2008年12月7日日曜日

豈47号を読む 特集「青年の主張」編 ・・・山口優夢

豈47号を読む 
特集「青年の主張」編

                       ・・・山口優夢



もう3,4年ほど前、「豈」に新鋭招待作家として俳句作品を載せたことがあった。当時、載せた句を知ったほとんど全ての人がダメだしをするほど実にひどい作品だった(あの作品を褒められたことは今まで一度もない)が、そのことがきっかけで毎号豈が出る度に送っていただけるようになったことは、その作品がもたらした唯一のそして大きな収穫と言えよう。今回の豈47号も編集部の方が送ってくださったために、拝読することができた。この場を借りて編集部の方々に御礼を申し上げたい。

いつも送っていただいてばかりで、読んでも何の反応も示したことはなかったのだが、今回はこの豈weeklyの場をお借りして感想を申し上げたいと思う。その理由は、第一には今号の「青年の主張」という特集は、まだ22歳の青年である自分にとって他人事ではないある種の切迫感を感じさせるものであったために何か一言言いたくなったということ、そしてもう一つには、「豈」誌の発信した論評に即座にレスポンスし、何か俳句の未来に向けて有意義な議論を形成してゆくことが可能な環境をこの豈weeklyが提供してくださっていると思っているため、微力ながら是非とも何か発信したいと考えたからである。そういう事情なので、今回は特集「青年の主張」の記事について読んでいきたいと思う。

しかし、この特集「青年の主張」に対して、個人的にはかなり批判的であるということを最初に断っておきたい。特集の組み方、それぞれの記事の内容、ともに、これでは、俳句に携わる青年たちの実情をほとんど汲み上げられていないのではないかという大きな懸念を抱いた。これは、僕自身が俳句に携わる青年として抱いた、率直な感想である。

本特集はそれぞれ見開き1ページからなる15本の記事によって構成されている。俳句雑誌において「青年の主張」というテーマの特集を組んでいるのだから、当然、その内容は、俳句に関わる青年たちがそれぞれの俳句、あるいは俳壇の現状に対する思いや考えを語っているものであろう、あるいは、俳句に関わっていない青年からどのように俳句というものは見えているのか、といったことが記事にされているのだろうなどと思ってページをめくるのだが、その予想は見事に裏切られる。

そもそも、この特集記事を書いているほとんどの執筆者は、青年というにはかなり年齢が高い。著者略歴のような形で各執筆者の年齢が明記されていないためはっきりとは分からないが、一番若い人でも二十代後半ではないだろうか。おそらく、自分の知っている範囲では、相子智恵氏、松本てふこ氏、村上鞆彦氏、矢野玲奈氏あたりが一番若い。おまけにその四氏ともすでに学生ではない。

もちろん、何歳までを青年と呼ぶのか、そもそもそれは年齢によって定義されるものなのか、という問題はあるが、だとしたら尚更、もっと若い俳句関係者にも執筆してもらうべきであったと僕は思っている。少なくとも世間一般的なコンセンサスでは、「青年」というのはせいぜい十代、二十代を指すのではないか。私見だが、今の高校生から大学生の俳句関係者には、俳句甲子園の出身者も多く、結社に入らずに活動している者が多いという印象がある。これはおそらく、それ以前の世代には見られない新しい潮流を形成しつつあり、現在、「青年」に触れるのであれば不可欠の要素である。相子智恵氏が若干そのことに触れてはいたが、そのような「青年」が俳句に関わる際のリアルな実情に、この特集はほとんど踏み込めていないという印象を受けた。あるいは、高校生、大学生の俳句関係者の中には文章を書ける人がいないと編集部によって判断されたということなのかもしれないが(豈編集部と若い俳句関係者とのパイプがなかったということは有り得ないと思う。現に、新鋭招待作家欄に登場する俳句関係者たちは、この世代が多い)。

