2009年7月18日土曜日

俳句九十九折(43) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅤ 飛鳥田孋無公・・・冨田拓也

俳句九十九折(43)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅤ 飛鳥田孋無公

                       ・・・冨田拓也

飛鳥田孋無公 15句


踏み踏みて落葉微塵や寒の入

月潜む靄のかがよひ雁寒し

霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな

青天に葡萄の泳ぐ風迅しや

人ごみに誰れか笑へる秋の風

炎天や人がちいさくなつてゆく

そくそくと銀河に生るる風ききぬ

雪だるま月の細きは届かずて

海ゆかば秋風の青くも見えめ

河の水やはらかし焚火うつりゐる

さびしさは星をのこせるしぐれかな

瞑りつつまぶたにうくる春日かな

山螢風に掬はれ色消しぬ

返り花薄氷のいろになりきりぬ

秋風きよしわが魂を眼にうかべ



略年譜

飛鳥田孋無公(あすかだ れいむこう)

明治29年(1896) 神奈川県生まれ

明治43年(1911) 俳句に親しむ

明治44年(1912) 雑誌に詩歌などを投稿 詩人の山村暮鳥、三木露風に私淑

大正6年(1917) 臼田亜浪の「石楠」に入会

昭和8年(1933) 9月逝去(38歳)10月句集『湖におどろく』



A 今回は飛鳥田孋無公を取り上げます。

B この作者も臼田亜浪の弟子の1人ということになります。

A この作者については、現在では、ほとんど話題になることはないようですね。

B 一応、角川書店の『現代俳句大系』の第1巻に、唯一の句集である『湖におどろく』が収録されているのですが、やはり現在においては、あまり顧みられることはないのではないかと思われます。

A 飛鳥田孋無公は、明治29年(1886)神奈川県生まれ。明治43年(1911)頃から俳句に親しみ、明治44年(1912)には雑誌などに詩歌などを投稿、詩人の山村暮鳥、三木露風に私淑しました。

B 10代の頃から文芸に興味を持っていたということになるようですね。

A その後、大正6年(1917)の22歳頃になると、臼田亜浪の「石楠」に入会し、本格的に句作をはじめ、以後「石楠」の同人となって活躍することになりますが、昭和8年(1933)の9月に、38歳で逝去しています。

B 句作期間は、大体22歳ごろから38歳に亡くなるまでの17年間ほどということになるようですね。

A 昭和8年(1933)の逝去の1ヶ月後の10月に、句集『湖におどろく』が出版されています。

B では、その作品について見ゆくことにしましょう。

A 今回、資料として参照しているのは、おおよそが『湖におどろく』からのもので、この句集には、大正6年(1917)から昭和8年(1933)までの17年の間「石楠」に発表された全作句1054句の中より、本人が自選した923句を逆年順に収録した内容となっています。

B この句集が、孋無公のほぼ全句集にあたるものであるといっていいでしょうね。

A では、その作品について見てゆきましょう。

B まずは、俳句を始めた初学時代ともいうべき時期である、大正7年における作品には〈桟の虫髭ふつて居り月の靄〉〈斃ち鴉かこむ大群の寒がらす〉〈一旦は照つて峠の霰かな〉〈樋洩れ水草茎を閉ぢ氷らせぬ〉〈残雪の底ゆく水を汲みにけり〉〈柚の花の降つてくる朝炊ぎかな〉〈栗の花もむ嵐にとぼそ匂ひ満つ〉〈蔦新葉みづみづと螢一つ行く〉といった句が見られます。

A 初学の頃の作としては割合高い水準を示しているようですね。そして、やはり亜浪門における作者ということで、全体的に臼田亜浪の作風に近いものが確認できるところがあるようです。

