2009年4月19日日曜日

遷子を読む〔4〕

遷子を読む〔4〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

春の町他郷のごとしわが病めば

    『山国』所収

中西:前書きに、「わが陳き病再燃悪化せりと思はれ心痛甚しかりしが、受診の結果は概ね杞憂なりしこと明らかとなる。」とある五句の中の一句です。

遷子はこれまで戦中と戦後すぐの二度、病気療養をした経験を持っています。再燃とありますから、同じ病気とみることができますが、この時は妻にも病気のことは告げていません。

梅咲くや家人にも告げぬわが病

とあります。

往診に病む身を駈るや雁帰る

というのもありますから、病と言っても寝込んでしまったわけではなさそうです。だるそうだけれど、働いているという状態なのでしょう。

哀しい句です。往診に出た故郷でもあるこの町が、どこかよそよそしく見えたのでしょうか。少々厭世的になっていたのかもしれませんね。

梅も桃も桜もいっぺんに咲く佐久は、長野県でもっとも寒い地と言われるところですが、花がいっぺんに咲いた春の町の美しさは言いようもありません。幸せな気分にしてくれる時なのです。この「春の町」はそんな陽気なまちのことです。いつもなら、いい気分でいるこの時期を、今年は味わえないでいるのです。医者であっても、自分の病気に対しては弱気なのですね。そんな遷子の真実がふっと句から窺えます。

原:佐久の冬の厳しさはかなりのものだそうですね。山々に囲繞された長い冬の閉塞感から一気に解き放たれた春の開放感は、百花がいっせいに咲き揃う美しさとも不可分であるのは、中西さんのお話からもよく分かります。そのような春を喜ぶ周囲の気分と裏腹に、重い心を抱えて町の中にいる。親密なはずの故郷の町なのに、ことごとく無縁のもののようにしか眺められないほどの屈託です。

このときの病気は幸い杞憂に終わったわけですが、出征中に胸膜炎を患って以後、頑健とは言えない身体で医師という加重な仕事をこなしていたのでしょう。

この句からはやや離れますが、遷子が故郷をどう感じていたのか、文章と句からいくつか拾ってみます。

小春日や故郷かくも美しき 『山国』(草枕抄)

小学5年の時には佐久野沢の地を離れた遷子が故郷に戻ったのは敗戦後の昭和21年。「信濃へ」の前書を持つこの句は函館から佐久へ帰りついての感慨。手放しの故郷讃仰には、安堵の思いが重なっているようです。一方、

(佐久の人の)人情は果たして如何でせうか。久しぶりに帰住した私にとつては、稍期待を裏切られた感がありました。自分自身のことを思ひ合せてみましても、大方世人の七割八割は、金があれば或る程度善人になり得るのではないでせうか。恵まれぬ経済的環境といふ事も、よほど考慮に入れねばならぬと思はれます。」(「佐久雑記」)

この文章からは、当時の佐久の地の経済的困窮がうかがわれます。ほかにも、

寒雀故郷に棲みて幸ありや 『山国』
見わたせど倖はなし梅雨の山河 『山国』

などの句が散見されますが、遷子のこのような故郷への認識は、以後の風土詠にも関わってくると思われますので、押さえておきたい点です。

深谷:この句で、つい注目してしまうのは「他郷」という措辞です。遷子が佐久に帰郷するまでには、戦時中の中国大陸での従軍経験、さらには戦中から終戦直後にかけての函館病院勤務時代があります。いずれも辛苦に満ちた生活でした。その函館時代には

煮凝や他郷のおもひしきりなり

という句を作っています。函館では斉藤玄などと交流があったにせよ、やはり「自分が居るべき場所=故郷」から遠く離れた土地であるとの心情がどうしても胸中を過ぎったのだろうと思います。そうした困難を乗り越え、ようやく果たした帰郷であり、帰郷後最初に詠まれたのが原さんも指摘された「小春日や故郷かくも美しき」です。そして地域医療の最前線に立つ佐久の生活は多忙を極めたものの、患者たちと日々接触を重ねるにつれ故郷への愛着は日増しに強くなっていき、その風土をそこに生きる者の眼をもって詠み上げた句が 『山国』の後半部には数多く登場します。要するに、その生涯を象徴するかのように「他郷」と「故郷」が対照を成しているのです。