たとえ年齢が多少高いとしても、執筆者たちがそれぞれ自分は青年であるという立場を保持し、その立場から俳壇の中の青年以外の人々、つまり、現俳壇のヒエラルキーの頂点に君臨するさらに上の世代の人々に向けて何かを主張するというのならば、「青年の主張」という特集の意味もあるだろう。しかし、この特集はそのような形にもなっているとは思えない。まず、明確に「自分は青年ではない」という立場から書かれている記事が四つある。押野裕氏、さいばら天気氏、高橋修宏氏、橋本直氏の記事だ。橋本直氏の記事は微妙なところがあって、青年というものを一括りにして分析的あるいは批判的に見ているにも関わらず、自分も最終的には青年としての主張をしている、という、彼自身の立ち位置がよく分からない記事なのだが、ひとまず、青年というものの全体的な分析が主のようなので、他の三氏同様に青年を外側から見ている記事と言って良いと思われる。

もっとも、編集部の意向としては、「青年を過ぎた者は青年に対する主張を述べよ」ということ(押野裕氏の記事参照)だそうなので、青年に対する主張としてこれらの記事は書かれていることが予想される。そこで、一つ一つつぶさに見てゆくことにしよう。さいばら氏の記事がこれらの記事中では最も示唆的であると思えるので、彼の記事は最後に読むことにして、押野氏、高橋氏、橋本氏、さいばら氏の順で彼らの記事を見てゆき、それぞれの記事に対して青年の側の主張がどのように関連しているか、という形で15本の記事を読んでいこうと思う。



まず押野裕氏の記事を見てゆく。彼は、宇多喜代子氏の発言を引用して青年は「「個」を確立せよ」ということを求めている。と言うことは、彼は青年の俳句には個が確立されていないと考えているのだろうか。僕には、彼が記事中で挙げている青年たちの句はそれぞれに個性を持っているように思われるが、彼自身がそのことへ言及していないため、この記事からははっきりとは分からない。そもそもどのような状態が個の確立なのか。そこに踏み込めていないために、記事全体が一般論の域を出ないという印象を受けた。

押野氏の記事で興味深かったのは、結社に入った青年が、結局俳句から離れてゆくケースに言及している点だ。

最初は楽しくても、結社内のさまざまな役割を担い、その中で疲れ、俳句の難しさも感じ、俳句以外の実生活でも忙しさが増していく。そのような中で、多少の意欲があっても俳句を続けていくのはなかなか容易ではないだろう。

このことは、松本てふこ氏の記事の以下の部分と比較して読んでみると面白い。

私は就職と同時に結社に入った。仕事がどれだけ忙しくなるか予想もしなかったので、会社に入った当初は俳句との縁を金で買った、という思いが強かった。

「青年」と結社との関わりという点で、これらの記事に書いてあることはそれぞれ真実を突いているのだろう。もっとも、松本氏の記事の焦点はそこではなく、

俳句を作る自分が働く自分を取材し、作句する。働く自分が俳句を作る自分に資金を提供し、生きる上での新たな視点を得る。

という、生活者としての自分と表現者としての自分との止揚、という点にあることは一言申し添えておく。ただ、結社との関係性ということが結局「金」という点から発展したわけではなく、自分の生活の中で俳句が深化していっているという点は興味深いと思う。

これらの記事からは、青年が結社に求めているものは純粋な師弟関係のみではなく、社会的に責任を負って活躍してゆく彼等にとっての俳句の場としての機能である、という実情があり、にも関わらず、そのことを結社が十全に受け止めきれていない可能性が示唆される。ただし、押野氏はやはりこれ以上の具体的な議論を展開していないため、その解決は結社側が探るべきなのか、青年の側の俳句への関わり方にもっと工夫が必要なのか、あるいは結社なんかそもそも要らないのか、という点まで議論を広げる手掛かりはない。

