2008年12月14日日曜日

豈47号を読む 特集「安井浩司の13冊の句集」編・・・山口優夢

豈47号を読む
特集「安井浩司の13冊の句集」編

                       ・・・山口優夢



前回に引き続いて豈47号の特集記事を読んでいきたいと思う。今回読むのは特集「安井浩司の13冊の句集」である。

安井浩司の句に、僕自身は今までほとんど馴染んでこなかった。そもそもこの特集を開く前に僕が知っていた彼の俳句は、著名な二句

ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき
麦秋の厠ひらけばみなおみな


くらいであり、それらの句を思い出すときにも「小屋をこわせばみなおみな・・・だっけ?」と、二句が混ざってしまうくらいだから(現に、人と話している時に無意識のうちにそうやって間違えて口にしていることがあるらしく、しばしば訂正される)、正に僕は神野氏の記事でターゲットにされている「安井浩司初心者」そのものだったのである。それが今回のような特集が組まれることによって彼の句に多くふれる機会を与えられたことそのものを、まずは謝したい。

稿を書くにあたっては、豈47号の特集記事のいくつかを取り上げる中で、その記事で触れられている安井浩司観を僕自身の安井浩司観と対比しつつ紹介する形で進めたいと思う。ちなみに、この稿を書く前提として、僕が読んだ安井浩司の俳句作品を記述しておくと、豈47号に掲載された安井浩司の特別作品書き下ろし50句『蛇結茨抄』、邑書林の『安井浩司選句集』の二つに過ぎない。このため、知識の浅さは免れないかもしれないが、どうかご寛恕願いたい。



特集記事の中で一番目につくものは、末尾に置かれた宇井十間氏の記事であろう。理由は二つある。他の記事は見開き1ページであるのに対してこの記事のみ見開き2ページ半にわたっているという純粋な分量の問題。そしてもう一つは、他の記事が安井浩司俳句に対して比較的肯定的であり、その魅力を引き出そうとしているのに対し、この記事のみが安井浩司に対してほぼ全否定に近いような意見を持っているということだ。安井の俳句は「少しも面白くない」ことを語ったのち、文章の締めくくりにおいて、安井浩司が自作や一部の前衛俳句について「あまり満足していない」と発言していることに触れ、「私が安井浩司を評価するとすれば、それはなによりもこの意外に冷静で客観的な歴史観に起因するであろう。」と言っている箇所に、彼の安井俳句への評価の低さが顕著に表出されている。つまり、「安井浩司は大した作品を作れないが、そういう自分を認めているところだけは評価できる」と言っているのだ。これ以上低く評価することはできないのではないかというくらい低い評価であることが分かる。

しかし、批判的な記事ではいけないということはもちろん全くない。むしろ、否定的な視角から語られることによって新しく見えてくるものがあるはずで、それをつかみだそうとしているからこそ、この記事だけ他の記事よりも長いのだとも考えられるだろう。そこで、この記事の中身をまず検討してみたい。

彼が安井浩司の俳句について否定的な理由は次の二つである。

一つは、安井俳句の前衛的な文体が空振りに終わっているということ。「安井の実験的な文体はしばしばただいたずらに実験的であって、少しも面白くないのである。」「概してそれは単に難解の仮面を被っただけの見せかけの思索性であって、良質な俳句作品にしばしば観察されるある種の柔軟さに欠ける」という言葉によってそれが示されている。もっと突き詰めていって、「もともと「俳句的」「伝統的」であったはずの人が、無理に「前衛ぶり」を見せようと格闘しているようにも見えてしまう。」とまで書く。

もう一つは、安井俳句には個性を感じないということ。「安井浩司の俳句は、実は意外なほど類型的である。新しさという観点から言えば、少しも新しくないのである。」と彼は書いている。

文体については鈴木六林男や永田耕衣を、個性については田中裕明を引きあいに出して語っているが、彼の批判がその断定的な口調に比してさほど説得力を持たないのは、彼が俳句をどのように鑑賞するのか、という方法論がこの記事だけからでは十全に見えてこないからであろうか。それぞれの批判が、何の論理展開もなくいきなりポンと主張され、それだけで語りつくされたとしてしまっているところに、この記事の一番の問題点があるのではないかと推察する。