B 「茎を閉ぢ氷らせぬ」「残雪の底ゆく水」「蔦新葉みづみづ」といったあたりの表現には、亜浪の持っていた澄明さと通い合うものがあるように思われます。

A 〈一旦は照つて峠の霰かな〉の句については、亜浪に大正5年作の〈氷上に霰こぼして月夜かな〉といった作品があり、それに近いものがあります。

B 続いて大正8年には〈雪の上に降る木の葉また雪来たり〉〈踏み踏みて落葉微塵や寒の入〉、大正9年には〈枯葉揉まるる音澄んで雪原の月〉〈月さして闇ゆらぎ消ゆ庭涼み〉〈虫音そこここ眼な底澄みぬ野の歩み〉、大正10年には〈月潜む靄のかがよひ雁寒し〉〈風呂にゐて胸のときめく暮雪かな〉〈花泛ぶなか澄ましゆく水馬〉〈谷若葉森々と眼(まみ)澄んで来し〉〈月暮れていよよ真白き幟かな〉〈雷あとの吹きしむ風も水辺かな〉〈水暮れて風いや青し行々子〉〈電線をはしる雨玉夏ゆく日〉〈かまつかの領布(ひれ)ふるごとし風澄んで〉などといった作品があります。

A どの句も、清新な気に溢れているのがわかりますね。

B また、それだけでなく、やや抒情的な雰囲気も感じられるところがあるようです。

A そうですね。大野林火ほどの抒情の強さといったものは感じられませんが、大正10年の「胸のときめく暮雪」「月暮れて」「雷あと」「水暮れて」などの表現からは、やはりやや抒情的な雰囲気が感じられるようです。

B 孋無公は、詩人の山村暮鳥の詩を愛読していたとのことで、それらの作品からの影響といったものも考えられそうです。孋無公がもっとも好んだ暮鳥の詩は「雲」という短いもので〈丘の上で/としよりと/こどもと/うつとりと雲を/ながめてゐる〉といった大変シンプルな内容のものです。

A 孋無公は、大野林火が俳句を始めた頃に、林火の指導も行っていたことがあるそうで、林火の抒情性溢れる作風を決定付けたのは、この孋無公からの影響というものが小さなものではなかったそうです。

B では、続いて、大正11年の作品について見てゆきたいのですが、この年には〈夕霧に微風ながれて家路かな〉〈雪やんで波の満月泛びたり〉〈芽木の高木ぬれつつ傾しぐ星の空〉〈霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな〉〈風だちて落花の光る波上かな〉〈人減つてゆけば涼しき夜の青葉〉〈夜の雲水のごと敷く夏あはれ〉〈裹まれて居る涼しさの夜半の霧〉〈露雫ぽとりと脳に利く夜半〉〈青天に葡萄の泳ぐ風迅しや〉〈人ごみに誰れか笑へる秋の風〉といった作品が見られます。

A 〈霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな〉は、孋無公の代表作とされています。

B 霧に閉ざされていた狭い視界から、霧が晴れて、一気に、湖の広大な風景へとその視界が転換されるダイナミズムがありますね。

A 空の青さと、それが湖の水面に鮮やかに映っている清新さ、そして「寒さ」という言葉によって、湖そのものの冷たさと澄明さというものが強く喚起されるようです。

B こういった句は、亜浪の本質である透徹したポエジーと、やや質的に近いものが感じられると思います。

A そうですね、また、亜浪の〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉といった作品に見られる時間性のコントロールによる手法の存在を見ることもできそうです。

B 孋無公の句では、霧に覆われていた時間から、湖が姿を現すまでの時間が1句の中に込められているというわけですね。

A また、この年には〈人ごみに誰れか笑へる秋の風〉といった作品も見られます。

B この句も、孋無公の代表句といってもいいようなところがあるかもしれません。

A 「人ごみ」ですから、どちらかというと当時の「都市」における俳句ということになると思います。

B 様々な人々が行き交う街中で、不意に誰かの笑い声が聞こえてきたということのようですね。

A おそらくその笑い声というものは、あまりはっきりとしたものではなくて、人ごみにおける様々な雑音の入り混じる中において、ふと一瞬、何処とも知れないやや離れたところから、かすかに耳に入ってきて、意識の内に認識されたものなのでしょう。

B いままで「人ごみ」の中を無心に歩いていて、ふと、その笑い声で我にかえったような感覚とでもいうのでしょうか。そのことによって、なんとなく、「人混み」という空間における妙な「静寂」や「寂しさ」といったものが、強く喚起されてくるところがあるようです。

