2009年7月18日土曜日

遷子を読む(17)

遷子を読む〔17〕


・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

梅雨めくや人に真青き旅路あり
     『山国』所収

原:句の成立時の状況を知らず、そのうえ、うろ覚えで申し訳ないことですがこの句について、「真青き旅路」の表現は具体性を欠く、との評があったと記憶しています。

けれどこの作品はそういう具体性の必要な句でしょうか。受け取るべきは別にあるのではないでしょうか。拙い言葉を連ねるより、飯田龍太のすぐれた鑑賞に肩代わりしてもらうことに致します。

やや抽象的な句であるが、抽象的なところがこの作品の見どころだろう。仮にこれを「我に真青き旅路あり」とすると、一見具象的になるように見えるが、「梅雨めくや」は底の浅いものになる。「梅雨めくや人に真青き旅路あり」は生きとし生けるこの世の人に、それぞれの人生行路があり、漠々たる梅雨景色を迎えたいまは、そのすべてがみどり一色に包まれているように思われる、という句意。作品の重心は、上五の「梅雨めくや」にあって、中七以下は、大きな自然相に包含された、誰彼もない人の世の姿。目をつむって想念にこころをゆだねたリズムが生きた句である。

私にはこの句が、以後の遷子の行く手を暗示するような作として忘れがたいのです。

深谷:私も「真青き旅路」が気になった一人でした。もっとも、原さんの基調コメントにあったような「抽象性・具体性」に関わることではなく、もっと単純にその意味をどう解するか、ということです。

素直に考えれば、龍太の鑑賞のように「(直接的には)梅雨時の雨に洗われた木々や葉の綠が鮮やかに映える、そんな道を進んでいく旅」、さらには「(隠喩として)人生行路」ということになるでしょう。俳句初学の頃、この句を何かの解説書で見た時もそう解しましたし、私なりに、なかんずく「青春期」を意味するものと考えました。ところが、その解説書では「真青き旅路」を「黄泉への旅路」を意味するとしてあり、大変驚いたのを覚えています。残念ながら、その出典を確認しようと、何度か書棚の本全部を引っ繰り返したのですが、ついに発見できませんでした。正直に白状すれば、この句はその時から(相馬遷子の名前すら知らなかったのに)とても気になる作品だったのですが、結局答えが出せず、「天為」200号の遷子作品評論でも採り上げ切れませんでした。

その意味で、今回この句を原さんが採り上げてくれたのは嬉しかったですし、相変わらず自分なりの答えが出せないままなので心苦しいのですが、皆さんの捉え方にとても関心があります。如何でしょうか?

窪田:一読、抽象的な句だなあと思いました。しかし、龍太の鑑賞「目をつむって想念にこころをゆだねたリズムが生きた句」には感心しました。私は、掲句は抽象的であるけれど瑞々しい未来を感じさせるな、とは思っていました。その感じが起こるのは、句のリズムに因るのだと納得しました。また「梅雨めくや」という、やや沈んだ趣に対し下十二音がゆったりとした明るさを持っている。この対比が、具体的なものがなくてもこの句に力を与えているのではないでしょうか。また、「人に」とい措辞が変になまめかしく実感があると感じました。

人それぞれに好みがあり、見逃してしまった句も、こうして鑑賞するとその魅力がわかるような気がしてくることがありますね。ありがたいことだと思います。

ところで、原さんの言われた「以後の遷子の行く手を暗示する」というところを、もう少しお聞かせ頂ければと思いました。

中西:(「遷子を読む〔17〕」で触れられた)写生のこと、少し言葉を足さないと誤解を招くという原さんのご意見に、酔談とはいえ尤もだと思いました。最近読んだものの中で、私が思っている写生というものを実にうまく、私が思っていた以上に深く言っているものに出会いました。森澄雄の『澄雄俳話百題』より長いですが、引いてみます。

