2009年5月9日土曜日

遷子を読む(7)

遷子を読む〔7〕


・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


昼の虫しづかに雲の動きをり
     『山国』(草枕抄)所収
晩霜におびえて星の瞬けり
     『山河』所収

原:今回は2句を同時に取り上げて、比較しつつ、各々どのような印象をお持ちになるか伺ってみたいのです。

「昼の虫しづかに雲の動きをり」は「草枕抄」の終わり近くに置かれています。函館病院勤務時代の作。句の順序に従えば、敗戦後、帰郷を考え準備を進めている頃のようです。

静謐な句です。「しづかに」の語のせいばかりではなく、かすかな虫の音を聞きとめ雲の流れに眼を遊ばせている放心のひとときが静かなのです。

私はこのように、風景から或る気分を呼び覚まされる傾向の句は好きなのですが、それにしてもこれは一応の作にとどまるだろうと思っています。10句中にこの句を掲げたのは、実はこれと比較して、次の「晩霜におびえて星の瞬けり」のすぐれた点がよりよく見えてくるように思われたからです。

「晩霜」は春も闌けた時分になってからの霜で、農業には要注意の現象だそうです。農作物の被害が患者たちの生活の逼迫を招くことを、遷子は身にしみて感じていたのでしょう。

霜が降りるような、晴れて冷え切った夜空に仰ぐ星は美しいはずですけれど、このとき遷子の眼には星の瞬きが単なる美しさとは違って映ったのだと思います。星が「おびえる」という表現は擬人法ですが、その表現の背後には他者への共感や思いやりが下敷きになっているのではないでしょうか。

前回「一体化」ということを言いましたが、ここでもまた他者との一体感がひそんでいるように感じるのです。

中西:今回、二句を比較するようにという課題ですが、なかなか難しい問題のようです。まず、1つずつ鑑賞していって、その違いを見てみましょう。

① は、『草枕』の最後の方にある句です。「妻と幼児二人を暫く郷里に託すその前夜」という前書きで

春の霜幼子黙す別れかな

があって、どうも故郷への引越し前に、一足早く妻子を連れて帰ったようです。実は長男が病気になってしまっていたのです。また、

敗戦の最中に病むや秋の虹

つまり自分も病気なのです。そんな状況で、函館でのほんのわずかな独り暮らしのおりに、この句は詠まれました。雲がしずかに動いているのを見ているのですが、これは心の平安そのものの具現化でもあるようです。もう少しすれば、故郷での新しい生活が始まります。希望の持てる未来があります。この句には古格があるように思われます。

②は、長男、長女に次いで次男も結婚し、六十歳の坂を越え、父母の老いを詠うことが多くなっています。また、波郷の病状を気遣っている句も見られます。人間探究派的な句に混じって、山河を詠っているのですが、この時期飯田龍太など郷土を詠う俳人の活躍が目立つようになりました。同じ頃龍太は「雪の夜風白刃抜いては収めては」という句を作っています。住んでいるものの鋭い観察眼と、体感、厳しい気候の土地への愛着があります。

俳壇の流行は、総合誌などで知ることとなりますが、かなり強い意志があって、自分の作風を堅持しない限り、やはり影響を受けるものではないでしょうか。景色の句も以前も波郷などに、高原派とは一風変わっているとは言われていましたが、それをさらに一歩進めて、住んでいる者の目で郷土である佐久を詠んでいるように思われます。この句も郷土色の濃いものと言えるでしょう。「晩霜におびえる」農民と共にあるのです。星が冴えるように出ますと、「あすの天気は如何だ」と予測するのです。「星の瞬き」は晩霜の予告でしょうか。

①と②はどうも詠い方そのものが違うようです。①も季語と雲との衝撃度が弱いため、現代俳句として見ますと、やや平凡な写生句のように見えますが、伝統的な手法の句ではないでしょうか。詠われた背景がわかると、遷子の気持ちが深く入った句であることが分かります。②も「おびえて星の瞬けり」は感情移入の過剰表現のように思われますが、郷土に気持ちを深く入り込ませて写実している句です。私には①の句が②より劣っているとは思えないのですが。

深谷:今回の2句、

(A)昼の虫しづかに雲の動きをり  『山国』(草枕抄)
(D)晩霜におびえて星の瞬けり  『山河』

の中間に、

(B)昼の虫風に向へる頬冷えて
(C)石に踞し聞く高原の昼の虫

の2句を置いて、考えてみたいと思います。いずれも『山国』所収、昭和26年の作で、季語は(A)と同じ「昼の虫」です。(A)は二句一章の構造ですが、二句の内容は眼前の小さな「昼の虫」と大きな「雲」の言わば大小のコントラストです。遷子自身はどこにも出て来ません。それに対し(B)は同じく二句一章ながら二句の内容は「昼の虫」と「(自身の)頬」です。また(C)にも「昼の虫」に耳を傾ける遷子自身が登場します。つまり同一の季題を対象にしてはいますが、叙景句という範疇に止まっている(A)と、自分自身を登場させ、あるいは自己を投影させた(B)(C)とでは大きな違いがあることに気付かされます。