たとえば、文体については、

鳥墜ちて青野に伏せり重き脳

などの句を引いて、「ことさら実験的なふりをした言葉の強引な羅列にすぎず、したがってそこになんらかの思索的な深さを発見することはできない」としているが、そもそも思索的な深さを発見することだけが俳句を読む意義なのであろうか?そんなことを言ったらほとんどの俳句に僕はそのような深さを発見したことは今までないのであるが…。おまけに、彼は一句一句について語らないので、これ以上の論理展開や具体的な指摘はなく、つまり、ほとんど印象論に終始してしまっている。

鳥墜ちて、の句は、僕にはなかなか面白いように思える。しばらく宇井氏の文章から離れて僕の鑑賞を開陳する。僕が俳句を鑑賞し、評価する際の基準は、ほとんど単純そのもので、あくまでも言葉が組み上げている情景が僕の身体感覚を刺激してくるかどうか、さらに身体感覚を通じて感情を揺り動かすかどうかにかかっている。だから、この句から僕の読みとる面白さは、青野に突っ伏している鳥がその図体に不釣り合いなほど大きな頭を必死でもたげようと、もがき苦しむ様がまざまざと感じられてくるというところにある。無理に頭をもたげようとしたために首の後ろがじんじんとしてくる、あの感覚までもが感じられるところがすごいではないか。青野という広い空間を見せることで鳥の存在の淋しさまでうかがえる。

そんな脳を持った鳥とは一体何なのか、そもそもそんなもの実在するのかどうか。そんなことは、僕の鑑賞の中では一切関係ない。言葉に書かれてあるものは、存在するもの、少なくとも存在を夢想できるものなのだから。また、あるいは、この句を文明に対する批評というメタファーとして読むことも僕の性に合わない。それでは、せっかく僕が把握した身体感覚が死んでしまうからだ。

やや話が脱線したが、僕には、この句は言葉の強引な羅列には感じられず、確かに思索的な深さがあるかどうかは疑問だが、五感を刺激する面白さが感じられるということが言いたかったのだ。宇井氏の俳句に対する鑑賞方法が、もしも思索的な深さを感じるというところに最重要な力点があるのなら、その例句を(耕衣でも六林男でも)ぜひとも挙げてほしかった。

また、安井の個性について批判している箇所では、確かに田中の俳句を引きあいに例句として挙げているが、こちらは個性の話なので、他の個性を持った俳人の句を例に出されても、それが安井に個性があるかないかということを判定する材料にはならない。挙げるとすれば、むしろ、安井に先行して安井の俳句の世界と似たものを築きあげた俳人の句を例として挙げるべきであろう。でなければ、「実は意外なほど類型的である」「少しも新しくはないのである」という文芸に携わる者として最大級の批判を浴びることに安井自身は承服しないであろう。

ただ、安井浩司の俳句観には「もどき」「遅参性」というキーワードがあり、そのことについて大本義幸氏は本特集の記事中で次のように指摘している。

時代と俳句史におくれてじぶんはやってきたのだという認識が、俳句は表現ではない、俳句はもどきであり、俳句の典型を自分はなぞるだけだという認識が、個人にだけ奉仕する、呪詛のようなことばを用意したのであろう。

つまり、安井自身は自分の俳句について(あるいは、同時代の作家全体の俳句について)「類型的」「新しくはない」と自分自身でも考えていることにはなる。このことは、前回豈weekly17号に書いた拙稿「豈47号を読む 特集「青年の主張」編」で、僕が新しい俳句表現は可能であろうか、と書いた部分ともリンクするところであって、興味をかきたてられるところではある。

安井俳句が新しいのかどうか、個性的かどうか、ということは、現代の俳句シーンを隈なく知り尽くしているわけではない僕にとって非常に難しい質問ではあるが、少なくとも僕は、以下の句に見られる安井の感覚を非常に独特で面白いと思う。

