2009年7月3日金曜日

遷子を読む(15)

遷子を読む〔15〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


寒星の眞只中にいま息す
     『雪嶺』所収

窪田:昭和43年作。句集の最後の方に収められた句です。

我が子は一人またひとりと独立していく頃。体調もまずまず良かった時期で、遷子にとっては平和な一時期の一つであったのでしょう。そういう心静かな時、自然との融合をあらためて感じているのではないでしょうか。また一方で老いを意識し始めたということでもあります。限りある命を悠久の宇宙の営みの中に置いて見ると、こんなにも小さな息をしている自分に、一種の淋しさや愛おしさを感じているのではないでしょうか。そして、今確かに息をし存在している自分を俯瞰しているような不思議な思いにとらわれるのです。掲句の少し後に、

櫻咲くわが生涯のこの今を

という句も置かれています。自然と自分の関わりを遷子はどんな風に考えていたか推測できるような気がします。

なお、掲句は私の手元にある句集『雪嶺』の見返しに、遷子の几帳面な字で万年筆で書かれています。求めに応じて書いたものでしょうが、遷子自身も気に入っていた句なのではないでしょうか。

中西:昭和43年、60歳間近、佐久。

この息は白い息です。白い息を見て生かされている自分を見詰めているようです。「いま」というどこか張りのある言葉が表わすものを思います。どこまでも清廉な心境を見るようです。精神的な高みで作られている句だと思います。

「息をしている自分を俯瞰しているような不思議な思い」という窪田さんの指摘に同感しました。実際は擂鉢状の底から、天を見ているのですが、なぜか天から底を見ているような感覚もするようです。いろいろな角度から作者の立ち姿を写す映像を頭に描きました。


遷子の大きな句は、どこか緊張感があるように思います。

雪嶺へ酷寒満ちて澄みにけり  『山国』
明星の銀ひとつぶや寒夕焼  同

このような句もあって、冬の厳しさと美しさを描いています。

寒星の句は、60に近いという年齢が『山国』の句より、さらに懐の深さを見せているようです。苦しさを乗り越えて、生きてきた重みが加わっているからでしょう。

窪田さんが、遷子の几帳面な字に触れておられますが、確かにこの句も几帳面な人柄が偲ばれる句だと思います。

不遜な考えかも知れませんが、もしこの下五を少し手直しして七七を付けたら、あるいは短歌としても通用する内容かなと思ったりしました。

原:昭和43年、遷子59歳の作です。満天の星の輝き。澄み渡った佐久の夜空が想像されます。別の話ですが、降るような星空を「星でぐしゃぐしゃの空」と形容した詩人がいたのを思い出しました。また、遷子と深い関わりを持った矢島渚男氏は佐久に近い丸子在住ですが、その作品に「星踏んで」との表現があったことも併せて思い出されます。辺りいちめんと言いたい程の星の数だったのでしょう。

「いま息す」は自分の現し身を宇宙の一存在として深い感動をもって受けとめた言葉と思います。宇宙や自然との交感をこの句は直截に言い表しています。これが、単なる叙述として終ってしまわないのは、句の背後に寒気、しんしんと冷えた大気の感触があって、それが読み手の共感を支えているように感じます。

掲出句は遷子の自然観の一端に触れるような作品ですが、彼の自然詠に、純粋客観と言うよりは体感的印象を覚えるのは、この自然観と関連することかもしれません。そして、窪田さんが引かれた2句の「いま」「今」の語には、現在を生きている自分自身に対する作者の強い思いを感じるのです。

深谷:窪田さんが指摘された通り、掲出句が書かれた時期は遷子の一生のなかで最も平穏な時代だったと言えるかもしれません。今まで取り上げてきた作品は、死と向かい合った晩年の闘病期の句、あるいは医師として接した患者たちの生活境遇に深い同情を寄せた句が多く、読む者にとってはある意味で息が詰まるような張り詰めた想いが充満していたのに対し、この時期の作品はほっとさせられるものがあります。もちろん、遷子らしい生真面目さは失われてはいないのですが。この時期、前年の昭和42年秋には愛娘を嫁がせ、夫婦二人の生活に戻り、若干の寂寥感と子供を育て上げた満足感が漂う、

子が嫁ぎ妻と二人の冬隣

という句も見られます。そうして迎えた翌昭和43年、句集ではその年の最初に掲出句が据えられています。窪田さんが仰ったように「自然との融合をあらためて感じている」情感がよく表されていると思います。なかでも、下五の「いま息す」という措辞には、悠久の時の流れの中に、今生きている自分が存在しているのだという実感がヴィヴィッドに伝わってきます。まさに、遷子にとって精神的にも充足した時期だったのではないでしょうか。

筑紫:先日、「俳壇」の25周年の祝賀会のあと、みなが三々五々と散る中、中西さんと事務的な打ち合わせ(いずれお話しする機会があるかも知れません)のため新宿でいつもの店でお酒を飲みながら話をしたあと、当然のことながら話題は「遷子を読む」に移って行きました。中西さんが言うには、なぜ、私(筑紫)がマジで遷子に関心を持っているか分からないというのでした。妙に戦略的で巫山戯た人間と思われているので(これは中西さんに限りませんが)、遷子に対する態度とは矛盾しているように思われるようです。ダブルスタンダードですから、と答えたのですが、よく伝わったかどうか分かりません。

