加藤郁乎『俳の山なみ 粋で洒脱な風流人帖』を読む
・・・高山れおな
愛書家ではないはずだが、先だって松瀬青々『妻木』(*1)の初版本が某古書肆の目録に一万数千円で出ていたのを思わず買ってしまった。しかし、普通は二、三十万からする本がその値段で買えるについては“わけ”あり物件であることは申すまでもなく、背がクロース装に改変され、四分冊になったうち「夏之部」の表紙が、子供の悪戯であろうか、墨でベタベタに塗りたくってあるというのがその“わけ”なのであるが、美本か否かは全然気にならないのは、やはり愛書家ではないということなのだろう。ともかく、『妻木』を手に入れて少しは嬉しかったものだから磐井師匠に「持ってますか」と自慢がてら尋ねたところ、「持ってませんが、明治時代の句集は、国会図書館のデジタルアーカイヴで全文読めますからねえ」と鼻で嗤われた。こういう無風流の人が、当世風流家元たる加藤郁乎と親しく、加藤郁乎賞(*2)まで貰っているのも思えば不思議である。もっとも、生きているうちから自分の名を冠した賞を創設するというのも、どこがどう風流なのか粋なのかはなはだわかりにくい話ではあり(大江健三郎賞というのもあるが大江は粋とも風流とも無関係な人だ)、評者のような不通の者には一向知られぬ奥義があるのに違いない。これを皮肉と取られては不本意で、筑紫の第二句集『婆伽梵』が出たおりの加藤の書評(*3)などは、位の高い風流交情に、初学の評者なども読んでくらくらと惹きつけられたのも確かである。
一切衆生悉有仏性、のでんでゆけば人間さまと申さず草木瓦礫にいたるまで仏性がある。蔵経読破はおろか涅槃経ひとつ解さぬ俳者流といえど、有名無名を問わぬ仏性に無関心でいられよう道理はまずなかろう。筑紫磐井はこうした盲点を衝き、いいところに目を付けた。有季か無季か、そんな何百年ぽっちのさかしらな挨拶でなく、有情無情を俳に諧に一切衆生悉皆成仏といった不滅の主題に挑んだのがありがたい。
と書き出した四百字詰三枚にも足りない短文ながら、なかんずく、
襲名は熟柿の如し団十郎
の句を読解しつつの結びには参った記憶がある。
江戸歌舞伎の市川宗家は初世団十郎の幼名以来、前名、後名に海老蔵の名跡をもってする。これの海老茶色を熟れ柿の色に宛てたには恐れ入った。三升紋、三筋格子あたりがにわかに目に浮かぶような風流句にはめったに出会えるものでない。野暮半ちくの一見俳句風ばかりが流行自滅する昨今、「海老様に蛇の目さしかく白雨かな」と吐く助六ばりの心意気は古きを知った新しみである。並々ならぬ含蓄に加えた筋目と趣味のよろしさ、本物の到来と謂いつべし。
現在では「海老様に蛇の目さしかく」など大して感心すべき句とも思えぬが、「襲名は熟柿の如し」は以来、当方の詩嚢に蓄えられて今に変わらない。ただ、郁乎の熟柿=海老茶色の読みはそうもあろうけれど、評者はこの句を一見した時、一九八五年に襲名した当代の団十郎が、頬の張ったあの顔を紅潮させて口上を述べるのを「熟柿の如し」と譬えたのだと思い、郁乎の教えはそれとして、なお自説をも捨てられずにいる。やがて煌々と照らされた舞台上に、一個の巨大な柿が鎮座するのが見えてくる、マグリット風(?)のイメージが我が脳裏にわりに確固として存在しつづけているようである。
郁乎の新著『俳の山なみ 粋で洒脱な風流人帖』(*4)は、「俳句αあるふぁ」誌における五年に亘っての連載をまとめた「第一部 俳人ノォト」と、おなじく「俳句界」誌で主に句集『江戸櫻』『初昔』について自解した連載をまとめた「第二部 實話私註自句自解」からなっていて、分量的には前者が後者の倍以上あるだろう。第二部に関して言えば、正直、読んでいるうちにややゲンナリした気分になってきた。これはほぼ、夏石番矢の「うたげのあとのよだれ」(*5)でなされた郁乎批判の埒を一歩も出ない仕事のようだ。どうにも愚痴っぽいし、江戸文化に関する博覧強記はいわでものことながら、江戸趣味のトリビアには個人的に興味が持てない。しかもそこに、部分的ではあるが、例の神がかりの気配も立ち添うのだからかなわない。「第一部 俳人ノォト」の方は、これとは違って読み甲斐がある。以下、第一部の目次。
名伯楽
子規に隠れた高士 柴田宵曲
荷風が兄事した男 籾山梓月
「業俳」「遊俳」の祖 岡野知十
雪中庵十二世 増田龍雨
最後の江戸ッ児俳人 小泉迂外
内田百閒を俳句へ導いた 志田素琴
風流文人
芥川龍之介の主治医 下谷空谷
漱石門の異色俳人 内田百閒
劇作・小説・劇評 岡本綺堂
私小説の雄 上林暁
花柳小説の巨匠 永井荷風
際立つ演劇俳人 戸坂康二
尾崎紅葉に続く 巖谷小波
大衆文学の泰斗 田中貢太郎
詩人俳諧師 日夏耿之介
風流俳人
俳書蒐集の祖 角田竹冷
