俳人ファイル XX 福永耕二
・・・冨田拓也
福永耕二 15句
浜木綿やひとり沖さす丸木舟
萍の裏はりつめし水一枚
黒板にわが文字のこす夏休み
子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり
風と競ふ帰郷のこころ青稲田
昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて
寒星をつなぐ糸見ゆ風の中
凧揚げて空の深井を汲むごとし
省くもの影さへ省き枯木立つ
橙やうすれうすれし隼人の血
浮寝鳥海風は息ながきかな
吹きあぐる風青揚羽黒揚羽
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る
鳥葬のかたちに臥せば雲の峰
還らざる旅は人にも草の絮
略年譜
福永耕二(ふくなが こうじ)
昭和13年(1938) 鹿児島県生れ
昭和30年(1955) 「馬酔木」に投句
昭和40年(1965) 上京
昭和44年(1969) 「馬酔木」同人
昭和45年(1970) 「沖」創刊参加 「馬酔木」編集長就任
昭和47年(1972) 第1句集『鳥語』
昭和55年(1980) 第2句集『踏歌』 12月逝去(42歳)
昭和57年(1983) 第3句集『散木』
昭和63年(1989) 『福永耕二 : 俳句・評論・随筆・紀行』(福永美智子編)
A 今回でこの「俳人ファイル」は20回目を迎えることになりました。
B なんとかここまで続けることができましたね。
A 正直ここまで続けることができただけで、私としては御の字というところがあります。
B しかしながら、ここまで続けて来ることができたのはいいのですが、これから先の展開について考えるとなかなか気が重いところがあります。
A そうですね。これからについて考えると、相当手強い俳人の存在が今後何人も待ち構えています。
B 今後についてはなかなか厳しいものがあると思いますが、気長に続けていくしかないでしょうね。
A 今回は20人目として、福永耕二を取り上げることにしました。
B 戦後の「馬酔木」の俊英ということになりますね。
A 福永耕二は、1938生れで、1980年に42歳で亡くなっています。ですから、もし現在まで生きていればまだ70歳ということになります。
B そう考えると、やはり随分と早くに亡くなっているように思えるところがあります。
A 同世代として寺山修司、宇多喜代子、矢島渚男、大串章、黒田杏子などといった作者の存在が挙げられます。
B 寺山修司も福永耕二と同じく早くに亡くなっていて、1983年に47歳で逝去しています。
A 2人とも40代でしたから他の作者たちと比べるとやはり随分と若くして亡くなっているということになりますね。
B 福永耕二が俳句を始めたのは高校生の頃で、昭和30年には「馬酔木」に投句を開始します。
A 10代の後半ですから、割合早い出発であったということができるかもしれません。
B 福永耕二の生涯に残した句集は『鳥語』、『踏歌』、『散木』の3冊があります。
A ではその作品について見ていきましょうか。
B まず〈浜木綿やひとり沖さす丸木舟〉を取り上げました。
A この句は第1句集『鳥語』の劈頭の1句で、昭和33年から昭和39年の作であるそうです。
B 「浜木綿」は夏の季語ですから、夏の海の眩しさが感じられます。
A こういった「光」の存在を感じさせるところに「馬酔木」的な雰囲気があるようです。
B あとは、1人で丸木舟に乗って沖を目指す青年の自恃や憂愁が入り混じったような感情も感じられるようです。
A まさしく青年福永耕二の出立の1句といった感じですね。「浜木綿」と海の煌めきが印象的な1句です。
B 続いて〈萍の裏はりつめし水一枚〉を取り上げます。
A この句は『鳥語』の昭和40年から昭和43年の作です。
B 「萍」ですから季節は夏ですね。萍とその葉の裏側に塞がれ密着している水の表面。この句の「萍」の緑と「水」の取り合わせから一見「馬酔木」的な自然詠における光と清澄さが感じられますが、単純にそれだけでなく、「萍」と「水」の隙間のないほど密着し、均衡しているところから、青年の鋭敏な心性と息苦しさのようなものが窺えるところがあるように思われます。
