2009年6月6日土曜日

俳句九十九折(39) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅠ 福田甲子雄・・・冨田拓也

俳句九十九折(39)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅠ 福田甲子雄

                       ・・・冨田拓也

福田甲子雄 15句


少年に怒濤のごとき初夏の山

生誕も死も花冷えの寝間ひとつ

初冬の浄土びかりす熊野灘

濡紙に真鯉つつみて青野ゆく

斧一丁寒暮のひかりあてて買ふ

稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空

天辺に個をつらぬきて冬の鵙

金襴の下は冷たき未知の国

春雷は空にあそびて地に降りず

地獄絵の炎にとまる白蛾かな

崖に張り出す栂(つが)の根に青大将

白南風やひかり放たぬ山はなし

骨壺に五体収まる枯野かな

夜桜のどよめきこもる谷の底

わが額に師の掌おかるる小春かな




略年譜

福田甲子雄(ふくだ きねお)


昭和2年(1927)  山梨県に生まれる

昭和22年(1947) 俳句を学び始める 「雲母」の蛇笏選に投句

昭和35年(1960) 「雲母」4月号より龍太選に投句

昭和46年(1971) 『藁火』

昭和49年(1974) 『青蟬』

昭和57年(1982) 『白根山麓』

昭和62年(1987) 『山の風』

平成4年(1992)  『盆地の灯』 「雲母」終刊

平成7年(1995)  「俳句研究」2月号「福田甲子雄特集」

平成15年(2003) 『草虱』

平成16年(2004) 第38回蛇笏賞

平成17年(2005) 逝去(78歳) 8月『師の掌』



A 今回は福田甲子雄を取り上げます。

B この作者は飯田龍太の弟子の1人として有名ですね。

A 福田甲子雄は、昭和2年(1927)に山梨県に生まれ、平成17年(2005)に78歳で逝去しています。

B 句集については、遺句集を含めて全部で7冊ということになります。

A 福田甲子雄は、昭和22年(1947)の20歳頃から俳句を始め、「雲母」の飯田蛇笏選に投句を始めます。

B はじめは飯田蛇笏の弟子であったということになるわけですね。

A その後、昭和35年(1960)「雲母」4月号より飯田龍太の選による作品欄が設けられ、それからはそこへ投句するようになります。

B 龍太に師事するのは、昭和35年からということになりますね。

A このようにみると龍太に師事する以前に、13年ほどの間は蛇笏に師事し選を仰いでいたということになるようです。

B 13年もの歳月にわたって蛇笏選へ投句を続けていたわけですから、けっしてその期間は短いものであるとはいえませんね。

A ですので、それこそ福田甲子雄は、蛇笏の直系の作者であるといってもおかしくないところがあるのかもしれません。

B 福田甲子雄という作者は、どちらかというと龍太の弟子であるという印象が強いですから、この事実にはやや意外な感じを受けました。

A 福田甲子雄は昭和2年(1927)生れで、龍太は大正9年(1920)生れということになります。

B 龍太と甲子雄では、その年齢は7歳ほどしか違わないわけですね。

A ですので、昭和35年の甲子雄が33歳前後のころに龍太に師事したということになります。

B 龍太はその時40歳前後ということになりますね。

A 昭和37年には蛇笏が78歳で亡くなります。

B そして、蛇笏の後を受け継いで飯田龍太が「雲母」の主宰となるわけですね。

A では、福田甲子雄の作品について見てゆきましょう。

B まず第1句集の『藁火』の作品について取り上げることにします。この句集は昭和46年に刊行されたもので、福田甲子雄の昭和35年以前の作品から昭和45年までの作品が収録されています。

A 福田甲子雄が俳句を始めたのは昭和22年の20歳頃ですから、その昭和22年から昭和45年までの作品ということになりますね。

B 年齢的にはおよそ20代から40代前半にいたるまでで、その23年間におよぶ句集ということになります。

A 昭和35年以前の作、即ち飯田龍太の選に投句する以前の飯田蛇笏選の時代の作品を見てみると、〈藁塚(にほ)裏の陽中夢みる次男たち〉〈土くさき霧のながるる真葛原〉〈颱風の灯が煌々と牛うまる〉〈新緑に眼をやすめゆく囚徒たち〉〈夕焼中子がかたまりて石数ふ〉〈雨冷えの突堤に鳴く犬殺せ〉といった句が見られます。