喰いかけの蟹の裏面林に落ち

生死、流転の気色悪さ、

犬二匹まひるの夢殿見せあえり

あまりにあっけらかんと開放的に語られるがゆえに逆に白昼夢のように思える獣たちのエロティシズム、

大洪水より妻の足のみ掴むべし

愛だか殺意だかわからない激しい感情(本当に「足のみ」で、胴体がないのかもしれない)、

野の蛇の交差するとき上下すや

ぬるぬるした蛇の肉体がするすると擦れてゆく気味悪さ、

厠から天地創造ひくく見ゆ

そして極めつけは、天地創造を厠から見てしまうという圧倒的な寂しさ。これらの句に類するような句はひょっとしたらあるのかもしれないが、そうだとしても、これらの句がそれぞれ僕を楽しませ、現実を越えて人の頭の中に宿る、ありうべき世界の諸相を提示してくれているという点で僕の見聞の範囲内では十分に個性的であるように感じられる。



宇井氏の記事では、さらに、安井俳句をめぐって様々な言説が登場している現況に触れている。

どういうわけか、安井浩司に関しては、その俳句そのものよりも、安井浩司についてなにかを言いたい、なにか発言したいという周囲の喧噪の方が奇妙に際立ってみえる。

さらに、「句そのものの解釈に力点があるというよりも、もっと別の目的と機能をもっているとみなすべき性質の」文章が、安井俳句について書かれがちであることを指摘している。もっと別の目的と機能とは何ぞや、という点までははっきりとは触れられていないのだが、彼が志賀康氏の安井浩司論を引用して言おうとしていることは、おそらく、安井の俳句に仮託して自らの哲学や思索を語りたいという文章が多いということなのであろう。この部分には、豈の本特集を読んだことで僕にも納得がいった。

神山姫余氏、九堂夜想氏、千頭樹氏、中村安伸氏の文章には共通点がある。三人とも、一句も安井浩司の句を例として挙げていないのだ。ある俳人について語る際、その例句が一つも出てこない文章というものが、しかもひとつではなく複数出てくるというところに、宇井氏の指摘した「安井浩司の俳句をめぐるディスコースの奇妙さ」が見てとれるであろう。つまり、宇井氏の言葉を借りれば安井浩司が「空白のシニフィアン」(これもすごい表現だ)になっているのだ。

もちろん、僕は単純に、これらの文章が例句を挙げていないからよくない、ということを言っているのではない。ただ、これが他の俳人であったら、そのようなことがあり得るだろうか、と考えてみる。たとえば、その俳人の句行以外のことについて論じられた文章、山頭火の生涯について、とか、虚子のホトトギス運営について、とか、どこかの結社の主宰の選句の幅について、とか、そういう文章であるなら、文章で取り上げられた俳人自身の句が載っていないということもあり得るだろう。しかし、これらの文章は間違いなく安井浩司の俳句についての文章なのだ。このようなことは、確かに、僕の見聞する範囲では、安井浩司に特有の事態だと言えるのかもしれない。

神山氏、九堂氏、千氏の文章では安井浩司の表現しようとしている世界を酌み取り、それをまた自分の言葉で言い換えていこうとする努力によって記事全編が構成されているため、このような事態が生じている。「曼荼羅の世界に入り込んでしまったかのように感じた」という神山氏、「<安井浩司>にとって、俳句の消息を訪ねることは、そのまま、自己の消息を訪ねることに他ならない、問いであり答えであるところの<自己>。自己が自己において自己を見ているという事態こそは<宇宙>なのである。」と書く九堂氏、安井の俳句に見られるアニミズムや楽天性を様々な言葉で捉えようとする千氏。それぞれ、安井浩司俳句の表現する世界を自らの言葉を用いて固定しようとしていることは分かるのだが、少し独善的過ぎるきらいが強いように感じ、僕には難しかった。安井浩司の俳句の毒が回ったままの状態でふらふらになりながら書いているために、客観化し得ていない物言いが多すぎる、と言うか。特に内容を取り沙汰して、どこか論争をしようということはないのだが、かと言って説得されたり、安井俳句について新しい知見を得たり、ということもなかった。

中村氏の文章は、上記の三氏とは異なり、もっと論理的かつ客観的な観点から安井浩司を眺めようとしている。「季語、歳時記の美意識からは漏れている」ものらへの安井の嗜好が、「伝統的な調性とは別の調性を独自に作り上げ」、それが繰り返されることで「安井浩司独特の言語が徐々に形成されてゆく」ことを、音楽の比喩を多用することによって書いているのだが、そういうことであるのなら、やはりその例をどのあたりの句に見ているのかということを具体的な作品に即して見ていった方が説得力のある論になったように思った。