A そして、そこに「秋の風」という季語が配されていますから、そういった寂寥感ともいうべきものはさらに増すところがあるようですね。

B その後は、そういったちょっとした笑い声にも関わりなく、「人ごみ」から「私」自身の存在も、遠ざかって行くということになるのでしょう。

A 内容的には「人ごみ」の中で、誰とも知れない笑い声を捉えたという、ただそれだけのことなのですが、この句には都市の生活における、「人ごみ」の中の寂寥感、即ち軽い「抒情」の存在といったものが表現されているようです。

B では、続いての作品ですが、大正12年には〈風吹けば風のごとゆく月夜寒む〉〈茜うつろはで夜となる河口寒む〉〈日ざす渚だんだん寒く飛燕澄む〉〈麦の穂の夜は夜とて澄む露の風〉〈一人となつて原つぱ青し風が吹く〉〈街燕なぐれゆく風の橋ゆがむ〉〈水際ゆいてしんみりさむし夏の星〉、大正13年には〈わが顔のひとり突つ切る路上寒む〉〈妻の顔見てなにもなし雪暮るる〉〈水汲みが去んで冷たや夕山吹〉〈月さすと前栽の青さ澄みきりぬ〉〈町に出て宵は涼しき花屋かな〉〈窓暮れて日はまだおちず風青し〉〈棚の茶器にこほろぎが黒くすむ夜長〉、大正14年には〈山にのぼりて月吹く風はかなしけれ〉〈薄原暮れてもあかき夕焼かな〉〈いや青き池と暮れ呼ぶ行々子〉〈まひまひにしばらく昏む葦葉かな〉〈馬の鼻きるつばめ音の青き暮れ〉といった句が見られます。

A こういった作品を見ると、孋無公の句には、なんというか、全体的に「冷たさ」というか「ひえびえ」とした印象を伴ったものが多いようですね。

B そうですね。これまでにも〈踏み踏みて落葉微塵や寒の入〉〈霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな〉〈人ごみに誰れか笑へる秋の風〉といった作品があるわけですから、やはり、ひえびえとした感覚の作品が多いように思われます。

A いま挙げた作だけ見ても、「月夜寒む」「河口寒む」「だんだん寒く」「露の風」「しんみりさむし」「路上寒む」「雪暮るる」「水汲みが去んで冷たや」「宵は涼しき花屋」「茶器にこほろぎが黒くすむ」「月吹く風」といった、如何にも冷ややかな表現が見られます。

B こうみると「冷たさ」や「ひえびえ」とした感覚といったものが、孋無公の作品における特徴の一つとして数えることができそうです。

A また、この時期の句を見ると、全体的に赤、青、黄、黒といった色彩感を感じさせる句が少なくないようですね。

B 「月夜寒む」「茜うつろはで」「原つぱ青し」「夕山吹」「月さすと前栽の青さ」「花屋」「風青し」「こほろぎが黒くすむ」「月吹く風」「あかき」「青き池」「しばらく昏む葦葉」「青き暮れ」といった言葉ですから、非常に色彩感に満ちていることがわかりますね。

A これまでの作品にも色彩の多彩さといったものは、少なからず見受けられるところがありました。これには、山村暮鳥などの詩の世界からの影響といったものも考えられるのかもしれません。

B また、時代的には大正14年ですから、俳句の世界では水原秋櫻子などの新風の活躍が目立ってくる時期でもあります。

A 秋櫻子の作品といえば、明るい外光による鮮やかさといったものがその特色でした。

B 秋櫻子のそういった色彩感覚を感じさせる作品としては〈源平桃遠眼に赤の咲き勝つて〉〈帰省子に雨の紫陽花濃むらさき〉〈綺羅星の中の青きが流れけり〉といったものがありますね。

A あと、こういった色彩感覚といったものは、当時のモダニズム辺りからの影響でもあると考えることも可能であるかもしれません。

B この大正の末年から昭和初期という時代は、まさしくモダニズムの時代で、俳句そのものも大きな変化を見せる時期ですから、孋無公にも、このような時代の影響が及んでいた部分もあると思います。