B 「次男たち」の句は割合有名な作品といっていいはずだと思います。「次男」は農家の次男のことで長男のように家業を継ぐという宿命性を持っていません。そのことによって保障された自由とそれに伴う悲哀が「夢」の一語から交々に窺われるようです。

A 他の句からは、やはり蛇笏的といっていいような土着性を伴った底籠った迫力がその内部から感じられるところがありますね。

B 「土くさき霧」という句は、やはり蛇笏の持っていた土着性に近しいものでしょうし、「牛うまる」から感じられる生命の原初性とでもいうべき生々しさからも同じくやはり強い風土性が感じられます。「囚徒たち」の句については蛇笏にも囚人を詠んだ句が存在しましたし、「子がかたまりて石数ふ」という句については、現実の風景でありながら賽の河原にも近い異界のような情景を想起させるところがあります。「突堤に鳴く犬殺せ」という句については言うまでもないでしょう。

A このような作品を見るだけでも、甲子雄には、蛇笏からの影響が甚大なものであったということがよくわかりますね。

B しかしながら、甲子雄は、本人の語るところによれば蛇笏選において10年ものあいだずっと「1句組」であったとのことです。

A その後は、先程にもふれたように「雲母」の昭和35年4月号から、龍太選へと投句を行うようになるわけですね。

B では、それからの作品について見てみましょう。

A 昭和36年、37年の甲子雄の作品には〈鶏買が影忘れゆく蟬時雨〉〈書道塾出る子入る子に玉霰〉〈声たまる道より低き西日の家〉〈褐色の家褐色の赤子の声〉〈日盛りや首から下が消えてゆく〉〈老婆ゐて墓場のごとき月の土間〉〈影寄せあひ遺されし者夏野ゆく〉〈あるだけの明るさを負ひ麦運び〉という句が見られます。

B これらは龍太に師事することになった以降の作品であるわけですが、その内容を見ると単純に龍太に近い作風であるとは言い難い部分が、いくつか見られるようですね。

A 「麦運び」の句の明るさや、〈書道塾出る子入る子に玉霰〉〈声たまる道より低き西日の家〉〈褐色の家褐色の赤子の声〉あたりの作品における「出る子入る子」といった並列の手法や、「声たまる」「褐色の赤子の声」といった抽象的な表現に龍太作品からの影響を見て取ることができますが、いまあげた作品の「鶏買」や「首」、「墓場」、「遺されし者」などといった語彙を見るとやはり基本的には蛇笏からの影響というものが甲子雄の根幹部分には、強く根をおろしているように思われます。

B この後の昭和38年と39年の作品を見ても〈さくら咲く闇檻となり人いるる〉〈肢肉つり再び白き春の暮〉〈暑きベンチ船の彼方は死後の色〉、昭和40年には〈炎昼のくらき谿から斧ひびく〉〈盆ちかき妻の裁ち屑火のやうに〉〈少年に怒濤のごとき初夏の山〉という句が見られ、昭和41年には〈霜の窓ふけば月夜の嶽せまる〉〈畳屋のあまたの刃物ひかる夏〉〈刃物ならべて晩夏なる店小さき〉などという句が見られます。

A やはりこれらの作品の持つ迫力からは、蛇笏のデモーニッシュな側面が強く感じられますね。

B このような蛇笏的な要素が内部に深く沈潜しているのが、福田甲子雄の作品における大きな特徴の一つとなります。

A 福田甲子雄に対して龍太の方は、以前にも何度か述べたことがあるように、龍太は蛇笏の息子であったわけですが、このような蛇笏的な属性の一つである土着性の影の部分でもある闇の力とでもいうべきものを自らの力で振り払って作者となったところがあります。

