金子兜太句集『日常』を読む
・・・高山れおな
金子兜太が、今年九月二十六日に満九十歳を迎えるのを機に、角川学芸出版から『金子兜太の世界』(*1)が刊行されるとのことで、評者にも原稿の依頼があり、青息吐息でようやく責めをふさいだところだ。それほど長いものではないが、お題が難しいうえに、九十の賀の贈り物のような出版物であるから気も遣わねばならず(とても気を遣ったようには見えないかもしれないが)、勝手に読んだ本を勝手に俎上に乗せればよいブログの安気さをつくづく有り難く思ったことだ。そんなこんなでもはや気魂尽き果てており、金子兜太の最新句集である『日常』(*2)についてのこの感想文も、いつにも増してルーズなものになるであろう。
『日常』は兜太の第十四句集。評者は丸善の丸の内本店で買ったが、俳句コーナーではこの本と長谷川櫂の『富士』(*3)が平積みになっており、俳句ジャーナリズムの王様と次の王様(?)が仲良く揃い踏みした格好だ。今頃はもしかすると髙柳克弘の新句集(*4)もそこに加わっているかもしれない。少壮老の三人が、『未踏』『富士』『日常』とは、なんだか申し合わせでもしたかのようにみごとな呼吸である。ここらがつまり、男の子たちの俳句の王道ということか。もちろん、ご婦人方の俳句は、今や『夏至』(*5)の太陽のごとく高みにあって輝いているわけである。こういう風景の中に、『水のかたまり』(*6)などが紛れ込むと、いかにも拗ね者っぽい感じがあらわになる。評者あたりはたぶん、この拗ね者のひとりに数えられるのに違いない。
……といった戯言はさておき、“日常”といえば、
俳句は平俗の詩である。/俳句は日常の詩である。/(中略)お寒うございます、お暑うございます。日常の存問が即ち俳句である。
という『虚子俳話』の一節(*7)なんかがすぐ思い浮かぶ。他にも、〈俳句は 諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩(うた)で ある〉(*8)と言った日野草城はじめ、似たような考えを口にした俳人は少なくないであろう。兜太ももとよりそのひとりであって、すでに一九七三年、五十四歳の時に「日常で書く」(*9)という文章を発表している。
最短定型たる俳句で書けるのは――いや書くべきは――思想の生活場面、いわば生きかたとして思想を肉体化してゆく態度、その態度にもとづく日常坐臥の生きざまにある。
兜太といえば社会性をめぐる発言や「造型俳句」の印象が今もって強い。それは俳句史が、そのような意味での兜太の存在を必要としているからであるが、兜太の五十代以降の実際はこうした、日常性を媒介にしての「衆の詩」を志向するものであった。安西篤によればそれは、前衛内部からの「兜太変節、後がえり(伝統回帰)」の批判を招いたのだが、兜太にしても「俳句評論」との緊張関係の中であえて“日常”を打ち出したわけで、そこには相応の覚悟――兜太ふうに言うなら「思い定め」――があっただろうことは想像に難くない。
しかしこの句集では、それら(句帖のかなりの部分を占める旅吟……引用者注)を棚上げして、毎日の暮しのなかでできた、いわば常住の日常でできた句から選ぶことにした。(中略)私はあくまでも、この俗世間で生きてゆきたいので、いつも、俗に生きる精神におもいをひそめている。(『遊牧集』あとがき)
すべてが日常吟といえる。つまり、武蔵野の北・熊谷に住して、ときに郷里の秩父盆地は皆野(みなの)町平草(ひらくさ)にゆく、その常住の日々と、しばしば出かける旅次とのあいだで出来たものなのである。(『皆之』あとがき)
そうした日常に執して句作してきたものをまとめた。(中略)しかし、即興ということについて大いに得るところがあったことも事実で、即興の句には、対象との生きた交感がある、とおもうこと屢々だった。(中略)即興の味を覚えるなかで、造型とともに即興――二律背反ともいえるこの双方を、いつも念頭に置くようになっている。(『両神』あとがき)
