2008年12月7日日曜日

あとがき(第17号)

あとがき(第17号)



■高山れおな

江里昭彦さんの「身体俳句曼陀羅」は、第七回をもって完結です。取り上げられた全二十二項目を改めて列挙してみます。

◆人体 ◆髪 ◆口 ◆ひげ ◆舌 ◆喉 ◆頭 ◆鼻 ◆耳 ◆胸 ◆腹 ◆ほと ◆目・眼・瞳 ◆ペニス・摩羅 ◆尻・肛門 ◆顔 ◆手 ◆足 ◆指 ◆骨 ◆血 ◆肉・肉体

身体の外側に露出している部位はおおむねカヴァーしているでしょうか。それでも眉、まつげ、額、頬、あご、背中、腰といった項目がありませんし、身体の内側は骨と血を除けば手付かず。脳、神経、心臓、肺、胃、腸・・・このあたりには例句もかなりありそうです。まことに曼陀羅を称するに足りるミクロコスモスで人体はあるのだ、と改めて思います。

「身体俳句曼陀羅」が、『現代俳句キーワード辞典』(夏石番矢著)に範を取っていることは、連載の第一回で述べられている通りです。季語とは別種の俳句語彙の体系化を試みた夏石氏の本はまことに斬新で、俳句に全く興味の無い家人ですら面白がって読んでいました。歳時記の出版はいまだに繰り返されていますが、個人的には角川の旧版の『図説 俳句大歳時記』があればたくさんで、もちろん新しい歳時記では例句の多少の入れ替えがあって、それが商業上の目玉になるのでしょうけれど、屋上屋を重ねる閑事業というのが正直な印象です。それに対してのキーワードによる編集の新鮮さと可能性とを、江里さんの連載を通じて再認識しました。もちろん語釈にあたっては、夏石・江里両氏のように快刀乱麻を断つ行文をなす力量が必要になってくるわけで、そこが高いハードルになるでしょう。

知る者は好む者に及ばず、好む者は楽しむ者に及ばないと孔子が言っております。恩田侑布子さんの「異界のベルカント」は、まさに攝津幸彦を楽しむ者によるテキストではないでしょうか。先週紹介されていた〈冬鵙を引き摺るまでに澄む情事〉などは記憶にも無かった句ですが、その魅力について大いに説得されました。今週の〈濡れしもの吾妹に胆にきんぽうげ〉の読みも凄い。俳句は読みを待って完成するとはみなさんよくおっしゃることですが、真に“読み手”と呼ぶに値する読み手と出会う幸運を得られる作者はごく稀です。攝津という他者に訪れた幸いが、こちらをも愉快な気分にする、そんな機微がこの連載にはあるように思えます。

山口優夢さんは初めての寄稿です。先日出た「―俳句空間―豈」本誌四十七号を総撫でにする勢いで書いてきてくれました。この早さと言及の豊富さはブログというメディアの本領発揮で、本来は、同人である高山や中村がやらねばならないのですが、取り掛かれずにいたところに外部からのレスポンスをいただいたわけで、まことに有難いことです。今週は特集「青年の主張」についての批判、来週以降は特集「安井浩司の13冊の句集」についても書かれる由。そちらも楽しみです。

トンネルを抜けるとそこは又トンネルだった・・・というわけで、高山は今週も原稿は休ませていただきました。しかし、今度こそ外界に出ましたので、来週は復帰いたします。


■中村安伸

堀本吟さんの記事がこのあと追加予定です。少々お待ちください。

「「澤」7月号を読む」はこれが最終回となります。当初計画していた以上に長い連載となりましたが、触れられなかった稿もありました。また、全体を通したプランもなく書きはじめたせいか、実にとりとめのないものになってしまいました。

裕明については同時代に生き、彼のことを直接知る人も多いなか、一面識もなかった私が裕明について書こうということそのものが無謀だったかもしれません。それを逆手にとることが出来ればよかったのでしょうが……。

いずれにしても近い将来、他のさまざまな資料にもあたりつつ、より整理されたかたちでの「田中裕明論」をまとめる必要があると考えています。

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堀本吟さんの「書物の影」第二回を追加しました。(12/9  追記)


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

高山れおなさま
 気持ちがめげている恩田に、一回りもお若いれおなさんから、孔子のことばを援用して大きなエールをいただき、まさに旱天の慈雨です。ありがとうございます。
 江里さんの格調高い連載が完結とは、今知って驚き、悲しんでいます。でもそういえば人体は有限でしたね。はは。知らなかった句にも毎回出会えて、視界を広げていただきました。江里さん、ありがとうございました。また、ぜひあらたな連載を読ませていただけると嬉しいです。
 れおなさんの切れ味するどい評論の復活を鶴首しております。   恩田侑布子