B また、龍太の作品には、蛇笏のような漢文的な雰囲気もさほど感じられないところがありますね。

A 飯島晴子は、『飯田龍太読本』(「俳句」1978年10月臨時増刊号)の「龍太と蛇笏」という文章において、この2人の関係を〈蛇笏を熱いロマンティストだとすれば、龍太は冷えびえと醒めた人である。〉〈龍太の柔軟な艶やかな外見の下には、ものの見えてしまう人のたたずまいがある。〉〈親が子を見るよりはるかに正確真剣に、子は親を見ているものである。そして、熱いものを見て育てば、冷たくならざるを得ない〉と指摘しています。

B 蛇笏と龍太は、やはり作者としては単純に資質が異なるわけですね。

A 龍太本人にも「俳句とエッセイ」の1974年6月号での山本健吉、森澄雄との鼎談である「現代の俳句」において〈田舎に生まれ育った長子型、次男型いろいろあるけれども僕は四男。吹けばとぶような存在だからね(笑)。そういう野次馬的なものが身についてるんじゃないかな。その点で、親父に対してもいつも冷やかし半分のような眺め方をしていた。〉といった発言が確認できます。

B こういった事情が龍太を、父親蛇笏とは位相の異なる別個の作者として成り立たせた要因であったようですね。

A それに対して福田甲子雄と蛇笏の場合の関係性について考えると、福田甲子雄は、龍太のように蛇笏に対する批判的ともいうべき冷ややかな視線といったものは、おそらく持ってはいなかったはずです。

B 蛇笏という存在は、それこそ甲子雄が俳句を始めてからすぐの、即ち20歳前後からの先生であったわけですから、そのような大きな存在に対して批判的な眼差しをもって眺めるということは単純に考えると、まずあり得ないことでしょうね。それどころか、俳句をはじめたころに蛇笏と出会ったわけですから、蛇笏作品からのインプリンティングともいうべき強い影響をそのまま受けることになったのではないかと考えられるところもあります。

A そう考えると、福田甲子雄は、ほとんど白紙の状態から、蛇笏俳句の洗礼を直接受けた作者であったといってもいいのかもしれません。

B そして、それはおそらく甲子雄の無意識の深層にまで及び、蛇笏の詩精神というものが克明にその内部へと感光される結果となっていた、と考えてもおかしくはなさそうです。

A 俳句作者にとっては、はじめにどのような作者の作に出会ったかということがその後の歩みに大きく影響を及ぼすところがあるはずです。

B こういったことを踏まえて考えると、福田甲子雄の作品における蛇笏的ともいうべき強い迫力を伴った作品がいくつも生み出されることになった要因の一つは、やはり蛇笏からの影響にあるということができそうです。

A 単純に、福田甲子雄にとっては、蛇笏からの影響というものが相当に強大なものであった、ということなのでしょうね。

B そして、その影響の大きさというものは、本人が思っている以上のものであったのかもしれません。

A ただ、福田甲子雄が蛇笏の作品からの影響を強く受けた作者であるということは間違いのないところであると思われますが、他のいくつかの作品を見ると、単純にそれだけの作者であるとは言いきれない側面もあります。

B そうですね。先程にも取り上げた甲子雄の昭和36年、37年の〈あるだけの明るさを負ひ麦運び〉、また、昭和38年と39年の作品における〈磨かれし馬匂ふなり夏木立〉〈冬日いま紙に賢し嶺にやさし〉といった作品、昭和40年の〈桃ひらく遠嶺の雪をひからせて〉〈磔像は潮風に錆び雪解富士〉〈いくたびか馬の目覚むる夏野かな〉といった句において見られる光りの強さや明るさといったものには、やや蛇笏作品からの影響とは異質の雰囲気を感じさせるところがあるといえそうです。

A 先程にもすこし触れましたが、おそらくこれらの作品からは蛇笏からの影響ではなく、龍太からの影響によるものであると考えられる可能性があるのではないかと思われます。

B 龍太の句といえば、その代表作として強い自然光の遍満した作品がいくつも存在しますね。

A それについてあげてみると、龍太の第1句集『百戸の谿』には〈春の鳶寄りわかれては高みつつ〉〈雪山に春の夕焼瀧をなす〉〈春すでに高嶺未婚のつばくらめ〉〈いきいきと三月生る雲の奥〉〈山河はや冬かがやきて位に即けり〉といった有名な作品があります。

