・・・恩田侑布子
人間てえものは、ほんとうの貧乏を味わったものでなけりゃ、ほんとうの喜びも、おもしろさも、人のなさけもわかるもんじゃねえと思うんですよ。
古今亭志ん生『なめくじ艦隊』 ちくま文庫
一枚きりの腰巻が破れてしまったので、風呂敷を巻きつけて寒さをしのいでいる長屋の女房。せっかく所帯をもったのに、空の米びつを前に、女房を蹴転(けころ)で売春させなければならない男。志ん生の噺には、どん底の庶民ばかりが登場します。順風満帆の人生を送っている人は一人もいません。江戸の三軒長屋で「こんちくしょう」とののしりあう夫婦喧嘩の底に、きらりとのぞく夫婦愛。庶民の貧しい愚かな明け暮れが、存在感豊かに、いとしく生き生きと語られます。
志ん生自身、三千石の武家の孫に生まれながら、十三、四歳で飲む打つ買うを覚えた正真正銘の八方破れでした。四十の時には、家賃がタダでも入り手のない、人呼んで「なめくじ長屋」の初代入居者になり、妻子ともどもナメクジの猛攻撃に遭いました。長男の馬生の出生時は、産婆代も払えず、「尾頭つきってんで鯛焼を産婆代のかわりにした」といいます。満州で敗戦を迎え、命辛々引揚げてきたのが五十七歳。やっと貧乏を脱けだしたと思ったら、六十の坂を超えていました。
ですから、志ん生にいわせると、首が回らず悪あがきしているうちは「まあだまだ」です。貧乏神に骨の髄までしゃぶられ、嬶(かか)アが蛙を取ってきて子どもに食わせる底が抜けた生活の中で、たまさか出会う喜びこそ、まっ青な大空のような喜びだというのです。
志ん生のすごさは、自分の貧乏を、もう一人の自分が心底笑いのめしてしまうことです。この「自己相対化」が出来た人だからこそ、半世紀を経たいまも、彼の噺に、わたしたちはたちどころに引きこまれ、笑い転げたあげくしんみりさせられるのでしょう。本当は自己相対化などというしかつめらしい言葉は志ん生に似合いません。平たく言えば人を思いやるこころですが、照れ性の志ん生は、やさしい、ということばさえ「とんでもねえ」とはねつけそうです。
わたしは愚かなので、長いこと、想像力というものを、美しくゆたかな幻想を頭の中でひろげる力と勘違いしていました。本当の想像力は、そんなきれいごとではなく、他人の苦しみを身に引きくらべることでした。落語も俳句も、すべての表現にとって、それが最初で最後のものでした。夫婦で一枚の猿股をつかいまわし、「さんざ浮世の苦労をなめつくして、すいも甘いも知り抜いた人間」、修羅場をくぐった人間から滲み出ることばは嘘をつきません。庶民の生活から生まれた俳句と、落語のふるさとは同じなのです。
志ん生を聞いていると、この人はほんとうに噺が好きなんだな、と思います。噺に身を売らない。上手く話して笑わしてやろうとか、かっこよくサゲようとか、はからいが微塵もないのです。高座に上がっている志ん生の胸の中は、きれいさっぱり、まっさおな青空です。禅の廓然(かくねん)無聖(むしょう)ということばを、この横紙破りの男にこそ、わたしは捧げたい。そう思います。
そのあしたてんぷらを焼く時雨かな 馬楽
古袷秋刀魚に合す顔もなし 〃
「与太っぺ」と志ん生が呼び親しんだ先々代馬楽の俳句です。1句目〈そのあした〉は、長屋の路地に七輪を持ち出して、ゆうべの冷たくなったてんぷらを焼きなおそうと、団扇であおいでいる姿。そこへさっと銀ねずの時雨。路地裏を踏むやわらかい下駄の音まで聞えそうです。2句目は〈古袷〉をぞろりと着込んで七輪の前に座ったおとこ。秋刀魚とご対面したとたん、顎までぴかぴかの細面。参った。こりゃかなわねえ。
冒頭の志ん生の言葉は、格差社会の現在、ふたたび身につまされて感じられてきました。しかし、「貧乏」を「苦労」と置き換えても通用します。芭蕉の「東海道の一筋しらぬ人、風雅におぼつかなし」ということばも同じことをいっていますが、およそ優等生でない志ん生のことばのほうに共感してしまうのは、劣等生のわたしだけでしょうか。
(「ユーキャン倶楽部2005年11月号」より加筆転載)
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