・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
鏡見て別のわれ見る寒さかな
『山河』所収
中西:この句は私が遷子の句の中で最も早く知った句でした。しかし、その時はこの句がどんな状況のもとで詠まれたのか知る由もなかったのです。当時は老いを見た悲しみかと思ったのでした。
実は、少しずつ病が死へ向っていくのを、遷子自身が最もよく知っているなかでの闘病中の句だと知って、句の重さにびっくりしたのでした。
遺書書くや入院前夜しぐれつつ
こんな句が4句先にあるのです。この次の入院はもう家には戻れないと覚悟しているのです。
空腹感戻らば奇跡色鳥よ
という句も隣のページにあります。食欲が落ちて食べられないのですから、もともと痩身の遷子です、この時はかなり肉が削げ落ちていたに違いありません。この句は、鏡の自分の顔の変容に大きな驚きを隠していません。あまりの変化は病状の悪化を、死の近さを確信しないわけには行かなかったでしょう。今まで見たことのない自分の変化した顔への違和感、これこそが死を予感させるものだったのではないでしょうか。
この「寒さ」は遷子にとって身の凍る思いだったことをも連想させるものです。別の人間になっていく自分、病は体だけでなく、精神をも病ませるものだそうです。
この鏡の顔は、医師からひとりの病人となったつらい現実を映したものだったと思えるのです。
原:鏡の中の自分という主題は男性よりも女性の感性に、より多く訴えるものかもしれませんね。掲出句に出会った折の中西さんもそうだったでしょうか。作者の状況を視野に入れない初見の印象から、作者の身に寄り添っての読みへ移ってゆく鑑賞の変化を興味深く思いました。
この句から、ふと、画家にとっての自画像というものを連想したのですが、画家の場合、自分の姿を描きながら次第に己れの内部を探り当てていくのでしょう。結果として、出来上がった作品に驚くことがあったにしても、そこには経過する時間がありました。一方、掲出句は或る日或る時の一瞬です。思わず「これが自分か」と、我と我が胸に呟いたかのようです。無名の一句として読めば、鏡の中に見知らぬ自分がいるという、多分に観念的な句になりますが、遷子は自分でも言っているとおり「現実べったり派」、殊にこの時期は句即現実といった様相を示しています。鏡の中に衰えた顔貌を見出して発した「別のわれ」の語だったでしょう。中西さんの言われた「死の予感」はまもなく現実のものになってしまうのです。
深谷:最後の入院直前に書かれた句ですね。中西さんが指摘されたように、遷子は元々痩身だったようです。まだ元気だった頃に、次のような句があります。
木の葉髪痩身いづくまで痩する 『雪嶺』
掲出句は、己が病状の深刻さに慄然とする遷子の姿がリアルに伝わってきます。これも中西さんが指摘された通りです。再入院後には、こんな句もあります。
夏痩せにあらざる痩せをかなしみぬ 『山河』
そして、掲出句のすぐ後には、次の2句が並んでいます。
霜つよし一縷の望みまだ捨てず
木の葉散るわれ生涯に何為せし
折れそうになる心を奮い立たせようとする如き前者、けれどもふと頭をもたげてくる諦観を詠んだ後者。二つの情念が遷子の心の内に渦巻いています。前々回に筑紫さんから御教示頂いたように、診察を下した医師の言葉に一度は希望を抱いたものの、再び疑念を抱かざるを得ないほど病状は悪化していきます。今回の掲出句を含め、遷子は、敢えてそうした心情を隠さず、そのまま句に残しています。「客観写生」を句作の絶対的テーゼとする立場から評価されることはありえないでしょうが、私はそれこそが遷子俳句の魅力だと考えています。
窪田:「別のわれ」にどきっとします。鏡の前の自分の姿は、確かに健康な時のものではありません。しかし、遷子はそうした外面的な違いに寒さを感じたのではないと思います。そこに映った生身の人間の精神というか、本質というのか、底知れない奇妙な自分の姿に気付かされたのでしょう。紳士でありたい、正しくありたいと生きてきた遷子にそれはどれほど深い悲しみを与えたのでしょうか。
私の先輩に若くして膵臓癌で亡くなった人がいます。毎晩のように連れ立って呑み歩き、理想の学校を創ろうと語り合った人でした。体格がよい人でしたが、病状が悪化した時は半分ぐらいになってしまったように感じました。もう、理想の学校づくりのことは一言も言えなくなりました。奥さんが言われた「浴室の鏡は外しました」という言葉が今でも耳に残っています。
筑紫:50年11月10日の作品です。入院1週間前の作品で、翌々日の14日に、
入院を決めて安けし霜日和(句集未収録)
を詠んでいますから、入院を決める直前の遷子の揺れる思いを語っています。鏡の中にあまりにも衰えた自分を見つけて驚いているのですが、自宅での発見であるだけに衝撃的であったでしょう。自らの病状については、さらに