俳句の場、ということであれば結社だけではなく同人誌というものも挙げられる。しかし、それについては堺谷真人氏の記事にやや否定的な記述がある。

頑なに弟子を拒む「同人誌症候群」も、俳句の将来を考えれば問題かもしれない。

彼の記事は、古本屋で買った俳書の余白に書き込まれていた文章という設定で、ほとんどの紙幅を「押しかけ弟子が、ためらう俳人に師事したいと懇望し、何度断られても果敢に食い下がる様」を描くことに費やしている。しかし、僕にとってはこの「同人誌症候群」がどう問題なのかという点にもっと言及してもらいたく、そのことを同人誌である豈誌上に掲載することは大きな意義があったと思われるのに、勿体無い紙幅の使い方だったのではないかと言う気がしてしまう記事であった。

現に、(僕のような)結社に入らない若者や、入ったとしても「俳句との縁を金で買った」と割り切っている若者も居る中、これまで俳句を支えてきた(らしい)師弟関係や結社のあり方というものが今後どのように更新されていくのか、あるいはされないのか、ということは一つの重要な論になり得るはずなのに、どうも今回の特集ではこれ以上話を広げられそうにないのが残念である。



次に高橋修宏氏の記事は、「そんなに急いで、おとなにならなくてもいいのだ。」と題して俳句における青春性に言及している。仁平勝の『俳句のモダン』から

新興俳句とは、誓子や三鬼たちの青春であった。いやむしろ、俳句形式そのものにとって、だれもが一度は通過してほしい青春なのである。

という一節を引用し、その視点から鈴木六林男や三橋敏雄、高屋窓秋を称揚し、

僕は、よく知らないけど、伝統俳句って自ら僭称する人たちっていうのは、どちらかと言うと、そういう「青春」を「通過」しないようにした「おとな」なのだろうか。

あるいは、

彼ら(引用者註・「伝統俳句って自ら僭称する人たち」のこと)自身からは「青春」というものがなかなか見えづらいことも確かだ。

と、所謂「伝統俳句」に対する指摘を行っている。はっきり言って、これらの文言はすべて印象論で語られており、その証拠に、彼自身の論の中に「青春」をどう定義するかということが一切書かれていない。鈴木六林男について「「拡大進行形で、収斂しない」という精神で俳句を書き続けてきた。」ことを「けっして、易々とは「青春」を手離さなかった」と指摘しているため、青春とは作句に向かう際の態度の問題なのかと思えば、高屋窓秋について「晩年に向かって、どんどん透明感を増していった句境には、永遠の青春性のようなものを感じる」と俳句作品そのものの青春性を語っている。彼自身の中で「青春性」という言葉がぶれているのだ。

むしろ、伝統俳句のどういうところに青春性が欠けているのかをもっと具体的に指摘すべきではなかったのか。「よく知らないけど」などという逃げ道を用意してはいけないと、切に感じた。

この、高橋氏の主張とおそらくは対極にあると思われる主張が、むしろ青年の側からなされている。それは村上鞆彦氏の記事だ。「当初から俳句の古さに惹かれていた」という村上氏は、次のように書く。

私はただ、先人達が大切にしてきたものをそのまま大切に受け継いで、伝統的な有季定型論を墨守してゆきたいと思っているだけである。

所謂「伝統俳句」を受け継いでゆくことの決意が語られた文章であり、このような主張が青年の側から出てくるというところに、大人の期待する青年像を裏切る面白さがある。彼がそのような主義主張を持ち、俳句を作ってゆくことはとても面白いことだと思うのだが、この記事ではまだ彼自身の立ち位置が鮮明でないように感じた。

つまり、「伝統的な有季定型論」とは何か?と、言うことであり、言いかえれば、「先人達」とは誰か?と言うことである。今現在の所謂伝統俳句というのはホトトギスの系譜に属していると考えてよいであろうから、では、彼が墨守したい有季定型論とは虚子の考えのことを指すのかと思うと、虚子という名前はこの記事中には一切出てこず、むしろ記事の後半では芭蕉のことが語られている。では、彼が意識する先人とは芭蕉のことなのかと思うのだが、そもそも芭蕉は有季定型を墨守した立場だったのだろうか?

