・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
戻り来しわが家も黴のにほふなり『山国』所収
中西:昭和28年の作品なのですが、戦後の生活状態もこの頃になりますと、大分良くなってきているのではないでしょうか。遷子も町のお医者さんとして地元にすっかり溶け込んできているようです。田舎ですから、社会が閉塞的で、口うるさいことでしょう。隣近所の生活が皆に知れ渡っているでしょうから、遷子も患者さん達の生活がよくわかっているわけです。往診に訪ねた患者さんの生活が見えているのです。黴臭い古い暗い家は、どこも質素な暮らしぶりで、節約をしてその日その日を暮らしているのだと思います。その厳しい生活を見てきて帰って来ると、我が家も同じ様な黴の匂いがしたというのです。農家の方々から比べれば、やや生活が楽に思えたわが暮らしも、気がつくとやはり同じ様に決して豊かではないという現実、これが今の社会状態なのだと、そんな思いが書かれているようです。
深谷さんの社会的事象が描かれているというご指摘から、この句もただ、自分の小さな生活のみを描いているだけでなく、この頃の時代が見えるように思います。
また、この時期高原派としての作品として同年作の、
雪の嶺眞紅に暮るる風の中
高空は疾き風らしも花林檎
夕映えて不作の稲に空やさし
を『山国』の跋文で石田波郷が取り上げている一方で、「生活境涯詠はとかく叙述的になりやすくて、物語として読者に訴えてゆくのを、私どもは警戒しなければならないが、練達の著者にしても尚ややその風をまぬがれないものがあるのだ。」と書いています。
つまり、波郷はこの時、遷子の「黴の句」のような生活句を高原派としての風景句より劣っていると見ているわけです。確かに、波郷のあげた句より詩情は薄いかもしれませんが、欲も得も無く描いている一心な作者の姿があるように思うのです。
原:私たちは誰しも意識するにせよしないにせよ、その時代の社会現象の渦中で自分の生を送っているわけです。その意味では少し乱暴に言えば、すべての作品が境涯句であるといっていいかも知れません(勿論、「境涯俳句」の語が作品の分類上有効な名称であることに異論はないのですけれど)。
例えば遷子の風土詠のなかでもすぐれた作品には、彼の自然観、人間観、ひっくるめて世界観というべきものが、あらわでなく内在していて、それが句の背後から匂い立ってこころを打たれます。一方、具体的に社会事象に触れた題材や生活の断片を掬い上げる方向に、より多く共鳴する立場もあるわけで、この「遷子を読む」の参加者が、その両方向を含んでいることを良かったと思っています。それぞれの興味のあり処から、以前磐井さんが特徴付けて下さいましたが、今述べた遷子の句の二傾向のうち、どちらかといえば前者に共鳴するのが私、後者が深谷さんという気がします。磐井さんにはもう一つ意図があって、時代相をあぶり出してその先にあるかも知れぬ可能性を見出そうとなさっているかのようです。中西さんと窪田さんは実感に添いたいという、鑑賞の基本的な態度が感じられてこちらも姿勢を正されますが、中西さんが生活実感、窪田さんは風土的実感に立っておられるようです。
掲出句は、その生活実感の現れた句となるでしょうか。句意は明瞭。この年代に子供であった私には、昭和前期の木造家屋、やや湿りを帯びた陰翳の家の隅々が甦ります(実際の相馬家がどんな作りであったかは知らないのですけれど)。
深谷:この句の直後には、
往診に祭の人出無情なり
が見えますし、少し前には
往診の夜となり戻る野火の中
という句もありますので、この「戻り来し」はやはり往診からの帰宅でしょう。
そして中西さんの御指摘の通り、患者は貧しい生活を余儀なくされていた農家だったのだと思います。この二句後に見える、
農婦病むまはり夏蠶が桑はむも
といった生活環境を思い浮かべます。
この頃から遷子作品に医師俳句が登場し始めますが、その作品はどれも患者への深い共感あるいは同情の念に溢れています。だから「わが家も」と詠んだ遷子の心の内には、自分も患者達と同じ境遇にあるという一種の満足感が去来していたような気がします。読み過ぎかもしれませんが。
「黴のにほふなり」という直截な措辞には、農家の貧しい生活の象徴という以上のアリティを感じます。そう言えば、最近家の中の臭いが頓に希薄になってきたように思います。「生活臭」というと別の意味になってしまいますが、昔の暮し、それも田舎の各家々には必ずその生活を物語る「におい」がありました。この正月に駅伝観戦熱が嵩じて読んだ「冬の喝采」(黒木亮著)の中にこんな一節があります(主人公が事故死した親友の家を訪れるシーンです)。
「家に入ると、食べ物を煮炊きする匂いや家畜の臭いが染み付いた農家独特の匂いがした。鴨居の上には、紋付を着た先祖の白黒写真が飾ってある。(後略)」
舞台は昭和40年台後半の北北海道。著者の生年は私と同じですから略同じ時代を生きた者として、この佇まいはよく解ります。というより、大変懐かしい想いがします。そして、その少し後には、こんな記述もありました。
