2009年3月1日日曜日

俳句九十九折(26) 俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子・・・冨田拓也

俳句九十九折(26)
俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子

                       ・・・冨田拓也

相馬遷子 15句


昨日獲て秋日に干せり熊の皮

梅雨めくや人に真青き旅路あり

栓取れば水筒に鳴る秋の風

山中に河原が白しほととぎす

明星の銀ひとつぶや寒夕焼

燃ゆる日や青天翔ける雪煙

深夜にて雪上を匍ふさそり星

ひとつづつ霜夜の星のみがかれて

音立てて日輪燃ゆる茂吉の忌

人類明日滅ぶか知らず虫を詠む

甲斐信濃つらなる天の花野にて

雛の眼のいづこを見つつ流さるる

死は深き睡りと思ふ夜木枯

冬麗の微塵となりて去らんとす

わが山河いまひたすらに枯れゆくか




略年譜

相馬遷子(そうま せんし)


明治41年(1908) 長野県に生まれる

昭和7年(1932)  水原秋櫻子から直接指導を受ける

昭和13年(1938) 「鶴」同人

昭和15年(1940) 「馬酔木」同人

昭和21年(1946) 佐久に医院を開業

昭和31年(1956) 第1句集『山国』

昭和44年(1969) 第2句集『雪嶺』

昭和51年(1976) 佐久病院で死去(68歳) 第3句集『山河』

昭和57年(1982) 『相馬遷子全句集』(相馬遷子記念刊行会)



A 今回は相馬遷子を取り上げます。

B この作者の句業もいまひとつ明確でないような印象がありますね。

A どちらかというと現在ではあまり省みられることの少ない作者ともいえるでしょう。

B それでも過去に山本健吉や飯田龍太などからは割合高く評価されています。

A 一応句集が3冊あり、句集名は発行順に挙げると『山国』、『雪嶺』、『山河』ということになります。

B 句歴は昭和7年から亡くなるまでの昭和57年ですから、おおよそ50年の句作期間ということになります。そう考えると3冊という句集の数はやや少ない感じがしますね。

A 相馬遷子は昭和7年頃の句作開始後、水原秋櫻子の「馬酔木」、石田波郷の「鶴」に所属。その後昭和31年に第1句集『山国』を出版し、その13年後の昭和44年に第2句集『雪嶺』を出版、そしてその7年後である昭和51年に遺句集ともいうべき第3句集『山河』が刊行されています。

B こうみるとやはり割合ゆるやかなペースで句集を刊行していたということになりますね。

A 全句集をみてもその作品の総数はおおよそ1200句程度ではないでしょうか。

B では、その作品について少し見ていきましょう。

A まず第1句目として〈昨日獲て秋日に干せり熊の皮〉を選びました。第1句集『山国』所載の昭和11年から昭和15年の作です。

B この句は詞書として「奥秩父栃本」という言葉がありますから、奥秩父での作品であるということがわかります。

A 山深い奥秩父ということで熊も生息しており、「熊の皮」も存在しているわけですね。

B 昨日、猟で仕留めた熊、その皮を秋の日に下に干してあるわけですから、なんとも生々しいものがあるというか、残酷なまでの迫力とでも言っていいような雰囲気が漂っています。

A すでに熊は皮のみとして存在しているわけですから、熊の肉とは別個のものとなっているわけですね。

B 秋の日の光の下、皮だけになった熊の獣毛の色合いや手触りといった質感までもが感じ取れるようです。

A 続いて〈梅雨めくや人に真青き旅路あり〉です。第1句集『山国』の「草枕抄」より昭和11年から15年の作です。

B 旅路が「真青」であるというところに鮮かな印象を受けるところがあります。

A 梅雨ゆえの色彩感覚なのでしょう。

B 「真青」という表現がなければ、この句はそれこそ演歌のようになってしまいますね。また、「われに」ではなく「人に」とすることで、句の世界観が拡大されているようなところもあります。

A 続いて〈栓取れば水筒に鳴る秋の風〉を取り上げます。第1句集『山国』の「草枕抄」所載の昭和11年から15年の作です。

B 遷子は昭和15年、北支方面へ軍医見習士官として応召されたとのことです。この句は戦地での作ということになります。

A 終戦後、昭和21年に相馬遷子は帰国し、函館の病院に勤務することになります。その後、故郷の佐久において医者として開業します。

B 続いて〈山中に河原が白しほととぎす〉です。第1句集『山国』の昭和26年の佐久における作品です。

A 「白し」から高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉を思い浮かべました。

B そのように読めば、ある意味馬酔木的な作品であるのかもしれません。

A 「ほととぎす」と山の河原の「白さ」ですから、やはり夏の強い日射しがイメージされるところがあります。

B 山中の河原の風景がくっきりと目に浮かぶようですね。

A 佐久の自然を詠み込んだ作ということになるのでしょう。

B 続いて、〈明星の銀ひとつぶや寒夕焼〉を取り上げます。第1句集『山国』の昭和31年の作です。

A この句もどことなく「馬酔木調」を思わせるところがあります。

B 福永耕二の〈明星と逢ふまでこともなき花野〉あたりに近い雰囲気があるでしょうか。

A 馬酔木特有の抒情といったものが感じられますね。

B 冬の夕焼けの中で一際強く輝く一粒の星。その輝きを「銀」と表現したわけですね。

A 鮮やかな色彩感覚が脳裏に浮かび上がってきます。

B 続いて〈深夜にて雪上を匍ふさそり星〉を取り上げます。この句は、第2句集『雪嶺』の昭和32年の作です。

A なんだか異様な迫力が感じられます。

B 「さそり星」というものがそもそも俳句にはあまり登場しません。

A 「さそり星」はおそらく「アンタレス」という赤い星のことで、「さそり座」中心に位置するものであると思われます。

B 当然ながら実際に「さそり座」が雪の上を這っているわけではないはずなのですが、そういった「さそり」そのものが雪の上を這っているとでもいった超現実的なイメージも思い浮かぶところがあります。

A 実景とフィクションの両面を捉えた句のようですね。

B 続いて〈ひとつづつ霜夜の星のみがかれて〉です。第2句集『雪嶺』の昭和32年の作です。

A 相馬遷子には、星座における佳句が多く見られますが、この句もその一つですね。

B 他に星座の句として〈あをあをと星が炎えたり鬼やらひ〉〈一寒星燃えて玻璃戸に炬のごとし〉〈寒波来る明星金の翼揺り〉〈星白く炎えて雪原なほ暮れず〉〈凍る闇星座牡牛の目が赤し〉〈寒星の爛たる眼全天に〉などいくつも挙げることができます。

A こういった側面が遷子作品の良質な箇所であるということができそうですね。

B これらの作品には佐久における自然の存在も大きいはずだと思います。

A 続いて、〈音立てて日輪燃ゆる茂吉の忌〉を取り上げます。第2句集『雪嶺』の昭和S34年の作です。

B 茂吉の忌日は2月25日であるとのことです。

A 冬の終り頃ということになりますね。

B ちょうど時期としては今頃です。

A やや春めいてきた時節ということで、日の光即ち「日輪」が音をたてて燃えているように感じられたのかもしれません。

B 茂吉についてですが、『俳句』1976年4月号の平畑静塔の「『山河』見聞」という文章には〈この人いつか私信で、あなたのように精神医学の勉強をしたかつたと云つた〉という箇所があります。

A 茂吉は歌人でしたが、本業は精神科医でした。

B 平畑静塔も同じく精神科医でしたね。

A 遷子は村の医者でしたが、精神医学への興味もあったわけですね。

B この句には『赤光』の歌人への思いと共に、精神科医である茂吉への思いも込められているものであるかもしれません。

A 続いて〈人類明日滅ぶか知らず虫を詠む〉です。第2句集『雪嶺』の昭和36年の作です。

B 相馬遷子には自然詠のみではなく、社会性俳句とも言うべき内容の作品がいくつか見られます。

A この句の前には〈虫の闇核爆発の灰が降る〉という句があり、他には〈人の言ふ反革命や冬深む〉〈掛稲に放射能雨の止む日なし〉〈プラハの街に戦車聳ゆる秋の風〉などといった句もいくつも見られます。