自分の思いをどう俳句に託すかというときに、俳句独特の性格があるわけですが、その中で自分の言いたいことを存分に活かす一つの方法として僕は、写生というものが非常に重要な地位をしめると考えるんです。〈遠山に日の当たりたる枯野かな 虚子〉という句があります。これは誰が見ても写生の句だとお思いになるでしょう。ところが、これは虚子の二十六歳ぐらいの作品なんですが、彼はこの句を作ってこういうことを言っている。『初めて自分は閑寂枯淡な句を詠むことが出来た』と。だから作者が枯淡なら枯淡、閑寂なら閑寂、そういうものを何とかして出したいという意欲の中、一つの作家的夜欲望のなかで、その句ができたわけです。決して見たままの写生じゃない。そういう意欲をもたなければ、こういう句は見えてこないんです。ところが、これは見たままの作品だと普通おもわれている。意欲をもたないで、何でも風景を見ればいい句ができるか、そんな馬鹿げたことはないんであって、やはりこういう句も虚子という一人の作家の作家的意欲の中で見えてきた作品なのです。できあがった作品は写生風です。つまり理屈を言わないでまさにその通りの風景の中で自分の言いたいことを言ったという形の句です。

だから写生ということを単なるスケッチと考えてはやはり間違いだと思います。もちろん、ものをしっかり見なければいけないけれども、そのときに何かこちらの人間がもっているものの中で見えてこなければいけない。そうしなければ〈去年今年貫く棒の如きもの 虚子〉の“棒の如きもの”が見えてくるはずがない。こういう句もすべて虚子は写生と言っているわけだけれど、何でも虚子がその場で見てその場で作ったそれが写生だと思ったら間違えです。大きな虚子の精神の中から見えてきて、スケッチを越えた世界があるんです。それは作家の力、精神の力であって、そういうものを絶えず用意しておかなければ、本格的な写生の句も生れないんです。
(略)真実を打ち出すと同時に、その真実をどう理屈のない世界に表現していくかということに、方法としての写生も大きく働いているわけです。

さて、掲出句も作家的意欲があってつくられている句ではないでしょうか。「人に真青き旅路」はこれから辿るであろう人生のまだ汚れていない、明るい未来を想像させます。

「梅雨めく」中で見える「真青な旅路」の清々しさのよろしさを思います。

筑紫:遷子の句からすぐ連想したのは、篠原鳳作の次の句でした。

満天の星に旅ゆくマストあり

「しんしんと肺碧きまで海のたび」と共に鳳作の双璧の句(もちろん無季です)ですが、遷子の句と構文的に似ているだけでなく、そこはかとない希望が湧いてくる点でも似ている気がします。これらの句と比較して味わえば、原さんが批判している〈「真青き旅路」の表現は具体性を欠くとの評〉は容易に退治できるように思うのです。その意味では、遷子のこの句は新興俳句的な表現であるかもしれません(「馬酔木」の先輩の高屋窓秋の「頭の中で白い夏野となつてゐる」も思い出します)。

この句は『山国』の「草枕」の章、おそらく昭和15年頃の作品と思われます。「滝をささげ那智の山々鬱蒼たり」などの時期、典型的な馬酔木時代であり、飯田龍太が原さんの引用した部分に先駆けて「波郷が指摘している・・・『郷国の自然風土の中に、自らの境涯的人間を投影した』ものである、という。遷子の生涯を顧みるとき、波郷のこの指摘は、まさしく正鵠を射たもの」(「俳句研究」昭和62年7月「山河遼遙」)とあるので読み過ごしやすいですが、函館時代を経て郷里佐久に戻ってからの作品ではないのです。

まだ30代前半の、東大医局時代、若々しく野心に満ちていた時代でありました。ちなみに、篠原鳳作の上の句は昭和9年のもの(鳳作29歳)。遷子やその周辺にとって衝撃の余波の残っている時代でありました(昭和10年以前は前期新興俳句時代であり、「馬酔木」と鳳作のいた「天の川」とが蜜月の時代であったのです)。

       *       *       *

話を飯田龍太の「山河遼遙」に転じてみます。龍太がこの文章を書いたのは、遷子の『山河』が刊行されるとき、著者のたっての希望として龍太に書評依頼の書信が届いた(たぶん福永耕二が出したのだと思います)が、それ程の重患と知らず断ってしまい、幾ばくもなく逝去の報に接し申し訳ないと臍を噛んだ、『相馬遷子全句集』が刊行されるに及び全編を読了し、感想を記すことにしたものだといっています。

