2009年8月9日日曜日

髙柳克弘句集『未踏』をよむ(1) イカロスの羽根・・・中村安伸

髙柳克弘句集『未踏』をよむ(1)
イカロスの羽根

                       ・・・中村安伸

二十代の俳人によるものに限れば――あるいは限らずとも――昨年最も話題を呼んだ句集は佐藤文香の『海藻標本』であった。今年はまだ立秋がすぎたばかりだが、昨年の『海藻標本』を凌ぐほどの話題を集めつつある句集がある。それが、今回とりあげる髙柳克弘の第一句集『未踏』である。

『海藻標本』については、句集の評価が高まるにしたがって佐藤文香自身の名声も増していったという感があるが、『未踏』の髙柳について言えば、句集出版以前に評価、名声、人気を存分に得ており、満を持して世に問うた一篇という印象である。

さて、これら二つの句集はどちらもふらんす堂から出版されているのだが、構成という点においては対照的である。

『海藻標本』は、タイトル、章構成、句の配列など、句集をひとつの作品として読ませるためのさまざまな工夫がこらされたものであった。それについては昨年書いた私の記事「佐藤文香句集『海藻標本』を読む(1)」にて述べたとおりである。

一方で『未踏』の章構成は、制作年度別に章立てし、昇順に並べるという最もスタンダードなものである。また、句集のタイトルは集中の句より採られたものであり、なおかつその句は句集冒頭に配置されている。非常にオーソドックスで、明快な構成であるといえるだろう。

この二冊は装丁も対照的である。中間色と手書き文字を用いて、レトロでやわらかな印象を与える『海藻標本』に対し、『未踏』は白地に黒のはっきりとした明朝体の文字でタイトルと作者名が記され、中央に彗星を思わせる漆黒のイメージが描かれている。小さく赤の文字で記されたローマ字の作者名も、オーソドックスで効果的なアクセントとなっている。印象明瞭なデザインといえるだろう。

若手俳人中、注目度という点においては双璧と言ってもよい、佐藤と髙柳ではあるが、二人の経歴もまた対照的といえるかもしれない。

俳句甲子園や芝不器男賞という、比較的新しい形態の賞で活躍し、結社に所属していない佐藤が新型の俳人であるとするなら、「鷹」という大結社の中で注目をあつめ、総合誌の賞を受賞した髙柳は、本格派の俳人ということになるだろう。

作風そのものはさておき、第一句集というかたちで自らを世に問うにあたって、さまざまな仕掛けを用い、挑戦的なアプローチをとった佐藤は、いかにも新しいタイプの俳人らしいと思う。また、大通りの真ん中を闊歩するような髙柳の姿勢からは、本格派としての余裕を感じる。

世間が自らに何を期待しているか、二人ともそれをよく知っているということだろう。

 *

さて、まずは句集のタイトルのもととなった冒頭の一句を読んでみよう。

ことごとく未踏なりけり冬の星

冬の澄んだ空気のなかで、明瞭に見えている星たち、そのひとつひとつ、すべてが「未踏」であるという。
未だ踏まれず、すなわち、その地をいつかは踏むであろうという仮定を前提とする語である。

この句は、冬の星を見て、いつかは人類もそれらに到達するであろうというような、気宇壮大にして楽天的な句なのだろうか。そのように読むことも不可能ではないが、句集全体のトーンには不釣合いである。冬の星へ作者の内面を投影したものとして読むべきである。

つまり冬の星とは、自らの内面に散らばった言葉の断片であり、俳句形式の可能性という空間に浮かぶ未だ書かれざる句の数々であり、歳時記という宇宙にきらめく季語の数々といったものを、象徴的にあらわすものなのであろう。

もちろん、中七で切れるため「未踏」なのは「冬の星」ではないとも言えるが、切れつつも「冬の星」にゆるやかにかかっているとすべきだろう。

さて、この句は実際に冬の星空を目にした感懐を述べたものなのだろうか。
作者に問うてみなければわからないことではあるが、その回答が重要であるとは思わない。ただ、澄んだ空気の中、くっきりとした冬の星を目にするという機会が、現代のわが国、とくに都会においてほとんど失われていることは確かである。

