2008年12月14日日曜日

俳句九十九折(16)俳人ファイルⅧ 正木浩一・・・冨田拓也

俳句九十九折(16)
俳人ファイル 正木浩一

                       ・・・冨田拓也

正木浩一 15句


すれ違ふべき炎天の人遥か

一片の雲を許さず蟻地獄

鰯雲すくひもらせし星の数

海に降る雪を想へり眠るため 

身の内を真青に蟬の殻出づる

芹つむや光あそべる橋の裏

地を軽く蹴れば即ち鶴の空

うす粥の箸にかからぬ櫻かな

ちる櫻白馬暴るるごとくなり

玉虫の屍や何も失はず

永遠の静止のごとく滝懸る

父母と泊るこの世の螢宿

月天心すべてのものを遠ざけて

海側に席とれどただ冬の海

冬木の枝しだいに細し終に無し

 

略年譜

正木浩一(まさき こういち)

昭和17年(1942) 7月31日誕生

昭和47年(1972) 「沖」へ投句

昭和50年(1975) 「沖」新人賞

平成元年(1986)  句集『槇』(ふらんす堂)

平成4年(1992)  4月3日逝去(49歳)

平成5年(1993)  『正木浩一句集』(深夜叢書社)

平成11年(1999) 『俳句四季』1月号で「シリーズ夭折の詩人1 正木浩一」

 

A 今回は正木浩一です。

B 現在活躍中である俳人正木ゆう子さんのお兄さんですね。

A 正木浩一は、平成4年(1992)に病気が元で49歳で亡くなっています。

B 句集は『槇』と遺句集『正木浩一句集』の2冊ですね。

A 作品を見ると、どの句も清新な抒情に溢れています。

B これだけの作者がこれまであまりしっかりと評価されてこなかったというのも驚きです。

A 優れた句集を出してもしっかりとそれを評価する受け手がいないとどうしようもないというところがあるのかもしれません。

B しかしながら、評価という行為もなかなか難いものではあると思いますが……。

A 齋藤慎爾さんがこの正木浩一の第1句集『槇』が出版された当時について『俳句四季』1999年1月号に書いておられます。〈邂逅の発端は、平成元年九月、一冊の句集『槇』が送り届けられたことに始まる。(…)一読、眩暈にも似た衝撃を受けたことを覚えている。絶えてないことである。再読したところで、私は逡巡することなく、当時、コラムのページを持っていた誌紙(…)に紹介記事を書き送っている。(…)「今年の収穫。俳人協会賞はこれで決まり」ぐらいの熱にうかされたようなオマージュだった筈である。(…)私の性急な予断にも拘らず、『槇』は俳壇の各賞と見事にすれ違った。〉とのことです。

B 当時の俳句の世界はどうやらこの俳人を評価することができなかったようですね。

A やはり俳句の世界にはまともなジャーナリズムが存在しないということなのでしょうか。優れた成果がまともに取り扱われることなく、まるですべてが、その場限りの一過性のものとして有耶無耶のままに通り過ぎて行ってしまうとでもいったような感じがします。

B そういった問題に関しては正直なんといっていいのやら……。けっして優れた評者も存在しない、というわけではないとも思いますが。

A 俳句の歴史にはいままでにも、もしかしたらこのような句集がいくつも存在していた可能性があるわけです。さらにそういった句集は、依然まともに評価されないまま、いまもどこかで眠り続けているのかもしれません。

B やはり優れた目利きという存在が必要なのでしょうが、果たして、過去において膨大に生産された作品や、現在、日々大量に生産される俳句作品についてどれだけ目を通せるのかと考えると、なかなか現実的には厳しいものがある、というのが実情でしょうか。

A そうでしょうね。資料があまりにも膨大過ぎます。無論、その埋もれ去ってしまった作品が果たしてどれほど優れたものであるかというと、多くのものが当然ながらそれほど価値のあるものではないはずということも一方の事実ではあるのでしょうけれども。