そして掲句では、遷子にとって「まさに自分が居るべき場所」だった筈の故郷の町が急に余所余所しく感じられたというのですから、抱いていた心痛は尋常なものではなかったろうと思われます。もちろん、医師として自身の病変に対する正確な把握はできたのでしょうし、中西さんが指摘されたように闘病体験もありましたので深刻の度合いは深かったのでしょう。時あたかも春という、生命賛歌に溢れる筈の季節であるが故に、その心痛は一層際立つものとなっています。

窪田:ドラマを感じる句です。それも疎外感を伴うドラマです。遷子は自らが病を得た時、はたと思ったのです。患者を診る時の冷静さと、今の自分は違うことを。医者である時、患者は医者と二人であるような安心感をどこかに抱いています。しかし、医者である遷子は、その経験から病気と直に向き合うことになります。それはとても孤独な状況です。患者と医者という関係も成り立ちにくいからです。現に亡くなる寸前になって

医師脱けし患者とならむ今年より (昭和50年)

と詠んでいます。人は勿論、産土である佐久の春の景色でさえも自分を慰めてはくれません。人間が一番耐えられないことは疎外感だと私は思います。「春の町」であるが故に、下十二音が強く読者に迫ってくるのです。

筑紫:『山国』は、巻頭に秋桜子の序文を据え、「草枕抄」と「山国」の2つの章を設け、最後に石田波郷の跋を置いたスタイルで昭和31年に刊行されており、典型的な馬酔木の句集のスタイルを採っています(昭和29年に刊行された能村登四郎第1句集『咀嚼音』も同様です)。「草枕抄」と「山国」とに分けたのは、昭和21年に出された第1句集の『草枕』を抄録したからです。「草枕抄」の時代は遷子が俳句を始めた昭和10年年直後から、召集されて中国大陸にわたっての従軍生活、途中罹患して函館の病院に職を得て医師としての生活を送る期間の、必ずしも明るくない青春から壮年時代と言えます。「山国」の時代は、故郷佐久に戻り医院を開業し、地域医療に従事する一方、馬酔木の若い世代とともにいわゆる高原派と呼ばれる明朗清澄な自然詠に目覚めて一時代を築いたのです。

掲出の句は昭和31年の作品で「梅雨の牧」の小章の中に収められています。堀口星眠、大島民郎、岡谷鴻児らが高原俳句に志向し始めたのが昭和24年頃、遷子も26年頃からその傾向を作品にあらわにします。『山国』では「山国」の小章がその始まりと思われます。27年には、彼らは秋桜子、波郷を軽井沢に迎えて吟行を行い、そのピークを迎えています(昭和31年には彼らの句文集『自然讃歌』も刊行されています)。このように見ると、掲出の句は、すでに高原俳句が十分な成果を収めたあとの、次の時代(『雪嶺』時代)への移行期の作品であることが分かります。

とはいえ、こうした憂愁は、高原俳句よりももっと遷子にとって基調をなす俳句であったようです。例えば、その前に、

妻病めばいや山国の春遠し 昭和28年

があります。病者が自分か妻かという差はありますが、似たような憂愁を詠んでいる点で共通していると思います。病を中心にして自然や社会が遠のいて見えるという心象を語っているからです。そしてこの時期が、高原俳句の絶頂期であることは、いかにこうした心情が遷子の本質に根ざしているかを物語ってくれているようです。

深谷:筑紫さんが初回に提起され、前々回に補足された「遷子は、虚子や龍太のような『一流の=巧緻な』俳人ではないのではないか」という問題については、小生も以前から考えてみたいと思っていました。皆さんも御存知のように遷子の句はどれも平明な表現を用いており、難解な句はほとんどありません。それでいて静謐な味わいが読後に残ります。前回提示させていただいた「銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ」などはその典型だと思います。確かに、こうした作風は一歩間違うと通俗なドラマ或るいは心情吐露に堕してしまう危険性を内包しているのかもしれません。それでもそうならないのはなぜか。何が格調を維持させるのか。そのことを、この研究会を通して少しでも自分なりに納得できればと考えています。こうした問題意識は、筑紫さんが初回に提示された三つの命題と重なっている部分もあるでしょうし、ずれている部分もあるかもしれません。議論の混乱を招いてしまうことになれば申し訳ないのですが、自分自身の問題意識を鮮明にさせるためにも、敢えて書かせて頂きました。