A そう見ると、確かに萍と水面の関係にやや緊張感のようなものが認められるところがありますね。
B 続いて〈黒板にわが文字のこす夏休み〉です。この句も『鳥語』の昭和40年から昭和43年の作です。
A 福永耕二は教師であったということで、この句はそういった学校生活の一部を切り取った句であるのでしょう。
B 「教師俳句」ともいうべきものでしょうか。他にも〈雪の詩に始まる学期待たれをり〉〈教材の花の詩も了ふ散るさくら〉など学校での生活に材を取った作がいくつか見られます。
A この〈黒板にわが文字のこす夏休み〉という句は、内容だけを見ると取り立ててどうといった内実を有しているわけでもないのですが、どことなく長く印象に残るものがあります。
B 黒板に書いてある文字は当然「チョーク」で、文字の内容は次の学期における連絡事項といった内容であるということになるはずです。
A この句はおそらく「夏休み」という言葉の内包する意味内容と、教室の静けさの対比が眼目なのでしょうね。
B 「夏休み」の教室と「普段の日常」における教室の様子の階梯の大きさとでもいったところでしょうか。
A 教師である福永耕二も、その生徒も去って行った後の誰もいないがらんとした教室の様子がありありと目に浮かぶようです。
B また、「夏休み」には、福永耕二自身の嘗ての学生だった頃の「夏休み」と、現在の教師としての「夏休み」の位相の違いといったものが重ね合わせられているようなところもあるのかもしれません。
A 続いて〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉を取り上げます。『鳥語』の昭和40年から昭和43年の作です。
B この句もなんとなく「馬酔木調」による抒情といったものが感じられますね。
A 「蟵」という言葉がまずそのことを感じさせるところがあり、また「うすみどり」といった言葉からも水原秋櫻子の作風を連想させるところがあります。
B 今回福永耕二の資料に目を通していて、この句は福永耕二という作者にとって割合重要な意味を持っている作品なのではないかという気がしました。
A どういうことでしょうか。
B 実は、この句に見られる反復の手法、即ち「妻ゐて妻も」という部分における表現ですが、この反復の手法はこの時期以降、生涯に渡って多用される手法となります。
A そういえば、福永耕二の句には、このような反復の表現が数多く見られます。
B この第1句集の『鳥語』の〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉と同じ時期、つまり昭和40年から昭和43年の時期には、他にも〈夜は夜の生徒と対ひ薄暑なり〉〈船酔の眼に花茣蓙の花が燃ゆ〉〈ことごとく枯れ鉄塔の脚も枯る〉〈鶏頭や波にさびしき波がしら〉という反復の手法を用いた句がいくつも見られます。
A こうみるとこの反復の手法は、自然発生的なものではなく、意識的なものとして句作の技法に取り入れられているものであるということになるようですね。
B この手法は『鳥語』の昭和40年から昭和43年の時期だけでなく、その後の作品にもいくつも見ることができます。その作品を挙げると〈立泳ぎしては沖見る沖とほし〉〈花茣蓙の花の暮色を座して待つ〉〈さんまの味秋刀魚の歌と蘇り〉〈子にゑがきやる青き蟹赤き蟹〉〈をちこちのをちの声澄む鉦叩〉〈産声や天に槻の芽くぬぎの芽〉〈水甕の水のうまさも麦の秋〉〈あらし経し青柿の艶空の艶〉〈菊月の菊をあなどる花舗の隅〉〈心愉し菊のなかなる子菊買ふ〉〈きのふ木枯けふ凪ぐ父の喉仏〉〈朧月母ねむらせてのち眠る〉〈芝焼きて父を焼たる火を想ふ〉ということになります。
A こういった作品を見ると、語尾を反復させた作品もあり、段々とその手法が練成されてゆく様子がわかるようです。
