2008年12月13日土曜日

高山・相子のコメント

感想風に(高山氏、相子氏のコメント/作品番号16)

                       ・・・筑紫磐井

今回はお休みの予定であったが、最近の拙論に高山氏、相子氏からコメントが寄せられていたので感想を記す。コメントにコメントで返さないのはコメントという方式が嫌いだからである。特に内容のあるものほどそうだ。言いたいことがあればまちがいのないように評論にすればよい。それも含めて、ブログを経験して感じたのは、その特色に応じた自分自身の変質は行いたくないという天の邪鬼な欲求であった。書いても誰も読んでくれないということは同人雑誌で永年経験してきたことなので何ら臆するところはない。既に書いたように、同人雑誌の同人が「結社誌育ちの軟弱な作家や評論家と違うことは、確実に読まれないと確信しつつ、不撓不屈の精神で書く人々であること」であるからカウント数も気にならない。関心のあることは、自分の書いたものが蓄積するかどうかで、その意味ではこれははなはだ便利なツールである。私にとっては定型詩学3部作を完成することが目標であるが、2部(『定型詩学の原理』『近代定型の論理』)までは出たが、第3部は緒についたばかりである。完成するためには、日頃様々なアンテナを張って、膨大な断片の執筆が必要であるが、いまやその倉庫の役割を果たしてくれている。連載の中では、「句読法」の研究など私の気に入っているものの1つである。たぶん、こんな馬鹿なことは誰もやっていないだろう。また、記事をパソコン画面で見て、評論詩が成り立つことを体験したのも愉快であった。一方たいへんであったのは毎週書くと言うことで、相当生活が乱れてしまった。その意味では、管理人がどれくらいこのブログを維持できるか心配である。私のように書くことにだけ興味があり、読まれることは面倒くさいと思う人間とは違うからで、インセンティブを維持し続けるのはさぞかし難しいことと思う。

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まず高山氏のコメントから。小川氏の『現代俳句の海図』で問題としたいのは、「三人は家系によって俳句の世界のほうから選ばれた存在だ」から「悩んだ末に、この三人については・・・まとめて見送ることにした」ことだ。拙論はこの原則論いついてのみ異議を唱えているのである。3人が「家系によって俳句の世界のほうから選ばれた存在だ」などと誰が決めているのか、もしそうだとしても「自ら進んで俳句の世界を選ん」でないなどと決め付けられるものではないということである。

この過程で、蛇笏・龍太を引き合いに出したのは「家系によって俳句の世界のほうから選ばれた存在」「自ら進んで俳句の世界を選ん」でないとされる点では、共通するからである。3人の俳句ががくだらないからと言う理由だけであったならば私は一つの見識として尊重し、あえて取り上げるつもりもなかったはずだ。

これを転ずれば、公共性に話が及ぶかも知れない。私は、公共空間などあるわけがないと思っている。ものを考える基準は、単純な個人のモラル(だから「家系によって選ばれた存在だ」から「悩んだ末に、まとめて見送ることにした」の論理展開に苛立つ理由である)と正しい論理しかないと考えている。
なお、全く余談だが、社交は嫌いではない。このようなブログに記事を書くのも、1%ぐらいは同レベルの社交であると考えている(99%は在庫の増加のためだが)。権謀術作も大好きである。高山氏の指摘するとおりであり、私の趣味であり、溺れてみたいと思っている。

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相子氏のコメントについて。
豈46号の特集<俳句と身体感覚>で「切字の身体性」を書いた相子氏の独白が面白い。私は切れ字は何かを探求するつもりで、白地の立場に身を置いて、出来るだけ古い文献から現代に向かって考えを進めたが、相子氏は実作の立場、その周辺の意識を踏まえて切字をさかのぼってゆく。さいばら天気氏の「週刊俳句」での分析、片山由美子、本井英氏の論文と疑問をふくらませ、小澤實評論集『俳句のはじまる場所』で目から鱗が落ちる様を要領よく書いている。

『俳句のはじまる場所』は「切字」と「切れ」を違った場所で論じている。切字は勿論「切字――この不思議なるもの」の章(第16章)で書かれている(ここでは川本説が丁寧に紹介されている)が、切れは「取合せの試み」の章(第18章)の中で論じられている。これは私たちの切れ論から言えばまっとうな体系だと思うのだが、それが新鮮な印象を相子氏に与えたとしたら、それ自身愉快なことだ。というか、私たちが切字と言うとき、「や」と「かな」を真っ先に思い浮かべるが、相子氏の思い浮かべる切字はまず「や」の方であり、だからこそ文中で切れ、取り合わせのつなぎ目で登場する。「かな」ではないのである。『俳句のはじまる場所』では、切れ従って「や」は「取合せの試み」の章の中で論じられているが、「かな」は「文語をもって詠む」の章(第17章)で論じられている。

小澤氏の切字論、切れ論は一般的な入門書として構成されているから、「切字」「や」「かな」が章として分散して体系化していないが、「切字」「や」「かな」「切れ」を安易に一括して論じていないこと、つまり実作の感覚として少しづつのずれを感じていると言うことになるであろう。こうした微妙な感性の差を「切字=切れ」論者は圧殺しているのである。

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時評風に(現代俳句の可能性/作品番号15)・・・筑紫磐井   →読む

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