さらに、(D)では(B)(C)のような境涯性は見出せませんが、霜害に怯える農民たちの存在が視野に入って来ています。叙景句ではあっても、(自身を超えた)他者への思いやりあるいはヒューマニズムの発露があります。だからこそ、星が「おびえて」という擬人法が厭味なく、読む者の胸を打つことができるのだと思います。「他者との一体感」が底辺にあるという原さんの指摘の通りでしょう。

以上、些か図式的になりますが、(A)~(D)の句は遷子の辿った作風の変遷、「純粋自然詠→境涯性→ヒューマニズム」をそれぞれ象徴したような句と言えるのではないでしょうか。

窪田:昼の虫の句は『草枕』では後ろから7句目に置かれています。前後の句はそれぞれ

長雨に咲きし櫻を活けにけり
敗戰の最中に病むや秋の虹

です。(『山国』では「敗戦」の句と「昼の虫」の句が前後入れ替わっています。)この年の春には、妻と幼児二人を郷里に疎開させます。病中一人暮らしの遷子が昼の虫の声に耳を傾け、行く雲の流れを眺める姿からは、悟りのような気分が感じられます。やや感傷的でもありますが、落ち着いた心の有り様も思わせます。これに対し「晩霜におびえて星の瞬けり」は、主情がぐっと前面に出た句です。

信州の佐久あたりの春は、昼間は暑いくらいになっても夕方から急に冷え込むことがあります。特に晴れた夜は遅霜が心配されます。私の父は、夕方六時頃の気温を見ながら、明朝の気温を推測し、霜の対策をしていました。現在、私も昨年の秋に室内に入れた鉢物の植物は、5月の連休まで屋外に出しません。遅霜の心配があるからです。ですから、原さんが言われているとおり、農作物の被害に怯える農民とそれを心配する遷子の思いが「晩霜」の句にはよく出ているとお思います。患者の多くが余裕のない生活を送る農民である遷子は、春の潤むような星を単に美しいと言った感傷ではなく、農民の心情に寄り添って把握しています。原さんのおっしゃるように、他者への共感、一体感が擬人化によってよく顕れた句だと思います。

筑紫:句集『山国』は第1句集『草枕』を抄録した「草枕抄」と、本編をなす「山国」の2部に別れています。「草枕抄」はさらに3つの小章、「山国」は7つの小章に別れています。『山国』の目次に従い一応眺めておきましょう。

○草枕抄
草枕(昭和11-15年)
大陸行(昭和16-17年)
蝦夷(昭和18-20年)

○山国
薄き雑誌(昭和21-26年)
山国(昭和26年)
狐舎(昭和27年)
花林檎(昭和28年)
秋郊(昭和29年)
雪嶺(昭和30年)
梅雨の牧(昭和31年)

「草枕抄」の抄の「大陸行」は戦陣俳句であり、異常な作品ですからここではしばらく除外しておきましょう。その意味で、「草枕抄」は「草枕」時代と「蝦夷」時代に分かれることになります。「草枕」時代とは東大の医局で働き、各地に旅行もしていた時代です。「蝦夷」時代とは、函館病院に勤務し、特に齋藤玄を媒として「鶴」の連衆と交わった時期でした。両者の時代の俳句はかなり異質で、「草枕」時代は自然観照を進めた時代、「蝦夷」時代は境涯俳句を進めた時代でありました。

だから「山国」の章の「薄き雑誌」時代の作品は、故郷の佐久野沢にもどったものの函館からの延長である境涯俳句でしかなかったのです。その意味で誤解を恐れずに言えば、――「山国」の小章から始まる馬酔木高原俳句の活動は、馬酔木の新人たち、堀口星眠、大島民郎、岡谷鴻児らから見れば新しい俳句運動であったように見えますが、遷子にとっては「蝦夷」時代・「薄き雑誌」時代から「草枕」時代への単なる先祖返りに他ならなかったはずです。

なぜならば、『山国』の序文で水原秋桜子は「草枕」時代を「その熱心さは実にたいしたものである。馬酔木伝統の吟行の名所は悉く見つくしてしまふ。二、三の人が熱心であつた探鳥行には必ず加はるし、『野鳥』の人達と共に富士の裾野へもゆく」と言い「富士の裾野の句、白馬岳の句など、今見ても実に新鮮な感じがするし、熊野川の句は殊に感銘が深くて、私が南紀へ行つたときは、これを一つの範例として、作句の参考としたのであつた」とまで述べています。

参考までに、「野鳥」の人達とは中西悟堂が起こした「野鳥の会」のことであり、馬酔木と野鳥の会は緊密な関係を持っていました。野鳥の会の発足・維持に文字通り身命をなげうった事務局長である山谷太郎は、馬酔木同人山谷春潮その人であり、かつ馬酔木にあって野鳥の句を奨励し、名著『野鳥歳時記』を著わしていました(春潮は「北の国から」の脚本家倉本聡の父君です。倉本が自然にこだわるわけが分かるでしょう)。

