・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
山河また一年経たり田を植うる
『雪嶺』所収
深谷:自然とともに、あるいは自然を相手に生きる農業従事者の感慨を素直に詠み上げた句です。農事暦などに象徴されるように、それぞれを四季の巡りに合わせ、きちんとこなしていかなければならないのが農作業の宿命だと言ってよいでしょう。だからどの農作業にも、この句のような「また1年経った」という感慨は伴う筈です。しかし「田植え」ほど、こうした感慨がぴったりする作業はないと思います。やはり、長く厳しい冬を乗り越えてやっと迎えた春ということもあるでしょうし、田植えから一連の稲作作業が始まるという位置付けもあるでしょう。
また、「山河」というフレーズは、杜甫の「春望」の「国破れて山河あり」を彷彿とさせます。遷子のこの句が書かれたのは、太平洋戦争の敗戦から10年あまりしか経っていない昭和32年、まだ敗戦はそう遠くない出来事だった筈です。ですから、そうした想いもこの作品には込められていると思います。もちろん、「山河」というフレーズは遷子の好んだものであり、この後の作品や句集名にも見られますが。
いずれにせよ、「山河」という大きな空間や「1年の経過」という悠久の時の流れと対比した時、「田植え」に代表される人間の営みは小さな存在でしかないのかもしれません。それでも、否、だからこそ、その営みは愛おしむべきものであるのでしょう。その意味で、この句はシンプルあるいはおおどかな感じを受けますが、そうした人間の営みに注ぐ遷子の暖かな眼差しを感ぜずにはいられないのです。
なお、遷子は亡くなる前年に同じモチーフでありながら、
田を植うる山河の命疑はず 『山河』
という全く趣きの異なる句を作っています。こちらは最初の手術を終えた闘病期に、大自然の生命力に己の命運を重ねながら書いたもので、二つの句を読み比べてみると切ない気持ちが嵩じてなりません。
中西:深谷さんが、「山河」に杜甫の「春望」を彷彿するとおっしゃっておられましたが、まったく同感しました。戦後の日本を見ているあたり本当に社会派ならではの読みと感心しました。
社会的と言えば、
人の言ふ反革命や冬深む
という句が9句前に載っています。社会に眼を向けて、社会との接点を保ちながら、自分の考えを句に反映させているようです。1年の経過は野山の季節の移ろいだけではなく、社会の1年の移ろいも加味したものと考えられますね。
そこで、私はもう一つ、自身の心の山河も加えていいのではないかと思いました。この1年にあった様々なことを乗り越えて、また新たな生産の始めに到達した感慨と見ることもできると。医師として、あるいはこの地の名士として、この1年に成し得たことは、ある程度業績となって遷子に見えた状態だったのではないでしょうか。
また、俳人としても、存在感が増してきていたのではないでしょうか。年齢的に充実期を迎えた人の感慨と見えなくもありません。
山河という言葉、次の句集名になるくらい、遷子が気に入ってよく使った言葉だったのでしょうね。
原:「また一年経」ったという感慨は、再び新しい1年が巡って来ると言う感慨でもあるでしょう。このような思いは農作業の始まりを象徴するような「田植え」であるからこそぴったりするという深谷さんのご意見に共感します。
私の住んでいる地域は都内まで3、40分の市街地ですが、少し歩けば畑にぶつかる環境です。水田を作るには、土壌が適さないのか水利が悪いのかと思っていますが、同じ沿線で数駅行ったあたりには荒川の支流があって土堤下に田んぼが眺められます。おかげで、四季を通じての稲田の風景を少しは見知っている、といっていいでしょうか。小規模なものですが、それでも田に水が張られ、やがていちめん植田の景色が広がるのを眼のあたりにするとき、遷子の句が自分の実感と重なります。
わが近隣のささやかな田んぼとは比べものにならない佐久の風景はどんなふうだったか、遷子が葛飾賞を受賞した折の堀口星眠氏の文章から抜き出してみます。