B しかしながら、その中に珠玉の作品が混じっていないともいえないところがあります。

A なかなか難しい問題です。

B では、正木浩一の作品について見ていきましょう。

A まず〈すれ違ふべき炎天の人遥か〉です。

B 距離感がありますね。あと時間的な隔たりのようなものも感じられます。

A 広い炎天の下、遠くに小さく見える人影。それを「すれ違ふべき」と早々と断定しています。本来ならば「すれ違うはず」という仮定の表現になるのでしょうけれど、まるで時間を先取りして、その事実を既定のものと知覚してしまっているようです。予感というか一種の予兆のような句でしょうか。

B なんだか「運命」という言葉すら思い浮かんでくるところがあります。そして、その人影が徐々に近づいてくるまでの時間と、自らの歩みの長さ。

A 時間とともにその「すれ違ふ」べき人物の姿と形が段々と判然としてくるわけですね。そして、すれ違ったあとも、両者ともまた「遥か」な距離へと離れていくというわけなのでしょう。

B よく考えてみれば、人間というものは、そもそも最初から最後まで一人であり、その中で出会う人々は、長い時間の流れで考えると、すべて「すれ違ふ」人々でもあります。

A それはおそらく作者の若さゆえの性急な思いではなく、そういった。一種の孤心とでもいうべき透徹した現実認識をこの作者ははじめからその内側に有していたのかもしれません

B この句は第1句集の巻頭の作です。この句集の栞に長谷川櫂さんが文章を寄せておられて、正木浩一の作品世界について〈少年〉〈感覚のナイーブさ〉を指摘し、〈正木さんのなかの少年の端的な証しは、句集の底を流れる遥かなものへの想い、憧れである。正木さんの詩心は対象自体よりも自己と対象との隔たりに触発される。〉と評しています。

A この句はその評言にまさにぴったりの内容です。たしかに他にも〈白藤に人来るまでの刻清き〉など、そういった言葉と符合する作品が句集にはいくつも見受けられます。この作者の本質を的確に捉えた評言だと思います。

B 続いて〈一片の雲を許さず蟻地獄〉です。

A なんとも厳しい調子の句です。そして、ここにもやはり遥かなものへの距離があります。

B まるで蟻地獄が世界の中心にいて、青空をも含むこの世界そのものを支配しているかのようです。一片の雲による「翳り」さえも許さないという緊張感が伝わってきます。そして、そこに込められているのは作者自身の矜持でしょうか。

A この句の世界からは、まったく音が聞こえてこないようにも思われます。まるで時間さえもが止まっているような。石川雷児に〈しんかんと月光を増す蟻地獄〉という句がありましたが、それこそ、まるでこの句と対になっているかのようです。

B では、続いて、〈鰯雲すくひもらせし星の数〉です。

A 大変壮大な句です。

B 鰯雲の間から見えるわずかな秋の星。それを「すくひもらせし」と擬人的に表現したわけですね。

A その表現から、逆に見えない星の数の膨大さにも思いが及びます。

B わずかな星の数から連想される、地上からは目にできない多くの星の存在。そして、その膨大な数の星から、それこそ2、3の星がまるで礫のように零れ落ちるようなイメージ。その、なんとも広大な世界に圧倒されます。

A 続いて〈海に降る雪を想へり眠るため〉です。

B 大変静謐な感じがしますね。「想へり」ですから空想の句です。

A その海からはなんとも広大で静かな印象を受けます。海にひたすら降っては消えてゆく気の遠くなるような数の雪片。そしてそれを受け止める海。

B 広大な空から落ち続ける雪の数と、海の果てのない広さに「無限」の世界を想像してしまいます。そして、その「無限」の広大さというものは「眠り」の世界の広大さそのものとどこかしら通底するものでもあると思います。

A 石田波郷の〈雪霏々とわれをうづむる吾が睡〉や赤尾兜子の〈ねむれねば頭中に数ふ冬の瀧〉あたりの句が思い浮かびますが、これらの句に似通いつつもやや位相が異なるところがありますね。

B 次に〈身の内を真青に蟬の殻出づる〉です。

A 蝉は10年もの歳月を経て地上へと出て、成虫となるために木などに登り、その殻から脱皮するわけですが、その蝉の柔らかな本体を「真青」と表現したところに驚かされます。