「伊東(深谷註:死んだ親友の名です)は家が裕福ではないので、自然の中で遊んでいた。伊東に限らず、当時は裕福な家庭などなかった。(後略)」
遷子作品はこの時代よりさらに20年近く前の、我が国が高度経済成長を遂げる以前のことですから、状況はもっと深刻だったことでしょう。梅雨時に遷子が往診するどの農家にも黴の匂いが満ちていた筈です。そして、その環境の中で懸命に生きる住民の姿に日夜触れざるを得ないことで、遷子のヒューマニズムが徐々に触発されていったのだと思います。
窪田:昭和28年7月朝鮮戦争が終結、NHKがテレビ放送を開始した年。ようやく生活にも明るさが見えてきた頃。『山国』では掲句の前に「顔痩せて青田の中に農夫立つ」があり、後ろに「往診に祭の人出無情なり」が置かれています。掲句を含め、どこか気持ちの晴れない遷子の姿が見えてくる句が並んでいます。遷子は、戦後の緊張感が無くなった後の倦怠感のようなものを覚えていたのではないでしょうか。どこか中途半端な生活と精神状態が伺える句のような気がしました。夕紀さんの言われるように、この頃の時代が見えてくるように思えます。これは、朝鮮動乱の景気に湧く都会に暮らす人には無かった感じではないかとも思いました。
筑紫:「花林檎」の章にある句です。遷子が医者であることが分かると見えてくる句ですが、それを離れても鑑賞できそうです。外出して戻ってきた家の中が、今まで回ってきた家と同様黴のにおいがするというものです。普通は事務所で仕事をするものですが、医者の場合は往診をすることにより、患者の自宅を訪問することが多く、こうした感覚、「我が家も」はいっそう実感が強かったと思われますが、それでも現代のわれわれに感じられなくはない感覚です。それは抒情的な人事句と言うことができます。
さて、馬酔木といえば自然の風景、大景を読んだり、耽美的な作品が多いと思われますが、戦後の馬酔木はかなり生活色に富んだ句風に移行しています。遷子の掲出の句を鑑賞するに当たっては、当時馬酔木をリードした若手の作品を見ておくことが必要でしょう。
風荒れて春めくといふなにもなし 秋野弘 昭和23年4月
春愁やむしろちまたの人むれに 岡野由次 同5月
部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす 能村登四郎 同7月
咳堪へて逢はねばならぬ人のまへ 大島民郎 同
あてどなく急げる蝶に似たらずや 藤田湘子 昭和24年4月
諭されし身を片蔭に入れいそぐ 馬場移公子 同7月
このような作品が戦後の馬酔木集にはあふれていました。あまり現代の俳人にはなじみのない名前が交じっています。特に秋野弘の「風荒れて」の句は当時大評判となり、「なにもなし」の下5はしばらく語りぐさとなっていたようです。いまになると、ちょっと過大評価しすぎだと思いますが、まあ当時にあっては、湘子も登四郎も、秋野にはかなわないなと思っていた時代があったようです。
このような中で相馬遷子も作品を発表していたことはしていましたが、馬酔木の若手に影響を及ぼすような作品は出しておりませんでした(『山国』の「薄き雑誌」の章)。石田波郷が『山国』の跋で「しばらくは著者の句も、なお山国の風物さへをもやや低調に切り取るにとどまつてゐる」と述べている時代だったのです。言ってしまえば、むしろ同じ相馬姓でありながら相馬黄枝という馬酔木同人が当時の若手の作風に大きな影響を与えたといわれています(林翔談)。作品を見てみましょう。
蠅ひとつをりてあたりに誰もゐず 昭和22年9月
手を洗ひをえて思ひぬ春めくと 昭和23年4月
人なかにうしろより来るひとの咳 同
うぐひすの去りて漸くこころ急き 昭和23年6月
確かに、これらの作品は前掲した馬酔木戦後世代の作品への影響が歴然と残っているようです。例えば、「咳了へてほのかにぞ来る人の息(句集『咀嚼音』掲載にあたり「来たる人の息」と修正)」(昭和24年1月)等をはじめとした登四郎の初期作品は黄枝なくしてはあり得なかったように思うのです。
こうして、相馬黄枝→馬酔木集若手作家と続いていった日常詠人事句の特徴は、馬酔木全体に影響していったようです。当時、水原秋桜子にさえ
鰯雲こころの末の波消えて 昭和25年
萩の風何か急かるる何ならむ 同
のような心象的な句が生まれているのです。若手の動きは馬酔木全体の動きとして影響を与えたのです。
相馬黄枝はともかくとして、馬酔木集若手作家の人事句の影響を、掲出の遷子の「戻り来し」の句にも見てみたいと思います。戦後の小市民的な、静かな憂愁は共通していますし、「戻り来し」「黴のにほふなり」の微妙な美しい表現は彼らの専売特許でした。遷子の句の特徴をすべて遷子の独自の産出としてみるのは贔屓の引き倒しのように思います。昭和22、3年の馬酔木若手作家の新風に、遷子が28年頃やっと追いついていったと見ても可笑しくないでしょう。馬酔木若手作家に尊敬されるような作品はまだ遷子は生みだしておらず、逆に若手の影響を受けていたのです。
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