A この時代のやや後の新興俳句の作品にも、数多くの色彩感覚を駆使した作品が見られますし、石田波郷の昭和初期の作品にも〈月青し早乙女ら来て海に入り〉〈描きて赤き夏の巴里をかなしめる〉〈百合青し人戛々と停らず〉〈秬焚や青き螽を火に見たり〉などといった作品が見られますから、強い色彩感覚による表現は、この時代におけるひとつの流行であったといえるかもしれません。

B では、続いて作品を見てゆくことにしましょう。

A 大正15年の作品を見ると〈炎天や人がちいさくなつてゆく〉〈風の家菊に人なく暮れてゐる〉〈夕たゆし土にとどかぬ雪を見る〉〈枯林きられてをれば風とめず〉〈花埃り行つてしまひし路ひかる〉〈夕ざくら河がひたひたあたたかき〉〈風の銀河に葭きくきくと吹かれけり〉、昭和2年には〈かげながす案山子の淡きすがたかな〉〈消えやすき日のさらさらと何ふらす〉〈冬木中青木ひとつがちいさなる〉〈よはの冬木くろし空たかく風消ゆ〉〈われも下りてゆく石段の凍てゆがみ〉〈氷嚙む土の匂ひのはかなき日〉〈戻りがけ日のさしてゐる田の氷〉〈夕方の雪かすめども山まざと〉〈菜の花にさみしき雪はふりだしぬ〉〈雹のなかつめたき蔦は葉をよせて〉〈涼風や椅子かたまつてかげさしぬ〉といった作品があります。

B この時期になってくると、初期の頃の作品と比べるとはっきりすると思いますが、段々と「ひらがな」による、やや柔らかさを伴った表現が目立つようになってきますね。

A このあたりとなってくるとやはり単に亜浪からの影響だけではなく、やや孋無公における独自の要素といったものが作品の上にあらわれてくるようですね。

B 山村暮鳥の詩にもひらがなを多用したものが少なくありませんから、そこからの影響といったものが少なくないのかもしれません。

A 暮鳥には、詩の全体がひらがなのみで構成されている作品といったものがいくつも存在します。

B 孋無公の作品では、ひらがなの表記を多用することによって、柔らかい印象のみでなく、作品の世界が具体的な明確さを失い、輪郭そのものが稀薄なものになり、全体的に非常にぼんやりとした雰囲気となっている印象がありますね。

A それゆえに、全体的に「存在そのものの危うさ」とでもいったものが表現されているようにも思われるところがあります。〈炎天や人がちいさくなつてゆく〉という句を例にとるとわかりやすいですが、ひらがなによる表現による印象のみならず、「人」の存在そのものが小さくなってゆき、淡く消えていってしまうように表現されています。

B 昭和3年には〈小春山草ながくして人もこぬ〉〈枯草の一茎青みのこしをり〉〈雪虫雪虫とひとつみし思ひすぎにけり〉〈大つごもり村は皆寝て星ばかり〉〈雨あびて鵯は裏山へとぶ〉〈裏山の東風澄みまさり来たりけり〉〈切れ凧が日のさす山に落ちてゆく〉〈雪うすくなる枯枝のこうごうし〉〈降りかけやかげうすうすと金魚売り〉〈水こえていづちの山のほたるかも〉〈そくそくと銀河に生るる風ききぬ〉〈月うつるこの眼を吾子が見るならめ〉といった作品があります。

A これらの作品からも、「存在の儚さ」とでもいっていいような、様々な事物の存在そのものが危うく消え去ってしまいそうに感じられるような印象の句が、いくつも見られますね。

B 「枯草の一茎青みのこしをり」「切れ凧が日のさす山に落ち」「雪うすくなる」「うすうすと金魚売り」「銀河に生るる風」「月うつるこの眼」といった辺りの作品には、確かにそのような印象がありますね。