B 蝉の種類によって異なるのではないかと思われますが、たしかに羽化するときの蟬の生体そのものは青白い感じであると思います。それを夜、もしくは夜明けのうす暗い空間で目撃すれば「真青」に見えるのかもしれません。

A ただ実際のところはその色彩は「真蒼」とまではいえないところかもしれません。おそらくこれはどちらかというと誇調による表現効果を狙ったところもあるのではないでしょうか。そうすることで生命の生れ出る際の迫真性とでもいうべきものが生じるところがあるような気がします。

B あと、「馬酔木」の篠原悌二郎に〈暁やうまれて蟬のうすみどり〉という句がありますから、この正木浩一の句もどちらかというとある意味では馬酔木調の1句といえるのかもしれません。

A 次に〈芹つむや光あそべる橋の裏〉です。

B 「芹」ですから季節は春ですね。橋の裏にきらきらと乱反射する川の光。その光を「あそべる」と表現したところが秀逸です。

A 明と暗の世界とでもいうのでしょうか。橋の下というのは場所としてやや特殊な雰囲気があります。あと、この句からはなんとなく万葉集の〈石ばしる垂氷の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも〉が思い浮かぶところもありますね。

B 続いて〈地を軽く蹴れば即ち鶴の空〉です。

A 独自の感覚の句ですね。弾性というか弾力感が感じられるというか。

B 当然のことながら、地を蹴って跳び上がったのは作者ではなく鶴そのものです。

A まず、鶴のあの細い脚が地を軽やかに蹴り上げるわけですね。鶴がその脚を少し屈伸させ、伸び上がる様子が目に浮かぶようです。そして、その後、羽根の力によって宙へ舞い上がってゆくということなのでしょう。

B この句を読むと、まるで自分自身が鶴に同化して、身体が浮かび上がってしまうような浮遊感が感じられます。

A 鶴の動作の優美さと伸びやかさ、そして、その軽やかな上昇感が読み手にまで存分に伝わってくる句だと思います。

B 続いて〈うす粥の箸にかからぬ櫻かな〉です。

A この句は『正木浩一句集』の平成3年春からのものです。

B この時期に作者は発病します。この句はおそらく入院中のものではないかと思われます。

A この句には本歌があるのではないでしょうか。

B 高田蝶衣の〈薺粥箸にかからぬ緑かな〉が思い浮かびます。

A 高田蝶衣は明治から昭和の始めのころの作者ですが、この二人にはなにかしら共通項が多いように感じられるところがあります。清新な抒情、作品世界の澄明さ、そして40代後半での病没等。

B 正木浩一が果たしてどれだけこの高田蝶衣とその作品について知っており、その存在を意識をしていたのかわかりませんが、たしかにこの二人にはどこかしら共通する詩心が感じられます。

A この作者についてもいずれ取り上げてみたいと思っております。作品をいくつかあげておきましょうか。
 

高田蝶衣(1886~1930)

寝し家の前ゆく水の月夜かな

野は青く蜘蛛手の水のぬるむかな

窓あけて見ゆるかぎりの春惜しむ

此心汝が手にうつす螢かな

夜の明けて我もうれしや渡鳥

 

B この正木浩一の句と高田蝶衣の句を対比させてみましょうか。

薺粥箸にかからぬ緑かな  高田蝶衣

うす粥の箸にかからぬ櫻かな  正木浩一
 

A こうやって並べてみると季節は異なりますが、桜と緑の色彩の対比が見事で、大変鮮やかな感じがしますね。

B 優れた本歌取りの作品は、このように本歌に対して別の命を吹き込み、その作品を新生させることができる可能性がある、ということがこれらの作品からわかるはずだと思います。