海に降雨や戀しき浮身宿

など、季語の入らない雑の句も芭蕉にはあったはずで、どうも釈然としないところが残る。意地悪な言い方をすれば、我々の世代にとっては、松尾芭蕉も夏石番矢も高濱虚子も攝津幸彦も等しく「先人」であり、それらすべてが同じものを大切にしてきたのだとは到底思えない。

なぜこんな重箱の隅をつつくようなことをだらだらと書いているかと言うと、このことは青年の置かれている現在の状況に深くかかわってくるからだ。すなわち、相子氏の記事にあるように、

私たちの順番が回ってきたときにはもうすでに、多くの俳句運動や時代の流れによって、俳句は「内容(主題)」も「構造(言葉)」も革新が終わっていた。私たちの前にはもうすでに、選べるほどの俳句があったし、革新など考えたこともなく、いま、ここにある状況を受け入れることから俳句をはじめた

というのが、我々の世代なのだ。否、「革新が終わっていた」という部分などには賛否あるかもしれないが、少なくとも、このように感じる者が出てくるほどもうすでに多種多様の俳句が出てきたあとの世代である、ということには間違いないのである。

村上氏が墨守しようとしている伝統俳句とは何なのか、彼は選べるほどの俳句の中からいったい何を選んだのか、そこが本当は一番大事なところだと思うのだが、この記事からはそれが残念ながら見えてはこなかった。この、「選ぶ」という行為は、実は青年における俳句を語る上で重要なのではないかと思えるので、また後ほど言及したいと思う。



橋本直氏は、俳句と青年のかかわりということを、俳句というジャンルを超えて現代の大きな状況の中で捉えようとしている。それは、彼自身の言葉を借りれば「俳句というジャンルの固有性にこだわることの前に、それを成り立たせるはずの基盤が成り立たない世の中が来つつあることへの予感」ということである。つまり、現代の青年に見られる「自己と他者の関わり合いの希薄化」「個としての実感の希薄化」のために俳句を成り立たせるはずの基盤が崩れつつあるという主張なのだ。

しかし、「個としての実感の希薄化」などということが本当に起こっているのだろうか?そんな、世間で起こっている青少年の犯罪などの報道から持ってきたお題目のような言葉は、実際の自分自身の感覚に合わないように思う。リストカットや「他者を安易に傷つけること」をその根拠に持ってきているが、そのような青年というのはニュースに登場するごく一部の青年であり、全体ではないし、そもそも、そういうことで「個としての実感」を云々するのならば、戦争で何十万人も殺した人々は「個としての実感」が薄かったということになるのではないか?彼は次のような例も挙げている。

青少年達は、エレベーターや電車の中の他者を、「世間」ではなく、ただ「空気」のように無化してしまう傾向がある

僕にとっては、エレベーターや電車の中の他者は「世間」でも「空気」でもなく、「他者」という人間であり(だからこそ、特に音漏れしやすい静かなエレベーターの中ではiPodを聞かないようにしているのだ)、それ以上でも以下でもないため、この部分は理解に苦しむ。同じ世代の青年たちにこのようなことが理解できるか、聞いてみたいものである。

彼の記事に戻ると、このように俳句の基盤が崩れつつあるという事態を受けて、彼は次のように今後の俳句の世界を予測する。

極論すれば、再び暴力と貧困の世界に背を向けて俳句を楽しむ世界が割と身近にやってきたけど、あなたどうします?ってことだ。

「再び」というところに引っ掛かりを覚えないでもないが(以前はいつそういう事態が起こっていたのだろう?)、それは措くとしても、彼の認識では俳句を楽しむのは「比較的恵まれた人々に限られる」とされている。そのような趣味に手を出すのは、経済的に余裕のある「勝ち組」、すなわち現在の社会状況では大学出のインテリということになるだろう。その認識が果たしてどの程度正しいのか、僕には判断する術はない。経済的に不遇の人々が俳句に出会い、自分の苦しみを吐露するツールとして、あるいは、自分の苦しみを忘れさせてくれるツールとして、俳句にのめり込むということはありそうなことのようにも思えるが、少なくとも僕の周りを見渡す限りでは「比較的恵まれた人々」が多いようだ。ということは、現実的には彼の認識が正しいと考えない理由は何もない。

