2009年10月11日日曜日

遷子を読む(29)

遷子を読む(29)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


暮の町老後に読まむ書をもとむ
      『雪嶺』所収

中西:昭和41年の作です。遷子58歳、医師として患者の老いを詠ったことはありましたが、自分の老いは今まであまり詠ったことがなかったように思います。我々もそうですが、ちょうど年齢的にも老いを感じるときかもしれません。

日焼して痩身老いをしるくせり

というのも同年にあります。この句の方が老いを直裁に詠っておりますが、老いを負として捉えて寂しい句です。そこへいきますと、掲出句は老いを間接的に詠い、馥郁としたものがあるように思います。

この暮の町は、佐久野澤の商店街というより、何かの用事で来た東京の町か、長野などの大きな町なのではないでしょうか。書店に立ち寄って目に付いたやや内容の重い、厚い本を買ったのではないかと思います。今は開業医として忙しいさかりなのです。

忙しさを詠った、ちょっと視点が変わった句があります。

健保請求事務書類暑く積まれたり  同年作

これは今で言うレセプトです。パソコンのないこの時代、手書き、そろばん、または旧式の計算機でやっていたのです。開業医の場合、医師本人が毎月、月の初めにこの事務作業をこなさなければならないわけですから、大変だったと思います。また、

会議陳情酒席いくたび二月過ぐ  同年作

作品としてはそれだけの句ともいえる2句ですが、こちらの句も地方の名士として、政治に係わっているのがわかります。これも境涯句なのでしょうけれど、社会的な視点で詠っています。

このように、遷子には暇などないのですが、そういうときこそ、読みたい本が沢山あるのではないでしょうか。読む時間がないから、老後に読もうと思うわけです。暮と正月の数日が休診で、忙しい合間の至福の買い物です。そして、自身の老いを意識して、老後の生活に夢をつないでいる句です。

原:前回、中西さんが波郷の跋文を引いて、遷子の句の境涯性に着目していらっしゃるのは大事な視点だと思いました。風景句にしろ人事句にしろ、遷子の句に通底しているのは自らの立脚点を手放していないことでしょう。地方の医師(地域の名士であるにせよ)の立場から、郷土の生活の場に足を踏まえて作品を成すとき、身辺の一事象の奥から社会の様相や矛盾が透けてくる、そういう構造を持っているという気がします。一足飛びに巨視的な社会批判にいくのではなく、あくまで個人的な切り口から発しています。波郷に倣っていえば、こういう句の性格が、社会的題材に想を取った場合も境涯性を滲ませるといってよいでしょうか。

医業とそれに伴う煩雑さに忙殺されていた遷子にとって、ゆとりある時間など希むべくもなかったのでしょう。そんな生活から解放される老後こそ、本当に読みたかった書物に囲まれて過ごしたい、と。なんというか身につまされます。

作品とは別の話ですが、それにしてもこの句の当時と現今の社会とを比べると、老後に対するイメージ、特に老後不安の質が違ってきたようですね。

深谷:中西さんが指摘されたように、この頃、即ち昭和40年頃より自身の老いを詠んだ句が目に付き始めます。確かに、還暦を迎える数年前ですから、そんな年回りと言えるかもしれません。句集掲載の作品を辿ってみると、前年に当たる昭和40年冒頭に、

年々に元日淡くなりまさる  『雪嶺』

が置かれています。この感慨は、「老い」というには語弊がありますが、ある年齢に達した人間ならではのものだと思います。

そして、句集『雪嶺』の最後に収められたのは、

秋深し還暦過ぎて老後の計  『雪嶺』

という作品です。掲句もそうですが、この句にしても、遷子にとっての「老後」とは、決してネガティブなものではなく、むしろ激動の青年期、多忙だった壮年期に成しえなかった、幾多の事柄にようやく取り組める時期、言わば充実したセカンドライフを楽しもうとしていたように思えます。結局その期間は、遷子自身が考えていたよりも短い期間でピリオドが打たれてしまいましたが、真面目で几帳面な性格と思われる遷子のことですから、恐らく周到に様々な計画を立て、多忙な医療業務の合間を縫って、準備に余念がなかったことと思われます。そうした、いわば人生の収穫期を迎えようという時期の、充足した遷子の表情が句の合間から、顔を覗かせているようにも思えます。