A では、続いて〈ちる櫻白馬暴るるごとくなり〉です。

B ただ桜が散っているだけなのですが、その比喩に白馬が暴れている姿をもってきたというところが眼目なのでしょう。

A まるで、まぼろしの白馬の姿が現前しているかのようですね。躍動感も感じられます。

B 桜が散っていくわけですから、その白馬がどんどん崩れていくようなイメージもこの句の背後からは感じられるようです。

A 次は〈玉虫の屍や何も失はず〉です。

B この句はある意味では何も内容がないような句ですね。

A ただあるのは玉虫の屍だけです。

B 「何も失はず」という認識の強さとでもいうのでしょうか。その玉虫の屍の煌びやかな形象の完全性と完結性。そこに作者は生死すらも超越したものを感じ取ったのかもしれません。

A なにかしら「永遠性」とでもいったようなものの存在をこの句からは感じ取れるようです。

B 続いて〈永遠の静止のごとく滝懸る〉です。

A 一体この句はどういう内容なのでしょうね。実際の風景による句であるというべきなのでしょうか。

B たしかに滝を遠くから見れば、静止しているようにも見えるような気がします。あと、すこし違うかもしれませんが、藤後左右の〈滝を見るしまひに巌があがるなり〉という句が思い浮かびます。

A ただ、この句には実際の滝の風景そのもののみにとどまらない何かがあるようにも思われます。常識的に考えれば、滝というものは常に流れ続けているわけですから、この句における「永遠の静止」という表現は矛盾したものであり、成り立たないということになります。

B しかしながら、それでも「永遠の静止のごとく」という表現により、滝の一瞬の姿をまるで写真のように切り取ったもののようにも思えてくるところがあります。

A もしかしたら、一瞬が永遠であり、またその一瞬が連続性をも有している、とでもいったような作者の内部における心象及び認識を作品化したものなのかもしれません。

B なにかしら人智を超えた認識とでもいったものを感じるようです。

A 普通の感覚を越えた超感覚とでもいうべきものでしょうか。もしかしたらこの句は滝という存在そのもの、もっといえば現実そのものの本質をそのまま捉えた句であるのかもしれません。

B 続いて〈父母と泊るこの世の螢宿〉です。

A 「この世」という言葉から反対に強く喚起されてくるのは当然「あの世」ですね。なにかしら「この世」というものを、もうひとつの目でみているようなところがあります。

B 父と母と作者がこの世に生まれ合わせた不思議。そして、そこに舞う蛍。当然これは現実の世界でありますが、その現実の世界自体がこの句では限りなく夢幻の相を帯びているようにも感じられます。

A たしかに、現実の風景でありながら、幽明の区別がつかない風景のようにも思えてくるところがあります。

B 続いて〈月天心すべてのものを遠ざけて〉です。

A ただ月が天心に懸っているだけの句なのですが、なぜこんなにも「遠い」感じなのか。

B 特に何が書いてあるというわけではないのですが、どこかしら現実の世界から遊離しているような雰囲気がありますね。

A 蕪村の〈月天心貧しき町を通りけり〉や河原枇杷男の〈月天心家のなかまで真葛原〉とそして虚子の〈月の下生なきものの如く行く〉ともその作品世界が異なるところがあります。

B ありとあらゆるものから超越して、月がまるでこの世のものではない光を発しているかのようです。

A 次は〈海側に席とれどただ冬の海〉です。

B この句も、ある意味では、ただの風景を詠んだだけの句です。

A たしかに、ただ窓の外に冬の海が広がっているだけですね。それでもこの句の世界からはなにかしら普通でないものが感じられます。

B 当たり前の風景の静かな迫力とでもいうものでしょうか。

A それだけにとどまらず、なにもないゆえのやすらかさ、とでもいうのでしょうか、なにかしらふかい憂愁さえも超越した静謐な感覚までもが感じられるようです。

B 最後に〈冬木の枝しだいに細し終に無し〉を鑑賞しましょう。

A この句は『正木浩一句集』の最後に置かれた句です。

B どことなく福永耕二の〈省くもの影さへ省き枯木立つ〉を思わせるところがありますね。

A あと、野見山朱鳥の〈つひに吾れも枯野のとほき樹となるか〉も思い起こされるところもあります。

B 冬木の枝が次第にどんどんと細くなってゆき、ついにはなくなってしまう。この句もいままで見てきたいくつかの句と同じように当たり前のことを作品にしているにすぎないのですが、存在の「有」と「無」の不可思議さを思い起こさせられます。