この記事のように、俳句をその外側とのかかわりの中で捉えている記事は、小林貴子氏のものと恩田侑布子氏のものがあるが、橋本氏の記事がきちんと青年の主張あるいは青年に対する主張として構成されているのに対し、正直、この二つの記事については、僕にはその主張するところがよく見えてこなかった。

小林氏は、テロリズムに関する俳句を紹介するばかりだし、恩田氏の主張はこうだ。

未来という新(さら)なるものへ、自閉の殻をやぶりゆく破行く(引用者註・俳句のこと)は、地球上の生命多様性への三十八億年の命の歩みと軌を一にする。俳句は、現代に光を投げかける「身と環の文学」である。

こう大見栄を切られてしまうと、読んでいる側としてはたじろぐばかりだ。どこで「青年の主張」というテーマに帰着するのか、僕の読解力ではさっぱり読み取ることができなかった。

橋本氏の記事では、その最後でこのような主張がなされている。

限りなく伝統芸能、あるいはお稽古ごとのような場として特権化、権威化された中で「俳句」を作る人々がマジョリティを占める世の中が、あたかも理想の伝統世界のように思われ安易に固定化されてしまうのなら、私はそれを常に言葉と行動でゆるがす側でいよう。

「言葉と行動でゆるがす」ならば、今回の記事でそのような内容が書かれれば良かったと思うのだが、ここではひとまず宣言というところにとどまっている。今後、そのようなスタンスで彼が発言をしてゆくということなのだろう。

このような俳句に対する見方は、次に見てゆくさいばら氏の記事や小野氏の記事に通底するところがあるように思われる。つまり、俳句の自閉性、マイナー性ということだ。



さいばら天気氏の記事では俳句の「同時代性」の欠如や、マイナー性に触れている。青年たちは、そのような俳壇の蛸壺的状況を悔しがる心性とそれを良しとする心性の両方を持っているという指摘である。これは、青年の状況を描いているだけで「主張」ではないが、彼自身はそもそも俳句における主張というものの意義を認めていない。以下の部分はこの特集全体から見ても重要なところであろう。

ともあれ、要は、いま見えている「俳句の風景」、言い換えれば「俳句世間のありよう」が変わってほしいのか、ほしくないのか、という話だろう。自分たちが変えていくのだと考えている青年はたくさんいる。どう変えていくかは置くとしても、きっと「主張」では変わらない。俳句に、声高で無粋な物言いは向かない。それは俳句の得意とするところでもない。

実は、青年たちが「どう変えていくか」を主張するのがこの特集の意義だったのではないかと僕には思えるのだが。それはともかく、彼の論では、俳句と主張が馴染まないということと、俳句世間を変えてゆくことに主張は向かないということが混同されている。確かに主張だけでは新しい俳句の風景は見えてこないかもしれないが、子規の俳句革新にしろ、新興俳句にしろ、ある主張が他の主張とぶつかって論争が生まれ、俳句や俳句世間が変化していったという経緯はあるのではないか。

とはいえ、俳句のマイナー性という新たな切り口から青年たちの俳句への関わり方を指摘した彼の記事の意義は大きい。それは、小野裕三氏の記事の、俳句というジャンルの持つ「自立性」が「自閉性」につながるという指摘と相通じるところがあるかもしれない。小野氏の指摘するところの「自閉性」は、俳句が「定型」や「季語」によって自足していることによって生じるとされている。これは、相子智恵氏が「現代のリアル」を俳句で詠む際に「その風景に配するのに最適な季語となる景物を同時に探してしまう自分の眼」を持て余しているという事態にも似ている。自閉性ゆえに、そこからはみ出すことが逆に難しくなっている、ということなのではないだろうか。