このように、この時期の兜太の句集の後記類では、特異なテーマ連作の形態をとる『詩經國風』を別にすれば、かなり執拗な日常性への言及を目にすることができる。とはいえ、後記類でのことあげと集としての名づけとでは、句集を限定づける働きの点でおなじとは言えないだろう。『皆之』や『両神』、『東国抄』といった書名は、兜太個人のうぶすなや家族にかかわるという意味で日常性と結びついてもいたであろうが、他方、歴史の古層へ遡ろうとする『詩經國風』的な浪漫性との紐帯も感じさせたのである。それを思うと、評者は『日常』というネーミングにはたじろきを覚えざるを得なかった。じつは、前句集である『東国抄』の後記には日常の語がなく、代わりにでもあるまいが、〈とにかく、わたしはまだ過程にある。〉という力強い言葉が見えただけに、なおさらであった。
『日常』でまず印象的なのは、なんと言ってもその追悼句の多さである。母君逝去のおりの六句、みな子夫人逝去のおりの二十一句をはじめとして十九人に対して五十五句が詠まれている。高齢の俳人の句集に追悼句が多くなるのは当然のこととはいえ、やはりすごい。過去の句集ではどうだったのかも気になってきて、還暦以降の句集を調べてみると、第八句集『遊牧集』(六十二歳)、第九句集『猪羊集』(六十三歳)、第十句集『詩経国風』(六十六歳)はいずれも追悼句は一句も無い。第十一句集『皆之』(六十七歳)は七人に対して十三句、第十二句集『両神』(七十五歳)は二十二人に対して三十句、第十三句集『東国抄』(八十二歳)は二十四人に対して二十六句となっている。母と妻という別格の存在の死が詠まれているため句数では『日常』がダントツで多くなっているが、対象となる死者の人数の点ではむしろ前句集や前々句集の方にピークがあるようだ。それにしてもこのように、死こそが日常になってゆく八十代という時間への思いをこめた『日常』なのであろうか。
人の(いや生きものすべての)生命(いのち)を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない。母はまた私を与太と言うことだろう。妻は、「あなた土を忘れたら駄目よ」とかならず言うに違いない。公平は、鬼房は……。
すでにいくつか引用したように、兜太の句集のあとがきは魅力的なものが多いが、『日常』のそれも力稿であろう。この一節なども、途方もないことがあっさりと言われているようでいて、しかもここに記されているのが紛う方なき本音なのであろうことも自然に了解できる。この納得をもたらしたものが、兜太の作家的後半生の仕事の意味であった、そんなふうにも思えてくるのだが、そこまで言ってしまっては話を簡単にしすぎることになるだろうか。
ここまで拘泥した以上、追悼句の実際を少しでも見ておきたい。まず、〈母百四歳にて他界 六句〉と前書したうちの二句。
冬の山国母長寿して我を去る
母の歯か椿の下の霜柱
全体が九章に分かれたうちのⅤに収められている。Ⅰには〈秩父古生層長生きの母の朝寝〉という句もあるし、Ⅲには〈母百二歳 八句〉として、〈蝉時雨餅肌(もちはだ)の母百二歳〉〈長寿の母うんこのようにわれを産みぬ〉などの句が見える。息子の方もすでにそうとうに長生きをしているわけだが、「秩父古生層」ととりあわされた百歳の母は、その息子の目にも人間的な間尺を半ば超え出でつつあるかのようだ。だからその肌は、衰えの相ではなくほとんど神秘的な「餠肌」(評者の祖母はふたりとも孫の顔を見ずに早世したが、家人の九十歳を超えた祖母がやはり餅肌なのを思い出す)の輝きを帯びるし、出産の大事も排便なみの些事として回顧・詠嘆される。そして掲出の一句目であるが、これを作るとき作者は必ずや三つ前の句集『皆之』にある、〈夏の山国母いてわれを与太(よた)という〉を思い出していたであろう。「夏の山国」「冬の山国」が対になっていることに加えて、両句に見られる母子の距離のとり方に、よく似た間合いを感じるのだ。この人と母と子であることへの、からりとした驚き、とでも言ったらよいか。それにしても「我を去る」という表現には複雑な味わいがある。先に引用したあとがきにあった生命の不滅という思想が、こんなところにさりげなく現われているとしてよいのだろう。掲出二句目は、落椿の下になった「霜柱」に「母の歯」を感じていて、赤と白の映発するそのなまなましい身体性が言うまでもなく兜太的。想像するに、母はだいぶ以前に歯を失っていたのではあるまいか。前句集『東国抄』には〈歯固や母の歯は馬のようだつた〉という句があって、その時点で「母の歯」は回想の対象になっている。肌でもなく髪でもなく、真っ白で大きな「馬のような」歯の記憶こそが、遠い日の母の若さへの感傷をさそっているのであり、さればこそ椿の華やぎが手向けられているのだろう。