筑紫:遷子の俳句が一流でないかも知れない、という危惧は、今回の句にも現れていると思います。この句の詠法はどう見ても短歌のそれに近いようです。抑制や省略や、さらには不言を活かした俳句の技法ではないようです。もともとそれは、師の秋桜子の影響を受けていることは間違いありません(秋桜子は窪田空穂に短歌を学び、初期の馬酔木の作風は万葉調と呼ばれました)が、それ以上に遷子には志を述べる欲求が強かった、その影響が出たのであろうと思います。ただ、虚子や龍太が簡単に見捨ててしまった「志を述べる」欲求を本当に捨ててしまってよいのかどうかは大いに疑問です。遷子は志を述べずにはいられなかったわけですし、だからこそ、「冬麗の微塵となりて去らんとす」という句を詠むことができたのだと思います。「冬麗」の句は技術から見れば多分未だしと虚子や龍太は言うかも知れませんが、この句は俳句表現に魅力があるのではなく、むしろこの句の持つ「響き」が我々の胸を打つのだと思います。斎藤茂吉が「衝迫」といった力を、虚子や龍太以上に持ったのが「冬麗」の句でありました。衝迫は客観写生からは生まれません。情をこめた、毎日の表現から生まれます。掲出の句は、衝迫に高めるための日々の感受性の陶冶のような記録であったように思われます。今回の句も、ぎりぎり、感傷に堕さない秘密は作者の継続した心の持ちようにあるように思うのです。心弱い私には、永遠に遷子の詠み方はできないでしょう。

深谷さんからは私の素朴な疑問に答えていただき、的外れでなかったと心強い思いでいます。遷子の研究をしながら「遷子の俳句が一流でないかも知れない」と問うのは、本末転倒のように見えるかもしれませんが(なぜそんな風に思うなら遷子研究などするのかと疑問が湧かれるかもしれません)、むしろそれだけ真剣に、遷子や俳句を考えようとしている姿勢の表れと考えていただきたいと思います。いずれにしても、この件についてはじっくりと考えてみたいし、皆さんのご意見を伺ってみたいと思います。

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■関連記事

遷子を読む はじめに・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

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遷子を読む〔3〕 銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

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1 件のコメント:

さんのコメント...

「相馬遷子研究」の核心トハ?

筑紫磐井さんの呼びかけで作られたというこの読書会は、かなり本格的な馬酔木系列の研究になりそうな気配がしていますね。磐井さんめづらしくまともで(笑)、俳句表現における「こころざし」のことを書いておられるので、今後注目します。

ここに出てくる遷子の句はどれも、したしみやすくて、私などは好きなのですが、こういう生活情緒に流れる俳句は、「通俗すれすれ」とかぎりぎりで二流を免れる、とか、やはりそういう基準のなかで思われているのですか?磐井さんの「一流」の定義は微妙ないい方ですね?

拝見しながら遷子のことを学んでゆくつもりなので、無知ゆえのピントはずれになるかもしれませんが、ひとつ私の感慨を呈しておきます。
もちろん、これは、答えてくださいなどとという類のことではなく・・、今回の話題を読んでいると、どうしても想いがそこへのびてゆく、と言う意味の感想です。

というのは、堀辰雄の小説『風立ちぬ』を思い浮かべるのです。これは、信州のサナトリウムが舞台の結核にかかった男女のものがたりですが、自然描写がすごくうつくしく、そのいわゆる信州の風光が一種の生命のシンボリズムになっている様な気がします。
遷子も軽井沢に住んでいて、病気だったのでしょう?こういう境遇の作家精神には、自然の美しさ、とくに高原のような景観はすごく影響するところがあるとおもうのです。
遷子は、そういう形での精神と自然の融合のような境地をもとめていたのでは?

 もちろん、「馬酔木」ですから秋桜子の「自然観」を学んではいるのですが、また活動時期が全く違うとしても、堀辰雄的な自然の象徴化、が戦後まで流れているとか。こういう方向もひとつ考えられないのでしょうか?

などと、とりとめなく感じながら読ませていただいております。次回をたのしみにしています。