つまり、有季定型という過去の財産を引き継いでゆく限り、俳句はそのマイナー性に甘んじ、同時代性から自閉し、現代のリアルからは離れてしまうという認識が三氏に共通していると考えてもいいのかもしれない。さいばら氏の記事が特殊なのは、単にそれを嘆いているのではなく、そういう事態を青年たちが肯定的に捉えている節があるところに言及しているところだろう。そして、「総じておとなしくわかりやすい」句を詠む青年たちについて、次のようにも指摘している。

彼らが意味伝達性の高い句を志向するのは、現在の俳壇の評価傾向に敏感なせいでもある。

これは、誰もあまり言いたがらない、けれども、かなり本質的なところを突いたのではないか。実際、僕自身もそういったものを無視して俳句を作れそうにはない。ただ、俳壇の評価傾向を必ずしも絶対のものとは考えていないこともまた事実で、むしろ、俳壇の評価傾向を自ら形成してゆくような論や句を発表したいと考えていることも申し添えておく。

やや話を戻して、これらの記事に共通して興味深いのは、有季定型だと自閉するからと言って無季自由律に活路を見出すという選択肢は誰からも提示されていないことだ。さいばら氏の記事はそもそも有季定型のことにはあまり触れられていないのだが、小野氏の記事でも有季定型の自閉性に「十分に自覚的でありたい」、と言うのに留まっており、相子氏も無季の可能性については、「無季俳句ならば詠めるだろうか」との一言で止まってしまっている。相子氏がそこで止まってしまう意味は分かるように思う。彼女は

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 斉藤齋藤

のような歌を引きあいに出し、ここに見られる「昨日に続く今日がただ物質のようにある」「現代のリアル」を俳句で詠めないかと問題提起しているのであり、ここで無季俳句という方向に踏み出してしまっては、それが短歌ではなく俳句でなくてはならない意味がせいぜい音数にしか存在しないことになってしまう。それは、彼女の望む解決策ではないのだ。

しかし、僕としては、俳句表現が季語の想定の範囲内にとどまってしまい、結果として自閉するという事態は回避可能であると思える。そもそも僕は、季語というのは利用するものであると考えており、そういう意味では小野氏の「季語はルールではない」という主張に近い。季語は、それぞれの季節感を背景に五感に訴えてくるものとして存在しており、これらを一句のうちで利用することによって十七音という短い字数でも何かに触れ得たような身体感覚を提供することができるというのが俳句の一つの詠み方であると僕は考えている。

その身体感覚が現代性というところまで届くことができるかどうか。それは、やはり例句を挙げて示すべきであろう。

比良八講四方八方パーマ伸ぶ 酒井俊祐
夏料理ぼくらの未来うやむやに 佐藤文香

それはたとえば、このような大胆な取り合わせによって自分の世界の表現のために季語の持っている身体感覚を利用するという手法によって可能であり、

観覧車より蝙蝠の湧き出しぬ 青山茂根
いま口を開かば障子出でにけむ 関悦史

あるいは、これらの句のように取り合わせではなく季語を自らの虚構の中にすっかり組み入れてしまうことでひとつの世界観を提示するという手法(虚構であったら「現代のリアル」とは違うではないか、という意見もあるだろうが、虚構を生み出しているのはまさに現代に生きている人間の頭脳であり、そういう意味で現代性を表現するひとつの手段になり得ると僕は考えている)によっても可能であり、

ポストモダンって?テレビ画面の牡蠣旨そう 池田澄子

極めつけとしてはこのように「ポストモダン」のような机上の概念をやすやすと足蹴にして現代の持っている性質をその内側から描き出す句に至るのではないだろうか。ここでの季語「牡蠣」はテレビという現代生活を象徴するアイテムの中であまりに自然に収まっており、その色合いはまざまざと眼前に存在しているにも関わらず、匂いも味も空想のものでしかない。季語の持っている「五感に訴える」という特質をこのように逆転の発想で利用した句というのは、それこそ「現代のリアル」に届いていると僕には思えるのだが、いかがであろうか。