B やはり「麦運び」等の句の世界は、その強い自然光を感じさせる点において、これらの龍太の作品世界と共通する要素が感じられるものであると思います。このように見ると福田甲子雄は、蛇笏におけるデモーニッシュな部分と、龍太の作品における明るさや煌めきといった両方の性質を併せ持つハイブリッドの作者であるということができるのではないかと思われます。

A そう考えると、龍太は蛇笏の影をすっぱりと断ち切って一人の作者として自己形成を遂げたのに対し、甲子雄は龍太に師事することになったわけですが、その影響を受けつつも、それまで師事していた蛇笏の影響を切り捨ててしまうことなく(あるいは振り切ることができず)蛇笏の残影とでもいうべき要素をそのまま内側に抱え込むかたちとなった、ということができるようです。

B それゆえに、福田甲子雄の作風の上には、蛇笏的な要素と、龍太的な要素という2つの作風による降り幅の広さというものが確認できるというわけですね。

A どうやら福田甲子雄という作者における実質については、ここで早くもある程度の結論が出てしまったようです。

B そうかもしれませんが、一応その後の作品展開についても見てゆくことにしましょう。

A 『藁火』の昭和42年における作品には〈雪の夜のまざと土間ゆく母の影〉〈暑き夜の泥の匂ひの月に臥す〉、昭和43年には〈声あげて嶽離れゆく晩夏の川〉、昭和44年には〈縄文の唄のきこゆる冬泉〉〈枯野ゆく葬りの使者は二人連れ〉〈忘れたる焚火見にでる闇の中〉〈身のうちに山を澄ませて枯野ゆく〉〈砂山を吹き減らしゐる彼岸西風〉〈生誕も死も花冷えの寝間ひとつ〉〈桃は釈迦李はイエス花盛り〉〈伐りごろの杉そそり立つ夏の空〉、昭和45年には〈木枯は受験地獄の灯を囃す〉〈木枯は死の順番を告げて去る〉〈象の骸を遠まきに雪解山〉〈てのひらの蚕おとさず青田こゆ〉〈夏雲やビル壊しゐる鉄の玉〉〈沼わたる蛇夕焼けを消しながら〉〈太陽は雉子の眼霧の雑木林〉〈燕帰る葡萄いろなる空をのこし〉という作品があります。

B やはり「母の影」「泥の匂ひの月」「生誕も死も」「伐りごろ」など蛇笏的な性質が強く窺える作品と、〈声あげて嶽離れゆく晩夏の川〉〈身のうちに山を澄ませて枯野ゆく〉〈桃は釈迦李はイエス花盛り〉〈燕帰る葡萄いろなる空をのこし〉といった龍太の性質を窺わせる作が混在して展開されているようですね。

A 「晩夏の川」の擬人化、「桃は釈迦李はイエス」の並列の手法、「燕」の句の「葡萄いろ」あたりが龍太的ですね。大体この第1句集において、福田甲子雄という作者のほぼすべての要素が出ているのではないかという気すらします。

B 福田甲子雄作品のキーワードとしては、思いつくままに挙げてみると、「風土」としての「甲斐」「信濃」の「山」や「雪」。植物である「花(桃や薔薇など)」。「農業」としての「田園」「馬」「鶏」。鳥や熊などの「野性の動物」。蛇笏的要素の「刃物(斧など)」「墓」「死」。宗教としての「仏」「キリスト」「盆」。家族関係の「子供」「妻」「孫」。龍太的な要素としての強い光である「煌めき」「日」「灯」「かがやき」や並列の手法。さらには、軽い「社会性(戦争など)」。旅吟。「都市」。自然の擬人化、大景の把握といったあたりということになると思います。

