七曜俳句クロニクル Ⅴ
・・・冨田拓也
10月4日 日曜日
「本歌取り大全」といったものを作成すれば面白いかもしれない、という考えを思い付く。古典の和歌から俳諧、そして現在の短歌、俳句作品までの本歌取りの作品を纏めるわけである。
しかしながら、「本歌取り」といっても古典の作品についてならまだともかく、現代の作品となるとその作品の膨大さゆえ、そういった作品を調べ上げるのは、ほとんどお手上げの状態になるといって間違いのないところであろう。また、「本歌取り」ではなく、たまたま「似ているだけ」といった作品というものも多数存在するはずである。
現在、自分がなんとか思い出すことができた「本歌取り」とおぼしき作品は、せいぜいのところ下記のものだけであった。当然のことながら、他にも本歌取り作品といったものは数多く存在するわけであるのだが。
凩の果てはありけり海の音 池西言水
海に出て木枯帰るところなし 山口誓子『遠星』より
梅雨の夜の金の折鶴父に呉れよ 中村草田男『萬緑』より
みちのくの星入り氷柱われに呉れよ 鷹羽狩行『誕生』より
薔薇色の雲の峰より郵便夫 橋本多佳子『紅絲』より
寒風の突如と黒い郵便夫 堀井春一郎『教師』より
外套のままの仮寝に父の霊 八田木枯『汗馬楽鈔』より
外套のままのひる寝にあらわれて父よりほかの霊と思えず 寺山修司『空には本』より
10月5日 月曜日
対馬康子句集『天之』(富士見書房 2007年)を再読。
対馬康子さんは、現在「天為」編集長。句集に『愛国』『純愛』『セレクション俳人13 対馬康子集』がある。
点滴は遠い枯野の中落ちる
卓にパン種万緑を膨らます
一枚をめくるカルタの枯野かな
銀紙で包んで捨てる夏の月
修正液垂らして遠き虹消ゆる
月白くその半円を春眠す
白菜の一枚ずつの冬陽剥ぐ
これらの作品を一読して、その意味するところを単純に読み解こうとすれば、やや面喰らってしまうところがあるかもしれない。普通に考えてみれば、点滴は枯野の中にまず落ちることはないし、パン種が膨らむとしても万緑までもが膨らむわけはない。また、修正液を使用したからといって虹が消えるなどということはまず現実には起こり得ないはずである。
当然のことながら、作者はそれらのことを承知の上で、こういったやや突飛ともいうべき表現を作品の内に設えているわけである。このように作品の内部に「ねじれ」ともいうべき現象を故意に生じさせているのは、言葉同士のかかわり合いによってイメージを飛躍させ、その作品世界に従来の表現以上の広がりを持たせようとする意図が込められているゆえということになるのであろう。それを予め念頭に置いた上でこの句集の作品を読めば、その内容についてもさほど戸惑うことなく、ある程度受容しやすい結果となるのではないかという気がする。
啄木に革命の文字寒昴
秋曇りイエスは我に触れるなと
初雪は生れなかった子のにおい
晩夏光銀を溶かして生るクルス
錆びついたベッドに落ちてくる桜
春灯を放射に広げゆく離陸
また、先にあげた意図的な飛躍を伴う作品といったものばかりでなく、これらの作品のようなややメタリックともいうべき硬質な言葉による鋭さを持つ作品というものも、この作者の作風の主要部を成すひとつに数えられよう。
いまは亡き詩人宗左近は、その著作『さあ現代俳句へ』(東京四季出版)において、この作者のことを〈俳人でない俳人〉と評した。
10月6日 火曜日
ナイターを抜ける途中の光る橋 こしのゆみこ
こしのゆみこ『コイツァンの猫』(ふらんす堂 2009年4月1日)より。こしのゆみこさんは現在「海程」同人、「豆の木」代表。
掲句の「光る橋」とは、ナイターのホームランの白球が描く弧(アーチ)ということになるのであろうか。「途中」であるから、ぐんぐんと彼方へと向かう上昇感と、そこに「光」という言葉が伴って、なんとも「ハイパー」なイメージが現出されている作品である。そして、その弧を描く「光る橋」の下では万の人々が白球の行方に熱狂し沸きに沸いている状態であるのであろう。そこから駆け去ってゆく白球の描く軌跡からは、なにかしら超絶的な神々しさといったものも感じられるようである。
