・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
空澄みてまんさく咲くや雪の上
『雪嶺』所収
中西:雪国の早春を遺憾なく描いている句です。平明な中に精神の高みを見るような景色です。
また、色鮮やかな絵画的な句ですが、この大らかな外光的な風景句は、まさに「馬酔木」の作者のものです。句が開放的なことも見逃せません。まるで、雪原に心を解放したようです。佐久平に待ちに待った早春が来た歓びの句です。
句の形は、
金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎
うつくしき芦火ひとつや暮の原 阿波野青畝
と同型です。対象に焦点を絞っていって、下五で対象を入れた全景を見せています。茅舎と青畝の句が露と石、芦火と原の二つから成り立って、それぞれ、露と芦火という対象に迫っているのに対し、遷子の句はまんさくと雪に、もう一枚加わえて空のことを言っています。
この時作者の視線を、はじめは雪原のまんさくから少し離れた位置から、自分の身長の高さに見たものと思いました。そうしますと、雪と空はなだらかな水平面を作っています。それにまんさくの木が中央に垂直に立っている景色と受け取ったのですが、そうしますと、「雪の上」が説明的で、すこし緩むように感じました。それで今度は、「空澄みて」は雪の色やまんさくの色を鮮やかにする装置で、実際は「雪の上」にまんさくの花を見た、つまり高いところからまんさくを見下ろした景色なのではないかと思ったのです。そのように解釈しますと先ほど気になった緩みがなくなります。どちらにしても雪の景色は地面のものを覆い隠しますので、省略が効いた景色となりますが、今は後者の視線と思っています。「空澄みて」はまた、その時の遷子のこころのあり方を投影し、情趣のあるものにしているようです。
原:前回の句で、下五の置き方がぞんざいという意見に共感しましたが、今回の「雪の上」にも一見そんな印象を受けました。この部分がまるで付け足しのようで、一読、全景が一瞬にして眼前するというふうには感じられないのです。中西さんの感じた第一印象もおそらくそうだったのではないでしょうか。
その後、何回か読み直しながら、佐久地方の厳しい冬の後の春の訪れを思い浮かべてみますと(といっても、ごく一般的な北国の春を想像するしかないのですが)、青空を背景に、百花に先駆けて咲くまんさくを眼にした喜びが推察され、「空澄みてまんさく咲くや」までは思わず口を衝いて出た素直な描写、そしてここで一拍置いたのち、「まだ雪がこんなに残っているのになあ」という嘆声がこめられた「雪の上」の一語だったように感じられてきました。
心の流露に素直に従って仕立てられた一句と言えばいいでしょうか。
深谷:まさに馬酔木風の絵画的な句です。印象鮮明で、まるで一枚の絵を眺めているような気分にすらなります。
中西さんは、当初、下五の「雪の上」に緩みを感じたと指摘されておられましたが、私はむしろ「澄みて」と「咲く」と二つの動詞を並べたところに緩みを感じました。つまり、中七の「や」で切れると考え、「空+まんさく」vs「雪」という構造と読んだ訳です。ところが、上五の「て」で大きく切れると捉えれば、「空」vs「まんさく+雪」となり、まず白い雪の上に黄色いまんさくが咲いている小景があり、その背景として真っ青な空が広がっている、という構造になります。中西さんがご指摘されたことを自分なりに咀嚼し、このような理解に辿り着きました。
実は、最初、文章で読ませて頂いた時には、今ひとつ釈然としなかったのですが、冒頭に記したように、この句を「一枚の絵」と考えれば、むしろこの方が素直な構図である、ということに気がつきました。そして、そう考えれば後者の解釈をとるべきだと思い至った訳です。そうなると先ほど申し上げたことも「(間で大きく切れているため)動詞を二つ並列させた」訳ではなくなりますので、気にならなくなりました。
この「空の澄んだ色」はもちろん秋の澄み渡った透明感とは異なります。明るいブルー、春の到来を感じさせる色です。そして、言うまでもないことですが、まんさくは「まず咲く」が訛ったとも伝えられる、早春他に先駆けて咲く花です。雪にも春の日差しが反射してキラキラ輝いていることでしょう。要するに、この句はひたすら明るさに満ちていますし、その主題は春の訪れに対する心からの歓喜でしょう。二年ほど前まで青森に居住していましたが、長く厳しい冬を経たあとの春の到来は、雪国に住む者にとって何ものにも代え難い喜びなのです。
窪田:『しなの植物考』(丸山利雄著 昭和47年 信濃毎日新聞社発行)によると、信州でマンサクは更級以南の各地にあり、また、マルバマンサクは、マンサクの変種で下水内、上水内、下高井、北安曇(いずれも雪の多い地方)に分布するとあります。南佐久ではキンルバイという呼称があるようで、これは金縷梅(マンサクの漢名の当て字)からきているのだそうです。
ところで私は、野生のマンサクを今まで見たことがありません。この辺りのいわゆる里山には、山茱萸に似たアブラチャン(私の地方では、ジシャといいます)が、春の先がけの花として印象が強い花です。おそらく掲句のマンサクは、遷子の家の庭にでも咲いたものではないでしょうか。マンサクはそんなに高くなる木ではありませんので、高い所から俯瞰してこれを見るのは、少し難しいのではと思いました。しかし、中西さんの場面設定には同感しました。構図的にはリアリティーがあり、色彩の鮮やかな対比による明るさが印象深い句となっています。厳しい佐久の冬を耐えた遷子の心の有り処は、私たち信州人のものに他なりません。気持ちの良い句です。
筑紫:遷子の初期作品にも通じる、美しい自然観照の作品です。もともと「馬酔木」の自然美の探究から俳句を始めた遷子ですから、そうした素質は最後まで残っています。自然観照に専念した時代をあげてみると、
草枕時代(昭和11年~15年)・・・馬酔木巻頭時代
山国時代(昭和26年~)・・・・・高原俳句時代
その後・・・・・・・・・・・・・折に触れて
となるでしょうか。
遷子の草枕時代はじつは「馬酔木」にとっても、自然観照において重要な時代であったのではないかと思います。水原秋桜子においても、田園、郊外、古都を素材にした俳句から、自然の奥深くに入る作品が生まれはじめたのはこの時期ではないかと思われます。
飛騨の国をうつろとなして霧湧けり 『秋苑』
水漬きつつ新樹の楊真白なり 『岩礁』
瑠璃沼に滝落ちきたり瑠璃となる
遷子の同じ頃のことを、『山国』序文で秋桜子はこのように述べています。
遷子君を特に注意してゐると、その熱心さは実にたいしたものである。馬酔木伝統の吟行の名所は悉く見つくしてしまふ。二、三の人が熱心であつた探鳥会には必ず加はるし、「野鳥」の人達と共に富士の裾野へもゆく。またその頃は連作が流行していたから、好い題材を見出しては詩作をするといふ具合である。
注意したいのは遷子の熱心さよりも、「二、三の人が熱心であつた探鳥会には必ず加はるし、「野鳥」の人達と共に富士の裾野へもゆく」です。秋桜子の遷子追悼文によれば、この「二、三の人」の中心が山谷春潮であることが分かります。
山谷春潮は東京大学応用工学科を卒業後、日清製粉に就職、しかし医学系出版社である日新書院を起こした父徳治郎が倒れたためその経営を引き継ぎました。やがて、昭和八年に「馬酔木」に入った春潮は日本野鳥の会の主宰者中西悟堂にも師事し、野鳥観察に参加すると共に野鳥の会の事務局を引き受けます【注】。こうした俳句と野鳥観察の成果が名著『野鳥歳時記』であり、野鳥観察の古典であるばかりでなく、馬酔木俳句の根本を説いていることが分かります。
不思議な機縁は、春潮が医学系出版社である日新書院の経営者であることから、東大病院内科の島薗教授の主催する卯月会の幹事をやっていたことです。この卯月会に、島薗内科に臨床研修医として入局してきた遷子がいたのです。こうして遷子は、この他に野草に詳しい新井石毛などとともに、春潮らと新しい素材の俳句に熱中するのです。
渓とざす霧にただよひ朴咲けり
鶺鴒に滝つ瀬上より上より落つ
などが詠まれています。
私は遷子の自然観照俳句を眺めるときに、ことさらいつも高原俳句を取り上げることは不適切ではないかと思っています。高原俳句以前にその源は求めたいと思っています。
山見んと分けゆく桑の芽吹きたる
瀧をささげ那智の山々鬱蒼たり
瀧壺やとはの霧湧き霧降れり
すさぶ霧天に白銀の日を駐(とど)む
これらの句には、石橋辰之助の山岳俳句の先蹤があるかもしれませんが、その後続く自然観照俳句(高原俳句のような)の先達としての存在感を充分もっていると思います。掲出の「空澄みてまんさく咲くや雪の上」にも、そうした若い香りが残っているように思うのです。とはいえ、戦前の緊張した自然観照の厳しさにくらべるとずいぶん穏やかになってしまっていると感じたのは皆さんのご指摘のとおりです。それが文学として適切かどうかは別として、戦前の描写技術はたいしたものであることは間違いありません。
【注】戦中戦後の困難な時期を野鳥の会の事務局(実質は本部)を引き受けた山谷家では、本業を停止して、家族総動員で会員にあてる会報の宛名書きをすることになったといいます(次男の倉本聡氏談)。春潮は、こうした苦労の中で患い、昭和27年に53歳でなくなっています。馬酔木俳句と野鳥の会の為にささげた人生でありました。
中西夕紀10句選(第1回改の改)・・・ご注意ください
戻り来しわが家も黴のにほふなり⑨ 『山国』
春の町他郷のごとしわが病めば④ 『山国』
暮の町老後に読まむ書をもとむ 『雪嶺』
空澄みてまんさく咲くや雪の上⑳ 『雪嶺』
鶏頭に飯待つ新聞休刊日 『雪嶺』
幾度ぞ君に清瀬の椿どき 『山河』
雪降るや経文不明ありがたし 『山河』
患者来ず四周稲刈る音きこゆ 『山河』
高空の無より生れて春の雲 『山河』
鏡見て別のわれ見る寒さかな⑭ 『山河』
はじめに・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔1〕 冬麗の微塵となりて去らんとす・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔2〕 冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔3〕 銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔4〕 春の町他郷のごとしわが病めば・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔5〕 くろぐろと雪片ひと日空埋む・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔6〕 筒鳥に涙あふれて失語症・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔7〕 昼の虫しづかに雲の動きをり/晩霜におびえて星の瞬けり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔8〕 寒うらら税を納めて何残りし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔9〕 戻り来しわが家も黴のにほふなり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔10〕 農婦病むまはり夏蠶が桑はむも・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔11〕 汗の往診幾千なさば業果てむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔12〕 雛の眼のいづこを見つつ流さるる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔13〕 山河また一年経たり田を植うる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔14〕 鏡見て別のわれ見る寒さかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔15〕寒星の眞只中にいま息す・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔16〕病者とわれ悩みを異にして暑し・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔17〕梅雨めくや人に真青き旅路あり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔18〕老い父に日は長からむ日短か・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔19〕田植見てまた田植見て一人旅・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
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