B さらにこの手法は、第2句集『踏歌』においても繰り返し用いられ、〈風荒れてたたかふ雀恋雀〉〈夢の蟬ならずこの楠この榎〉〈立ち並び立ちしづまりし杉涼し〉〈藤腐し卯の花腐しつづく谿〉〈舞くらべして桐一葉栃一葉〉〈踏青や手をつなぐ雲ひとり雲〉〈かなかなや梅雨の青杉青檜〉〈黍白穂赤穂信濃に夏をはる〉〈山垣のかなた雲垣星まつり〉〈ふたり子に虫籠ふたつ帰郷行〉〈花消えし花野や径も幽かにて〉〈鳰を見て波を見て午後空しうす〉〈蟻の列切れしがつなぐ蟻走る〉〈鵯追うて鵯とぶ雪のでんでら野〉〈鳰の前腕組むは思ひ組むごとし〉〈躁の牛鬱の牛梅雨はじまれり〉〈紀の国の木の香草の香梅雨に入る〉〈瀧仰ぎつつ踏む木の根はた巌根〉〈かなかなの彼岸此岸の声揃ふ〉〈日盛りや椰子にをさまる椰子の影〉〈海の藍蝶の浅黄や秋立ちて〉〈爽かや啄木鳥の孔樹に壁に〉〈露の世といへど母あり老師あり〉〈家建てむ計や初霜初氷〉〈雪につく双手双膝わが四十〉〈泰山木けふ咲きけふの蕊こぼる〉〈雲の峰雲の峡あり大石田〉などといった作品を確認することできます。
A 福永耕二の作品にとって、この手法が主要な基軸のひとつとして用いられていたことがわかります。
B 第3句集である『散木』にも、同じように〈きのふよりけふ冬麗の遷子の忌〉〈春愁や土捨てて土買ふことも〉〈日曜大工日曜庭師芝青む〉〈リラ植えてリラの曇の昨日今日〉〈きのふ近江けふは吉野の花衣〉〈谷に凝り岨にただよひ山ざくら〉〈庭暮るまで庭にゐて夏隣〉〈朴植ゑて凡日を凡ならしめず〉〈一葉また一葉落つ庭狭けれど〉〈紫苑咲く日和といへば日和にて〉〈葦枯れて釣の径はた恋の径〉〈雪凍てて網走駅は日陰駅〉〈雪舞ふやわかき白樺老いし樺〉〈眼の曇り眼鏡のくもり椎咲けり〉〈花しどみ妻には妻の歩幅あり〉〈泰山木きのふの白珠けふの盃〉〈秋潮に獲て青き貝紅き貝〉〈杉山に杉の香つよき冬隣〉〈あき子忌を送り波郷忌待つ仰臥〉〈朝百舌も夕百舌もわれ詰るこゑ〉などの作品が見られます。
A 一体どのようにこのような手法はどのような経緯によって生み出されるようになったのでしょうか。
B 福永耕二がどのようにしてこういった反復による手法を用いるようになったのかということについて少し考えてみたのですが、この反復の手法が用いられ始めたのが、先ほどにも述べたように、第1句集『鳥語』の昭和40年から昭和43年の時期ということになります。
A 昭和40年から昭和43年は先ほどにも見たように〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉が登場した時期にあたります。
B ということで、この昭和40年から昭和43年という時期に、反復の手法が登場する何らかの要因があるのではないかと推測しました。
A 普通に考えると、そういうことになりますね。
B そこで考えたのが、この福永耕二の師系です。
A 福永耕二は「馬酔木」ですから、師は水原秋櫻子ということになります。
B 当前そういうことになるわけですが、ただ、それだけではなく、福永耕二には同門の能村登四郎という存在が近くにありました。
A そうでしたね。同じ学校に教師として勤務していたわけですし、昭和45年には「沖」の創刊にも参加しています。
B そこで能村登四郎の作品について少し考えてみたのですが、この能村登四郎にはよく考えてみれば大変有名な作品の存在があったわけです。
A なるほど。その作品というのは〈春ひとり槍投げて槍に歩み寄る〉というわけですね。この句では「槍」という言葉が反復されています。
B この能村登四郎の句は昭和42年の作ですから、ちょうど福永耕二の『鳥語』の昭和40年から昭和43年の期間と重なるということになります。
A 〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉については昭和43年の作です。福永耕二の反復の手法の成立の背景には能村登四郎の存在があったというわけですね。
B ちなみに〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉には、〈春ひとり槍投げて槍に歩み寄る〉だけでなく、同じく能村登四郎による昭和41年の〈秋蚊帳に寝返りて血を傾かす〉という句の存在も背後にはあったのかもしれません。