一方、これよりだいぶ前の昭和34年、遷子が50歳の頃に詠まれた句に、

春の服買ふや余命を意識して  『雪嶺』

があります。ほぼ現在の自分の年齢に当たりますが、正直に申せば「余命」はなかなか意識できません。一般的にも、余命を意識するには早過ぎると思います。では、なぜ遷子がそのような意識を持ったのか。有力な理由として考えられるのは、かつての療養体験です。一度は、死を意識せざるを得ないような長期療養を余儀なくされたことが、50歳にしてそのような想いを胸に去来させたのではないでしょうか。

そうして見ると、掲句に表れているような老後の楽しみは、ひょっとしたらなかったかもしれない人生を手にしえたことに対する喜びを素直に詠んだ句と言えるのかもしれません。

窪田:遷子58歳の作ですか。私も来年の1月に満58歳です。私の場合は馬齢を重ねて来たと言わざるを得ませんが。

さて、本が好きという人は結構いて、私もその一人です。本好きと言っても、しっかりとそれを読む人と、買ってきて安心してしまい並べたり積んでおくだけの人など様々なタイプがあります。私は後者の方で、老後が100年あっても読み切れない本を集め、書庫がいっぱいになっても、まだ古本屋に通ったり図書館の廃棄本を頂いてきたりしています。中西さんが言われるように、掲句の下十二音からは温かな情感が伝わってきました。

ところで遷子は、ゆっくりと本を読める老後が来ると思っていたのでしょうか。遷子は町の開業医であり名士です。中西さんの指摘のように「老後の生活に夢を繋いでいる」のでしょう。(しかし遷子は、昭和43年「羽蟻身に開業醫には停年なし」と詠んでいる。)

「暮の町」はちょっと付きすぎかなとも思います。しかし、最初に下十二音に共感し、何度か読んでいると、上五の「暮の町」が動かし難いことに気付きます。

遷子には正月から忙しい日々が待っています。農民は春から晩秋まで働き詰めですから、少しぐらい身体の調子が悪くてもお医者様にはかかりません。しかし、冬になって野良仕事が無くなると、身体のあちこちが痛んだり、風邪を引いたりしてしまいます。年の暮れは何かと忙しいので、正月になるとお医者様に出掛けるのです。

また、人々が忙しく動いている町の年の暮れに身を置いて、自分もその一人であると実感したのではないでしょうか。だからこそ、書をもとめたのではないかと思うのです。老後に読もうと思う書というフレーズは、年の暮れであるがゆえに読む者の胸を突くのでしょう。老後をどう生きるかは、私にとっても身近な問題になっていますので、ちょっと身につまされる句です。

筑紫:この句は遷子の句として読まれる必要はないようです。実はこの「遷子を読む」のメンバーは還暦前後の人が多く、この句にしみじみとした同感をいだく世代であるのです。かってこのブログの管理人に「銀婚で盛り上がっているあたりに、皆様の年齢的な感慨も出てい」ると皮肉られたのですが、同じことを今回も言われるかもしれません。

遷子の場合「老後」がどのように感じられていたかということがこの句の関心事項にはなると思います。現在は、忙しく、不本意な雑用に不満はあるものの生活の不安はありません。息子たちが医業を継いでくれる期待はあった(事実継がれたようです)のですから、その意味で平安で、満ち足りた老後が予想されたというべきでしょう。えてしえ、好事魔多し、といわれるように病気の発見によってそうした老後が根本から覆ってしまったわけですが、掲出の句を詠んだ頃にはそんな皮肉な未来は予想されませんでした。とすれば悠々自適の(たぶん息子が院長を継ぎ、大先生として、忙しからず人々から敬愛される)日常の中で、買い溜めた本を読んでいる姿を想像したことでしょう。小津安二郎の映画の中の笠智衆の姿が彷彿とします。