「いとう句会」生みの親 内田誠
龍雨・梓月の高弟 田島柏葉
町医者にして古俳書蒐集家 大野洒竹
本の神田の生き証人 池上浩山人
文学酒場の看板娘 岡崎ゑん女
実業界
三菱財閥本社 第四代社長 岩崎巨陶
澁澤榮一 四男 澁澤澁亭
秋田魁新報社長 安藤和風
書物展望社創業 斎藤昌三
東京市長 永田青嵐
俳文学者
近松全集翻刻校訂 藤井紫影
関口芭蕉庵主人 伊藤松宇
洒落本・黄表紙・人情本 山口剛
寿貞「妾」説 沼波瓊音
ひと月ばかり前、鎌倉の神奈川県立近代美術館に展覧会を見に行く途中、小町通りの古本屋を覗くと上林暁の句集が出ていた。大して高くもないし誘惑に負けそうになったが、その高くも無い金を払うと美術館に入れなくなるおそれがあった(というくらいに財布に現金が入っていなかった)ので、なんとなく買わずに済ませてしまった。その直後に本書に上林暁の名を見つけ、奇遇に驚いたのであるが、
昭和五十一年、待たれた上林暁句集『木の葉髪』が漸く上梓された。七十四歳にして成った最初で最後の個人句集、百九十四句を収める。
とあって、まさしく評者が鎌倉ですれ違った本に違いない。幸いというべきか、郁乎が引いている十余句を見る限り、買い損ねたことを後悔するほどの句集ではないようだ。ただ、芸術院会員に推挙されたおりの、
文化の日勲章もらひて俗化せり
という句だけはちょっと面白かった。
さて、「俳人ノォト」は、目次に見る通り、この上林暁を含め、全体を大きく「名俳楽」「風流文人」「風流俳人」「実業界」「俳文学者」の五つにグルーピングし、計三十人について月旦評を加え、代表句若干を掲げている。何人かの例外を除けば、俳句作品を読むこと自体が困難な作者が多いので、まずなによりアンソロジーとして貴重なものになっている。ただし、これは結果としての話であって、郁乎にとっての第一の目的は、アンソロジーというよりは自分流の俳家奇人伝(郁乎風にいえば“風流人帖”)をものすることにあったのだろう。だから、「俳人ノォト」と冨田拓也の「俳人ファイル」とに、今のところ一人も重複がないのも当然なのだ。もちろん、今後、冨田がとりあげる可能性がありそうな名前もあるが、人選においてマイナーポエットに傾きがちとはいえ、冨田がともかく作句中心の作者を読み返し、究極のアンソロジーを作ろうとしているのに対して、郁乎が紹介しているのは多くの場合、作品専一とは別のところで俳句と関わった人たちなのである。
それにしても加藤郁乎はなぜ、人として必ずしも無名ではないにもかかわらず、俳句とのかかわりを忘れられがちであったり、学者・俳書蒐集家と目されて作者として遇されることの薄い人たちばかりを集めて一書を編んで見せたのか。作者としての名利を追わず、俳句を通じて過去の世界へ沈潜することを喜びとしたそれらの人々が、郁乎の理想を体現しているのが無論大きい理由であろう。その意味では、宵曲、知十、素琴、竹冷、洒竹、松宇あたりの面々が、なんといってもこの「俳人ノォト」に込められた思いを、最も端的に示す存在といえる。加えて、一般的な俳句史の理解に追随するばかりでなく、自分の眼で確かめ、舌で味わい、作者のひとりも見つけてみよ、という現在の俳句界への叱咤もそこにはあるだろうか。空谷、巨陶、澁亭(しぶてい)といった人たちを、稀覯の句集をもとに論じるあたりには、殊にそうした気味を感じる。
最後に書中から興に入った句を引く。
ホトトギス社(句)会
行年や人徒らに句を作る 宵曲
行年や夕日の中の神田川 龍雨
薇の綿からぬけて暖かき 空谷
素琴先生
春霜や箒に似たる庵の主 百閒
元日に腹切る歌舞伎芝居かな 綺堂
妓は十六ちんぷんかんの後朝や 貢太郎
*「大正十二年四月より七月にかけて支那に
遊ぶ」より揚州にての句
煙突は線香に似て霞みけり 貢太郎
木の葉散る中にはためくおしめかな 貢太郎
(※)加藤郁乎『俳の山なみ 粋で洒脱な風流人帖』は著者より贈呈を受けました。記して感謝します。
(*1)松瀬青々句集『妻木』 冬之部 春俎堂 一九〇四年/新年及春之部 春俎堂・宝船発行所 一九〇五年/夏之部 春俎堂・宝船発行所 一九〇五年/秋之部 春俎堂・宝船発行所 一九〇六年
(*2)『定型詩学の原理』(ふらんす堂 二〇〇一年)により第四回加藤郁乎賞を受賞
(*3)加藤郁乎「筑紫磐井句集『婆伽梵』――隠れ日知り――」/「俳句空間」№22 Feb.1993
(*4)加藤郁乎『俳の山なみ 粋で洒脱な風流人帖』 角川学芸出版 七月二十日刊
(*5)夏石番矢「加藤郁乎論 うたげのあとのよだれ」/『天才のポエジー』 邑書林 一九九三年
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