A なるほど。
B また、反復の手法についてですが、さらに、この時期の能村登四郎の作品を『定本枯野の沖』で見てみると、〈また月曜が来て月曜の秋翳り〉〈絮毛の旅水あれば水にはげまされ〉〈切りごろのやや過ぎし餅切りにけり〉〈虹の間の虹うかぶ待つ冬畳〉〈火の国の火の山の今炎天時〉〈膨れんとして膨れざる餅あはれ〉〈妻ねむりゆふべ洗ひし髪も眠る〉〈幾秋の野分を聴かむ野分の碑〉〈土割つて雪割つて独活の芽の太き〉〈数条の汗にさきがく汗一条〉〈ひとつ狂へばつぎつぎ狂ふ花の暮〉〈今日の雲けふにて亡ぶ蟻地獄〉〈花了り花の奥なる藍ふゆる〉〈もどり来て夜深の茶漬さくら漬〉〈あきらかに泳ぎし黒瞳・黒睫毛〉〈柚子と買ひし若き遺句集柚子匂ふ〉〈傷なめて傷あまかりし寒旱〉といった、やはり反復の手法による作品がいくつも確認することができます。
A このように見ると福永耕二における能村登四郎からの影響というものがはっきりとわかりますね。
B また水原秋櫻子や石田波郷の作品を見てもこのような反復による表現をいくつか確認することができます。
A そう考えるとこの反復による表現というものは「馬酔木」的な手法でもあるということもできるのかもしれませんね。高屋窓秋にも〈ちるさく海あをければ海へ散る〉〈雪の山山は消えつゝ雪ふれり〉という作品がありました。このように見てゆくと福永耕二は能村登四郎、そして「馬酔木」の作風をしっかりと自らのものとしてマスターしようという意志があったということのようですね。
B 福永耕二は周辺の作者の成果から忠実に学んでいたということなのでしょう。
A そういった実直な姿勢が福永耕二の作品の上に「馬酔木調」のもっとも良質な要素を宿らせる結果へと繋がるものであったのかもしれません。
B そういった意味ではやはり福永耕二は「馬酔木のエリート」というべきなのでしょうね。
A 昭和45年には「馬酔木」編集長に就任していますし、今回15句の中に選んだ〈風と競ふ帰郷のこころ青稲田〉という1句だけを見てもやはり「馬酔木」の抒情の良質な部分を体現した作品であるということを充分に窺わせるものがあります。
B 確かに「風と競ふ」の句を見ると、やはり秋櫻子の〈桑の葉の照るに耐えゆく帰省かな〉を髣髴とさせるところあります。
A さて、第1句集の作品についていくつか見てきましたが、続いて第2句集『踏歌』の作品について見ていきたいと思います。この句集は昭和47年から昭和53年までの464句で構成されています。
B この第2句集あたりとなると、その作品の雰囲気は第1句集の『鳥語』と比べてやや全体的に緊迫感が強まった印象が感じられます。
A たしかに〈昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて〉という句ひとつを見てもそのことが感じられるようなところがあります。
B 捨てられるまで擦り減った櫂の凄まじさと、昼顔の花の鮮やかさ。そして「櫂」という言葉から海や河の水面が厳しい夏の日差しに強く煌めいている様子までイメージされるところがあります。
A 確かにはじめの頃の〈浜木綿やひとり沖さす丸木舟〉と比べると、より厳しいというか、ストイックな雰囲気が加わった印象があります。
B 福永耕二自身にも、「丸木舟」から出立した「航海」が、ここに来て半ばとはいわないまでもある程度のところには達したという思いがあったのかもしれません。
A 続いて〈寒星をつなぐ糸見ゆ風の中〉を取り上げます。昭和48年の作です。
B 「寒星」ですから、当然この句の時間は「夜」ということになります。
A その「寒星」を繋ぐ「糸」というのは、きっと「星座」のことを意味しているのでしょうね。福永耕二には他に〈いつまでも露台の子らよ星座表〉という句もあります。
B 実際に星と星を結ぶ線が見えているわけではなくて、その星と星とを結ぶ線を想像しているということになるはずです。