原さんが引用されているのはその中の1句の鑑賞なのですが、確かに丹念に全句集を読み多くの句の感想を記しています。しかし、章末の総評はややおもむきの異なったものでした。

遷子という俳人は、全句業を眺めたとき、必ずしも生得詩才に恵まれた人とは思われぬ。『山国』も『雪嶺』も、決して秀抜の句集ではない。のみならず、最後の『山河』さえ、前半は格別のこともない。だが、一集の後半、病を得てからの作品の迫力は、ただただ驚嘆の他はない。

これは遷子の最晩年を高く評価しているものの、全体的には低い評価として読むことが出来ます。もちろん、死者を傷つけない次のようなせりふは加えていますが・・・。

(山本健吉と野見山朱鳥の句業のすばらしさを語った時)この時、私は合点しながら、朱鳥は、才智を捨てたところに華を開き、遷子は、才智に頼らずして誠に徹して華を得た俳人ではないか、と思った。むろん、そのことは口にしなかったが。それはそれとして、相馬遷子は、私にとっては、いつまでも忘れがたい俳人の一人である。

さて、遷子の俳句を師である秋桜子はどう見ていたのでしょうか。「馬酔木」の遷子追悼号(昭和51年5月号)で、切々たる哀悼文を寄せているほかに、遷子の『山河』鑑賞を執筆しています。哀悼文ではいかに秋桜子が遷子に強い信頼を寄せていたかがよく分かるように思いますが、それと別に、秋桜子が取り上げた『山河』巻末の句を眺めてみましょう。

万愚節おろそかならず入院す
春暁と思ひ寝ざりし医師と思ふ
都忘れ胸に点れる人の言
木々の芽や木々の蕾や春激す
わが病わが診て重し梅雨の薔薇
汗の髪洗ふ頭蓋も痩せにけり
いわし雲人は働き人は病む
露燦と諸刃の剣の薬飲む
死の床に死病を学ぶ師走かな

秋桜子らしい選び方だろうと思いますが、私たちが「遷子を読む」で選んだ句はないようです。例えば、

わが山河まだ見尽くさず花辛夷
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな
鏡見て別のわれ見る寒さかな
冬麗の微塵となりて去らんとす

のような衝撃的な句は掲げられていません。おそらく、あらわな感情の表出は秋桜子は好まなかったのでしょう。そしてこうした事情は、遷子がなくなったあとと、なくなる前と変わりはしなかったようです。なくなる数年前に、「馬酔木」の同人作品合評会(昭和47年8月号)が秋桜子、遷子や幹部同人を中心に開かれました。遷子の句をめぐってこんなやりとりがあります。

福永:実に骨格の正しい句をつくられるという感じがするんですが、そのために僕なんかなにか息苦しい感じを受けることもあるんですけれども。

相馬:固いですか。

福永:(笑う)

水原:それは、昔の相馬君の俳句とまるで違っているんですね。(中略)詠み方がしっかりしていてゆるぎがないでしょう。つまり難解性は全然ないな。それでちゃんと生活にぴったりっくついている。ただ僕がいま言ったのは、前の若いときの俳句がずっと続いていくと、もう少しはなやかなところがあるわけなんですよ。それがすっかりきえているのはいささか淋しいんだな。われわれにすると・・・・・。もっときれいな俳句だったね、相馬さん。

相馬:はい、(笑う)

水原:いまだっていいんだけれども、ちょっときびし過ぎるような気がするんだ。一人でああいう大きな自然に向かっていると、こうなってゆくのが当然だけれど、むかしのようなきれいな句が当月集の中にあると、全体がパッとしていいだろうという気はする。

このようなことはしばしばあったらしく、福永耕二も、「先輩ばかりの席でどうしてあんな発言をしたのか今だに不審だが、僕は『遷子先生の句は骨ばかりで、僕等若い者から見るともう少し肉付がほしいような気がする。』と思ったままを述べた。それに反論もなさらず、少し淋しげな微笑を浮かべていらっしゃったことが思い返される」(「馬酔木」昭和51年5月号「山河復活」)と述べています。