A 昭和4年の作には〈骨芒夕日ふることさかんなり〉〈きよらかに川がありけり冬はじめ〉〈山越しに極月こほる風ききぬ〉〈雪すぐにやんでおほきく磧かな〉〈雨あびて看板の雪ちとばかり〉〈山の空まことに碧き寒なかば〉〈河の水うごいてゐたり凍ての日も〉〈沖へ行つて消ゆ凍て雲のゆくへかな〉〈雪だるま月の細きは届かずて〉〈月さすや萍の咲きをはる花〉〈こぞり吹く風夕飯の茸にほふ〉〈海ゆかば秋風の青くも見えめ〉〈霧の中微風ながるるさ音かな〉、昭和5年には〈河の水やはらかし焚火うつりゐる〉〈雨の枝途につきでてまだ青し〉〈切れ凧が身をすぼめゆく冬がすみ〉〈さびしさは星をのこせるしぐれかな〉〈月明りたんぽぽのひそかなる黄かな〉〈瞑りつつまぶたにうくる春日かな〉〈輪廻生死さくらのまへに日が行きぬ〉〈山螢風に掬はれ色消しぬ〉といった作品が見られます。

B これらも「骨芒」「雪すぐにやんで」「看板の雪ちとばかり」「沖へ行つて消ゆ凍て雲」「月の細きは届かずて」「萍の咲きをはる花」「秋風の青く」「微風」「切れ凧が身をすぼめゆく」「星をのこせるしぐれ」「たんぽぽのひそかなる黄」「輪廻生死」「山螢風に掬はれ色消し」ですから、やはり、存在そのものにおける有無というのでしょうか、その生と滅といった運命に眼を向けているような雰囲気があります。

A まるで、これらの作品は孋無公の存在、即ちその生命在り方そのものとリンクするところがあるようにも思われるところがありますね。

B 孋無公はずっと病弱でしたから、やはり、自らの存在そのものにおける有と無や、幽と明、即ち「生と死」といった問題に対して常に切実に意識を向けざるを得なかったはずですから、そういった要素が作品の上に表れているように思われます。

A 昭和6年の作品には〈返り花薄氷のいろになりきりぬ〉〈三日月の切つさきふるふくさめかな〉〈またけふも氷りはじめる田づらかな〉〈やみぎわの雪柔かく赤土へ〉〈立春や川ちいさきに星あそび〉〈愴惶と魚がはしりしおぼろかな〉〈壺焼の壺にふる雪噴かれけり〉〈クローバや雨の焚火が雨焼いて〉〈泳ぎゐてとほき波音に恍惚す〉〈秋風きよしわが魂を眼にうかべ〉、昭和7年には〈昼の灯のあまりに淡き秋の風〉〈昼の霜草に青みをのこしたる〉〈月がでてころげさうな山の岩々〉〈霙たまるふしぎにたつやうすあかり〉〈わが家に枯野迫るを見下ろしぬ〉〈けふの雪果つる枯木のしづかさよ〉〈森閑のさくらへこもる月の息〉〈唯とろりとす春昼の手紙焼き〉といった句が見られます。

B やはりどの句にも、非常に繊細なものが張りつめているのが観取できますね。

A 〈返り花薄氷のいろになりきりぬ〉の句においては、「返り花」の存在を「薄氷」の色と同質のものとして見たわけですね。

B そのことによって「返り花」における存在そのものの儚さといったものが、強く喚起されてくるところがあります。

A 〈秋風きよしわが魂を眼にうかべ〉という句に至っては、既に自らの魂を秋風の中に見てしまっているような印象があります。

B 秋の透きとおった空気の流れの中における、虚とも実ともつかない、魂の存在。まさしく幽明の境における作品といった感じがします。

A この昭和7年から、孋無公の体調は益々優れなくなってきていたそうです。

B そして、翌年の昭和8年において、38歳で亡くなるというわけですね。

A その昭和8年の作品を見ると〈鉄漿いろに蔓が枯れてる野分かな〉〈たはむれにくらがりにをる秋涼し〉〈夏草刈り若人ゆゑに瞳の青き〉〈雪のなか一木に遭ふ日ぐれかな〉〈やはらやはら燃え終らんとする焚火〉〈身をつつむ雪に剋して心燃ゆ〉〈竹かげや桶の氷のそだつにも〉〈おしやかさまちかき日のさす枕上み〉〈きのふけふうすくながるるかすみかな〉〈雨よくとけて霞になんぬ霽りばな〉〈落花たまれば水に色濃くゆふべかな〉〈空林のなくなるところ芽が黄なり〉〈ゆふがたやなほひかりをる麦の茎〉〈こやりつつみなづきの日を瞼かな〉〈飼ひひばり放たるるあからあからの天〉〈ひとりづつひとりづつ去るに花淡し〉〈祭の空ひかるばかりの雷すぎし〉〈にはか雨金魚へらへら斃ちさうな〉〈いてふの露たれがちに天の河ふけぬ〉〈立秋の雲天上は無風かな〉〈あなうらへ露をふれさせ生きたさよ〉といった作品が見られます。