この句を読みながら攝津幸彦の言葉を思い出します。本にしろ映画にしろ、読みたいと思ったその瞬間がもっとも作品を濃厚に味わえるときであり、いずれ時間やお金ができてからと思って先延ばししたときは、もうその欲望に昔期待したような充実は得られない、というのです。49歳でなくなった攝津の言葉なので余計に印象深く記憶に残っているのかもそれません。人生とは現在を生きることだといいたかったのでしょう。

もちろん遷子のこの句について、何も攝津の言葉を重ね合わせる必要があるわけではありませんが、攝津の言葉を思い出して、「老後に読まむ書」とは遷子が今読みたい本でもあるのだろうと思ったしだいです。おそらくその本は、予想外に速い老後の終了によって読まれなかったに違いありません。とすれば、今読むべきだという攝津の言葉はそれなりに正しいというべきでしょう。

さてこのように読むと、遷子にとって医業とは何であったのかということが問題になってきます。すでに見てきた俳句で詠まれたように開業医としての鬱屈した思いがあり、また老後に期待するということは、少なくとも現在の医業の否定になるのでしょうか。

中西さんの亡くなられたご父君は大学の医局員から開業医となられたと伺いましたが、その意味で遷子と似た境涯にある方です。これらの選択肢には、こまごまとうかがうとまことに微妙な判断要素があったようです。

文化功労者に選ばれた金子兜太氏は、父君が医師で一方、伊昔紅(いせきこう)という号を持った馬酔木の俳人でもありましたが、兜太氏が大学に入るにあたり医業を継がないという決意に対してもっとも理解があったと兜太氏から伺ったことがあります。伊昔紅氏自身が大学に進むに当たって、親戚の総意として医学部進学を選ばざるを得なかったという経験があるだけに、医業に反発する兜太氏にもっとも共感があったのでしょう。おそらく、馬酔木の同人となり、秩父音頭を創作した伊昔紅氏にも文学を一度は捨てたほろ苦い思いがあり、そうした気持ちが息子に対して表れたのかもしれません。

遷子と医業と、この問題をもう少したずねられたらと思います。


--------------------------------------------------

■関連記事

はじめに・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔1〕 冬麗の微塵となりて去らんとす・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔2〕 冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔3〕 銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔4〕 春の町他郷のごとしわが病めば・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔5〕 くろぐろと雪片ひと日空埋む・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔6〕 筒鳥に涙あふれて失語症・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 読む

遷子を読む〔7〕 昼の虫しづかに雲の動きをり/晩霜におびえて星の瞬けり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔8〕 寒うらら税を納めて何残りし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔9〕 戻り来しわが家も黴のにほふなり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔10〕 農婦病むまはり夏蠶が桑はむも・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔11〕 汗の往診幾千なさば業果てむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔12〕 雛の眼のいづこを見つつ流さるる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔13〕 山河また一年経たり田を植うる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔14〕 鏡見て別のわれ見る寒さかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔15〕寒星の眞只中にいま息す・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔16〕病者とわれ悩みを異にして暑し・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔17〕梅雨めくや人に真青き旅路あり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔18〕老い父に日は長からむ日短か・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔19〕田植見てまた田植見て一人旅・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔20〕空澄みてまんさく咲くや雪の上・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む


遷子を読む〔21〕薫風に人死す忘れらるるため・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔22〕山の虫なべて出て舞ふ秋日和・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔23〕百姓は地を剰さざる黍の風・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

遷子を読む〔24〕雪降るや経文不明ありがたし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

遷子を読む〔25〕山深く花野はありて人はゐず ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔26〕星たちの深夜のうたげ道凍り ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔27〕畦塗りにどこかの町の昼花火・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔28〕高空は疾き風らしも花林檎・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む


-------------------------------------------------

■関連書籍を以下より購入できます。



0 件のコメント: