2008年12月14日日曜日

カバに会う書評

彼は如何にして河馬信徒となりし乎
坪内稔典著『カバに会う 日本全国河馬めぐり』を読む


                       ・・・高山れおな

『奥の細道』の古跡をたどる人は、江戸時代から現在にいたるまで大勢いる。また、黒田杏子のように、全国の桜の名木を訪ねる旅を重ねては、俳句を詠んでいる人もいる。しかし、坪内稔典としては、こうした既成の風雅に根拠づけられた旅では物足りなかったのであろう。坪内が訪ねたのは全国の動物園にいるカバたちである。周知のように、カバが好きだとか、あんパンが好きだとかいった話は、坪内がこれまでエッセイやインタヴューなどでしばしば語ってきたことだ。だから、「俳句研究」誌で「全国カバ図鑑」の連載が始まった時にも格別驚きはなかった。ただ、カバというテーマでどの程度話題を膨らますことが出来るのだろうかと、他人事ながら危惧は感じた。総合誌を買うことも少ないため、連載のその後は知らなかったが、今回『カバに会う 日本全国河馬めぐり』(十一月十三日刊 岩波書店)として一書に纏められたのを見ると、評者の先回りしての心配は杞憂だったようだ。

熊本では江津湖に市の動物園のカバを放つ計画があると耳にして喜び、東武動物公園では「かば園長」こと西山登志雄が初代園長を務めながらカバの展示が意外に貧弱なのに失望し、那須サファリパークでは園内をめぐる貸し出し自動車のオンボロぶりに呆れ、となかなか多彩な展開である。カバたちのネーミングが総じて好い加減な理由について考察したり、夏場のカバが分泌物のせいで赤い汗をかいているように見えることから「赤い河馬」を夏の季語として提唱したりと、ご当地ネタに限らぬカバ談義も愉快だ。やや息切れを感じたのは、坪内が代表を務める「船団」誌第二十号(一九九四年三月)における特集「全国河馬図鑑」への言及がだんだん増えてゆく点。各地の「船団」会員が、それぞれの地元のカバを訪ね、報告のエッセイと俳句を寄せるという内容だったらしく、話のとば口にするにはお誂え向きなのはよくわかるが、同工異曲の印象は否めない。その辺はテーマからくる限界を感じざるを得ないものの、傷はありながらも一気に読み通してしまったのもまた確かなのだ。

全体は七部に分かれている。

Ⅰ わき目もふらずカバのもとへ――九州篇
Ⅱ カバに触った!――中国・四国篇
Ⅲ 糞がちりますカバの園――近畿篇
Ⅳ ゴッドファーザーの末裔――中部篇
Ⅴ 河馬の馬鹿――関東篇
Ⅵ カバに近づく――東北・北海道篇

以上の六部が上記の連載を基にした部分。各部が三章から八章を収め、計三十二章ある。再訪したり、正続二章を要した動物園もあって、訪ねた施設は二十八か所。これはかなり凄い数字ではないだろうか。第七部は、

Ⅶ あなたも河馬になりなさい――番外篇

で、こちらは動物園探訪ではなく、むしろカバ文学(?)をめぐる薀蓄を傾けた七章からなっている。これら本文に加えて、「はじめに」で坪内は、茨城県日立市の「かみね動物園」を訪ねる旅について書いている。私事を述べれば、評者は日立市の生まれである。物心付く前によそに移って、全国を転々として育ったのでふるさととはいえないが、父方母方両方の祖父がいたので小学生までの夏休みは日立で過ごした。かみね動物園ももちろん何度も行っている。大学生の時に祖父たちが相次いで亡くなって、その葬式に参列して以来だからもう二十年も帰っていないが、たまたまひもといた本の序文に生地をめぐる記述を見つけて、それが縁薄い生地であるだけになおさら感興を覚えた。

気分が沈滞すると言葉も元気を失う。感性とか思考とかも鈍る。いつのころからか、そのように考えるようになった私は、意図して自分の気分を刺激し、わくわく感を醸そうとした。それが、毎朝必ずあんパンを食べるとか、柿を訪ねるとか、カバに会うという行動になった。過剰なまでに何かを愛することが私の気分を刺激した。その愛する何かは、一般的にはあまり高く評価されていないものがよい。どちらかといえばバカにされたり見過ごされたりしているもの。そういうものを過剰に、しかも意識的にこだわって愛するとき、気分がわくわくする。