B やはり、どの句にも、存在の儚さ、幽けさ、といったもの、そして、ほのかな抒情といったものの存在が感じられますね。

A さて、飛鳥田孋無公の作品について見てきました。

B 全体的に表現としては不十分なものもいくつか散見されるところがありますが、それでも、その作品は、他の作者には感じられない独自で不思議な魅力を湛えたものであるように思われました。

A 本人もこの句集『湖におどろく』の原稿を生前に眼にしていたそうですが、その自らの句集の草稿を眺めながら満足そうにしていたとのことです。

B 本人も自らの作品に手応えを感じていたということになるようですね。

A 孋無公の作品というものは、端的にいうと、亜浪における澄明でやや硬質なポエジーといったものを、ややマイルドな印象のものに変容させた作品であると思われます。

B そこには、おそらく山村暮鳥の持っていた抒情とひらがな表記が、少なからず影響を及ぼしていたのでしょうね。

A また、他には、作品全体から感じられる存在そのものの危うさとでも言うのでしょうか、様々な存在といったものにおける有と無、幽と明の境界線が、非常に曖昧なものであるように感じられる作品がいくつもありました。

B それゆえ、作品が、特に後年は、やや具象性といったものが後ろへと退いてゆき、全体的に「淡彩」といもいうべき雰囲気に包まれている印象がありますね。

A それは、先程にも指摘しましたが、やはり孋無公自身の生命の在り方と強く深くリンクしていたものなのでしょう。

B 存在そのものにおける「幽けさ」や「儚さ」といったものを見据える透徹した詩魂の存在、そして、そこに伴うほのかな「抒情」といったものが、孋無公の俳句における本質といっていいでしょう。

A 飛鳥田孋無公の作品は、現在に至るまで、いまにも危うく消え入ってしまいそうでありながら、それでも完全には消え去ることのない不確かな明滅を繰り返す、そういった危うい均衡の中における幽かなポエジーの光芒を、いまもなお宿し続けているようです。



