■佐藤文香句集『海藻標本』を読む(1)
・・・中村安伸
俳人とは、ある人が作ったすべての俳句作品の集合体である。
そのことに関連して、かつて私は以下のように書いた。
俳句の場合は、一般的に一句が独立したひとつの作品だととらえられているが、実際には、作品を分割する境界には複数の層があり、階層構造をかたちづくっている。「句」という単位を最小とし、その上位に「連作」あるいは句集の中の「章」という単位がある。さらに上位には「句集」という単位がある。この階層構造は可視的なものであり、読者の意識にも同じ階層が作られるのである。※1.
上記の文に付け加えるなら「句集」のさらに上の階層に「俳人」を置くことができるのではないだろうか、つまり「俳人」とは、彼もしくは彼女自身によって製作される作品なのである。
さらにこの考えを敷衍するなら、第一句集を発表するということこそが、俳人の誕生であるということができるかもしれない。余談だが、私自身を含め、句集を作っていない者は俳人としてまだ生まれていない、そのように考えることは私にとってたいそう魅惑的である。
それはともかく、佐藤文香の第一句集『海藻標本』は、かつてないほど強く、新しい俳人の誕生を印象づけた。
句集におさめられた俳句作品それぞれの強さはもちろんだが、句集が単なる作品集ではなく、ひとつの作品として完成しているという点で類をみないものだと思う。
タイトルになった「海藻標本」という語は、句集におさめられた俳句の中には出てこない。「標本」に関しては一句あるが、昆虫の――蝶の――標本である。
一般に句集のタイトルには、句集におさめられた代表作の一部をとって使用することが多いようである。私のもとに届く句集(多くはないが)のほとんどがそのような題名を用いている。もちろんそれには理由があって、句集そのものと、その題名のもととなった俳句の双方をたがいに強く印象付けるという、相乗効果を期待できるのである。
一方では、タイトルを提供した代表作に文字通り「代表」される俳句作品の集合体として、句集を印象づけてしまう方法であるとも言えるだろう。
佐藤があえてそうしたセオリーに反して独自の言葉を撰んだことは、人がやらないことをやりたいという反骨精神のあらわれかもしれないが、それにとどまらず、この句集を単なる作品の集合体でないと印象づける効果があったのだと思う。
それにしてもこのタイトルは、深読みを誘うものだ。
標本として保存するために乾燥させられた海藻は――海流に揺られ、ぬめりつつ輝いていたそれとは異なり――かさかさした質感の、多少色褪せてしまったものだろう。それでもやはり、それは海藻そのものが変質したものであって、写真や絵などとは異なる「実物」なのだ。
佐藤はこの句集におさめられた俳句、あるいはこの句集そのものを「海藻標本」のようなものであると言おうとしているのだろうか?
あるモノ、ある体験、ある発想、ある瞬間、それらを固定し、保存するために変質させる。それが俳句の作用だとする考え方には一理あるような気もする。
余分な水分を抜き取って標本を作る行為は、俳句の「省略」の技法に通じていると言えるかもしれない。
あるいは、自分自身の内面のくらがりを海にたとえて、その底から掴み出してきた海藻の束のようにして、俳句作品を生み出すという意志を伝えようとしているのだろうか?
からからに渇いて、萎びてもいるかもしれない物体と、そこに添えられている学術的に分類された名称から、はるかな海の底へ想像力を傾けることを好む、ということなのかもしれないが。
ところで、上記のような私の「海藻標本」に対するイメージは、少年時代の植物採集の際に作った、薄っぺらい紙のような押し葉や、窯の焚き付けに使えそうなドライフラワーの印象に結んでいるのかもしれない。
ところが、インターネット上でみつけた海藻標本データベース※2.で写真を確認してみると、質感はわからないものの、たとえば紅藻類の色などは思ったよりもずっと鮮やかであった。すくなくとも色を褪せさせずに保存する方法はあるのらしい。
佐藤はこの句集を三つの章に分け、それぞれを、その色にもとづく海藻の種別にちなんで「緑」「紅」「褐」と名づけてもいる。
さて、この本を手にしたとき、私は表紙のデザインが予想外に「古風」であることに驚いた。そしてその古風さに、やや狙いすぎというか、あざとさのようなものを感じたこともまた事実なのだ。
手書きのような風合いの明朝体で、句集名が本の中央にていねいに配置されている様子は、明らかに近年流行のデザインの傾向からは外れており、その色づかいもまた奇妙に古風なものと感じられた。これも前述の反骨精神のあらわれだろうかとも思ったのであるが。
しかし、くりかえし手にとり、読み返しているうちに、この本はこれとしていとおしいものだと思えてくるようになった。そのようにしてふたたび仔細に表紙を眺めてみると、ただ古風と感じられた文字の色は、前述の海藻標本データベースの写真にある、セロファンを拡げたような紅藻類を思わせる色合いであり、もちろんタイトルの『海藻標本』に関連していることは明らかなのである。
表紙のデザインもまた、周到に検討されたものであり、この句集をひとつの作品として纏め上げるうえで、一定の効果をあげていることを納得したのである。(次号につづく)
※1.「夢座」掲載「わたし自身のための羅針盤」
※2.神戸大学電子図書館「瀬戸内海藻類標本データベース」
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