・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
雪降るや経文不明ありがたし
『山河』所収
中西:昭和45年、前年の冬から病んでいた父が亡くなった時の句です。
昏睡の父に庭木の霧氷咲く
この句が、暮にありますから、新年早々のお葬式だったようです。ご高齢とはいえ、親の死はいくつになっても応えるものですが、なぜかそんなに深刻に悲しさが出ている句ではありません。相馬家の菩提寺、時宗金台寺の住職がお経をあげられているのですが、経は漢文を上からそのまま音読みしていってしまいますから、何を唱えているのかわからないのです。節もありますから、聞いているとそれなりに荘厳なので、死者の身内の者にとって、お経を聞いている時間は不可思議な時間とも思います。悲しみを一時忘れさせてくれて、儀式に専念するまじないでもあり、そう思うと本当にありがたいものです。
「雪降るや」は、お葬式をやさしく包んでいるように置かれている季語です。
降る雪に悲しみはただ怺ふべし
という句が対句のように後に出てきますから、遷子は喪主として、お葬式の間悲しみを抑えていたのがわかります。悲しみの感情を抑えているのに、なまじ意味がわかって泣かされるお経より、意味不明なものの方が、返って救われる時だってあります。
今回、遷子の診療所、旧宅、お墓を巡るツアーをしましたら、かなり遷子への見方が変わりました。このお葬式も、多分相馬家の本家からも人が来て、弟の家族と、相馬一族の身内が多い大きなお葬式だったのではないでしょうか。
窪田:掲句の解釈は中西さんの言われた通りと思います。「雪降るや」がお葬式をやさしく包んでいるようというのも分かります。
ところで、信州の雪と一口に言っても、飯田と飯山では違います。ましてや、新潟の海沿いに降る雪と信州の菅平に降る雪は、全く違う雪です。私の住む東御市北御牧や佐久の雪は少しぐらいなら箒で掃けます。句会でも「雪を掃く」という句がしばしば出されます。齊藤美規さんは松本に来られた時「雪を掃くと言うのは信州らしいですね。私のところでは、とても雪は掃けません。」という事を言っていました。海沿いの水分の多い雪は重くて箒ではとても掃けず「雪掻き」をします。上越と信州の県境は「雪掻き」さえも出来ず「雪踏み」をして道を確保します。
また、三好達治は「雪」(詩集『測量船』)という有名な詩を書いています。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」です。宮沢賢治は詩「永訣の朝」(詩集『春と修羅』)で「銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・」「あんなおそろしいみだれたそらから/このうつくしい雪がきたのだ」と雪を詠んでいます。二つの詩の雪はそれぞれ違った意味合いを持って使われています。
遷子はこの時の雪をどんな心持ちで受け取ったのでしょうか。「やさしく包む雪」は確かですが、さらに造化に対する感謝のような気持ちと一方畏敬の念のようなものを感じていたのではないかと思います。掲句の下十二音は、やや深読みかも知れませんがそんなことを思わせます。掲句に続く亡き父を詠んだ次の句がそれを強くおもわせます。
暁紅や亡き父歩む雪の庭
暮れてなほ天上蒼し雪の原
降る雪に悲しみはたゞ怺ふべし
深谷:誰にとっても身内の死は辛いものです。まして、それが敬愛する父親のものであれば尚更のことでしょう。しかし息子、それも喪主ともなると、ただ嘆き悲しんでいるわけには行きません。葬儀という厳粛なセレモニーを遂行する上で、様々な役割を果たさなければならないからです。遷子も、その立場にあった一人です。その儀式のなかである種のハイライトというべきものが、読経でしょう。死者の冥福を祈る鎮魂の読経。それを聴くうちに、それまでの慌しさの中に紛れてしまっていた、亡き父への様々な想いが胸に去来した筈です。
遷子と亡父との関係が如何なるものであったのか詳細は不明ですが、以前採り上げた、
老い父に日は永からむ日短か
などを見ると、老いゆく父への眼差しは慈愛に満ちたものであったことが推察されます。
この句に関しては、(1)経文の内容を知れば尚更悲しみが増すので、それが解らなかったことが却って有難かった、と、(2)お経の内容は解らない、けれども鎮魂・供養のための読経なので、とにかく「有難い」と感じ入った、と二つの解釈を考えました。最初は(1)を思い浮かべたのですが、よく考えれば一般市民(仏教のトレーニングを受けていないという意味での)が経文の内容を知っているということはあまり考えられないので、(三段切れにはなりますが)今では(2)の方が素直かと思っています。
いずれにせよ、中西さんが御指摘された通り「雪降るや」の斡旋が的確で、しんしんと降る雪のなか死者を弔う読経が流れていく、そんな厳粛な葬儀の雰囲気がとてもよく活写されていると思います。
* * *
なお、前回の小生の基調コメントに、皆様から様々な有益な御意見を頂戴し、蒙が啓かれました。ありがとうございました。とりわけ、「地を剰さざる」に関して、農民たちが寸土残らず開拓して農地に変えていく逞しさにも思いを致すべき、との筑紫さんの御指摘は肯えるものでした。確かに、「農民=弱者」という見方はやや図式的であり、生身の農民たちの強かさや逞しさを過小評価していたと思います。もちろん、彼らを取り巻く、当時の就業環境が決して恵まれたものではなかったということは事実だろうと思います(従って、「豊穣への祝福」とまで言うにはまだ多少の抵抗もあります)が、そうした環境のなかでこそ強かさを発揮する逞しさがあった筈です。そうした生身の農民たちを、遷子は暖かく、時には冷徹な眼差しで、眺めていたのだろうと思います。