選句余滴

飛鳥田孋無公


湯上りや林檎冷たき口の中

石室の石呻るよに雷雨かな

桟の虫髭ふつて居り月の靄

樋洩れ水草茎を閉ぢ氷らせぬ

残雪の底ゆく水を汲みにけり

柚の花の降つてくる朝炊ぎかな

雪の上に降る木の葉また雪来たり

月さして闇ゆらぎ消ゆ庭涼み

月潜む靄のかがよひ雁寒し

風呂にゐて胸のときめく暮雪かな

花泛ぶなか澄ましゆく水馬

谷若葉森々と眼(まみ)澄んで来し

月暮れていよよ真白き幟かな

雷あとの吹きしむ風も水辺かな

水暮れて風いや青し行々子

電線をはしる雨玉夏ゆく日

かまつかの領布(ひれ)ふるごとし風澄んで

夕霧に微風ながれて家路かな

芽木の高木ぬれつつ傾しぐ星の空

人減つてゆけば涼しき夜の青葉

夜の雲水のごと敷く夏あはれ

裹まれて居る涼しさの夜半の霧

露雫ぽとりと脳に利く夜半

風吹けば風のごとゆく月夜寒む

麦の穂の夜は夜とて澄む露の風

一人となつて原つぱ青し風が吹く

街燕なぐれゆく風の橋ゆがむ

水際ゆいてしんみりさむし夏の星

わが顔のひとり突つ切る路上寒む

妻の顔見てなにもなし雪暮るる

水汲みが去んで冷たや夕山吹

町に出て宵は涼しき花屋かな

窓暮れて日はまだおちず風青し

棚の茶器にこほろぎが黒くすむ夜長

夕たゆし土にとどかぬ雪を見る

風の銀河に葭きくきくと吹かれけり

消えやすき日のさらさらと何ふらす

冬木中青木ひとつがちいさなる

よはの冬木くろし空たかく風消ゆ

われも下りてゆく石段の凍てゆがみ

戻りがけ日のさしてゐる田の氷

くろぐろと雪のない道とけてゐる

菜の花にさみしき雪はふりだしぬ

雹のなかつめたき蔦は葉をよせて

涼風や椅子かたまつてかげさしぬ

小春山草ながくして人もこぬ

枯草の一茎青みのこしをり

雪虫雪虫とひとつみし思ひすぎにけり

大つごもり村は皆寝て星ばかり

雨あびて鵯は裏山へとぶ

切れ凧が日のさす山に落ちてゆく

雪うすくなる枯枝のこうごうし

あらぬ山仰げば梅雨の月懸り

水こえていづちの山のほたるかも

下駄の冷え銀河でてくる野づらかな

月うつるこの眼を吾子が見るならめ

きよらかに川がありけり冬はじめ

山越しに極月こほる風ききぬ

雪すぐにやんでおほきく磧かな

山の空まことに碧き寒なかば

河の水うごいてゐたり凍ての日も

沖へ行つて消ゆ凍て雲のゆくへかな

霧の中微風ながるるさ音かな

雨の枝途につきでてまだ青し

切れ凧が身をすぼめゆく冬がすみ

月明りたんぽぽのひそかなる黄かな

霽りばな山はさくらのかぎろひに

輪廻生死さくらのまへに日が行きぬ

たれ毛虫くる鳥もくる鳥もすぎぬ

たぞ見にけむこの夏暁のあをさを

炎天や鰻つかめば鳴くきこゆ

三日月の切つさきふるふくさめかな

またけふも氷りはじめる田づらかな

やみぎわの雪柔かく赤土へ

立春や川ちいさきに星あそび

愴惶と魚がはしりしおぼろかな

風すぎて蟬のこゑととのひけるよ

泳ぎゐてとほき波音に恍惚す

こめかみがじいんと鳴つて涼徹す

落葉風摺れちがへるに人思ふ

昼の霜草に青みをのこしたる

月がでてころげさうな山の岩々

霙たまるふしぎにたつやうすあかり

わが家に枯野迫るを見下ろしぬ

森閑のさくらへこもる月の息

唯とろりとす春昼の手紙焼き

たはむれにくらがりにをる秋涼し

夏草刈り若人ゆゑに瞳の青き

雪のなか一木に遭ふ日ぐれかな

やはらやはら燃え終らんとする焚火

身をつつむ雪に剋して心燃ゆ

鳥もなみ薄氷波にあそぶかな

竹かげや桶の氷のそだつにも

きのふけふうすくながるるかすみかな

雨よくとけて霞になんぬ霽りばな

落花たまれば水に色濃くゆふべかな

ゆふがたやなほひかりをる麦の茎

こやりつつみなづきの日を瞼かな

飼ひひばり放たるるあからあからの天

ひとりづつひとりづつ去るに花淡し

祭の空ひかるばかりの雷すぎし

月見草濃霧に咲いて昼なりし

山蝶や風べとべとと夕べめき

人なつこきとかげや草にひるがへり

立秋の雲天上は無風かな

あなうらへ露をふれさせ生きたさよ



俳人の言葉


詩はおどろきというのが孋無公の教えの根本である。おどろきは感動。それを彼はつねに私に説いた。用語についてもきびしかつた。言葉のいのちを説き、つねにみずみずしさを要求した。これらは彼が山村暮鳥の詩をこよなく愛したからである。