「熊野川の句」はおそらく遷子の戦前の名句

瀧をささげ那智の山々鬱蒼たり
滝壺やとはの霧湧き霧降れり

でしょう。「作句の参考とした」秋桜子の作品とは、おそらくあの秋桜子一代の名句であり秋桜子が自作で最も好きな句と言った「瀧落ちて群青世界とどろけり」(昭和29年作)でありましょう。尋常ならざる句境にあったことがうかがえます。

「草枕」時代の昭和13年に巻頭3回、14年に巻頭4回を獲得したというこのような遷子の勉強ぶりは、後の高原俳句時代をそのデジャヴと見させるに十分でありました。もちろん、「草枕」時代をしのぐ成果を高原俳句であげたことは間違いありませんが、過去にやった仕事の延長といわれれば確かに延長にしか過ぎませんでした。やがて遷子は、「草枕」時代・高原俳句時代をぬけて自分らしい俳句に『雪嶺』で出会うことになるのです(『山国』であれば「秋郊」以降でしょうか)。だから、遷子は「蝦夷」時代・「薄き雑誌」時代の境涯俳句には二度と戻りませんでした。境涯俳句と違って、もっと社会に対して批判的な眼差しを持ち始めるのです。その意味で、掲出の「昼の虫しづかに雲の動きをり」は境涯の思いをこめたものでしょうが、もはや遷子にとっても過去のものであったように思われます。一方、「晩霜におびえて星の瞬けり」は『雪嶺』以後の、ある種の緊張感(境涯俳句に緊張感がないとは言いませんが、自己憐憫に陥りやすいことは確かです)があることは原さんが言われるように見えるかとは思います。ただ「おびえて」の露骨な擬人法を私は好みません。むしろ原さんの言われる「一体化」を損なっているような気がするのです。

       *       *       *

今回はこれに関連して不思議な縁にある評論を取り上げてみましょう。山本健吉は晩年「俳句」に「現代俳句の世界」という作品鑑賞を連載します。現代作家の作品鑑賞を綴ったもので、いうなれば名著『現代俳句』の続編といって良いでしょう。

第1回「森澄雄句抄」(昭和63年1月号14頁)、第2回「飯田龍太句抄」(2月号8頁)、第3回「飯田龍太句抄―続―」(3月号8頁)、第4回「細見綾子句抄」(4月号6頁)、第5回「相馬遷子句抄」(5月号2頁)。「相馬遷子句抄」は「(続く)」となったまま、健吉は急逝し、この連載は完了しませんでした。「俳句」編集長秋山みのるは、6月号でこの連載を全編再録し「絶筆 山本健吉 現代俳句の世界」と銘打っています。確かに健吉の絶筆であったようです。

不思議なのは健吉の日頃の批評活動から見て、森澄雄、飯田龍太、細見綾子までは分かるものの、なぜ相馬遷子を取り上げたかです。シニカルな「一流」の言葉を使わせてもらえれば、誰もが一流と認める森澄雄、飯田龍太、細見綾子に、なぜ一流とは認めにくい相馬遷子を続けたのかです。

連載中に健吉の体力は急速に衰えたようで、第3回まではかなりの分量を執筆していますが、5回は急速に筆力が落ちています。未完の「相馬遷子句抄」で健吉が触れたのは3冊の句集のうち『山国』の中の(それも「草枕抄」の中の)6句だけでした。

昨日獲て秋日に干せり熊の皮

熊野川筏をとどめ春深し
乗りすごし降りたる駅の唯夜寒
緑蔭に徹夜行軍の身を倒す
栓取れば水筒に鳴る秋の風
忽ちに雜言飛ぶや冷奴

私たちの研究の遷子句選では、「昨日獲て」は富田さん、「栓取れば」「忽ちに」は深谷さんが採られていますが、総じて健吉がなぜこれらの句を「現代俳句の世界」として称揚しようとしたのか分かりません。澄雄の「ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに」や龍太の「一月の川一月の谷の中」と並んで入っているのは奇異な感じがするのです。

このあたりに健吉の、死の去来する最晩年の思いと、遷子の持つ(一流ではなくても)魂につながる真実の詩の呼応のようなものを感じてしまうのは私だけでしょうか。

なお、後日談になりますが、おおもとの新書版『現代俳句上・下』(昭和26年・27年)が、やがて文庫化され(永田耕衣で結ばれています)、さらに角川選書で新版として出されるに当たって、連載未完の「現代俳句の世界」がそのまま収録されています(本当はそのあとに、角川春樹論がありますが、これは山本健吉の春樹4句集の跋文をまとめただけのものですから、現代俳句論としては除外して良いでしょう)。すると、戦後の俳句をリードした山本健吉の『現代俳句』の決定版は、正岡子規から始まり相馬遷子をもって終了することになります。川崎展宏はこの『定本現代俳句』(平成10年)に解説を書くに当たって、追加された作家を「それぞれ、晩年の山本健吉が、作家として最も信頼し、期待した人々」と述べています。その意味では、相馬遷子は現代俳句におけるとんでもない高みにあがっているわけですが、未だにそれにふさわしい扱いを受けていないようです。今回の連載研究は、そんな矛盾も取り上げられたらよいと思います。

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