例えば、私の関心の一方の軸には高浜虚子がいます。これには、なるほどと納得してくれる人も多いようです。虚子と言えば、巧緻で、指導や経営能力には長けていますが、二枚舌で(曾孫の坊城俊樹氏の形容)、女性蔑視で、機会主義者で、保守反動であることは誰でもよく知っています。虚子のこのシングルスタンダードだけで(勿論都合の悪いところは目をつぶった上ですが)俳句を作り続け、語っている人も多くいます。しかし、それだけが俳句ではないのは当然です。虚子の反対軸にいるのは誰でしょうか。水原秋桜子と言う答えは割合安直ですが、季題趣味――季感趣味と言う点では案外似ているように思われるのです。現代俳人を点検して行くと、いそうでいないのが虚子の対立軸をなす俳人ではないかと思います。遷子は巧緻ではありません(俳人である以上ある程度の表現技術は持っていますし、遷子は戦前10数回の巻頭を「馬酔木」で取っていますから巧緻でないわけではないのですが、巧緻でありたいと思っていないことは確かです)、虚子と対立するぐらいまじめであると思います(社会問題を取り上げるとまじめだ等という妄想をもってはいけません、文学的態度を問うているのです。私はまじめさで言うと秋桜子もそれ程まじめではないし、社会性俳句で言えば沢木欣一も能村登四郎も不まじめだと思います)。

話が多岐にわたるのを避けてここでは一つ、巧緻でない証拠をあげたいと思います。今まで皆さんが「遷子を読む」で取り上げた16句を眺めて見ると次のようになります。

冬麗の微塵となりて去らんとす
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな
銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ
春の町他郷のごとしわが病めば
くろぐろと雪片ひと日空埋む
筒鳥に涙あふれて失語症
昼の虫しづかに雲の動きをり
晩霜におびえて星の瞬けり
寒うらら税を納めて何殘りし
戻り来しわが家も黴のにほふなり
農婦病むまはり夏蠶が桑はむも
汗の往診幾千なさば業果てむ
雛の眼のいづこを見つつ流さるる
山河また一年經たり田を植うる
鏡見て別のわれ見る寒さかな
寒星の眞只中にいま息す

意味のない切字「かな」「けり」「をり」や感動詞「も」を除外すると、④⑥⑧例を除いて、13作品はみな散文構造だと言うことです(④も倒置法を元に戻すと散文構造になります)。文語を使っていますからこれを口語に改めて、さらに主語を補ったり接続詞を補ったり助詞を補ったりすると、現代の新聞記事や論説記事に近い表現となります。遷子の俳句に難解性が少ないのはこんな理由によるものです。

じつはこれが、「第二芸術」以後、「現代俳句」として戦後俳人の多くが求めた文体でした。第二芸術論により俳句は現代を詠めないという批判に対して、現代を読むために特有の文体として、古くさい切字や切れを使わず散文を五七五に投げ込みながら、なお、俳句のアイデンティティ(俳句性)を確立しようとした悪戦苦闘の歴史だったろうと思います。これは金子兜太のような前衛的な作者ばかりでなく、飯田龍太や能村登四郎にも顕著に見える傾向です。切字・切れを使わないで散文のように見えながらどのようにして俳句の固有性を感じさせるか―――「見えざる俳句性」を求める志向は、登四郎を経て現に私にまで続いているわけです。遷子にもその意識は強く表れています。遷子は『山国』(『草枕』ではなく)以降、函館時代の「鶴」の影響を受けた趣味的・古典的な文体を払拭して、散文にふさわしいリアリズムをベースとした俳句表現に進化して行くのです(これはお酒を飲みながら、中西さんと共感したところです)【注】

問題は、こうした単純な散文構造であるにも関わらず、「遷子を読む」でそれぞれの句を取り上げた人は遷子の句になまじな現代俳句以上に俳句――詩を感じていた事実です。秋桜子の影響を受けた流麗な表現がつくり出したものか、素材としたテーマの緊張によるものか、俳句性は安直な俳句形式(切字、切れなど)ばかりによるものではなく、我々がまだ見出していない原理もあり得る、遷子はそんなことを感じさせてくれるように思うのです。

掲出の句、普通の学校文法(橋本文法)と違って、接頭語や接尾語も独立詞と考えて分解してみるとよく分かるように、じつに細かい要素から出来ていることが分かります。

星の中にいま

単純な散文構造であるにも関わらず、なまじな作品以上に俳句――詩を感じていたと言う秘密は、こんなところにあるように思います。細かな要素から生まれるニュアンス、細かな要素の重なりから生まれる音楽性(特にこれが大きい!)、まだまだ俳句には神秘な要素があるように思うのです。

【注】福永耕二は晩年の遷子の句を「言葉は単純化し、切字を響かせず、おのれのいのちを見つめつぶやくような調子であり」と述べています(「相馬遷子覚書」)。じつは遷子には特定の時期を除いて切字は響いていなかったのです。


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