ちなみに、これらの句は今号の豈に掲載されたものの中から拾ってみた。つまり、これらが、まさに今現在生み出されている句、ということである。

マイナー性というところからだいぶ話が飛んでしまった。僕自身は必ずしも俳句はメジャーでなくてはならないとは思わない。むしろ、メジャーになろうとすれば、それは若い女の子がそれらしい恋の句を沢山詠んでいけば達成できることなのではないだろうか。それはそれであってもいいだろうが、僕としては、俳句というのがマイナーな分野ではあっても、現代の片隅できちんと呼吸できていることが大事なのだと思う。「現代のリアル」と一口に言っても、見えているものは様々であろう。今、ここで自分が生きているということから出発して、自分自身の中にあるリアルに辿り着くということができたらいい(ノンフィクションという意味ではなく)。伝統を受け継ぐというのはそういう自分にしか作れないものを作ってゆくところからしか始まらないのだろうし。

しかし、これらは俳句を詠む際の「表現すべき対象」とか「テーマ」に通じてくる話であって、相子氏の記事中の言葉で言えば「内容(主題)」である。これについては、相子氏の「革新が終わっていた」という主張は当たらないということが示せたと思うのだが、「構造(言葉)」については、革新はもう終わってしまったのかどうか、正直分からない。つまり、新しい俳句表現は可能か?と、いうことである。

これについては、僕自身の見解としては、もう革新は終わったのではないか、というのが目下のところの結論である。たとえば岡村知昭氏の記事では、過去に行われた俳句表現上での実験を、もう一度自分自身の手で試す必要性がうたわれているが、そもそも、そういうふうに過去にもうやられたことがあると意識しながら実験しなければならないという状況そのものが不幸と言えば不幸である。矢野玲奈氏の記事でも、俳句というジャンルについて、レッド・オーシャン(既に開拓された分野という意味らしい)に留まらず、ブルー・オーシャン(新境地、というような意味らしい)を目指すことを主張しながら、自分自身は「今のところ、伝統的な俳句と違う表現方法を模索することは考えていない」「レッド・オーシャンを突き進みながらブルー・オーシャンを開拓するというバランスが大事」と、どう考えても苦しい言い訳にしか聞こえない主張をしているところを見ると、そもそもブルー・オーシャンというものの存在を信じていないのではないかと思えてきてしまう。

岡村氏の主張では「一句に「実験」を積極的に引き受けて、自らの世界を作り上げる強さを自分に持ちたいものだ」と言われていて、それは確かにその通りだとも思うのだが、そもそももう行われた実験をもう一度自分で行うのであれば、以前に行われた実験の成果を自分の手でまとめなおすということがそれに先立って必要ではないかと僕には思える。

これら(引用者註・前衛俳句や社会性俳句などの実験)の取り組みは時間の経過とともに歴史となり、あるものは通奏低音となって受け継がれ、あるものは否定の対象とされて省みられなくなった。

「あるもの」という漠然とした認識では困るのだ。「受け継がれ」たものは何なのか、「否定の対象」とされたものは何なのか、はっきり分かっていないのに自分でもう一度実験をしてみても、評価の下しようがないのではないか。

しかし、僕自身も実は実験というのは必要だと思ってはいて、それは、さまざまな表現方法を試した上ででなければ、自分自身の表現というものに辿り着かないだろうと考えているからだ。「内容」と「構造」は、実は完全に分断されるものなどではなく、「構造」は「内容」によって選びとられ、「内容」は「構造」によって規定されるというように不可分なものであると思う。高柳重信が多行形式を実践したのはそれが彼の表現だったからであり、池田澄子が口語俳句を選んだのは表現者としての彼女の選択だったはずだ。

問題は、「内容」はこれからも時代とともに革新されてゆく余地があるということは信じられるが、「構造」はもはや、新たに創出することは難しく、既に出尽くした中から自分の「内容」にあったものを選ぶしかないのではないか、という点である。岡村氏の言う「実験」とはこのような「選ぶ」という行為のための準備段階であるということが言えよう。