論に沿って説得力のある例句が挙げられており、僕自身が読んだときに安井浩司という人の俳句に興味をかきたてられたのは、神野紗希氏、関悦史氏、高山れおな氏の記事である。

神野氏の記事については、この稿の冒頭でも触れたとおりそもそもが「安井浩司初心者に向けて」書かれた文章なのだから、初心者である僕にとって分かりやすいのは当り前と言えば当たり前のことかもしれない。しかし、彼女が一句一句の構成する言葉を丁寧にほどいて鑑賞してゆく様、彼女自身の言葉を借りれば「一句一句のダイナミズムや構成の緻密さにスポットをあてた読み」「あえてモノフォニックに」行うという営為は、大変に興味深く感じた。

たとえば、

遠い空家に灰満つ必死に交む貝

の句に対する鑑賞。

「必死に交む」という語と、「灰」に満ちた空家の煙たさから共通に連想されるのは、呼吸の苦しさである。また、二者の配合によって、目を持たない貝にとっての視界は、灰の満ちた空家のようにぼんやりとしたものなのかもしれないと感覚される。このように呼吸や視界が極端に制限されていることで、貝の必死さが、感触のみを頼りに相手を捉えようとする、まさぐりとして立ちあがって来る。

句を丁寧に鑑賞してゆくことにより、「まさぐり」という、句の中には直接書かれていなかった、しかし、鑑賞文として書かれてみるとこれ以外はあり得ないと思えるくらい適切な表現をつかみだしおおせている。

このような彼女の鑑賞力は大変素晴らしいものだとは思うものの、しかし、

かっこうや泉の割れて四つの川

の句に対して「「四つの川」は四大文明を生んだ四大河川を思い起こさせる。」というところから読みを展開するのには疑問が残る。「四つの川」という措辞だけから四大文明まで発想を飛ばすのはさすがにあまりにも無理があるように思うのだ。

彼女の書き方の短所を指摘するとしたら、読みを施す際に「構成が緻密である」ことを仮定してしまっているため、たとえばこの句における「四」という数詞にも何らかの意味付けをしなければならないという観念が働いてしまい、やや過剰な解釈をしてしまう節があるのではないかということだ。僕には、この句は、泉が割れて川になって流れ出してしまうことの不安感をかっこうの鳴き声がやや神経質にあおっているというように読める。「不安感」を感じたのは「割れて」というネガティブな印象を与える動詞があるからである。四つ、という数については、四つの川に割れるくらいならいかにもありそうだな、という感覚的な判断と、さらにある程度の深読みを許すとすれば、「四」が音として「死」に通じるということくらいは挙げられるかもしれない。しかし、それは僕の感覚ではおまけみたいなものだと思える。要するに、四、にそんなにこだわる必要はないのではないか、ということだ。しかし、そういうことは鑑賞者の好みによるところがたぶんに大きいため、一概に否定されるべきではないこともまた事実なのではあるが。

あるいは、彼女はこの句の鑑賞において、四大文明を俯瞰する「天の視座」が暗示されているということを読みとっているので、安井浩司の他の句

厠から天地創造ひくく見ゆ

などの句に引っ張られてこのような解釈を施したのではないかとも考えられる。モノフォニックに、その一句だけについて鑑賞を行う、すなわち、その作者のほかの句が持っている引力から離れて鑑賞を行うということが実は難しいことだということを示す好例と言えるかもしれない。

逆に、関氏の記事ではそのようなモノフォニックな鑑賞について

単独での鑑賞は美しい誤解に終わる。

として否定的である。その心は、以下のように語られる。

代表句「御燈明ここに小川の始まれり」や「麦秋の厠ひらけばみなおみな」にしても御燈明の湧出感から小川への飛躍は直感的に容易に受け入れられるがこの句のみから燈明(死)から別乾坤(小川)への参入という契機を見てとるのは容易ではないし、厠が後に天地創造の外の特権的な場になりおおせることも一句からだけではわからないのだ。

「厠が後に天地創造の外の特権的な場になりおおせる」とは、すなわち「麦秋の」の句より後に

厠から天地創造ひくく見ゆ

が書かれていることを受けての表現である。それぞれ異なる鑑賞の方法論を持っていることが端的にうかがい知れて、この二者の記事は興味深かった。あるいは、関氏の観点から言えば、かっこうの句で他の安井の句にも通じるような「天の視座」を持ちだした神野氏の記事は正解で、単に不安感しか読み取らなかった僕の鑑賞は「美しい誤解」に終わっているのかもしれないが。

関氏の記事は、死によって行われる「別次元への参入」、「その句一回限りの単独性が常軌を逸して大きく不穏」であることによる「どこにも還元できない単独性」など、興味深い指摘が適切な例句によってなされた画期的な論であり、その結論として

全体の中にありながら全体以外として締め出され、締め出されつつ膠着するどんな安息からも遠い未聞の世界を窺う主体の絶対的孤独

を安井浩司俳句の特徴として指摘するに至る。彼の論できわめて重要な例句は二つあり、それは冒頭に置かれた

厠から天地創造ひくく見ゆ
万物は去りゆけどまた青物屋


である。それぞれ、「厠」「青物屋」「締め出されつつ膠着する」ものとして捉えられており、これらの句に見える特徴がどのように形成されていったかを、安井のそれ以前の句を挙げることで論じており、まずは安井俳句の手引として分かりやすく、重要な論だと感じた。

高山氏の記事は、特に「腹這う」という行為またはその周辺に安井俳句の特徴を見出している。初期から最新句集まで一貫して表現されている「腹這う」という行為、および常に腹這っている蛇という動物に着目し、それらと関連する形で正岡豊の安井浩司論における「視点の低い世界模型」という語に関心を抱く。しかし、宇井氏の記事でも触れられていた、安井自身の自句に対する評価の低さから、視点の低さは志向されたものではなく挫折によって余儀なくされたものであるという結論を得て、それを

夏草や腹這いに見る算の絵馬

という句の解釈に応用している。すなわち、「算の絵馬」から導き出される和算という学問は、どの学問とも結びつかず消えていったということから、「挫折した世界模型における‘知‘は見ることのみでは召還され得ず、じつに腹這いつつ見ることを通じて実践されるのだった」と結論づけているのだ。腹這うという語を含んだ例句を豊富にかつ適切に挙げている手際や、論理を間違いなく運んでゆく整然さは素晴らしいと思うが、一点、指摘したいことがないわけではない。

それは、「腹這い」ということが挫折によるものなのだということが安井の自句への評価のみから引き出されている点が弱いと感じたことである。自句に対する評価など、そんなに固定したものだとも思われないし、そもそも高山氏がその根拠としているインタビューの一部を見てみると、安井は次のように語っているのだ。

ダンテの『神曲』に類するわが『神曲』をこそ成したかったのです。だがそれは結局何処にも現成せず無念ですね。

「何処にも現成せず」というのは、読み方によっては、まだ現成していないだけであって、挫折したと決めつけるのは早いとも感じられはしないだろうか。なぜなら、彼は現役の俳人なのだから。それを示すような句として、次の句が選句集中に見受けられる。

腹這いゆけば天に到るか鳥衣装

これは高山氏の記事中には例句として挙がっていない。この句を読むと、安井がむしろ、天へ到るその準備過程として腹這うという行為をとらえているとも読める。ただし、「天に到るか」の「か」という自信なさげな一字や、下五の「鳥衣装」という語のおどけ具合からすると、むしろ天に到ることなどあり得ないと思いながら腹這っている、そんな自分を戯画化した一句とも読めないことはないのだが。



最後に、高柳克弘氏の記事に触れて、この稿を終えようと思う。彼の記事は、今回の特集中でも特にすっきりとまとまっており、時代状況を見据えた示唆的な文言に富んでいるため、触れずにすぎるわけにはいかない。しかも、彼の見方に僕は真っ向から対立する意見を持っているのだから、なおさら素通りできないというわけである。