A 昭和49年には〈流星のあと軋みあふ幾星座〉という句もあり、この句とどちらを選ぶか迷うところがありました。
B こちらの句も様々な星座が広大な夜空一面にそれぞれに輝きながら犇めき合っているようで、大変な迫力が感じられますね。
A 続いて〈凧揚げて空の深井を汲むごとし〉を取り上げます。『踏歌』の昭和50年の作です。
B この句からは、実際に凧を揚げた時に手に感じる糸による強い実在感が喚起されます。
A それこそ凧を揚げた時の「手応え」そのものが伝わってくるような句ですね。地上から空中の凧を糸で引っ張ると、風の作用により引っ張り返されます。その重みによる実感を井戸を汲んだ時の手応えに近いものとして把握したわけですね。
B 単なる井戸ではなく「深井」ですから、なかなかその手応えは重量感のあるものなのではないかという気がします。
A そう考えると、身体が凧に持っていかれてしまうようなところがあって、割合スリルが感じられるところがあります。
B なかなか臨場感の感じられるところがある句ということになりますね。
A 続いて昭和50年の〈省くもの影さへ省き枯木立つ〉です。
B この句も先ほどに見た反復の手法による句ということになります。
A 『踏歌』における同じ反復の句として他に昭和52年の〈吹きあぐる風青揚羽黒揚羽〉を取り上げました。
B 反復の手法を用いた句としては先ほどの〈子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり〉とともにこれらの作が高い完成度を誇っているように思われます。
A 特に〈省くもの影さへ省き枯木立つ〉についてはその描写の克明さにおいて枯木そのものの形象へ肉迫するような趣きが感じ取れます。
B まさしく枯木そのものの実在感を言葉によってそのまま表現しようとするような迫真力が感じられるところがありますね、
A 続いて〈浮寝鳥海風は息ながきかな〉を取り上げます。
B 季語は「浮寝鳥」で冬ですから、「海風」は大変冷たいものなのでしょうが、それだけでなくこの「浮寝鳥」という言葉により、どこかしら冬麗の日差しによるあたたかさのようなものの存在も浮かんでくるところがあります。
A 「海風」を「息ながきかな」と表現したところに、アニミスティックな印象があると思います。
B 普通、息を行うのは生物ということになりますが、この句は「海風」を「息」として捉えたところに、なにかしら不可視の大いなる存在の姿そのものを想像によって思い描いてしまうようなところがあります。
A 続いて〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る〉を鑑賞しましょう。第2句集『踏歌』の昭和53年の作です。
B この句が福永耕二の句ではもっとも有名な作品であるということになると思います。
A 「新宿」が「墓碑」であるということですから、当然、思い浮かぶのは「ビル」という建造物ですね。
B そこへ秋の鳥が渡って来るということになります。
A しかしながら「墓碑」が「ビル」であるというのは、少し規模が違いすぎるようなところがありますね。
B それでも季語が「鳥渡る」ですから、秋の高い空の雄大さというものが想像され、その空の下にあってはそれこそ巨大な「ビル」も極く小さなものであるかのように思われてくるようなところもあります。
A 大きな空の下ではビルもそれこそ墓石のように小さなものに思われるといった趣きでしょうか。
B 角川書店の『俳句』平成15年8月号において、上谷昌憲という方による「はるかなる墓碑」という文章があり、そこに福永耕二自身の語った言葉が再現されているのですが、その内容によるとこの句は、〈「いや…あのね、ぼくは上京して暫く自閉症に陥っていただろう。都会人も俳句も、本当に嫌だった。そして毎晩一人で歌舞伎町へ飲みに行っていたんだよ。ある酒場で流しのおじさんと知り合ってね。その人のレパートリーたるや歌謡曲はもちろん、ジャズ、軍歌、どんな地方の民謡でも何でもござれ。知らない歌なんてない。ぼくはすっかり意気投合しちゃってね。ところがいつの頃からか、はたと姿を見せなくなった。風の噂によると、どうも交通事故で亡くなったらしい。だからあの句は流しのおじさんへの追悼句であり、我が青春の墓碑なんだよ。」〉ということであるそうです。