村上氏の記事のところで「選ぶ」ということが重要になると言ったのは、このあたりの事情を指してのことである。つまり、村上氏のように伝統俳句を標榜する人物でなくても、結局誰も彼もがどれかの先人の表現を選んでいるということが言えるのではないか。それは一人の先人かもしれないし、多くの先人かもしれないが、もはや先人達の引力を振り切って新たな表現を開拓することはできないのではないか。少なくとも、そのような俳句に僕は会っていない。岡村氏も、そのように「選びとる」ということに言及がなされていることからすると、おそらく同じような焦慮を感じているのであろう。

しかし、結局、そうした結論というのは一時的なものであり、あまり意味があるものではない。なぜなら、この僕自身が今から全力を挙げて、上記の結論をひっくり返すための句作を始めるからだ。現段階では先人の遺産から選びとるしかないのだとしても、選びとったそれを自分なりに改良してゆくことは可能であろう。むしろ、そうしてゆくことによって自分なりの俳句のスタイルが確立し得るはずで、それが達成されたときには、新たな「構造」が俳句表現史の中に刻み込まれることになるはずだ。

これくらいの大言壮語ができるのが「青年」であり、僕は、青年として、そのような俳句表現を目指すことを「主張」し、この稿を終えたいと思う。

(構成上、田島健一氏の記事と宮崎斗士氏の記事に触れることができなかったことを一言ここに添えておきます)

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2 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

山口優夢様

御稿の冒頭で言及されている褒められたことの無い作品というのは、「豈」43号(2006年10月)の「オルガズム」12句のことですね。なるほど褒められないかも知れませんが、どの句もかなり惜しいところまでは行っていると思います。〈バカバカバカメロン投げつけさようなら〉なんか、少なくとも小生は嫌いではありません。しかし小生も身に覚えがありますが、なんとなく調子に乗って書いてしまったという感じはしますね。そういうこともあるものです。

さて、御稿、豈本誌の特集に真っ向から切り結んでくださって、編集部になりかわって小生からも御礼申します。いろいろ批判もおありでしょうが、ひとつ補足しておくと、この「青年の主張」なるお題は、NHKで1989年まで成人の日に放映していた「青年の主張コンクール」を踏まえたいわばパロディーです。さいばら天気氏がその辺に触れておられますが、或る年代以上の人間は、不幸にして一度や二度はその放映を目にして恥ずかしい思いをする機会があったかと思います。最初からパロディーとして投げられているテーマを、どう打ち返すか。そこで芸を見せてみよというのが編集部、というか筑紫編集人の狙いなのでしょう。

真っ当に打ち返すもよし、秘打白鳥の湖(古くて済みません)で打ち返してもよし、というわけで、小林貴子氏の文章なんか、優夢さんはなんでこのお題でこの文章なのだと疑問を感じたようですが、意外にジャストミートしているのではないかと小生は思います。岩鬼の悪球打ちみたいなものですね(ますます救い難し)。

老人支配の俳句業界において、体制順応性の高い人たちに主張させる、敢えての趣向として、こんなお題を考えたものと思います。むしろ優夢さんの超ストレートな振りの強さに、筑紫磐井氏なんか大喜びしているのではと想像しております。

山口優夢 さんのコメント...

れおな様

ああ!見つかってしまいましたね、オルガズム。。はっきり言ってめちゃくちゃ恥ずかしいです。でも、作品を発表するというのはそういうことなのでしょう。

特集そのものが、NHKの青年の主張コンクールのパロディであるというのは、いくつかの記事で触れられていたので、存じておりました。ただ、その放送自体を不幸にして(あるいは、幸運にして、なのでしょうか)見たことがなく、YouTubeにも見つからず、結局その部分には触れることなく原稿を書いた次第です。しかし、それを見れば小林貴子氏の記事のニュアンスが分かるというのであれば、やはりもっときちんと探すべきであったと後悔しているところです。ご指摘ありがとうございました。

なるほど、そもそも「青年の主張」そのものがある年代より上の世代に理解できるパロディなのであれば、その世代より下の青年たちによる、文字通りの「青年の主張」は特集中に存在していないというのも納得ではあります。真似されている本家本元を知らないわけですから。