2009年5月17日日曜日

遷子を読む〔8〕

遷子を読む〔8〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

寒うらら税を納めて何残りし
    『山国』所収

深谷:「天為」200号記念の評論にも書かせて頂きましたが、遷子は税務署を題材とした句を幾度も作っています。この句は、その初出のものであると同時に、社会的事象を採り上げた一連の句の先駆けと言ってよい句だと思います。そうした社会的事象を採り上げた句の例を挙げれば、

愛国者国会に満つ日短き  『山国』
着膨れて金貯めて欲つきざるや  『雪嶺』
慇懃に金貸す銀行出て寒し  『雪嶺』

そして、それらの句は医師俳句の延長上にあるものであり、決してイデオロギー的関心から出たものではないことも既述の通りです。そうした一連の句の象徴あるいは代表として、この句を十句に選んだ次第です。

さて、句意は平明です。山国の医師として僻地医療に奮闘し続けた一年を総括するように納税期がやって来ます。患者の生命や健康を守るべく奮闘した遷子なのでしょうが、税金を納めた残りの収入はその粉骨砕身振りからすれば微々たるもの。お金を稼ぐのがことだけを目的に働いてきた訳ではないのでしょうが、何ともやるせない想いが胸に去来した筈です。暗い税務署を出れば、外は冬晴れの好い天気で、虚しさを一層際立たせます。税務署は国民生活を顧みない国家権力の象徴なのかもしれません。

概ねこういったところなのでしょうが、「寒うらら」の斡旋がどうか、人によって評価が別れることと思います。とりわけ、巧緻性を第一義とする立場からは「平凡」「近過ぎる」「飽き足らない」といった声が聞こえて来そうです。そして、そうした傾向は遷子俳句全般、なかんずく医師俳句、家族俳句に顕著に表れていると思われます。しかし、それは本当に瑕(きず)なのでしょうか。名句として後世に残るには、もっと効果的な措辞があるのかもしれませんし、作品の巧緻性は上がるのかもしれませんが、格あるいは骨太さはどうでしょうか。読む者の胸を打つ人間性を素直に伝えるには、こうした率直な措辞の方が相応しいような気がします。贔屓の引き倒しになっている懸念も感じていますので、皆さんの率直なコメントをお聞かせ頂ければ幸いです。

中西:医院を開業して、初めての納税したときの句ですね。それまでは月給をもらっていたわけです。深谷さんのおっしゃるとおり、一年働いて税を納めた後、残ったお金の少なさに落胆しているのでしょう。月給をもらっていた頃は税の重さをこれ程感じていなかったことでしょう。色々な目に見えない経費を払い、汗水かいて働いた割に、然程多くもない収入。それに思ったより高い税金がかけられたのです。この理不尽さが、現実的に身に迫って来たようです。このあたりから社会的事象を取り上げたというご指摘、鋭い観察眼と思いました。

同じ『山国』に

陳情の徒労の汗を駅に拭く
陳情の旅に日暮るる走り梅雨

という陳情の句が二句あります。人々の代表となって陳情に出かけていっている様子が伝わります。自分を嘆いているのではなく、社会を嘆いているのがわかります。税を納めた句より、もう一歩社会への貢献が進んでいることを窺わせています。

遷子は俳句を人生そのものを描くものとして扱っていることを、これらの句からも感じ取ることが出来るように思います。その時その時、何を考え、何を為したか、それを丁寧に俳句にしているのだろうと思います。生活の句を主旋律とすると、風景の句は第二旋律、あるいは伴奏と言えるかもしれませんね。だんだんそんな風に思え始めました。

原:前回の2句、詠風の違いについて皆さんの突っこんだ解釈・鑑賞はうれしいものでした。遷子の自然詠、郷土詠の性格を考える上で貴重な示唆を頂きました。

さて今回は対照的に、日常生活を率直に詠んだ句です。磐井さんのご指摘のように、遷子作品に社会批判が目立ってくるのは『雪嶺』に至って顕著ですが、この句ではまず己個人の生活を虚飾なく見つめる眼がありました。これは遷子の、社会に関わる一個人としての真摯な姿勢があってのことでしょう。「馬酔木」の年少の仲間だった堀口星眠氏は、遷子の「開業当初の苦闘」について、「直面し避けずに詠んでいるところが立派であった」と書いています。さらに続けて、

正月も開業医われ金かぞふ

を取り上げつつ、

晩年自分の死を見つめた『山河』の句に通じる遷子の本質を見る思いがする。己とは何か、己の性とは何か。透徹した心境でそれそいつも内省し、見つめていたのである。(「詩人の生涯覚書」)

と記しています。まさに知己の言というべきでしょう。ここに付け加えることはほとんどありません。

納税手続きを終えて外に出れば、そこは冬ながらも明るい日差しの中、思わず口をついて出た言葉だったのでしょうね。このように、一事象つまり或る日の出来事とでも言うような作品の場合、実際の有り様(「寒うらら」はそのままこの日の天候だったのでしょう)を置くことで現実感や臨場感が伝わるような気がしています。読み手は作者の体験を体験のまま受け取ってうなづきます。

