2009年4月24日金曜日

遷子を読む〔5〕

遷子を読む〔5〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

くろぐろと雪片ひと日空埋む

『草枕』所収

窪田:先ず、前書きを伏せて読んでみます。これは実景です。降る雪は、必ずしも白ではありません。私も雪国に育ちましたから、雪片が黒いと見たことが何度かあります。首を後ろに反らせ雪の降り来る空を見上げますと、薄く日が差し、雪は影を持つのです。「くろぐろと」は、心象ではないのです。

しかし、前書きには「病中二句」とあります。この句は、その二句目に置かれています。この前書を読むと、掲句は心象句の様相を色濃く持ちます。確かに心象句でもあると思います。しかし、単なる想像では「雪」という語は出ても「雪片」とは表現できないでしょう。宮沢賢治の「永訣の朝」の霙を降らせる空もリアリティーがありますが、遷子のこの句も、賢治の詩句に劣らぬ現実感を持って私に迫ってきます。そうして、この句の表面に出ない遷子の思いを想像するという楽しみを得ることが出来ます。ですから、私はこの前書きが無かったらなーと思ってしまうのです。

中西:雪がくろぐろと見えることがあるという窪田さんのご指摘は、貴重なものと思いました。多分遷子も何度となく、そうした逆光の黒い雪を見てきたことでしょう。多分このくろぐろと見える雪片は窪田さんのおっしゃる逆光の雪を想定して作られていると思います。しかし、私には、やはり心理詠としてこの句があるように思われます。それは、「ひと日」とあるからなのです。心の晴れない沈んだ一日を描いていると思われるからです。空は遷子の心そのものの比喩でもあるようです。断続的に黒い雪片が心に積もっていくのです。そして心を埋めていくのです。

私も、雪片という言葉を始めて目にした数年前は、こんな言葉があるのかとおどろきました。私が知っているのは、高野素十の「雪片のつれ立ちてくる深空かな」という昭和8年に作られた句です。素十の第二句集『雪片』(昭和27年刊)の題名ともなったものです。『山國』の序文に秋桜子が「次の会の兼題が出て、その例句を先輩の一人が遷子君にたづねた。すると遷子君は控え目がちに十句ほどをあげたが、それが古今に通じ、且つ各派に亘っているので、私は実におどろいた。さうしてこの様子では、先輩達はいつも例句を遷子君にきいてゐるのだと思った。」とありますから、たぶん遷子も素十の句は知っていたかもしれませんね。

この句は昭和20年2月に作られています。いつ終るとも知れぬ戦争の暗さと、死病と言われている結核に罹ってしまった不運がこのような心境にさせたのでしょう。

遷子は一流ではないかも知れないが、と筑紫さんは書かれましたが、わたしも物の形象化の弱いところ、句の面白味の点からから言えば、一流と言えないかもしれないと思いました。しかし、人の心に訴えかけるものがあるように思われます。これは共感させられる点にあるかとおもうのですが、心情を素直に表わしています。自分をよく見ています。よく見ただけでは句にはならないわけで、自分を描くという苦しい作業をしているわけです。そして描かれているものが、逆境にあってもそれなりに理想的な生き方を見せてくれる、清い、澄んだ精神を見せてくれているところにあるのではないでしょうか。

その高い精神性に我々は共感して、遷子の作品に感動しているようです。人間のドラマは、鈴木真砂女や、山頭火などの波乱万丈な内容ばかりではなく、その精神性に大きなウエートがあることを遷子の作品が語ってくれているように思います。

原:眼の高さで見える雪は白いのに、空を背景にするとどうしてあんなに薄墨色に見えるのか不思議でした。科学的に説明のつく現象と聞かされても、今も不思議な気がします。雪雲に覆われた空から落ちてくる雪を見上げていると、頭上はぼんやり黒い雪の点描そのものになって、見ている自分の存在も消えてしまうようです。

掲句、「雪」ではなく「雪片」であることが現実感をもたらすという窪田さんの指摘は大事ですね。実景としての確かさが心象句を支えるのでしょう。「くろぐろと」は、雪の状態のみならず、この一日の時間経過を含んで、作者の鬱とした心に通じてきます。

ただ、遷子自身は景に思いをダブらすという作句上の意識はあまり無かった人のように思われます。読み手が感じとることの、それはそれとして、作者本人は至極直截に景を述べる作風と印象されるのです。

もっとも、心象句といわれるもの自体、作り手が狙ってするのではなく、読み手の鑑賞の中で受け取られることが多いのでしょう。たとえば芭蕉などは凝った前書によって、一句を芸術的に仕立てる狙いがありそうですけれど、遷子の場合は、ここでの「病中二句」の前書も、たまたま或る日或る時の状況という、単なる記録以上の意味はなさそうです。この前書きが良かった悪かったか迷いますが、日々の暮らしの中の一状況という性格は強く残りますね。