これは「あとがき」の一節。本書の意図するところの的確な要約になっている。ここに示された“方法論”には、正岡子規の思想・態度の血肉化したあらわれを認めることが出来るだろう。また、人から芭蕉の株を貰ったと言っては俳句に詠み、瓢箪を手に入れたと言っては大げさな銘詩を賦し、着古した紙衣をプレゼントするからと言っては一文を草する、元禄の俳人たちの風狂の現代化ともみなし得る。こうした〈一般的にはあまり高く評価されていないもの〉〈過剰なまでに……愛する〉行為の無意味さに、坪内にとっての「俳」があるのだと引き取ってもよい。それに比べると、黒田杏子の桜紀行などは、なるほど〈一般的に〉有価値であり過ぎる。桜ではなくカバを選ぶところに、すでにして坪内の批評的優位はあきらかだ。しかし、そんなことはわかりきった話には違いない。評者にとってここで改めて印象的だったのはむしろ、坪内の暗さの方であった。

なにやら現代を代表する名句になりつつある甘納豆の句のイメージとは裏腹に、坪内はおよそ「うふふふふ」と微笑をもって世に対する人ではない。本質的には暗い人であることは、坪内に接した経験のある人間ならみな知っているはずだ。〈意識的にこだわって愛する〉とは、言い換えれば、意識的にこだわらなければ愛せないということである。これはカバやあんパンに限らずであって、そもそも坪内にとっては俳句自体がそのような対象なのであろうことは、『過渡の詩』(一九七八年 牧神社)以来の行文が証し立てるところだ。『過渡の詩』時代の坪内をよしとし、『俳句 口誦と片言』(一九九〇年 五柳書院)あたりから以降の転身を否定的に言う人もいるが、しかし俳句に対する親和性の欠如という点で坪内はじつは一貫しているのである。彼はいつも意識的にこだわって俳句を愛してきたのであり、無意識的に自然に俳句を愛している俳家(しつこいようだが黒田杏子とか)の幸福を味わうことはついに出来ないのに違いない。

さて、本書におけるカバ探訪は、二〇〇四年に始まっている。一九四四年生まれの坪内はこの年還暦を迎えた。その記念として、小学生時代にカバヤキャラメルに親しんで以来の心の友であるカバに会う旅を思いついたということらしい。

これという目的があるわけではない。いや、目的を設けないことにした。俳句などは詠まないのである。そのかわり、せっかく訪ねるのだから一時間はカバの前にいよう、と決めた。

最近はそうでもないが、評者もひところは息子を連れて動物園によくいったので察しがつくが、カバの前に一時間いるというのはかなり大変なことだ。実際、坪内も〈当初、一時間をカバの前で過ごすのはつらかった。〉と正直に述べている。

あれは京都の動物園だったが、カバの前を行ったり来たりして三十分を過ぎたころ、近くの売店の女性が近づいてきた。「あのう、お孫さんとはぐれましたか。放送してもらいましょうか」。私の年齢の者が一人で動物園に来るということはあまりないのだろう。しかも、カバの前ばかりでうろうろするのも変な行動。それで孫とはぐれたお爺ちゃんとみなされたのだ。

しかし、カバ紀行も回を重ねるにつれ、〈いつのまにか腰をおろしてゆったりとカバを見る態度が身についた。〉と坪内は言う。もちろんそんな態度が身につくことになんの意味もない。ただ、〈それは、自分の殻を破る工夫だった、と思う。〉と、カバとの付き合いを振り返る述懐がやって来るだけだ。非常に個人的なダンディズムで、これはあるだろうか。

作者というファクターを除外して読むことは、坪内が俳句を読む場合の原則的態度である。例えば、『鑑賞 女性俳句の世界 第6巻』(二〇〇八年 角川学芸出版)で正木ゆう子の作品を鑑賞するに際して、そのような断りを入れている。評者の第二句集を好意的に紹介してくれた日本経済新聞の俳句時評でも、〈前書きや作者はどうでもよい〉との言明があった。しかし一方で、この『カバに会う』という書物を読む行為にとっかかりがあるとすれば、全国に百人か二百人くらいはいるかも知れない骨の髄からのカバ好きを別にすれば、著者が坪内稔典だというまさにその一点に尽きるだろう。著者が坪内でなければ、カバを出汁に〈自分の殻を破る工夫〉について延々と語った本など誰も読まない。少なくとも評者は読まない。〈作者はどうでもよい〉とは、名前のゆえにテキストを読んで貰えるところまで自身を形成してきた特権的「作者」にのみ許された逆説なのである。実際、坪内の俳句を読む時、それが他の誰でもない坪内の作品であることは決定的に価値の支えとなっている。誤解の無いよう言い添えておくなら、これは坪内のテキストの弱さゆえでなく、強さの結果だということだ。結局のところ、強いテキストだけが「作者」を屹立させるのだから。

それにしてもなぜカバなのか。本書を読みながら、評者は改めて気になった。カバヤキャラメルや、そのおまけのカバヤ文庫の思い出は、捏造された起源とは言わないまでもいわば創作的な理由付けに過ぎないのではなかろうか。「Ⅶ あなたも河馬になりなさい――番外篇」に、「ダンディなカバ 俳人動物園」と題された一文が収められている。時々坪内が書く、若い友人とネンテン先生の対話の形をとったエッセイだが、そこではカバのように見える金子兜太が〈俳句ではサイ派〉で、しかし出来からいえばサメの句やイノシシの句の方がすぐれているといった話になる。では、カバ派は誰かと尋ねられたネンテン先生は、後藤比奈夫の名をあげる。

「横から見てごらん。実に柔和なカバのように見えるよ。前から見ても似ているけど。それに、ちゃんとカバの俳句も作っておられる。いくつかあるんだけど、一九九二年に出た句集『紅加茂(べにかも)』にある次の句がいいねえ。
  春風や聖者に似たる河馬の顔
河馬を聖者と詠んだのは比奈夫さんをもって初めとするよ」

後藤比奈夫はたしかに風貌の点でカバ的だが(写真でしか知らないが)、作品に多くのカバを詠んできたという意味ではもちろん坪内自身がカバ派の最右翼に違いない。ただし、今回、全句集(『坪内稔典句集〈全〉』 二〇〇三年 沖積舎)を調べてみて、坪内にはサイ派になる可能性もあったことに気づいた。まず、第一句集『朝の岸』(一九七三年 青銅社)には、意外や、サイ・カバの句は次の一句のみしか見当たらない。

犀が穴掘る夕顔みたいな北半球

よくわからない句ながら、拙速な文体のかなたに湛えられているロマンティシズムと鬱屈は伝わってくる。野放図でどこか可憐な感じもするところ、いかにも第一句集にふさわしい。第二句集『春の家』(一九七六年 沖積舎)にもカバの句は見当たらない。サイの句が二つあるだけである。

飯噴いてあなたこなたで倒れる犀  ⇒「飯」に「めし」とルビ
アフリカが犀産む昼よ梨の花

〈飯噴いて〉は、すでに坪内の標準的な文体を確立した作品だろう。つづく第三句集『わが町』(一九八〇年 沖積舎)における坪内は、基本的にサイ派である。八章に分かたれた第一章・第二章には次のような句が拾える(この句集は総ルビだが必要なもの以外は書き出さない)。

犀の匂いの鼻水が落ち家が落ち
青空へ昼寝の犀が火をこぼす

つづく第三章は句集タイトルと同じく「わが町」と題されており、散文詩風の短文が二か所にあらわれる。そこではサイが、ある種、オブセッショナルなイメージとして呈示されている。高度成長時代末期の大阪の空気と青春晩期の生理が、重層的に捉えられていると思える。そしていよいよ、ひとつだけだがカバの句も登場する。

(町の上空で、闇と闇は二頭の犀のようにぶつかりあった。その空から花粉がたえず降っていた。朝。花粉はまだ降り続いている。屋根や電柱や広場、コンロの火や洗面器の水、駅へ急ぐ男の肩、花粉は町の至る所に降ると、なにかが焦げるような匂いをたてた。そんな日――。)

喉元に犀が居坐るれんげ咲く
風呂敷をはい出て燃える春の河馬

(その夕べ。花粉はなおも降り続いている。家や自転車や工事場、白い皿や乳母車、家へ急ぐ女の肩、花粉は町の至る所に降ると、なにかが焦げるような匂いをたてた。町の上空で大きな犀が焦げているのだ。)

以後、第四章「遠方の犀」、第五章「物を煮る日に」、第七章「ほろほろと泣くメリケン粉」の各章に、サイ・カバの句が含まれている。

日ざらしの河馬が口あけ一日あけ  ⇒「一日」は「いちにち」
西空の犀ぶっ倒れ妻走る  ⇒「妻」は「さい」
秋風の横に倒れて太る犀
遠方の犀燃えるとき俺を殺る
  ⇒「殺る」は「やる」
山頂へ犀吹き寄せて空の秋
君を抱く犀が笛吹くように抱く
鍋釜の溶けるあたりの犀孕む
河馬燃えるおから煎る日を遠巻きに
さようなら、犀にか川にか火が移る
犀が来てメリケン粉吐く春暮れる

第四句集『落花落日』(一九八四年 海風社)は、例の甘納豆の句をはじめ、有名句をいくつも収めている。現在までのところ、坪内の代表句集と考えてよい。

愛暴れて犀に桜が散っている  ⇒「暴」に「あ」とルビ
春を寝る破れかぶれのように河馬  ⇒「河馬」に「かば」とルビ
恋情が河馬になるころ桜散る
桜散るあなたも河馬になりなさい
水中の河馬が燃えます牡丹雪

サイが一句、カバが四句。どうやらこの句集から、坪内はカバ派に転じた様子である。特に、掲出したうしろ三つの句は、坪内が自らよく引用する作品でもあって、坪内カバ俳句のスタンダードというべきもの。数は少ないが、坪内俳句にとってのカバのモティーフはここらから出発している。それが証拠に、第五句集『猫の木』(一九八七年 沖積舎)で、坪内はいきなりカバに対して回顧的になるのである。

今は昔の口開けている秋の河馬

が、すでにしてそうだが、さらに「七月の河馬」という連作には、

かつて〈桜散るあなたも河馬になりなさい〉とうたった。

との短文が前書として置かれており、三句のカバの句が含まれている。

七月の河馬へ行こうか、ねぇ、行こう
遠巻きに胃を病む人ら夏の河馬
七月の河馬へ行く人寄っといで

この句集には他に、以下の三句も収められている。

河馬たちが口あけている秋日和
河馬になる老人が好き秋日和
みんなして春の河馬まで行きましょう


第六句集『百年の家』(一九九三年 沖積舎)と第七句集『人麻呂の手紙』(一九九四年 ふらんす堂)には、カバの句は少ない。質的にも低調である。

河馬へ行くその道々の風車  『百年の家』
桜散る河馬と河馬とが相寄りぬ  同
小春日や河馬に涙の湧くような  
平成の春のあけぼの河馬もいる  『人麻呂の手紙』
秋風に口あけている河馬夫婦      同

第八句集『ぽぽのあたり』(一九九八年 沖積舎)には、カバが九句、サイが一句。この句集のカバは、知命を過ぎた作者の肉体の寓意のようにして詠まれている。贅肉が付き、老化の始まった身体を、カバの〈ぐちゃっと〉した巨体と重ねあわせている。このたびの『カバに会う』まで続く対カバ態度は、おおむねこの辺に淵源している。

河馬までの冬の日踏んで恋人は
正面に河馬の尻あり冬日和
冬の日に尻を並べて河馬夫婦
ぶつかって離れて河馬の十二月
岩に置く顎岩になり冬の河馬
桜咲く河馬は口あけ人もまた
炎天やぐちゃっと河馬がおりまして
ああ顎が目覚めているよ春の河馬
大粒の三月の雨河馬の口
春うらら石屋の石が犀になる

なお、『ぽぽのあたり』には、「大阪純情詩」のくくりで、小唄調の自由詩が五篇収められている。そのうちの「ちょっと寄ろ」という三連からなる詩の第二連にも、カバが登場する。

動物園へちょっと寄ろ
雨のあがった昼さがり
水から鼻だけ出している
河馬の夫婦を眺めよう
ガバッと河馬は口あけて
思わず私も口あけて
河馬の気分になりました
のんびりゆったり河馬気分
肩のしこりがとれました

第九句集『月光の音』(二〇〇一年 毎日新聞社)にはカバの句が九句。落ち着いた詠みぶりで、しんみりと心にしみる句が多い。特に、「遺言八句」と題された、各句に前書を付した一連に見えるカバの句には、坪内の願望が最も素直に表出されている。

秋の夜の鞄は河馬になったまま
口あけて全国の河馬桜咲く
全国の河馬がごろりと桜散る
恋人も河馬も晩夏の腰おろし
横ずわりして水中の秋の河馬
なっちゃんもてっちゃんも河馬秋晴れて
水澄んで河馬のお尻の丸く浮く
秋晴れてごろんと河馬のお尻あり
  遺言八句
若い友へ。私がしてきたのは、結局、大好きな河馬になる工夫だったかも。
河馬のあの一頭がわれ桜散る

幾らか見落としはあるかも知れないが、なんと以上が既刊句集に収録された坪内のカバ(そしてサイ)の句の全てである。カバをこれだけ一貫して詠んでいる俳人は他にいない、という意味ではもちろん坪内にはカバ派代表を名乗る資格があろう。ただ、率直に言って、秀句はあんがい少ないのではないか。句の質の点からすると、結局、『落花落日』所収の〈恋情が河馬になるころ桜散る〉〈桜散るあなたも河馬になりなさい〉〈水中の河馬が燃えます牡丹雪〉のあたりを超えることは出来ていないようだ。しかも、大きな口や尻といった常套的な切り口からのアプローチが目立ち、〈もう二十年以上、カバと付き合ってきた〉わりには成果は貧しい。おそらくそれは坪内にもわかっていることで、むしろ成果云々とは別のところに坪内のカバは位置づけられているのだろう。その意味でも、『わが町』のサイ派から『落花落日』のカバ派への移行は検討を要するところだ。

『落花落日』には、〈この集の句は力作である。力作ではあるが、どの句もりきんで書いたわけではない。〉と始まる、はなはだユニークな長文の「あとがき」がある。〈坪内氏〉が三十九歳で〈すでに中年〉であること、〈趣味と言えるものはまったくない〉〈人なみの生活能力はあるかもしれない〉ことなどが述べられた後、母の死についての記述がくる。

その母の死は、あるいはこの集のひとつの核になっているかもしれない。死は厳粛な事実であったが、意外にもまたそれは、自在さへの志向を作者のうちで強めたようだ。認識や感覚をつとめて自在にしようとする試みが、死という厳粛な事実を受けとめる、その受けとめ方であった。

坪内は〈意外にも〉と記しているが、死についての認識の深まりが〈自在さへの志向〉を強めることは、むしろかなり普遍的な心理の機微ではないだろうか。親が死に、中年の自分を見出すことは、すなわち自分の死を見出すことと同じである。それは諦念や無気力に道を開く可能性がある一方で、新たな活力を呼び覚ます可能性を孕んだ事態に違いない。その上で、坪内における〈自在さへの志向〉はサイではなくカバを象徴動物に選ぶことになった。そこに合理的理由があるとは思わないが、強いて言えばサイが帯びる高貴性を避けたということではないか。〈犀の角の如く独り歩め〉と古代の賢者が述べたような、独立自尊の気高い風趣がサイにはある。その尊貴さ、その独行性のイメージは、次のように記す坪内には、すでに受け入れがたくなっていたのかも知れない。

趣味はないが、人なみの生活能力はあるかもしれない。二人の子供が育っているし、身に余る借金をして小さいながらも家まで買った。火葬場の煙突の見える家だが、眠るには静かで都合がよい。猫の額ほどの庭には、春には桃が、夏には胡瓜が、秋には金木犀が、冬には椿が花をつける。運動不足の紀州犬がそれらの花木をがりがりかじる。

ぶよぶよと膨らんだ、ぶざまなカバとの一体化は、坪内にとって、ぶざまで平凡な死すべき者としての自分を受け入れるために、不可欠の営為なのだろう。それにしても普通、俳人の救いは俳句そのものからやって来るはずなのだ。俳句そのものではなく、俳句を媒介にしてのカバとの一体化が救いになるところに、俳人坪内稔典の資質の宿命を見ざるを得ない。ところで坪内はカバの後は全国の柿を訪ねる旅を始めたそうだ。それはよいが、しかし、カバについてもやり残していることがあるはずだ。ここまでカバにかかずらってしまった以上、やはりアフリカまで行くべきではないのか。アフリカは、〈自分の殻を破る工夫〉といった思惑を超えたところで、思考と感性の殻を破ってしまうだろう。評者としては、坪内のアフリカ・カバ紀行を是非読んでみたいと思う。


*坪内稔典著『カバに会う 日本全国河馬めぐり』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

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5 件のコメント:

野村麻実 さんのコメント...

高山さまこんにちは!

あんまりにもおもしろい書評でしたので、買って読んでみようと思います。
坪内稔典さまの本は、かなり面白いので、昔から何冊か読んでいますが、たしかに「坪内稔典」の本だから読んでみる、と言う面が大きいですね(^^)。
とくにどうという事もないのですけれど、「坪内稔典」だからというところの件に反応してしまいました。

句についての批評は私のようなものは「ふーん」と思ってそのまま受け入れて読んでいるのですが、(正しいかどうかなんてわかりゃしませんから)でも人間的に可笑しさのあるエッセイを書かれる方だと思っていますo(^-^)o

高山れおな さんのコメント...