窪田:深谷さんのコメントに何も付け加えることはありません。イデオロギー的関心から生まれたものではないという指摘もその通りだと思います。季語の斡旋についても同じ意見です。しかし、この句だけに関して言えば、季語をどうしようとこの素材で名句になるとは思えません。一連の句を読む中で遷子の人間性、医師としての生き方が伝わってきて胸を打つとは思いますが。

私はこの句が『山国』の最初の方にあることに注目しました。故郷の佐久に帰って、開業したばかりの頃です。

二日はや死病の人の牀に侍す 
風邪の身を夜の往診に引きおこす
四十にて町醫老いけり七五三
寒雀故鄕に棲みて幸ありや

掲句は「寒雀」の句の直後に置かれています。自らも病を抱え、故郷といえど慣れない土地での生活、往診と遷子の精神状態は大変なものだったと推測されます。また、戦後の生活苦の中で治療費もまともに入ってきたとは思われません。思わず掲句のような呟きも出るでしょう。それでも、患者に対し変わらぬ真摯な態度で遷子は一生涯臨んでいたのです。技巧を感じさせない遷子の句の魅力は、その人柄、生き方の表れだと思います。

筑紫:今回は各人が、いわば遷子が社会性に目覚めて行く過程を追っていかれています。「税を納めて何残りし」に不満の意が現れているのは間違いありませんが、しかし国の課税のむごさに憤っているとばかり見ると、それこそカッコ付きの「社会性俳句」になってしまいそうな気もします。遷子にとってこうした社会環境がどのように受け取られ内部化されていったかも当時の遷子自身の立場においてみて考えたいと思います。例えば、

往診の夜となり戻る野火の中  『山国』「花林檎」

「往診の夜となり戻る」に無医村の部落部落をまわって歩く医師の徒労の無念さを詠いその背景に野火があると見るか、仕事をして遅くなり「夜となり戻る」と見えてくる「野火」を呆然として見つつ、その中に往診で見てきた様々な患者の顔が去来する、と見るかです。

遷子にイデオロギーがあれば前者のような解釈がたちどころに成り立ちますが、自然ないし故郷の讃美の俳句から次第に社会的な意識に目ざめてくるとすればむしろ後者のような解釈から進むのが適切だと思います。それは、「野火」の句と同じ構成ながら後者の方の読みを強いる、

学校医疲れて戻る夕さくら 『山国』「秋郊」

などを読むと一層それが感じられるのです(もちろんこの句はやや月並みですが)。深谷さん、中西さんがあげている、

陳情の「徒労の汗を駅に拭く」
「着膨れて」金貯めて「欲つきざるや」

の句も、先ず「」の中が先に出たと考えると、――馬酔木俳句から見ればやや異端ではありますが、分からなくはない俳句だと思います(「馬酔木」は何も耽美的な俳句ばかりではありません。ネガティブな抒情までは許容されていたようです)。掲出の句は、こうした遷子の主情性の抑制が利かなくなり「陳情の」「金貯めて」の語をはさんだものだと思います。しかし、「抑制が利かなくなる」ことこそ遷子の特徴であり、私が遷子に限りない魅力を感じるところでもあるのです。抑制された芸術なんて、たぶん最低でしょうから。

「寒うらら」税を納めて「何残りし」

は「税を収めて」が抑制を外れてほとばしった語ではないかと思います。ただ、境涯俳句時代のこの句は、基調をなす「寒うらら」「何残りし」はやや抒情的でべたついている感じがしなくもありません。「陳情の」「着膨れて」の句の冷静さにくらべて少し発展途上のような感じもします。

やがて、「抑制」の意識を外して、自らの主観を自由に主張し得るようになったとき、遷子独自の、――馬酔木俳句ではないユニークな世界が生まれたように思います。私はそれをある意味では「イデオロギー」といっていいともいます。それは態度・姿勢から生まれた独自のイデオロギーであり、外で生まれた特定思考の押し付けではないからです。しかし、これについてはまた改めて考えてみたいと思います。

ところでもう一つ。掲出の句の解釈として、税を納めて何も残らなかった、つまり税引き後の所得があまりにも少なかったと読むのは少し残念な気もします。遷子は、誠実(まじめ)なだけに自虐的な作家であっあったのではないでしょうか。例えば、

蝌蚪見るや医師たり得ざる医師として 『山国』「秋郊」

の句などに必要以上の自己への低い評価を感じてしまうのです。「何残りし」には税引き後の所得だけではなく、自分が社会に対してなした業績の評価も入ってしまっているような気もするのです。といいつつ、――これは私が、前回、自分自身に対して課した「過剰な鑑賞は慎みたい」の禁を犯しているかも知れないと反省しています。

       *       *       *

遷子のまじめさをものがたるエピソードは多くあります。なくなる直前の昭和50年の「俳句」7月号から3ヶ月間「現代俳句月評」を担当し、その8月号で遷子は次のような批判を角川源義に対して行っています。