このような遷子の傾向はひょっとすると「遷子は一流の俳人ではないかも知れない」との、磐井さんが提起された問題とも関わってきはしないでしょうか。前書に限らず、一句の中の言葉が、普遍性を求めると言うよりはより多く現場主義的である、という意味で。

はやばやと結論を出すようでためらいますが、遷子は上質の二流という気が私にはしますけれど、では一流とは何をもって言うのか、上質とは何を指すのか、表現技術と生きる姿勢との両面から見えてくるものに待ちたいと思います。

深谷:確かにリアリティのある句だと思います。私も数年ほど雪深い北国に居住していた経験がありますが、窪田さんと同じ実感を持ちます。そして「ひと日」という措辞からは、朝から暮まで雪がついぞ止むことがなかった一日の重苦しさが伝わって来ます。雪が明るい太陽の日差しを遮る厳しい冬が、そこにはあります。

さて、実景であると同時に心象句である、という窪田さんの指摘はその通りだと思います。波郷も、『山國』の跋でこの句を採り上げ、「著者本来のものの秀れた作例であって、この句は古典の格調を斥けているのである」と評価しています。そして、後に激賞する、「郷国の自然風土の中に、自らの境涯的人間を投影した」一連の句の先駆けというべき位置を占めている句だと考えます。要すれば、「客観写生」と「境涯性」という両立困難な命題を止揚した、ということなのでしょう。そして、それをどの次元で実現したかということが大事な問題で、一句の成否はそこに懸かっているのだとも言えます。その意味で、このスタイルの句を遷子は『山國』以降も生涯作り続け、高い次元での完成を追究しています。

おのがじし負ふ影深し月の稻架  『雪嶺』
炎天のどこかほつれし祭あと  『山河』

ところが一方では、波郷に評価されなかった境涯性の勝った、あるいは心の内を率直に語ろうとした句が『雪嶺』以降、顕著になります。こうした句は、叙法も洗練されていないかもしれませんし、平板だと評され兼ねないのかもしれません。その辺りが、前回述べさせて頂いた「遷子は『一流の=巧緻な』俳人ではないかもしれない」というテーマに繋がっていくのでしょう。しかし、そうした句に私は惹かれます。

なぜ遷子はそのような道を選んだのか。少なくとも、別な道を選択するスキルを既に有していたことは、前掲の幾つかの句が証明していると思います。遷子の、句作スタンスの根底にあるであろう、その理由や背景を、この研究会を通じて自分なりに考えてみたいと思います。

筑紫:『草枕』は遷子の第1句集ですが、『山國』の中に112句が抄録されています。私たちは、『山國』の中の「草枕抄」から引用するだけですので、本当は『山國』と表示しなければならないはずですが、窪田さんは佐久市立図書館「相馬遷子文庫」に行かれ『草枕』を直接読まれていると言うことですのでこの表示で差し支えないはずです(後から伺うと、窪田さんは4句集をすべて持っておられるとのことでした)。

「草枕抄」の構成は、「草枕」、「大陸行」、「蝦夷」の3章からなっています。「草枕」(昭和11年~15年)は国内の名勝を探訪する作品が多く

瀧をささげ那智の山々鬱蒼たり

の句に代表されるような、のちの高原派に匹敵する章となっています。

「大陸行」(昭和16年・17年)は軍医見習士官として召集を受けて戦地を転々とする戦争俳句の章となっています。この点について関係ないように見えますが、少し補足をしておきます。当時、河野南畦が編纂し海軍省の許可を受けて出版寸前にまで到った『大東亜戦争俳句集』稿(昭和18年8月)【】に次の句が載っています。

銃音やさだかに秋の到りけり  相馬遷子
渡らむと馬を控へつ蝌蚪の水

後者は「草枕抄」に載っていますが、前者は見あたりません(句集『草枕』にもないようです)。一応平和主義者の遷子の俳句もこうした戦争俳句に位置づけられていることは知っておくべきでしょう。

「蝦夷」(昭和18年~20年)は病を得て除隊、本土に戻り、市立函館病院内科医長として務めた時期の作品で、波郷の「著しく境涯的」といわれるものです。

このように見ると、その後のそれ以降の『山國』(高原派)、『雪嶺』(社会意識)、『山河』(闘病)の主題を「草枕抄」はほぼ先取りしているように見えます。

前置きが長くなりましたが、掲出の句は「蝦夷」の時代、健康に不安を感じつつ生活を送っていた中での作品であり、『山河』と重ね合わせてみることができるようです(心のゆとりはずいぶん違いますが)。

今回のコメントはそれぞれ充実したもので驚きました。

①中西さんの、素十をはじめとした先輩の作品の勉強ぶりと高い精神性
②原さんの、前書きなどに見られる単純な記録性と遷子の現場主義
③深谷さんの、波郷に評価されなかった境涯性の勝った句への遷子の志向