野村麻実様

買うてください、買うてください。このブログの書評は、書評である以上、少しでも促販につながりますようにという気持で書いております、実際はどうあれ。お買い上げくださるとは、書評子としても嬉うございます。

さんのコメント...

ひさしぶりに、河馬俳句を詠みました。
既に、ユーモアが、パターン化しているので、昔ほど感動しませんでしたが、ここまで徹底して月並化された河馬は幸福だとおもいます。

 水中の河馬が燃えます牡丹雪 稔典

「平凡」を象徴するとしたら、ピッタリの動物です。でも、当時はインパクト在りました、とても。でも、掲句の中の河馬は、なにか特別な獣に見えて。この句がいちばんすきですね。

「黄金海岸」の頃は、坪内氏は「犀」のほうでしたね。


「かつて〈桜散るあなたも河馬になりなさい〉とうたった。」そのころに坪内氏と初対面。
俳句に引きずり込まれました。

犀の狷介さと河馬の俗性、どちらも備えているひとですね。誰にも固有のキーワードがあるものですね、

みたむらまさこ さんのコメント...

れおなさんこんにちは。
れおなさんが戻られると紙面(ぶろぐ面?)が活気づきますね。

今回の
おもしろい文章でした。

なぜネンテンさんが河馬に夢中になったかと言う点も興味深かったですが、
高山さんがなぜそれをここまで真剣に取り上げるかという点も興味深かったです。

ネンテンさんとれおなさんは
意識して何かに興味を持とうとするところが似ているのではありませんか。

それでは高山さん自身は犀派、カバ派のどちらなのでしょう。
「犀川にまぼろしの犀雪を来よ」(ウルトラ)
の名句をお持ちのれおなさんだから、
当然犀派でしょうと思いながら、
もしかして高山さん自身にも
転機があったのかな
と思って調べてみました
(れおなさんんもそうですが
暇人みたいですね)。

『荒東雑詩』では
たしかサルが象徴獣だったはず
と思っていましたら
次の句にぶつかってしまいました。

「犀省二河馬稔典とわかくさ食ふ」
なんとネンテン先生とれおなさんが
二匹の河馬となって草など食んでいるではないですか。二頭の河馬と稔典さんとも読めますが、それじゃあつまらない。

「犀省」ってどこだか知りませんが、「犀川」を思わせますよね。犀を思わせる犀の字の付く土地にありながら、河馬になりはててしまった私達であるよ(妄想ですが)
という感慨がこめられたものと拝察しました。

それ以来だったのですね。れおなさんが犀と河馬の運命に思いをいたされるようになられたのは。

ご健筆いつも楽しみにしています。
どうぞお体、お大切に。

三田村雅子

高山れおな さんのコメント...

三田村雅子様

コメント有難うございました。読んで下さっているとはうかがっておりましたが、こうしてコメントまで頂戴すると冷汗が出ます。

犀省二河馬稔典とわかくさ食ふ

ですが、この「省二」というのは岡井省二という、もう七、八年くらい前に亡くなった俳人のことです。森澄雄氏の高弟で、『鯨と犀』(平成九年 富士見書房)という句集があります。同句集には、

さはやかに犀のかたちの洽さよ
暁闇の榾火なるべし犀の角
のどを上下にゆつくりと西日犀
翁童や犀もろともにさみだるる
黒犀の眠れるは見ず花槐
三伏の犀を都としてゐたり

などの犀の句があります。『鹿野』『猩猩』『鯛の鯛』といった句集もありますので、単純にサイ派ともいえないのですが、小生、この作者が非常に好きでございまして、河馬稔典に対するにおのずから犀省二なるフレーズが浮かんできた次第。『鯨と犀』には序文ならぬ「前口上」があって、

密教的俳諧展開
俳諧的密教展開
宇宙の胎内化
生命誕生記憶の喚起形象化
精神の物質化
アニミズム、エロチシズム劇場

と、記されています。俳句に禅を持ち込んだ永田耕衣という俳人がいましたが、岡井氏はご覧の通り、自分なりの密教解釈を俳句に生かそうとしたのです。そのような方向性に批判的だったのが、他ならぬ坪内氏です。で、わたくしは食われると言いつつ犀と河馬を食う若草たらん、というわけです。もちろん今は若草ではございませんが(笑)。

21日アップの第19号では、小生また消えます。帚木のありとて行けど一見見当たりませんが、あやなく惑う程でもなく少し探していただくと潜んでおります。