「遷子を読む〔8〕」でも触れたことですが、昭和50年の「俳句」8月号で「現代俳句月評」を執筆したとき、角川源義と対比して、能村登四郎の遷子の作品に対する評価の違いをこう述べています。

筆者は登四郎が同じ結社だから反発しているのではない。登四郎は「馬酔木」同人としての義務だけはきちんと果たしてくれているが、こころは自分の主宰する「沖」にあることは当然だし、個人的なことを言えば筆者の作品など昔からあまり認めてくれない人である。それに反して源義は筆者の俳人協会賞の時、口を極めて賞めてくれた。それに対して叙上のようなことを言うのは甚だ心苦しいが、思つたことを正直に述べてみた。

能村登四郎が、筆者(遷子)の作品など昔からあまり認めてくれないことは、登四郎に親炙した私からするとよく分かる気がするのです。例えば、登四郎が書いたこんな評論を見てみればよいでしょうか。

「雪嶺」に於いて遷子が示した新しい段階は、「山国」のころに少なかった人生詠嘆、生活の諷詠である。このことは遷子が医師としての生活に没頭し、以前のように俳句を詠むための旅に出る機会が少なくなったためであろう。人生諷詠的な作品を見て行こう。

汗の往診幾千なさば業果てむ
大寒や行を休むは病む日のみ
風邪患者金を払へば即他人
秋深し還暦過ぎて老後の計
羽蟻身に開業医には停年なし

これらの句は町医としての老いゆく嘆きを詠っているが観念が露呈して、遷子のも作品の香りを失っている。言葉だけあって詩が湧き出さない。俳句という小詩の内包するイメージが生かされていないからである。
(「馬酔木」昭和45年3月「句集『雪嶺』を読んで」)

私が思うに、そもそも「人生諷詠」と捉えたところからして、能村登四郎の思い違い、それも遷子にたいする洞察の欠如があったように思えてなりません(念のために言っておきますが、登四郎は、テーマによっては当代随一の洞察力を示し、深い文章を書く人ではあるのです)。或る程度文章力のある人が読めば、登四郎のこの遷子論は、文書の力で誤魔化してしまった気の乗らない評論であったことがなんとなく分かると思います。

結論を言えば、相馬遷子はその身近な人々に、まじめな態度こそ愛されたものの、その作品(特に『雪嶺』以後)を理解されなかった不幸な作家であったと思われてなりません。「馬酔木」に共感の素地が薄かったのです。それがとかく、遷子は一流作家ではなかったという(本コメント冒頭の、龍太の、生得詩才に恵まれた人とは思われぬ、決して秀抜の句集ではないなどという)発言を増長させた原因になっているように思われるのです。しかし、一流でなかったかどうかは慎重に吟味されなければならないと思います。

【付録①】
「遷子を読む」では、コメントを本文に取り入れることにしています。コメントでのやりとりは「抑制」が効かず、冷静な対話にならないと思うからです。第6回以降のコメントにお答えします。適宜コメントは省略しているのであしからず。

遷子を読む〔6〕 筒鳥に涙あふれて失語症
堀本吟:
磐井さんが言う「一流人」は当然世俗的権力も手中にしていますから、権威主義の「無化」を計り、技術の粋のみで評価しようとすれば、その「一流人」は揶揄の対象とならざるを得ないのでしょう。有名税みたいなモノですね。私は、どちらかと言えば、「へたうま」というような(言われかねない)「二流人」が好みです。彼らは往々にして言葉の及ばぬ世界を見ているから。でも、すくなくとも相馬遷子は、下手でも平凡でもありません。

皆さんの意見交換を拝読していると、生き様か?プロの俳人としての実力か?、と言う分け方をされていますが、遷子のばあいは、医者の使命感(患者へのヒューマンなシンパシィ)と、芸術の真としての俳句をもとめる純文学的な志向がパラレルにおかれているみたいです。そして、読み手にはしば後者に重点を置いた句をつくる作家として印象づけられる、だから「巧い」俳人とならべて下手だと思われる。そういう「俳人」であったのでしょう?(「俳句空間」は幅が広いですから、どこの場面でどういう役どころであったか、どういうメディアの中での知名度なのか、など複合的な要因があるはずです。それが一流二流の根拠になっている場合もあると思います。その作家的な価値は総合的に見なければならないと思います。)