彼は「前衛の不幸」と題し、論じる対象を

ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき

ほとんどこの一句に絞って議論を展開している。前半部では塚本邦雄や岡井隆の短歌を挙げて「近代に由来する、発展とか成長といった大きな物語が崩れ去った後、ささやかで他愛ない、個の物語が群立」した時代状況が訪れたこと、さらにその時代にさまざまな思いを込めて作られた短歌でさえ「作者のこめた思いは霧散して、コミックの一コマのようなイメージとして、われわれの前にあるのみ」という時代になったという認識を示す。すなわち、近代の物語が完全に終焉したことを確認したうえで、なのにそれがまだ有効であるらしい俳句の話に話頭を転ずる。

ここで行われるのは、子規のあまりに著名な一句

いくたびも雪の深さを尋ねけり

と、先ほど挙げた「ひるすぎ」の句の対比である。高柳氏は、子規の句では「尋ね」の主体が子規であることがこの句を読む際の前提になり、むしろ鑑賞のほとんどが「主体探しに費やされている」のに対し、安井の句では「壊し」の主体は鑑賞の際に問われないということを指摘する。確かに、子規のこの句が「子規は寝たきりだった」という事実を前提として読まないと一般的には十全に鑑賞できないのに対し、安井のこの句は、安井浩司の人となりを知らなくても鑑賞にまるで問題はない。そこで、高柳氏は次のように結論づける。

安井の句に向き合うとき、われわれはそうした要求(引用者註・鑑賞する際には主体の位置を決めなければならないという要求のこと)から開放されている。

つまり、安井の句は自我に重きを置かない「近代以降の価値観を正しく生きてきた」ことになり、そのような安井の俳句が前衛と位置付けられている点に、俳句が時代から遅れているという事実が垣間見えるというのが、彼の論の大まかな主旨である。

確かに、この二句を対比して読んだ場合、彼の結論はいかにも正しいように見えるだろう。しかし、本当にこのことは、安井の俳句を特徴づける要素と考えていいのだろうか?

ちらちらと障子の穴に見ゆる雪
北の窓日本海を塞ぎけり
からげたる縄のゆるみや枯芒


たとえば、上記のような子規の句を持ってきたとする。これらの句の面白さは、寝たきりで病気療養していた子規が作ったということに依拠しているだろうか?一句目は、確かに療養中の身から見える景色として読むことはできるだろう。しかし、そう読まなければ鑑賞に差し支えるということではない。増して、二句目の「塞ぎけり」、三句目の「からげたる」の主体が子規である必要は全くない。

そもそも、「いくたびも」の句にしたって、これを寝たきりの子規の句だと考えなければならないという理由は本当はどこにもない。句から解釈するに、今現在雪が積もっている状況を見ることのできない人が、それを見ることのできる人に、はやる気持ちを抑えられず何度も尋ねている状況だと考えれば済む話だ。たとえば、東京に出てきた大学生が、帰省前に、雪深い実家に長電話しているときの状況なのかもしれない。この句を、子規を主体として考えなければならないのは、単に句を作られた状況に応じて鑑賞しなければならないという考えで鑑賞するからで、別にそういう決まりは俳句界にはない(はずだ)。

逆に、安井の俳句で、

麦秋の厠ひらけばみなおみな

という句も、高柳氏の論に従えば安井の句である以上、主体探しを拒否している句ということになるだろうが、これについては印象的なエピソードがあるので、記しておこう。僕がある俳人と話しているとき、その人は安井浩司という俳人をよく知らなかったので、僕が上記の句を示して説明したということがあった。そのとき、この厠の句を聞いたその人は、「馬鹿じゃん!」と笑ったのだ。僕は最初、どういうことか分からずに困惑したが、その人の解釈を聞いて納得した。

すなわち、その人は、僕が厠の句を安井浩司という男性が作ったということを聞いていたため、作中主体は男であると想像し、男性が女性トイレに間違えて入ったという図式を想像したのだ。今まで、この句をそのように滑稽なものとして捉えた評を僕は知らなかったので、驚いたというわけである。

つまり、この安井の句は、もちろん高柳氏の言うとおり特定の主体を設定しなくても読めるし、その方がポピュラーであろうが、男性側の視点から描いた句としても読めるというところが味噌なのである。もっとも、この読みこそ関氏の言うところの「美しい誤解」かもしれないが(誤解でも構わない、と僕は思う)。