B こういった作品を見ると、やはり社会への関心というものが強かったようですね。

A 単に医師としてということのみでなく、一個人としてのヒューマニズムの存在がその背景にはあったのかもしれません。

B 続いて〈甲斐信濃つらなる天の花野にて〉を取り上げます。第3句集『山河』昭和45年の作です。

A 飯田龍太の〈かたつむり甲斐も信濃も雨のなか〉を思わせるところがあります。

B 「天の花野」とは、幻想のイメージを詠んだものではなく、実際の山の上にある花野そのものを詠んだ句なのでしょう。

A 甲斐と信濃、その自然の広大さと雄大さを髣髴とさせるものがあります。

B 続いて〈死は深き睡りと思ふ夜木枯〉を取り上げました。第3句集『山河』の昭和50年の作です。

A このあたりから最晩年の作ということになります。もともと遷子は病弱な体質であったそうですが、この時期に重い病に罹ります。

B この時期の作品には〈わが病わが診て重し梅雨の薔薇〉などというある種の諦念といっていいような心情を詠んだ句も見られます。

A そして、そういった状況の中で、作品がこれまでとはやや異なる迫力を伴う表現へと変化してゆきます。

B 昭和49年には〈衰へて山河まぶしき春の昼〉〈寝がへれば身は薄片ぞ春の闇〉〈流れ去る時の音かも秋の声〉昭和50年には〈病みて見るこの世美し露涼し〉〈冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな〉〈露の身といしくも古人言ひにけり〉〈病みて恋ふ花野はいよよ遥かなり〉〈死の床に死病を学ぶ師走かな〉などといった句が見えますね。

A どの作品にも「透徹したまなざし」とでもいったようなものの存在が句の背後に感じられるようです。

B 〈死は深き睡りと思ふ夜木枯〉についてですが、睡眠というものも自らの意識がなくなるということで、ある種「死」に近いものであるといえます。

A 「深き睡り」ですから、その外界に対する意識の遠さ、隔絶感というものがこの句からは感じられます。

B 夜に吹く木枯らしが大変遠いところで吹いているかのような印象があります。

A 続いて〈冬麗の微塵となりて去らんとす〉です。同じく第3句集『山河』の昭和50年の作です。

B この句が遷子の句の中では最も有名なものであるのかもしれません。

A 自らの最期をこのように句に表現したところに、なにかしら作者の精神の剛さのようなものすら感じられますね。

B 冬の麗らかに晴れた日、その澄み渡った青い空の下、自らが細かい塵となってこの世界から去っていくということを、ごく自然なものとして捉えているように思われます。

A 最後に〈わが山河いまひたすらに枯れゆくか〉を取り上げました。第3句集『山河』の昭和50年の作です。

B 前年の昭和49年には同じような内容の〈わが山河まだ見尽くさず花辛夷〉という句も存在します。

A 「わが山河」ですから、佐久の自然のことなのでしょう。

B なかなかこのように自らの郷土における風土に対して、「わが山河」といった具合に実感を込めて、直截に把握し言い切ることはできないでしょうね。

A まさしく「わが山河」への思いの深さが感得できるようです。

B さて、相馬遷子の作品について見てきました。

A 全体的にやはり福永耕二や千代田葛彦などの作風を思わせる所謂「馬酔木調」といった雰囲気が作品の上に強く表れているように感じられるところがありました。

B そうですね。そしてそれだけでなく、どこかしら全体を通して、どの作品にも清明な空気感が込められているような印象を抱きました。

A この相馬遷子の作風について、細かく見ていけばある程度の変化の軌跡が認められると思うのですが、作品全体として見た場合、やはりさほど大きな変動といったものはなく、全体的にどちらかというと均質的な趣きがあります。

B 飯田龍太も、遷子の作品については「山河遼遥 ―『相馬遷子全句集』について」という文章において〈必ずしも生得詩才に恵まれたひととは思われぬ。〉と評しています。

A しかしながら、やはり晩年の作の〈死は深き睡りと思ふ夜木枯〉〈冬麗の微塵となりて去らんとす〉などといった最晩年の病床における作品については、やはりその作品の持つ強さは紛れのないものであると思いました。

B 龍太も同じく〈病を得てからの作品の迫力は、ただただ驚嘆のほかはない。〉とし、〈相馬遷子は、私にとっては、いつまでも忘れがたい俳人のひとりである。〉と評しています。

A 確かに、今回、相馬遷子の作品を瞥見して、その作品の中のいくつかについては、やはり飯田龍太のいうように「忘れがたい」清澄な魅力を湛えた作であるという気がしました。