小春日や黄に染まりゆくわが肌(13日 句集未収録)
着むとして両手が重し冬の衣(15日 句集未収録)
痩せし身に(「わが脚に」と推敲)起居が重き炬燵かな(同上)
からも、黄疸や体力の衰えを感じる遷子の肉体的状態も推測できます。また、心理的状況については、
霜つよし一縷の望まだ捨てず(12日 句集収録)
と思いつつも、
遺書書くや入院前夜しぐれつつ(14日 句集未収録)
と覚悟を決めています。以後、死を必至として眺めてゆく俳句がならんで行きます。17日の入院後は、
冬青空母より先に逝かんとは(17日 句集収録)
一夜寝ず二夜ねむれず木枯す(同上)
あきらめし命なほ惜し霜の朝(「冬茜」と推敲)(26日 句集収録)
死は深き睡りと思ふ夜木枯(同上)
冬麗の何も残さず去らんとす(「微塵となりて」と推敲)(同上)
秒読みに入った遷子の病状が分かります。特に26日は、「病急激に悪化、近き死を覚悟す」と述べたように、終末といってよかったでしょう。実際、翌年1月2日に見舞いに行った福永耕二に冬麗の句を示して「これは辞世です。辞世を詠んでから生きのびました」と語っている。それでも奇跡的に持ち直した遷子は、翌27日にここまでの句稿を矢島渚男氏に渡して、句集『山河』の編纂を依頼しているのです。どう見てもこれは遺書でした。
* * *
前々号で、遷子のなくなる直前の状況を、「俳句」や「馬酔木」の追悼号を参考に述べました。またそれらから、堀口星眠、福永耕二、千代田葛彦、大島民郎、古賀まり子、黒坂紫陽子、市村究一郎、渡辺千枝子氏らが入れ替わり見舞い、遷子を激励し、追悼号に美しい回想記事を書いている事実を報告しました。亡くなる直前に、遷子が句集『山河』の上梓と、波郷以来二人目の葛飾賞受賞を楽しみにしていたことを述べました。『山河』の上梓は間に合いませんでしたが、葛飾賞の受賞は遷子が最後に聞いた俳句の話であったのです。このように、
師恩友情妻子の情に冬ふかむ
われにその価値ありや
かく多き人の情に泣く師走
という温かい友情や愛情に囲まれた遷子の死でしたが、歴史は皮肉でした。
遷子没後4年目の54年12月に水原秋桜子が二度目の心臓発作を起こし入院します。今度は選評どころか選句も出来なくなり、堀口星眠氏が代選をへて、55年6月に正式の選者となります。この時、それまで編集長を務めていた福永耕二が排除され、市村究一郎氏が編集長となるのです【注】。俳壇の寵児であった福永耕二は、一転不遇な中で病気を得て、12月死亡します。「馬酔木」の編んだ追悼号は耕二の友人たちにとってみると余り心のこもったものではなかったと言います。やがて、翌56年7月、後を追うように水原秋桜子もなくなります。耕二の死後しばらく経ってから彼の死を知らされた秋桜子は、「俺も耕二と一緒に死にたかった」と言ったといわれていますから、まさにその通りになったのです。「馬酔木」では、つつがなく秋桜子の追悼、700号記念が終ったあと最大の混乱が始まります。59年4月に、「馬酔木」は堀口星眠、大島民郎、市村究一郎氏を除名します。馬酔木集の選者は杉山岳陽氏(のち水原春郎氏)となり、福永耕二の編集仲間であり親友であった渡辺千枝子氏が編集長に就任します。一方、堀口氏を中心に、大島民郎、市村究一郎、古賀まり子氏ら元の「馬酔木」主要同人を多数加えて59年6月に「橡」が創刊されました。編集長は市村氏でした。ですから先ほどのメンバーで「馬酔木」に残ったのは、千代田葛彦、黒坂紫陽子、渡辺千枝子氏らわずかでした。しかし「馬酔木」では、新体制後ただちに秋桜子特集に加えて、不遇であった福永耕二の特輯を行って、新しい方向性を示したのでした(同じく、福永の親友であった黒坂氏は自力で『福永耕二(俳句・評論・随筆・紀行)』という全句文集を刊行されています)。一方、「橡」からはいくばくもなく、市村氏が「カリヨン」を創刊し独立してしまいます。
遷子が生きていたら、これらの事件をどのように思うでしょう。その意味では、必ずしも遷子が望んだようにあと20年生きられなかったことも、多少の救いであるような気がするのです(もちろん、遷子が生きていたらもうすこしましな歴史もあったはずですが)。
【注】遷子は編集長である福永耕二を高く評価し、毎月「馬酔木」が発刊されるや、直ちに電話で感想を述べていたと言います。あまつさえ編集に関しては、編集長に就任したばかりの耕二に対して「もし馬酔木のためにならないと貴兄が判断したら、たとえ同人会長(遷子)の意見であろうと他の編集委員の意見であろうと無視して、貴兄の思うとおりやってください。遠慮する必要はありません」と手紙で述べているそうです(「相馬遷子覚書」)。
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