A まるで存在そのものにおける「謎」とでもいうべきものが喚起されてくるようです。

B そして、この句は存在の有無から、作者の生と死の問題にさえも繋がってくるようにも感じられます。枝が次第に細くなっていくという表現から、当然死そのものが想起されるわけですが、それよりも、どちらかというとこの句からは単純に死を連想させるものというよりもなにかしら「永遠」の世界そのものに繋がっていくような崇高さがあるようにも思われます。

A 存在そのものにおける「有」と「無」の絶対性とでもいうべきものが強く刻印されているゆえでしょうか、たしかにこの句からは単純に「死」そのものだけがテーマである作品であるとは思えないところがありますね。

B この世界におけるありとあらゆる存在というものは、本質的には実際のところただその姿形を変えているだけに過ぎない、といえるようなところもあります。

A 生物にとって滅びは必須ではありますが、その実体が滅びた後も、また別のものへと変貌し永遠に存在を続ける。そして、それが「冬木」という植物の姿であるかもしれないと考えてもおかしくないと思います。そういった意味ではこの句における「死」はまさに「死」であるが、その「死」ではない、といえるような気がします。

B そのような「有」と「無」の果てしない生滅の繰り返しの中に世界は存在しているというべきでしょうか。そして、そういった人智を越えたこの世界の定めを受け入れ、首肯する思いが、この句の背後には通底しているようにも感じられます。

A さて、正木浩一の作品について見てきました。

B その作品は総じてなにかしら「永遠」とでもいうべき世界に触れているような印象が強く感じられました。そして、この作者の作品は、第1句集からそういった思いを抱かせる内容を持っていたように思われます。そういった側面が病というきっかけによりさらに深化し、その作品として結実しているように感じられました。

A この作者とその作品は今後見直されていく可能性がありそうですね。
 

選句余滴

正木浩一


翡翠の満身嘴となる構へ

虹の根はここかも知れぬ葛濡れて

かかる夜は悪友が来る菊膾

白藤に人来るまでの刻清き

三つといふあやふき数を夏の蝶

水底のごとき日暮の菜を間引く

はじまりを終りのごとく草の絮

煮こごりの一夜をいくつ星隕ちし

仏には暗き金色冬の鵙

裡からの光に開き白木蓮

床下に柱こみ合ふ蟻地獄

天網を解かず夜に入る鰯雲

消して灯のしばらく明し鉦叩

空のこの碧さは枯の兆すなり

芹といふことばのすでにうすみどり

ある朝の眠りの覚めず冬の蝶

傾きてオリオンは夜の凧

梅ひらく天の投網のこまやかに

純白を重ねてくらし雲の峰

むらさきを秘色としたり百日紅

蜻蛉のとどまるときの翅はげし

刃のごとき地中の冬芽思ふべし

この家に絵本の消えし春の月

凍りては水をはなるる水面あり

春月や静脈めぐる身のおもて

水の面と知らず落花の動くまで

汝は蟬に吾は揚羽に生れけり

空蟬と思ひしが木を登りだす

羅におくれて動くからだかな

旅の虹見知らぬ人に教へけり

某日や風が廻せる扇風機

炎天に生れなば死もかくあらめ

冬蝶のことりと何もかも終る

鵙鳴くや痛みを神の声と聞き

街の音絶えしは雪の降りてをり

寒き世に泪そなへて生れ来し

雪の夜はむかしの汽笛届きけり

丹頂の紅一身を貫けり

菜の花の頃に菜の花咲きにけり

 


俳人の言葉

正木浩一は、いわゆる俳壇的には殆ど無名に終始した。(…)寡黙にして、謙虚含羞の九州男児であった彼は、もとより自ら世俗的喧騒の埒外に身を置き、独り詩心を磨く誇りに生きたのである。(…)桜の季節に病を得た彼は、次の桜が咲くまでを生きた。人間が死ぬ、ということの言語を絶する不可解さをみつめながら、彼は濃縮した時間を求道者の如く全うした。ほんとうの生は決して生きた時間の長さではない。

吉田汀史 「鶴やいま」より

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