選句余滴


相馬遷子

乗りすごし降りたる駅の唯寒夜

くろぐろと雪片ひと日空埋む

二日はや死病の人の牀に侍す

赤とんぼ夕空瀆し群れにけり

人ひとり置かず青田の激すなり

雪の嶺真紅に暮るる風の中

あをあをと星が炎えたり鬼やらひ

一寒星燃えて玻璃戸に炬のごとし

夕映えてうつせみに踏む寒浄土

火星燃ゆ阿鼻叫喚の蛙らに

しづけさに山蟻われを噛みにけり

入りし日が裏よりつつむ雪の嶺

露更けし野にぼうぼうと昴星

氷る田を音ばりばりと鋤きおこす

雪嶺の光や風をつらぬきて

自転車を漕ぐ寒星の宙の中

秋天に鳶の翼の傷あらは

日の直下立つくろがねの雪の嶺

寒波来る明星金の翼揺り

地は暮れて紫雲英田一枚微光せり

凍る闇シリウス光千変し

雪晴れて浅間嶺すわる町の上

逝く人に雪晴の光痛からむ

筒抜けに飯食ふが見ゆ秋の暮

病者の死希ふ眼いくつ隙間風

笹鳴のけふこの道を何故歩む

ただひとつ待つことありて暑に堪ふる

行秋やなさねばならぬ悪ひとつ

尾長ゐて淡青ともす枯るる中

星白く炎えて雪原なほ暮れず

山深く花野はありて人はゐず

献血の乙女まぶしき梅雨曇

白き月艶めきそめし枯野かな

雪の嶺むらさき深しつひに暮る

西晴れて寒風見えず絶えず吹く

霜月の目に見えて時流れたる

凍る闇星座牡牛の目が赤し

寒星の爛たる眼全天に

雛の眼のいづこを見つつ流さるる

わが山河まだ見尽くさず花辛夷

流れ去る時の音かも秋の声

滝壺ゆ逆しまに滝凍てにけり

寝がへれば身は薄片ぞ春の闇

わが病わが診て重し梅雨の薔薇

病みて見るこの世美し露涼し

冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな

露の身といしくも古人言ひにけり

鵙鳴いてこの世いよいよ澄みまさる

病みて恋ふ花野はいよよ遥かなり

死の床に死病を学ぶ師走かな




俳人の言葉


翌十九日午後、親友堀口星眠氏によってもたらされた葛飾賞の賞品を手にして談笑されたのち、三時ごろ静かな睡りにつかれ、そのまま意識は回復しなかった。(…)〈死病とは思ひ思はず〉という心境が最後まで病いとの闘いをあきらめさせなかったことは、身辺の者にとってせめてもの慰めであった。それは悽愴で悲痛なたたかいであった。俳句に対する情熱だけが死期をぎりぎりまで伸ばした。(…)一月十九日は〈冬麗の微塵となりて去らんとす〉と詠まれたようによく晴れた日であった。

矢島渚男  「俳句」1976年4月号より

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2 件のコメント:

さんのコメント...

「死は深き睡りと思ふ夜木枯
         相馬遷子」

この句を発句にして、脇起の歌仙を巻いた記憶があります。浅沼璞さん捌。

葉書のやりとりだったので、時間がかかりましたが、きれいな好い句をかかれる俳人だなあ、と、思いました。現代連句の、ポップ調の璞さんがこれを発句にされたことも意外でした。けれども、すすんでいるととてもふかぶかと多義性のある、いわゆる「連句の味」が出てきて、気持ちよかったですよ。

遷子さんのお作、澄明な高原俳句などと言われていますが、こういうのがやはり「馬酔木」調なんですかしら。わからぬでもありませんが。でも、秋桜子よりも更に内省的ですね、取り合わせ方にも飛躍があるし。

ともかく、あなたの粘りには感服します、私の知識の抽斗をうめてくださいます。

冨田拓也 さんのコメント...

堀本吟様

コメントありがとうございます。
この連載もここまで来ると「意地」で続けているようなところがありますね。
次回は「俳人ファイル」の20人目で、「馬酔木」の系統の作者を取り上げる予定ですが、まだ全然資料に目を通せていません。
次回の日曜日まで間に合うかどうか。

では、またコメントしてくださいね。