以下句集より。
青林檎放物線の途中に手
金魚より小さい私のいる日記
赤羽の虹のでやすいプラットホーム
ひよこ売りについてゆきたいあたたかい
バス空になる時ふるえ春の月
10月7日 水曜日
行く春やパンの袋に世界地図 金子敦
金子敦句集『冬夕焼』(ふらんす堂 2008年6月10日)より。この句集は金子さんの第2句集で、第1句集として『猫』がある。
掲句は、「世界地図」が印刷された「パンの袋」という実際の日常の事象における眼前のミニマムな視点と、「行く春」と「世界地図」の関係性から感じられる世界の中における日本列島とでもいったワールドワイドな視点とが交錯することによって、まるで虚実のイメージが往還するかのように感じられるところがあり、なんとも楽しい1句である。
この句集は、木下夕爾の作風をどことなく髣髴とさせるような童謡の世界にも近い作風が特徴的であるといえよう。
如月のざらめびつしりリーフパイ
夏果つるパスタの中の小さき貝
ガムテープ使ひきつたる西日かな
夏休みマーブルチョコの赤青黄
吸飲みに残りし水や冬夕焼
10月8日 木曜日
「俳句と風土」といったテーマがなんとなく思い浮かぶ。
いくつかの作者とそれにちなむ地名を挙げて見ると、およそ次のようになる。
前田普羅と能登
飯田蛇笏と山梨
原石鼎と吉野
尾崎放哉と小豆島
篠原鳳作と沖縄
斎藤玄と函館
佐藤鬼房と宮城
金子兜太と秩父
端的にいうならば、「風土」とは、ひとりの人間としての優れた表現者が、その自然の姿を巧みに切り取り、様々なかたちで叙述、言語化することによって、ようやく魅力的なものとして顕現してくるものであるのかもしれない。
10月9日 金曜日
海へレール風は晩夏の人影追ひ 武田真二
なんとなく武田真二という作者の作品を読み返したくなった。武田真二といっても現在ではおそらく誰も知るところのない作者であろうが、自分もこの作者については、知るところは殆んどなく、せいぜいのところ飯田龍太門であったという事実を知るのみであり、その作品についても「花文字」というタイトルの30句しか読んだことがない。また、その後の歩みについても、句集の有無などについても、やはり自分の知るところは殆んどない。
掲句を見ればわかると思うが、この時点における作者の年齢は、まだ若い青年であったと考えられるであろう。
母の手に露がころがり晩夏なり
坂暑し車輪の影は人無き家
剥製の眼は死の側の暑さかな
蜜柑山からひかりを持って帰る
雪の街こころゆくまでビルが群れ
南風吹く村へ石碑の文字が響き
火事美し標本の蝶独り飛ぶ
氾濫のごと冬日さす青い海図
高架駅落葉きらりと白き走者
山の駅落葉しぐれて旅の前夜
木の実落つ海より山の青さ持ち
冬空に花弁のごとき唇覗かれ
枯れきって図書ことごとくイエスの色
嘗てこの作者の作品を読んだ時は、正直なところいくつかの鋭い閃きを見せる作品(「火事美し」「イエスの色」など)を除いては、どちらかというと全体的にやや朴訥すぎる印象を受け、少し物足りない思いがしないでもなかったが、現在その作品をみると、程良い抒情性と澄明な空気感があり、また、それだけでなく言葉のひとつひとつを注意深く見てもある程度の技量といったものの存在も確認できなくもない。
こういった割合ストレートな内容でありながら、その内に表現への抑制がある程度効かせてあり、またそれだけでなくやや微妙な屈折による陰翳といったものをもどことなく感じさせる青春詠というものは、よくありそうでありながらも実際のところはそれほど多く目にすることができない、どちらかというとやや異色の作であるといってもいいのかもしれない。
10月10日 土曜日
土曜日の王國われを刺す蜂いて 寺山修司『花粉航海』より
今週はここまで。
また来週にお目にかかりましょう。
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