夫人への悼句は〈妻金子みな子(俳号皆子)他界 二十一句〉と前書して、Ⅶに収められている。第一句目の
春の庭亡妻正座して在りぬ
から六句目までは、自宅「熊猫荘」の庭に真向って妻をしのぶ句がつづく。
どれも妻の木くろもじ山茱萸山法師
という句が四句目にあるが、転勤生活も終わりそろそろ自宅をとなった四十代後半の頃、都内のマンションでもと考えていた兜太を翻意させ、都心との連絡には不便きわまる熊谷に家を買わせたのは夫人だった。先のあとがきにあった「『あなた土を忘れたら駄目よ』」という夫人の言葉は、そのあたりの事情に絡んでいるのである。だから、「どれも妻の木」。この二十一句とりわけ庭を詠んだ一連は、自然との接触によって悲しみを癒してゆくという、日本の文芸のいちばん基本のところにある水脈に連なっている。ただ、庭の植物たちの浄化の力にも覆いつくせない瞬間があって、
仮寝の夢に桜満開且つ白濁
というのは、かなり無残なものを開示しているようにも思う。さらに絶唱というべきは、
橋越えて猪去る亡妻(つま)の仕草も去る
「猪」にはルビは無いが、この場合は「いのしし」ではなく「しし」と読んで間違いなかろう。五七六の韻律も兜太調の典型だが、さらに、去り行く妻の面影とオーバーラップするのが、よりにもよって猪であるところが、絶対的に兜太だというしかない。当ブログ第二十九号で関悦史が報告しているように、兜太は今年、第四回の正岡子規国際俳句賞の大賞を受賞した。以下は、関レポートからはるかに遅れて届いた受賞式の記録集(*10)から、兜太の記念スピーチの一節。
同じような生き物同士として接触しなければならない、自然に生まれてくる生き物感覚というものを大事にして俳句を創っていきたい、今私は「生き物感覚」という言葉を非常に大事にしております。例えば小林一茶の「花げしのふはつくやうな前歯哉」という句の感覚の基礎ですね。自分の前歯がふらふらする、ふらふらした前歯がけしの花のようだと、けしの花=前歯、こういう感覚、これは生き物感覚だと思います。生き物同士の感覚だと私は思います。この感覚が大事だという思いがだんだん募ってまいりまして、現在ではそこから私もアニミズムということがわかってきたのではないかと思っております。
この、なんでも自前の言葉で語ってきた人に、アニミズムなどという安手のテクニカルタームを使って欲しくないという気持ちはそれとして(「生き物感覚」でいいじゃないか)、ここで語られている思いは口先だけのことではなくて、現に掲句などにおいて、力強く実践されているわけだ。かくも大事にしている、かくも感謝している妻を、猪と「同じような生き物同士」として描き出しているところに、兜太の「生き物感覚」の本気は現われているだろう。そして、その本気を生動させている「仕草も去る」という措辞のみごとさ。ただし、上五「橋越えて」がちょっと受け取りにくくはあって、直前に〈春のこの峡若き日の亡妻(つま)橋の上〉〈野火橋を一気に焼けり人の死も〉の二句があるところを見ると、何か個人的な思い出に結びついているとおぼしく、やや消化不良の感が残る。なお、掲句に限らず猪の句はこの句集全体に幾つもあり、中では、Ⅰに載る
猪(しし)の眼を青と思いし深眠り
が秀吟であろう。〈よく眠る夢の枯野が青むまで〉(『東国抄』)の再奏のようでもあるし、〈猪がきて空気を食べる春の峠〉(『遊牧集』)、〈冬眠の蝮のほかは寝息なし〉(『皆之』)、〈おおかみに螢が一つ付いていた〉(『東国抄』)といった名作の系譜につらなるもののようでもある。
秋遍路尿瓶を手放すことはない
春闌けて尿瓶親しと告げわたる
ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな
私事ということになるのか、じつは熊猫荘にはお邪魔したことがある。生業の方で、ここに詠まれている尿瓶について取材しに行ったのだった。すでにみな子夫人は亡くなっておられ、庭には木瓜の花が咲いていたと記憶する。尿瓶は一本ではなく、メインとサブ、旅行用、未使用のスペアと四本あって、サブというのは冬用で、寒くなると尿の量が増えて一本では間に合わないという話だった。未使用品まで出てきたのは、使用済みのものはあんまりだからというお嫁さん(ご長男の奥様)のご配慮であったが、こちらとしては未使用品では意味がなく、かといってさすがにメインは公開がはばかられる状態になっているので、程よく曇りのかかったサブを借りて帰り、透過光で写真を撮った(綺麗なオブジェのような写真になりました)。そもそもベッドに寝たきりの病人ではなく、尿瓶など必要ない健康体でありながら、夜だけとはいえあえて尿瓶を使っているところに兜太の特異な肉体観があるというか、排泄ひとつについてまで考え尽くし、意識化してしまうこの態度がすなわち前出「日常で書く」に言うところの「思想を肉体化してゆく態度」なのであろう。「手放すことはない」とは、「尿瓶を」である以上にその「態度を」をなのである。
『日常』は、二〇〇〇年秋から二〇〇八年夏までの八年間の作を収めている。したがってこの間、同時多発テロやアフガン戦争、イラク戦争などのことがあり、集中その関連の作も散見する。
ニューヨークなどに無差別テロ 二句
危し秋天報復論に自省乏し
新月出づイスラムの民長き怒り
左義長や武器という武器焼いてしまえ
ブッシュ君威嚇では桜は咲かぬ
薄氷に米国日本州映る
民主主義を輸出するとや目借時
戦さあるな白山茶花に魚眠る
ご覧の通りであって秀句はない。それこそ、造型で立ち向かわねばならないところに即興で応じてしまった按配で、やはり造型にはある程度若さ、粘りを可能にする体力が必要なのだろうと思う。しかし兜太は五十年前と変わらず兜太で、われわれには失敗する権利があるのだということを教えてくれているのだとも言える。以下、傾向によらず興に入った句を挙げる。
秋高し仏頂面も俳諧なり
冬近し車窓を過ぎるもの黄昏(たそがれ)
薔薇の谷狼無表情で通る
盆の沢崩れて魂(たましい)通れない
いのち確かに老白梅の全身見ゆ
十分前朧の街を歩いていた
虚も実も限無(きりな)く食べて秋なり
兜太が一時、右顔面神経麻痺になったことは、その間もずっとテレビに出ていたし、ご存じの人も多かろう。評者が熊谷にうかがった時は、ちょうど治りかけの頃だった。句に見える、「仏頂面」や「無表情」の語は、この麻痺のことを指しているのではないが、もちろん老いとかかわって使われているのではあろう。居直り、開き直りというのではなく、かといって感傷的な諦念でもなく、とにかく自らの老化に伴う「仏頂面」「無表情」をひとつの現実として受け入れることで、そこにかえってある表情が生まれている、そんな句ではあるまいか。さればこそ、「薔薇の谷」という一語にこめられた思いが、いろいろに想像されもするのである。
アボリジニ跳び込んで抱きつくジユゴン
誕生も死も区切りではないジユゴン泳ぐ
句集は〈ある日ふと 七句〉と前書した一連の作品によって閉じられる。全句ジュゴンのことを詠んだ不思議な連作。おそらく、テレビで目にした映像を見たまま句にしたのだろうが、「ある日ふと」という前書が暗示する突然の幸福感がまばゆいばかりの絵になっていて、これをフィナーレにしたかった気持ちはとてもよくわかったのである。
(*1)『金子兜太の世界』 「俳句」別冊
角川学芸出版 九月十日刊行予定
(*2)金子兜太句集『日常』
ふらんす堂 六月五日刊
(*3)長谷川櫂句集『富士』
ふらんす堂 五月八日刊
(*4)髙柳克弘句集『未踏』
ふらんす堂 六月二十二日刊
(*5)正木ゆう子句集『夏至』
春秋社 六月十二日刊
(*6)坪内稔典句集『水のかたまり』
ふらんす堂 五月二十日刊
(*7)一九五七年十二月二十九日付。引用は
『定本高濱虚子全集』第十二巻より。
(*8)日野草城第六句集『旦暮』(一九四九年)
のエピグラム。引用は全句集より。
(*9)「現代詩手帖」一九七三年十月号。引用は
安西篤『金子兜太』より。
(*10)「平成20年度 国際俳句フェスティバル
記録集」 愛媛県文化振興財団
-------------------------------------------------
■関連書籍を以下より購入できます。
0 件のコメント:
コメントを投稿