この(遷子の)方向は、どうみても加藤楸邨的ですね。

筑紫:一流、二流論争については再燃させたいと思って、今回も少しその基礎となる事実をあげておきました。議論に是非参加していただければ幸です。

言われて見れば、楸邨も一流、二流論争の対象になりそうな作家です。多くの評論家は、楸邨のカリスマ性から極力それに触れないようにしていますが、本質的には遷子と同じような問題を抱えています。そして、だからこそ楸邨の影響を受けた若い作家たちが社会性俳句に走ったと思うのです。金子兜、沢木欣一、強いて言えば能村登四郎もそうでしょう。これは、かたちを変えた楸邨論と言ってよいかもしれません。

堀本吟:筒鳥に涙あふれて失語症 遷子

熱心な読者ではありませんでしたが、遷子のこの句はどこかで読んだ記憶があります。馬酔木同人の系列では、特に「筒鳥」の句が幾つも詠まれて名句もでてくるそうですが、しかし次第に類型化もしてゆく中で、この「失語症」という強烈な暗喩性のある語は、突出した効果を持っているように思われました。幾つかの平凡な類型化がむしろ肥やしとなって出るべくして出てきた新方向ではなかったのでしょうか?

磐井さんがあげた例句から推し量るに、筒鳥の泣く声はややさびしげに感受されていますね。「かすかに」「ふかい」「もの憂き声」「泣かんばかり」というなかなか思いを誘う深みのある鳥声のようです。(山中にひびく鳥の声は、筒鳥でなくともそう言う感じをあたえるでしょうが)。ここまで感情移入させる鳥声ならば、本当に自分の感情に重ねる錯覚(喩化)は可能です。そう言う自然環境で、患者に接している感受性の強い医師としてこういう二重化もできます。

それから、遷子自身も病気をした経験があるようなので、他の句にあってもそうですが、どこか、言葉のおよばぬ世界をみている、そんな句がおおいですね。

「筒鳥」も他界からの声のようですし、「失語症」は自意識の「死」です。その世界全体にたいして「涙あふれて」くる。ここで、主と客と季語の世界の三者がかさなっているようです。「筒鳥」と人間世界に、同時に生と死の葛藤をみているのではないか、と読みました。したがって、この句の主体は誰かといえば、下記の意見にかなり近いです。

「(原)/ 私はここに不思議な錯覚、入れ替わるというと分かり易いかも知れません。一瞬の一体化(作者、患者、筒鳥)が起こったように感じてしまうのです」。

筑紫:「見る我」と「見らるる我」を客観的に分離して考えたのが金子兜太の近代的な造型俳句論だとすれば、「見る我」と「見らるる我」を一体化するところに遷子の(近世的ではない)中世的な文学観がうかがえるようです。複雑化する社会の中で、二元論的な近代規範では解決できなくなり、包括的な造型論に再び日が当たり始めるように思います。

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1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

コメントにまで気を配って頂いて、感謝です。
「読書会」自体を「読む」こともたのしみになりましたので、又、意地悪質問をしますから・・。たのしみにお待ち下さい。
今号は、「高山れおなー中岡毅雄」両氏に熱烈サービスして、「俳句空間—豈」の安井浩司新作読書会にコミットしていたし、他にいろいろありこちらにはこられませんでした。
読むってほんとに面白くて、句をつくる時間より楽しくなってしまってこまります。いや、句もつくってはいますが(笑)。

真青き旅路・・私の好みから言えば、ちょっと一般的な感傷が出すぎている感じがします。でも。これはこれで替えようがない感動の証だと思います。
モダニズムのシンボルカラーは「白」「青」
これは、短歌の前川佐美雄も短歌もそうです。当時の流行りだったのでしょう。俳句では
篠原鳳作「青」、と高屋窓秋の「白」がとくに優れている、ということですね。