襖絵の酒呑童子のどけしや  角川源義

「俳句」六月号、<花の丹波>三〇句より。

六月の特別作品はいずれもあまり感銘を受けない。折しも梅雨の候であり、しかも筆者は一旦治った肝炎が再燃して意気銷沈しているので、そのせいかとも思つたが、そうでもないようである。・・・・

源義は一誌の主宰者だが、何人も知る如く角川書店の創業者であり、俳壇に隠然たる勢力を持つている。そして社会的成功者の常として覇気満々のように思われる。筆者はつくづく思うのだが、こういう境涯は、俳人としてはむしろ不利なのではないか。誰も面と向つて悪口を言わないし、厳しい批判は避けるだろうからである。

加えて遷子は源義が「俳句とエッセイ」誌上で行った能村登四郎に対する批評が、皮肉たっぷりであり、高飛車であり、あまつさえ登四郎の句を徹底的に添削している非礼さを批判しています。そして続けます。

筆者は登四郎が同じ結社だから反発しているのではない。登四郎は「馬酔木」同人としての義務だけはきちんと果たしてくれているが、こころは自分の主宰する「沖」にあることは当然だし、個人的なことを言えば筆者の作品など昔からあまり認めてくれない人である。それに反して源義は筆者の俳人協会賞の時、口を極めて賞めてくれた。それに対して叙上のようなことを言うのは甚だ心苦しいが、思つたことを正直に述べてみた。源義が虚心に受取つて呉れることを願う。もしすべてが筆者の見当違いであるならば誠に幸いである。

俳壇権力の中枢にいた源義に対してよくここまで言えたものです。特に(源義の牛耳る)俳人協会系の作家としては、ことによっては致命傷となる批判とも思えました。

当時「馬酔木」の編集を行っていた福永耕二には、原稿を送った後「僕ももうあまり残り時間がないし、俳壇に野心があるわけでもないので、思ったままを書くことにしました。」と電話があり、また雑誌が発刊された後は「1行だけ削られました。よくあれが載りましたね。あれは編集者が立派です」と電話があったそうです。源義はこの月評記事に対して激しい反論の手紙を何度か寄せたそうですが、10月17日死去しました。その後を追うように3ヵ月後に遷子も亡くなります【注】。彼らにとってこの半年は、まさに最後の生命の燃焼の時間であったはずです。

連載の「現代俳句月評」の末尾は次のように書かれています。おそらく遷子の絶筆といえるでしょう。短いが遷子の最後にふさわしいことばであり、文字通り赤心の人であったといえるのではないでしょうか。

三ヶ月にわたる月評をここに終わる。途中で病気になつたので、ただでさえ乏しい能力が一層低下する仕儀となった。しかし私の述べたことはすべて自分の考えに忠実に従つたものであって、いやしくも為にする様な気持は毛頭なかつた。ただ私の力不足の為の無理解や見当違いが相当あつたことと思う。その為にあるいは不愉快の思いをされた方があるかもしれないが、右様な次第なので、何卒御海容をお願ひ(ママ)したいと思う。

「思つたことを正直に述べてみた」「すべて自分の考えに忠実に従つたものであって、いやしくも為にする様な気持は毛頭なかつた」――こうした益とならない行為を信念をもって行ってしまうことを、態度とか姿勢とか、場合によっては(我々の生き方を律する)イデオロギーと呼んでもいいのではないかと思います。そして俳句の中で、こうした態度を貫いた「伝統俳人」は遷子以外にはいなかったと思います。

【注】福永耕二「相馬遷子覚書」昭和51年6月「俳句とエッセイ」

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1 件のコメント:

さんのコメント...

寒うらら税を納めて何残りし 遷子『山国』」

このような句は興味深いですね。
一種のイデオロギーだという磐井さんの意見に共感します。

イデオロギーというのはどのようにして、生活と文学の野にうまれるのだろう、と言うことですが・・。社会性俳句、は全てがイデオロギー的だったとは言えず、また、すべてが、生活現実の心情の吐露だともいえませんね。思考が成長していったのだと思います。

俳句を詠む過程で。、社会的関心をたかめていったひとに、榎本冬一郎がいますが、この人の句を、「職場俳句」だと、仁平勝さんが何処かで書いていたことを想い出しました。

メーデーの手錠やおのれにも冷たし・冬一郎

この人は、先鋭に市民警察官である自分の現実を読んでいるとは思いますけど、句の言葉という視点からは、実感の方が先に立っています。遷子にも通じる現実感悪だと思います。
ただし、冬一郎は市井人としてはかなりイデオロギー性の強い人だったのでは?

遷子がどういう俳句を詠んだか、ということと、俳人としてどういう社会感覚を示したか、と言うことは、一応べつにかんがえるとして、敢えて感覚に近い抒情になじむ季語を持ってきていて、句意を強調しているところには、言外の何かを感じます。(堀本吟)