筑紫:中西さんがよく選んでくれたという気がします。類例のない、面白い句です。ちょっと見たところ三段切れのようになっていますが、あまり気になりません。上五も中七も、下五も、一つの焦点(父の死)に向かって流れ込んでゆくからなのでしょう。
意味不明なのがありがたいというのが逆説的なのか、真理なのかは難しいところです。中西さんも言われているように、相馬家の宗旨は時宗ですから(こんなことまでいう必要はないのですがせっかくミステリーツアーに言ってきたので明かします)阿弥陀経が本来の所依の経典ですが、この宗派はそれでも和讃を使ったり、踊念仏をやったり(これが盆踊りの始まりだといわれています)、庶民に分かりやすい布教をしているはずなのですが、われわれ日ごろ宗教と無縁の衆生にとって見るとやはり「経文不明」である点に違いはありません。
わが宗派は真言宗智山派なのですが、この宗派の法要のクライマックスは「ひろしゃだふー、ひろしゃだふー、ひろしゃだふー、ひろしゃだふー、・・・・」の称名が延々と続くのです。後から聞くと、理趣経の「毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)」だそうですが、そんな講釈を聞くより「ひろしゃだふー」を繰り返されるほうがはるかにありがたい感じです。ちがう宗派ではよく曹洞宗の法要に出てくる「なむからたんのうとらやあやあ」はまさにその最たるものでしょう。これこそ、真言呪であって意味は分からないがありがたいという言葉となっています。
それにしても、「雪降るや」も「経文不明」も人の死をあたたかくつつんでいるイメージが湧いてきます。切迫した死のイメージとは違う雰囲気は、佐久という風土の中で培われれるものでしょうか。
* * *
深谷さんの更なるコメントありがとうございます。たぶん唯一の解釈はないと思いますし、話をしているうちに新しい発想が湧くのは、すでに私も何回も経験させていただいております。こだわって何か言わなければ新しい反論も出てこないものですし、そうした緊張が次の発想も生むと思います。私が言うのもなんですが、この「遷子を読む」はずいぶん議論がずれているような気がしますが、実はそれが俳句解釈の本質でしょうし、ずれを重ね合わせることによりこのなんとも不可解な遷子という俳人をよく理解できるのではないかと思います。いや、遷子そのものが不可解というより、俳句という詩型の不可解性というべきかも知れません。
* * *
今回は原さんはお休みと言うことですが、もし1行でも結構ですから、2週間の間に意見をお寄せいただければ、載せさせて頂きます。
原:今回「経文不明ありがたし」の解釈というか、語脈をどう受け取るか不分明のままでしたのでパスする積もりでしたが、不分明のまま記してみます。
経文は不明にして尊く思われる。
一応の結論としてこのように読んでみました。つまり「不明であって、しかも」と訳すことになるのですが、これは「明らかならず、ありがたし」と、漢文読み下しふうに解釈してみたせいです(正確ではありませんが)。牽強付会と謗られそうですが、遷子は軍隊経験者でしたから、漢文調文語(こんな言い方でよいものかしら)には馴れていたでしょうしね。その語調がふと出たとしても不思議はなさそうです。とはいえ、戦後教育以後の私などの言語感覚からいえば、「不明であることが」と、格助詞「が」を補って読むほうがしぜんに感じます。その辺りで迷ってしまいました。
以上は生真面目な受け取り方です。もっとくだけて言うと、「経文など何がなにやら分からぬほうがありがたいのだよ」とする庶民感情のほうに親しみを覚えるのですが。
筑紫:原さん、ありがとうございます。皆さん、夏休みで休養のさなか、いつも以上にご協力いただいているようで恐縮です。深谷さんにしろ、原さんにしろ、「分かりやすいはずの遷子のわかりにくさ」、という不思議な問題提起をしていただいているようです。後者の「わかりにくさ」とは遷子が抱えている根本的な問題(人間はなぜ生きているのかという問い掛け)の分かりにくさであるかも知れません。前者の「分かりやすい」は、にもかかわらず遷子が句を詠むに当たって持つ遷子自身の精神の明るさではないかと思えるのです。わかりにくさはみなうっすらと感じているにもかかわらず、この句を鑑賞に取り上げたくなった中西さんの気持ちもこれまたよく理解できるように思えるのです。
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1 件のコメント:
雪降るや経文不明ありがたし」遷子
なにげない呟きのような句で、好感が持てます。悲しみごともまっただ中で、それだけではなくいろんなことを気がついてしまうものだ、と自分の場合も気がつきました。
お経と言うのは、耳できいても意味がわからず、判らないのに体に浸みるようでありがたみがある。のですが、その間に「ああ雪が降ってたなあ」とか。
本人のことだけではなく、まわりのことが鮮明に記憶される。その、心理の機微が出ていると思いました。
この句のおもしろいところは、構成の面にあり、お経がわかりませんよということをわかりやすくいっているところです、悲しいなかに一種の機知のあるところが皆さんのこころを曳いたのでは?(こういう取り方は不謹慎でしょうね?)
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