つまり、はっきり言ってしまえば、高柳氏の指摘は、単に俳句における鑑賞の方法として、主体を設定する読み方としない読み方の二種類があるということに還元できてしまうのであり、安井俳句の独自性にはいささかも踏み込んでいないということになるのだ。あるいは、子規や山頭火のように劇的な人生を送った人の句の方が「主体を設定する読み」に向いているというくらいのことは言えるだろうが、それとて、そのような特徴を伝統・前衛と絡めて議論することも無理であろう。その反証としては、ドラマ性に富んだ人生を送った子規という人物と、あまり人生にドラマ性がなく、あったとしてもそれを句に詠み込むことはめったになかった虚子という人物が両人ともに伝統の側にいたということを言うだけで十分であろう。

では、もう少し踏み込んで、安井の俳句の前衛性というものはどのあたりに見られるものなのであろうか?それを探るために、高柳氏の「ひるすぎ」の句に対する鑑賞文を読んでみよう。

日も傾き始めたころのけだるさの中で、一軒の小屋がオモチャのようにあっけなく壊れ、あとはいちめんの芒原がひろがるばかり。あきらかに虚構を描いているにもかかわらず、昼下がりに起こったとある事件のことが、ふしぎに生々しく伝わってくる。たとえば、壊れた小屋の壁が、すすきの上に倒れかかり、かすかな風を起こす様や、舞い上がったほこりが、秋空の太陽をしばし朦朧とさせる様など、小屋の崩壊に、確かに立ちあっていたかのような感覚が残るのだ。そのような、かすかなリアリティをてのひらに掴んだとき、前衛としてのこの句は、もっとも輝く。

実にうっとりするくらい素晴らしい名文だ。一つの句を鑑賞してこれほどまで臨場感を出せるというのは、高柳氏の独壇場と言った感があるが、同時に彼の鑑賞の限界を示している文章でもある。意図的にか、あるいは無意識にか、彼は文章中で「壊す」という他動詞を使っていない。その代わり、「壊れる」という自動詞が二回も出てくるのだ。

つまり、彼の書いている場面は、確かに小屋を「壊している」場面ではあるのだろうが、彼が見ているものはあくまでも小屋が「壊れてゆく」様子なのだ。しかし、それは安井の句を十全に解釈したことにならない。安井の句には「壊せば」と書かれているのだから。「主体探しの作業そのものを、この句は拒んでいる」と捉えるのは鑑賞者の自由であろうが、「壊す」者が誰であれ、その人物の「壊そうとする意志」を鑑賞しなければ、この句は

ひるすぎの小屋壊れればみなすすき

と書いてあるのと同じことになってしまう。こう書いたら、それは当り前のことを言っているだけで、少しも前衛性を持たない(これはこれで面白いかもしれないが)。

子規の句が伝統的に見え、安井の句が前衛的に見えるのは、主体の問題と言うより、もっと突き詰めていけば、これらの行為が自然に我々の頭の中に映像化できるかどうか、ということにかかっているのではないだろうか。「尋ね」た場面は、誰がどういう場面で尋ねたか特定できるかはともかくとして、すぐに思い浮かべることができる。どうして尋ねるのかも理由が分かる。しかし、「壊し」た理由は少なくともこの句からは見えないし、どうやって壊したのかも具体的にイメージができない。その場面を再現しようとよくよく考えてみるとよく分からない部分を、簡単に一語で飛び越えてしまうために生じた断層のことを、前衛的と呼びならわすのではないだろうか。

すなわち、その点ではこの特集中の北大路翼氏の記事で書かれている安井の俳句を「クソ真面目に視覚化・映像化するのはナンセンス」という戦略で読もうとするのはあながち間違いではないと思えるのだ。ただし、この記事はあまりにも昔話と安井俳句の共通性を見つけようと躍起になってしまっているところから、あまり一句一句に踏み込めていないというきらいはあるのだが。

この特集では、特に神野氏、関氏、高柳氏の記事から、俳句の鑑賞ということについて考えさせられるところが多くあった。学ぶところの多い特集であった。

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