遷子の生の意味と表現についてまじめに考えているコメントに敬意を表します。私自身、それぞれの問いかけにはじっくりと考えてみたいと思いますので、今回は軽々なことは控えようと思います。ただ、一つ、「くろぐろと」雪が降ることについて、みなさんが解説されているとおりと思いますが、私は、すこし違った例をあげておきたいと思います。それは狂言「木六駄」で太郎冠者が、雪の中を馬を駆らせながら「降るは、降るは。真っ黒になって降るは」と独白する情景です。雪が黒いのではなく、下から雪雲を見上げると明るい雪雲を遮って暗い塊となる雪片は、実は、室町時代の人々の見た実風景だったというのは凄いことではないでしょうか。――窪田さんの宮沢賢治との比較を読んで、いつもと違って、遷子の表現について今回は述べさせていただきました。

】超結社の戦争俳句集としては、ほかに次のようなものがあります。
俳句研究「特集・支那事変三千句」昭和13年11月
俳句研究「特集・支那事変新三千句」昭和14年4月
俳句研究「特集・大東亜戦争俳句集」昭和17年10月
吉田冬葉編『大東亜戦争第一俳句集』昭和18年10月

       *       *       *

筑紫:ところで「遷子を読む」も6回目を迎えましたが、一番最初に中西さんにこの企画を相談したのは、昨年、現代俳句協会で遷子と関係の深かった福永耕二の講演をした後、お酒の席だったと思います。それ以来、準備に時間がかかったような気もしますし、一方で意外に順調であったような気もします。始まってからメンバーにはずいぶん鬼のような督促をしてしまっているのではないかと反省していますが、おかげさまで遷子像も段々浮かび上がってきました。最初にご相談した中西さんにこの連載の感想をお伺いしたいと思います。どうでしょう。

中西:「遷子を読む」、面白くなりそうですね。それぞれの思いが伝わってきます。何回か前に磐井さんが言われたように、確かに作り物は見えてくるようになりました。

今まで俳句は技法だと思って来ましたが、去年角川女流俳句のために読んだ芸者竹田小時さんも、今回の相馬遷子さんも、自分を飾らないで詠った人で、嘘がない誠実な作りを見せていただいています。

ゆっくり付き合っていけばいいということで、急がず皆さんの選んだその句の近辺から読んでいき、後でつなぎ合わせるということで、はじめはやらせていただきます。

深谷さんの「遷子に出会って自句の作り方が変わった」という自己紹介はあの評論を読んで、納得しました。

わたしも自分を見詰めるという良い機会を戴いたような気がしています。

筑紫:そうなんですね。何でいまさら遷子かという疑問もあるでしょうが、現代の俳句に決定的に欠けているものがあるとしたら、まずそうしたものを再度考え直してみたいというのは当然のことだと思います。お互い、かっては若手といわれていましたが(笑)、相応の年をとってくると、今まで知った俳句を再点検してみたいという気分もあります。現在の若手には将来いろいろ可能性があるのでしょうが、彼らに遷子のような俳句があったことはなかなか見えてこないでしょうから我々がやらねばならないことではないかと思います。

中西:遷子研究は地味かと思いましたが、実作者としての自分を見詰めなおす機会を与えられたような気がしました。

遷子を見ていますと、秋桜子の真似から始まって、鶴の仲間と句会をしていた北海道では、鶴の作り方になり、馬酔木の高原派と言われた時代は馬酔木調になり、またすこしずつ鶴調の境涯派的な詠い方となって、終ります。詠いたい内容と仲間によって、詠い方が変わってきたと考えていいのでしょうか。

筑紫さんは独りとなったときどう詠むかを問題にされていましたが、それは癌になってからのことを問題にされているのですか?

筑紫さんは誰もが独りになることがあるということをおっしゃりたいのですね。

そのときのための研究と考えてもいいですか。

筑紫:おっしゃるほどにはあまり、深刻には考えていません。ただ、最近、多くの先輩俳人が亡くなっていますが、亡くなった途端に忘却が始まっています(能村登四郎、草間時彦、波多野爽波、上田五千石。済みませんが中西さんの先生の藤田湘子もそう見えます)。生前の人気が嘘のような扱いとなる例を沢山見ています。お弟子さんは別として、俳人たちはクールなものです。

私の同期の正木ゆう子や中原道夫も亡くなったらそうした人が生きていたことを語るのは同期の仲間たちだけかも知れませんね。そういうものだと考えたときに、多少俳句の考え方、作り方も変わるかも知れませんね。そんな時に遷子の生き方は参考になるのではないかと思います。正面から面を打ち込んでくるような詠み方、生き方ですから。

豈weeklyでは「銀婚で盛り上がっている(遷子を読む(3))あたりに、皆様の年齢的な感慨も出ていようかと、ミーハーなところでも楽しませていただきました」と管理人氏から若干揶揄気味の激励をいただいていますが、まああまり気にせず、仲間内で盛り上がりたいと思います。ブログとしてあまり読まれなくても、研究の蓄積は着々と進んでおり、それこそが同人雑誌に出自を持つブログの意義だと思います。平成12年以降商業誌に遷子論が出た痕跡がないなかで、誰にも読まれないしかし立派な仕事が進んで行くわけです。
どうも有り難うございました。

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