A この句は「流しのおじさん」へのレクイエムだったというわけですか。
B この句を読むに際して、必ずしもこの事実にのみとらわれる必要はないと思いますが、こういった事実を踏まえると、この句の意味内容としては、その「流しのおじさん」の墓碑である新宿へ鳥が渡ってくるということになるわけですね。
A この季語の「鳥渡る」についてですが、「鳥」というものは、そもそも古代から人々にとって「人の魂」としてみなされていたものであるそうです。
B 白川静によると〈人の霊は鳥によってもたらされ、また鳥となって去るとする考えかたがあった。〉ということです。
A 万葉集などの和歌でも「鳥」は「人間の霊魂」を意味するものということになります。
B 人が死んだら鳥となって去り、また帰って来るという考え方ですね。こういったことを果たして福永耕二は認識していたのでしょうか。
A その点については実際のところはよくわかりませんが、そういった考えがあることを認識していたにせよしていなかったにせよ、そのような理屈を超越して、この句における「鳥」は、やはりその「流しのおじさん」の「魂」を象徴したものとしてこの句の中に象嵌されたものではなかったかという気がします。
B まさしく福永耕二の「魂」の働きによって詠まれた1句だったというわけですね。
A そして、それはまた本人もいうように自らの「青春」への挽歌でもあったということになるのでしょう。
B 続いて第3句集である『散木』の作品について見ていきましょう。
A この『散木』という句集は昭和54年と昭和55年の2年間の作品約330句から構成されたものです。
B 福永耕二は昭和57年に42歳で亡くなっていますから、この句集は遺句集ということになります。
A 福永耕二は昭和55年に病により42歳で早世するわけですが、この句集は先の第2句集『踏歌』の作品と比べると、まるで気が抜けてしまったような作品が多く目につきます。
B そうですね。これといってあまり見るべき句がないようなところがあります。今回この第3句集については始めて読んだのですが、正直少し驚いてしまうところがありました。
A やはりこれは病気が影響を及ぼしているのでしょうか、
B この時期は福永耕二の身の上には病気だけでなく、「馬酔木」の編集長からの辞任などあまり芳しくない出来事がいくつも重なっていたようです。
A この時期の福永耕二についてはなんとも不憫なところがありますね。
B この句集からは昭和55年の〈鳥葬のかたちに臥せば雲の峰〉と〈還らざる旅は人にも草の絮〉のを選びました。
A 〈鳥葬のかたちに臥せば雲の峰〉についてですが、この句はなかなか凄みのある作品ではないかと思いました。
B 「鳥葬」と「雲の峰」ですから、どちらも「地上」にいるしかない人間とは対照的な「空」の領域に属するものということになりますね。
A なんとなく先ほどの〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る〉の存在を思い出してしまうようなところもあります。それこそ自らが人間であることの宿命性にまで思いが及んでゆくような、それくらいの迫真力を有した作品であると思います。
B 〈還らざる旅は人にも草の絮〉にしてもそういった思いに近いものを喚起させられるところがあるようです。
A まさしく死という宿命を正面から見据えたかのような句であるという気がします。
B さて、福永耕二の作品について見てきました。
A 福永耕二の作品は3冊の句集をあわせて、その作品数は合計で大体1200句前後ということになります。
B 第1句集の『鳥語』は、福永耕二の学校での教師生活や妻や子といった家族といった人間関係などを詠んだ句が多く見られ興味深いところも少なくないのですが、句集全体としては、年齢的なものも大きいのでしょうか、まだこの時点では福永耕二の本領は十全に発揮されていない部分があるのではないかという気がしました。