大野林火 「『湖におどろく』周辺」より 『俳句』1972年4月号

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俳句九十九折(27) 俳人ファイル ⅩⅨ 上田五千石・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(28) 俳人ファイル XX 福永耕二・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(29) 俳人ファイル ⅩⅩⅠ 清水径子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(30) 俳人ファイル ⅩⅩⅡ 寺井文子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(31) 俳人ファイル ⅩⅩⅢ 橋閒石・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(32) 俳人ファイル ⅩⅩⅣ 大橋嶺夫・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(33) 俳人ファイル ⅩⅩⅤ 齋藤玄・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(34) 俳人ファイル ⅩⅩⅥ 喜多青子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(35) 俳人ファイル ⅩⅩⅦ 高田蝶衣・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(36) 俳人ファイル ⅩⅩⅧ 藤野古白・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(37) 俳人ファイル ⅩⅩⅨ 加藤かけい・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(38) 俳人ファイル ⅩⅩⅩ 新海非風・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(39) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅠ 福田甲子雄・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(40) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅡ 臼田亜浪・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(41)俳人ファイル ⅩⅩⅩⅢ 篠原梵・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(42) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅣ 大野林火・・・冨田拓也   →読む

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6 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

冨田拓也様

飛鳥田孋無公は、小生も『現代俳句大系』で読んだことがあります。

人ごみに誰れか笑へる秋の風

が好きです。ちょうど大衆化社会が生まれた時代の気分というものが出ているでしょうか。

冨田拓也 さんのコメント...

髙山れおな様

コメントありがとうございます。

亜浪門には他にも俊英がいる可能性がありそうなのですが、資料があまり残っていないのが残念です。
孋無公は1冊だけですから、かろうじて現在まで残っていたという感じですね。

この間、復本一郎さんの本を読んでいたら、亜浪門の安藤甦浪という俳人が取り上げられていたのですが、この俳人の資料も手に入りにくいようです。

亜浪、梵、林火、孋無公の4人で一応いまのところは、亜浪門の作者についてはとりあえず終了にしたいと思います。
次回からまた別の作者を取り上げることにします。

あと、本文に一箇所訂正があり、孋無公が「雲」という詩をもっとも好んでいた、と書きましたが、正確には『雲』という詩集をもっとも好んでいたということになるようです。
謹んでお詫び申し上げます。

遠藤 美彦 さんのコメント...

冨田拓也様

初めまして!

孋無公の孫でございます。

このように詳しく孋無公を採りあげてくださり、誠にありがとうございます。

私自身は俳句を嗜みませんが、孋無公の句は私のような「しろうと」でも分かり易く、その情景が目に浮かぶような句だと思います。

大正15年に誕生した、孋無公の長女である我母も健在です。

これかもよろしくお願いいたします。

冨田拓也 さんのコメント...

遠藤美彦様

コメントありがとうございます。

しばらくこのサイトを覗いていなかったのですが(既に更新は終了しています)、本日たまたま訪れてみると(本当に偶然です)、遠藤様のコメントが目に入り驚きました。

あの孋無公のお孫様とは……。

孋無公の透徹した詩心から生み出された作品が以前より好きで、ここに取り上げさせていただきました。
孋無公の「白皙の俳人」といった写真の方も強く印象に残っているところがあります。

是非、お母様にもよろしくお伝え願います。

遠藤美彦 さんのコメント...

冨田拓也様

ご返信、ありがとうございます。

飛鳥田(あすかた)家の男子はあまり長命では無いようで、母の兄弟(孋無公の子)の男子三名も、全て40歳代で他界しております。

私の従兄弟(孋無公の二男の息子)も同じく40歳代で他界。

現在、孋無公の直系で存命しているのは、私の母と私、孋無公の二男の娘である私の従姉妹のみです。

母はPCを扱えませんので、こちらのページをプリントアウトさせていただいて見せたところ、たいへん喜んでおりました。

横浜市磯子区杉田の「妙法寺」には、孋無公が生前、石楠のご同人方と梅を愛でてつつ句を詠んでいたとのことで、「さびしさは星をのこせるしぐれかな」の句碑があります。

孫として、孋無公の句を後世にどれだけ残していけるかどうか模索中です。

何かとご相談させていただくことがあるやと存じますので、その節はよろしくお願いいたします。

冨田拓也 さんのコメント...

遠藤美彦様

そうですか。
お母様が喜んでおられたとのことで、私も書いた甲斐があったなと、心より嬉しく思っております。

お力になれることがございましたら、喜んでご協力いたします。