このように、季語のなかには、その本来の姿が現実にはほとんど残されていないというものが少なくない。髙柳たちの世代になると、ノスタルジーの中にすら存在せず、歳時記の中でしか出会うことのない季語も多いだろう。

極論すれば、現代の俳人たちにとって季語とは、現実には存在せず、あくまでも歳時記の中に存在するものである。そして、現実の季物が存在しても、それは対応する季語を知るためのよすがにすぎないという転倒が起きている。それは私自身を振り返ってみても然りである。見たこともない花や鳥の名、訪れたこともない祭の名などを、とりあわせとして用いることに特別の抵抗を感じることはない。また現実のスイカをさす語と季語の西瓜は、ふたつながら別の次元のものとして存在しているのである。

是非はともかく、季語とは子供たちが興じるカードゲームの、怪獣や兵器が描かれたカードのようなものかもしれない。その性能、特質を知り尽くしているかどうかがゲームの勝敗を決めるのであり、歳時記はそれらを詳述した解説書ということになろう。

私よりも十歳近く年下の髙柳、そしてさらに年下の佐藤、前述のとおり対照的な出自ともいえる彼らではあるが、伝統的な有季俳句を作っているという点において共通している。そして、彼らと同世代の俳人たちのほとんどが、そのような作風の俳句を作っている。その事実は、彼らが前述のような季語のゲーム性を割り切って受け入れているということを示すのではないだろうか。

佐藤と同年の谷雄介が、自身のブログで無季俳句について次のように述べている。

〈世界で一番かんたんな無季俳句の作り方は、次の数式で表される。【有季俳句-季語+季語ではない言葉】〉(谷雄介「ハイクラヴァー」より「世界で一番かんたんな無季俳句の作り方」2009年6月3日)

有季俳句の季語の部分を他の語に置き換えると無季俳句になる、という谷の発想は「季語」というカードを用いた「俳句」というゲームの、バリエーションのひとつとして無季俳句をとらえようとするアプローチだろう。

私と同世代の俳人の多くが、季語の有無に拘泥しない、所謂前衛俳句寄りの立場をとっているのは、季語のゲーム性について、よりナイーブに受け止めてしまったからなのかもしれない。

  *

すこし脱線してしまったが、句集の内容についての検討に入る前に、作者自身による「あとがき」について述べておきたい。

髙柳はこの句集を「二十代の墓碑」として編んだという。いささか気負いとロマンティシズム過剰な言葉ではあるが、このような表現にもあらわれている「死」を身近に感じる意識こそが、髙柳の作品を特別なものにしている面はあると思う。それについてはのちほど述べる機会があるだろう。

そして句集のタイトルに関連する以下の一節は、注目すべきものだ。
〈「未踏」というタイトルも気負いすぎた感があるが形式の可能性を攻め続けることが形式への最大の礼儀と信じる自分の正直な思いがこもっているため、動かしがたかった。〉

この「形式の可能性を攻め続けることが形式への最大の礼儀」というフレーズは、句集の帯にも使われている。

私は当初「可能性を攻め続ける」という彼の言葉と、安定した技量に支えられた堅実な作風との間にギャップを感じずにはいられなかった。しかし、彼は形式の可能性を「拡張する」とは言っていない。

この言葉から冒頭の一句へ立ち戻ってみると、彼にとっての未踏の野とは、冬の星のように、遥か遠くとも、はっきりと視界の中におさめられているものなのである。彼の道のりは、霧の中を手探りで進むような不確かなものではなく、堂々と正面を見据え、まっすぐに突き進むものだ。少なくとも本人はそのように捉えているだろう。

背筋を伸ばし、頭を上げ、遠い高みを見据える姿勢。「冬の星」の句を冒頭に置き、タイトルにも「未踏」の語を用いることによって、髙柳は、そのような凛とした姿を読者に印象づけただろう。

同時に、曖昧な霞の中へは踏み込もうとしない彼の足どりに、ひとつの境界線がひかれていることは確かだ。それを限界と呼ぶべきか、節度と呼ぶべきかはともかくとして。

(次号につづく)

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