が行くのが道理というものであろう。なのに、わざわざ踊り子を登場させておきながら、彼はそのあとで「夜は長し」という季語をつける。

つまり、目の前の踊り子から彼の意識はもう離れてしまい、唐突に季節としての夜の長さを感じているのだ。すなわち、踊り子のことなど彼はもう見ていない。下五でそういう展開になるからこそ、上五でわざわざ「目の前に」などという一見無駄な措辞を持ってきて、踊り子の存在感を強調している。それは、そこから目をそらす彼の意識の飛び方を強調することにつながるからだ。

秋の妻数かぎりなき人の中

これなどは大層不思議な句だ。「数かぎりなき人の中」などと言われると、歌謡曲に慣れた僕の頭では「たくさんの人の中からたった一人の妻のことを見つけ出したのだ」などと勝手に文脈を付け加えて読んでしまいそうになる。彼自身、おそらくそれを狙いながらも、本当にここで言われていることは、そんなつまらない甘ったるい愛の告白などではない。

町を歩く数限りない人の中に、実際に妻が歩いているのではないだろうか。彼は例によってふらふらそのあたりを歩いているときにそれを見つける。…かどうかは分からないが、そう思って読んでみる。群衆の中に何度となく紛れ込み、見分けがつかないくらいの限りない人の中に何度も何度も含まれてしまいながらも、妻は今日も明日も我が家に帰ってくる。秋、たとえばコートのどこかに落葉の一つもつけて。

彼は、「数かぎりなき人の中」にいる妻が、それでも自分にとって「妻」という特別な存在であり続けていることの不思議を詠んでいるのではないだろうか。それは人間と人間の関係性の根幹の問題で、愛情以前の認識の世界だ。もっと言えば、そのような人間同士の関係の偶然性の不思議さに対する真摯な認識があって初めて誠実な愛情は生まれてくるものなのではないか。愛というものにのめりこむのではなく、さらにその根幹の認識にまでたどって句にする態度には、あることに夢中にならずに句を作る彼の方法論が垣間見えるようにも思う。

風鈴の音辻にあり空にあり
ゴーギャンとゴッホの喧嘩チューリップ
低きより出づる冬日を立ちて見る

これらの句に通う上の空な感じは、そういう「夢中にならない」ところから来るのだろう。「辻にあり空にあり」という、リフレインを用いながらも場所を特定しないようなうつろな言い回し、必ず「ゴーギャンとゴッホの喧嘩」の外側に咲いていそうなチューリップに目線をそらしてしまう意識の動き、登る冬日よりも高いところからそれを見ているかのように錯覚させる「立ちて見る」という措辞が、実は彼自身をも錯覚に導いているのではないかと思わせるようなゆるい文体…。

しかし、実は彼がいつでもうわのそらなわけではない。次のようにある物事を一気に詠み下す文体を用いることで、何かを思い切りよく伝えたいのだな、と思わせる作もあるのだが、これらに共通する特徴は、実にどうでもいい内容である、ということだ。つまり、些細な発見を喜び勇んで報告しに来る子供みたいな言い回しになっているのであり、これはこれで彼の作品の面白さを現出させている。

さういへば吉良の茶会の日なりけり
闇に目が慣れて少しくあたたかに



蒲公英の絮吹く男天へ地へ
その昔雪を見し駅柳絮飛ぶ
昼顔は水に映らぬ花であり

これらの句は偶然出会ったものに対する認識のありよう、といった、句集全体で目指されている着地点とは別な場所に降りているかのような印象がある。一言でいえば、抒情的なのである。

「天へ地へ」、この男、実際どこに行ってしまうつもりなのだろう。しかもたんぽぽの絮なんて飛ばしながら。この男の行くところであったら、天でも地でも柔らかな明るさに満ちているように感じられてくる。駅はきっと、「雪」を見たときは夜で、柳絮を見ている今は明るい真昼なのではないか。特に根拠はないが、こんなふうに年月を超えて何かを思い出すとき、そこを照らし出す光の加減というものも何か変わっているような気がしてしまうのだ。同じ場所にいても、昔が帰ってくることはない。それを示す残酷な光。「昼顔」の句の不気味さもまた、それが強い光の中にあると想像できることと無関係ではなさそうだ。光の中の水を思うからこそ、そこに映らない花のことを思うのだから。

認識から一歩踏み込んで抒情が描かれるとき、そこに直接は描かれていない光が見えてくるのは、偶然だろうか必然だろうか。

秋晴のさらに明るき方へ行く

冒頭に挙げた句だ。彼は今日もふらふらと、目的もなく「明るき方へ」歩いてゆく。そこはまだこの世なのだろうか。それとも、盟友・裕明の待つあの世か。

裕明の初盆なれば迎鐘

「なれば」という断定に切ないほどの愛を感じる。こんなことは彼の句の中でも大変珍しいことではないか。この一句に、彼の裕明に対する思いを感じ取らなければ、嘘だ。そして、彼は明るき方を目指しながらも、裕明とは違うこの世を歩かなければならない。

紅葉してゐるや茶色に紫に
茄子と煮てちりめんじやこが茄子の色
十薬や月の暗さに土暗く
人々や師走近しと手を擦りて
丸ノ内よりも八重洲の日永かな

どうやら、まだ自分はこの世にいるらしい。彼は偶然出会った意味のない事柄を並べ立てて、自分がまだ生きていることを確認し続ける。生きることは、認識することだ。見続けることだ。偶然の総体でしかないこの世を自分の意識を通して言葉に定着することで、自分を世界に開くことだ。そのために彼は世界に対峙し続ける。それは、たとえば月夜、眠る前に窓辺に寄る癖を持つ子供のように。

寝る前に外を見る子や月明り

作者は岸本尚毅(1961-)


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