佐久野沢は千曲川にほとりして、浅間、八ヶ岳を仰ぎ、遠くには日本アルプスを望見し、周囲には広漠たる田の面をつらねている。山畑まで、八ヶ岳の麓から水を引いて灌漑が完成されており、五郎平新田と名付けられた稲田から穫れる米は品質のよいので有名である。(「栄光の山河」)
「山河」と言うにふさわしい堂々たる景です。深谷さんも触れておられた通り、掲出句をはじめとして遷子は「山河」の語を幾度も使っています。遷子にとって「山河」は実際の山河であり郷土そのものであり、さらには歳月をたたみ込んだ世界観にも通じていく言葉であったように思われるのです。
筑紫:前回の重苦しい鑑賞を書いたあとは何か救われたような句を示されて、ほっとします。「山河」の言葉が重い効果を持っているのだということは分かりますが、ここで遷子の山に対する意識を用語で眺めてみましょう。
雪晴れし山河の中に黒きわれ 『山河』
わが山河まだ見尽くさず花辛夷 『山河』
衰へて山河まぶしき春の昼 『山河』
わが山河いまひたすらに枯れゆくか 『山河』
遷子のキーワードである、三つの言葉(それは句集名ともなっているのですが)である「山国」「雪嶺」「山河」を並べてみると、晩年になるほど「山河」のウエイトが高まってゆくように思われます。山国がおそらく外つ国から見た(山のある・閉鎖された)空間=存在であるにに対し、山河はその山々を遷子の心の中に内在化しているせいかもしれません(意外なことに最晩年は「雪嶺」の言葉も多いのですが)。
ところで、山国にはなく山河にあるものは「ふるさと」という帰属意識かも知れません(そう言えば信濃出身の学者であり作詞家の高野辰之が、「うさぎ追いしかの山 小ぶな釣りしかの川」ではじまる有名な文部省唱歌「故郷」を作詞しています)。遷子は佐久市野沢町に生まれましたが、小学校5年で東京に転居しています。故郷という意識が生まれるには微妙な少年期です。確かに、函館から野沢に戻るに当たっては、
小春日や故郷かくも美しき 『山国』
と詠んでいますが、これは外から見た美しさであって、「佐久雑記」で書いている人心に対する軽い失望は、エトランゼの気分をもっていた遷子の本心を書いていたように思われます。遷子が「山河」といえるようになったのは、掲出句の時期からなのかも知れません。
窪田:深谷さんのおっしゃられる通り「田植え」ほど、また1年経ったと言う感慨を農民に起こさせる作業は無いと思います。昭和30年頃だからこそこの思いはよく分かります。おそらく多くの農民がこういう気持ちを共有できたことと思います。しかし、現在は農業を取り巻く環境は大きく変わりました。機械化が進み、一家総出の作業や「ゆい」とか「えーっこ」等と呼ばれる近所同士の助け合いもほとんど見られなくなりました。当然、田植え後の早苗饗も少なくなりました。農民の高齢化もすすみ、田植えなどの農作業を外部委託することも少なくありません。農作業から季節感がどんどん失われているような気がしています。いや、季節感の質の変化が生まれているということでしょうか。遷子のこういう句を大切に思う所以でもあります。
もう一つ、「山河」という言葉について感じたことを書いてみます。同じ信州でも、例えば佐久平と松本平から見る山並みはずいぶんその姿を異にしています。当然そこから受ける感じも違ってきます。飛騨山脈の峨峨とした山脈は、我々に迫って来るように感じられ、ある種の圧迫感を感じます。そして、そう言った山河は一種の畏敬の念を起こさせたり、山河に挑むというような思いを抱かせます。佐久平を廻る山々は比較的なだらかで、どこか温かさを感じることが出来ます。山河にある親しみを覚えるとも言えましょう。遷子が詠んだ山河は、まさに佐久平の山並みでした。そういうことからも、筑紫さんが書かれた「山国」「山河」「雪嶺」の言葉の解釈は、納得出来ました。句集『雪嶺』の後記に「雪嶺は私にとって佐久の自然の代表である。晩秋から初夏に至る長い期間、常に雪嶺を眺めて生活出来ることを心から有難いと思つてゐる」と遷子は書いています。まだこの時は、雪嶺に未来の希望を見ていたように思えますが、晩年「雪嶺」の言葉が多く使われたというのは、遷子は、そこに死後の世界を見ていたからではないでしょうか。
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