2009年5月17日日曜日

大井恒行(加藤楸邨鑑賞)

「俳句空間」No.15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(4)
加藤楸邨「霾といふ大きな瞳見てゐたり」


                       ・・・大井恒行

加藤楸邨(1905〈明38〉・5・28~93〈平5〉.7.3)の平成の自信作5句は、以下。

征きし日の火鉢のことをまた訊(き)かる  「寒雷」平2・6月号
(つちふる)といふ大きな瞳見てゐたり  「俳句」平2・7月号
地震(ない)過ぎの確かにわが目蟻を見し  「俳壇」平2・7月号
梟の目實にしづかなものを見る  「寒雷」平2・8月号
この路次も帰雁の空となる日あらむ  「毎日新聞」平2・11月号

一句鑑賞者は、現「街」主宰の今井聖。楸邨晩年の側近の弟子らしく、鑑賞文の最後に、次のような想像力を働かせている。

「黄沙が降るありさまに、目を瞠っている女性(男性という感じはまったくしない)がいて、作者はその女性を見ている。ゆきふるといひしばかりの人しづか 犀星の視点に似ている。霾るのを見ている人を見ている作者、という構成。楸邨のこの頃の作品には、亡くなられた知世子夫人がよく登場する。それははっきり表現されていなくとも、知世子夫人の面影が浮かんでくる作品が多い。この句もそうである。霾るという楸邨にとっての懐しい風景と、かけがえのない令夫人との思い出、そのふたつが出会ってこの一句を立たしめているのである」

寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃

楸邨は、この「寒雷」という言葉にふれて、自分自身の造語であると述べ、それまでの「『冬の雷』というのでは言ひきれない重苦しい自分の生活気分を詠みたいと思って、寒中の雷を寒雷と詠んでみた」(北日本新聞・昭28・2・1)と言っている。

楸邨門下には、戦後俳句を担った多くの弟子がいる。思いつくままに上げても、金子兜太、赤城さかえ、古沢太穂、原子公平、森澄雄、沢木欣一、田川飛旅子、川崎展宏、久保田月鈴子など枚挙にいとまがない。上記俳人の多くが、社会性俳句運動に参加し、大きな影響を与えた。


楸邨の句には通覧しただけでも、その幅広さをうかがい知ることができるが、戦後、昭和23年に出版された第7句集『野哭』には、敗戦直後の混乱した生活、食料事情を詠んだ句も多い。さらに、社会性俳句の先鞭をつけたような句も多く存在する。例えば、

労働歌鉄扉おもたくおろされぬ  (五月一日)
赤旗へ雲よりふりし燕
革命歌屋上にわき雁かへる
今年竹ゆすりゆさぶり浮浪児か
ストに入らんか冬稲妻は雪に落つ
冬キャベツ雪にころがり示威の列
ユダの徒もまた復活す労働歌

句集後記に、楸邨は「人間としての自分の人間悪、自己の身を置く社会の社会悪、こういうものの中で、本当の声をどうして生かしてゆくか、これが今の私の課題だ。ロダンのように、『片手にたたかひながら、片手に彫刻する』ほかあるまい」と、記している。

その『野哭』へ、僕はある思い出を持っている。僕が20歳を少しでた頃(すでに40年近く以前)のことだ。帰郷した折り、山口市の繁華街、といっても5分も歩けば町は途絶える、そんな小さな町の古本屋の棚に見つけたのが『野哭』であった。確か500円で買った記憶がある。その後、しばらくして、生活費の足しにするべく、俳句雑誌の広告を見て、数冊の句集と『野哭』を抱えて文献書院を訪ねた。店の主人は『野哭』は何冊かあるんですよ・・と言って硝子ケースに並べられている『野哭』を示した(初版定価は95円、古書値7000円近くだった)。そうですね、と頷くしかなかったが、まさか買い取れませんといわれるのではないかと少し不安になった。何しろ、交通費くらいしか所持していないのだから。しかし、主人は他の数冊の句集とともに、結局全てを買い取ってくれ、なかでも、『野哭』には一番高い買値を付けてくれた。3000円ほどになり、ほっと一息をいれることができた。

思えば、「杜甫に『野哭』といふ語がある。唐の乱れた餓莩は道塗に充ちた。訟ふべきものを失つた民衆は野にあつて天を仰いで哭したのであった」(楸邨)ということからすれば、生活をするための費の一部となった僕の『野哭』もまた、切なる何かであったに違いない。時代は、かつてよりもはるかに高度に管理、収奪され、窮乏のために、再び「俳句のみが平静であり典雅でありえなくなつた」(楸邨)状況を迎えているのではないだろうか。

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