A そうですね。やはり福永耕二の才質が最も発揮されていると感じられるのは第2句集である『踏歌』ということになると思います。
B その構成の堅牢さ、技術力の高さから来る充実した緊迫感が『踏歌』の作品からは強く感じられます。
A また、これは私の望蜀の思いであるのかもしれませんが、その一方で、この第2句集『踏歌』は、その構成の堅牢さ、技術力の高さが、感情や言葉の奔放さ、放恣さを幾分か抑え込んでしまっているような局面もいくつかの作品の上に見られるところがあるように感じられました。
B 確かに理性や理知といったものに言葉がコントロールされすぎてしまっているような側面があるようですね。
A 〈鵜の礁を春潮が攻めかつ擁く〉〈緋桜の細枝まで緋のみなぎれる〉〈舞くらべして桐一葉栃一葉〉などといった作品を見るとやはりそういった印象を受けるところがあります。
B これらの作品のみならず全体的に説明が克明に過ぎるというか、やや言葉をやや詰め込み過ぎるきらいがあって、そのことによって作品の上における余白やそれによって生ずる「あそび」ともいうべき部分が損なわれてしまい、作品がやや窮屈な印象となってしまっているところがあるようです。
B 言葉の詰め込みについては、反復の表現の多用にも関わってくるところもあるのでしょうが、やはり「馬酔木」の作風による影響も大きいものであったのかもしれません。こういった例を見ると俳句というものはつくづく難しいものであるという気がします。
A ともあれ、やはり現在においても福永耕二の〈萍の裏はりつめし水一枚〉〈昼顔や捨てらるるまで櫂痩せて〉〈ほろびにし蛍がにほふ溝浚へ〉〈凧揚げて空の深井を汲むごとし〉〈浮寝鳥海風は息ながきかな〉〈新宿ははるかなる墓碑鳥渡る〉〈鳥葬のかたちに臥せば雲の峰〉などといった句に見られる青春の息吹きを宿した作品における光耀は、いまなお損なわれてはいないという思いがしました。
選句余滴
福永耕二
いわし雲空港百の硝子照り
わがための珈琲濃くす夜の落葉
向日葵に海峡の色またかはる
雪の詩に始まる学期待たれをり
ひきはがす上衣の胸の金亀子
明星と逢ふまでこともなき花野
泣く吾子を鶏頭の中に泣かせ置く
わが息に触れし綿虫行方もつ
脱ぎ捨てし外套の肩なほ怒り
白地図に色塗る今日を渡り鳥
冬野より父を呼ぶ声憚らず
レグホンの白が込みあふ花曇
新緑や生れし子に逢ふ硝子越し
雁来紅雨だれがうち踊らしむ
翳幾重封じてまぶし今日の菊
紅葉して桜は暗き樹となりぬ
今年わが虹を見ざりし日記了ふ
ほろびにし蛍がにほふ溝浚へ
水澄むと息つめをらむ田螺らも
一灣の縁薄刃なす東風の波
山葵田に雪まじりなる雨の音
緋桜の細枝まで緋のみなぎれる
アネモネを剪りたる後の荒畑
青田ゆく胸が支ふる風の量
雲青嶺母あるかぎりわが故郷
めつむりて茅花流しに流さるる
沓脱に出羽の大蟻茂吉ゐず
燕が切る空の十字はみづみづし
夏逝くか引き汐に堪ふわが踵
流星のあと軋みあふ幾星座
凌霄を纏き曼陀羅となる一樹
落葉松を駈けのぼる火の蔦一縷
初燕無数の波の追ひすがり
薫風のみなもとの樟大樹なり
水涸れてより鶺鴒をうつす水
酢茎樽みどりの泡を噴く小春
墓七百西日に影をつなぎあふ
落椿鯖街道にみづみづし
むらさきのリラ咲けばわが鬱の季
森染めて蓮華躑躅の大篝
長き夜を読み継ぐ童話子は眠り
囀りや一弦もなき琵琶残り
変哲もなき三椏の若葉かな
鳥籠に飼ふ仔うさぎや愛鳥日
虎杖の花がほのほをなす荒地
菊葎地を這ふ花の霜まみれ
椋鳥の百羽の黙をわが頭上
露を踏む旅とおもへり一歩より
ぼろぼろの身を枯菊の見ゆる辺に
俳人の言葉
俳句は姿勢だ、と僕は考える。俳句はそれを生きて行ずる人の姿勢である。俳句という表現形式を愛し、それを人生と等価のものにして生きようとする努力が俳句の歴史を貫いてきたと思っている。
福永耕二 「俳句は姿勢」
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