A 第1句集を読むと、やはりこれらの要素はおおむね登場しているようですね。

B しかしながら、昭和45年の作品における蛇笏的な要素による作品のおそろしさというものは、なんともすさまじいものがありますね。

A 「受験地獄」「死の順番」「地獄の色」「象の骸」「ビル壊しゐる鉄の玉」「沼わたる蛇」ですから、読んでいて正直怖くなってきます。

B では、続いて第2句集である『青蟬』についてみてゆきましょう。

A この句集は昭和49年刊行のもので、昭和46年から昭和49年までの作品が収められています。

B 昭和46年には〈ふるさとの土に溶けゆく花曇〉〈春昼の樹を挽く親子光りをり〉〈百合ひらき甲斐駒ヶ嶽目をさます〉〈梅雨の崖修羅のごとくに木の根垂れ〉〈桃ひからせて遠ざかる盆の雨〉〈藁にさす人形の首秋ふかし〉〈秋晴の嶺が彼方の嶽を呼ぶ〉〈初冬の浄土びかりす熊野灘〉〈斧のこだまも落石も極寒裡〉という作品が見られます。

A やはり蛇笏の迫力と、龍太の煌めきがともに息衝いているのが感じられます。蛇笏的な「ふるさとの土」「修羅」「槍襖」「浄土びかり」「斧のこだま」と、龍太的な「親子」「甲斐駒ヶ嶽」「遠ざかる盆の雨」など。

B 昭和47年には〈雪の降る山を見てゐる桃の花〉〈早苗たばねる一本の藁つよし〉〈嶽おろし森の正体見えはじむ〉〈熊除の鈴のかがやく通草山〉〈殉死戦死情死それぞれ霜白し〉〈凧もつて風くる空に瞳を澄ます〉

A 昭和48年には〈濡紙に真鯉つつみて青野ゆく〉〈いんいんと青葉地獄の中に臥す〉、昭和49年には〈三日居て三日雪舞ふ刃物の町〉〈火事の夢さめて越後の雪の中〉〈斧一丁寒暮のひかりあてて買ふ〉〈花の香のときめき流る山の空〉〈夕焼の地図の山河を子と歩む〉といった句が見られます。

B 単純に、福田甲子雄の作品の全てを龍太的、蛇笏的要素という二つの見方のみで割り切って読んでしまうのはやや問題がないでもないと思うのですが、こうみるとやはり蛇笏的な作風と龍太的な作風の特徴とともに、そのギャップの大きさといったものも相当感じられますね。

A 「原爆忌」「森の正体」「殉死戦死情死」「鶏の首」「青葉地獄」「斧」のおそろしさと、龍太的な「百合ひらき」「空に瞳を澄ます」「花の香のときめき」「子と歩む」による明るさと優しさということですね。

B 続いて、第3句集である『白根山麓』の作品を見てゆきましょう。

A この句集は昭和57年刊で、昭和49年から昭和56年までの作品が収録されています。

B 昭和49年には〈稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空〉〈雨の野を越えて雪降る谷に入る〉、昭和50年には〈天の鳶地の墓ひかる雪解かな〉〈風ひからせて斧を振る男かな〉、昭和51年には〈身を捨てて立つ極寒の駒ヶ嶽〉〈桑山の吹雪は祖(おや)の貌をもつ〉〈雪折の木霊さすらふ谷の空〉〈倒したる樹の裂け目より春の声〉〈斧浸す目高あふるる川の淵〉〈汽車通るたびに手を振り溝さらひ〉〈がうがうと雪解虹たつ駒ヶ岳〉〈恋のこと報せくる子や麦穂立つ〉〈鮎帰る山河みどりを尽しけり〉〈山国の秋迷ひなく木に空に〉〈黒胡麻のごと鴉群る冬ひでり〉などといった作品があります。

A 「鳥入れかはる」の句は割合有名な作品ですね。福田甲子雄における代表句の一つといっていいはずだと思います。

B 「がうがうと雪解虹」などという句は、蛇笏の峻厳さと龍太的な輝きの両方の要素が重なったような雰囲気もあります。

A そのような句の中にも「手を振り溝さらひ」「恋のこと報せくる子」などといった割合平穏ともいうべき句の存在も確認できます。

B 単純に福田甲子雄の句集には、蛇笏的、龍太的な作品ばかりであるというわけではなく、こういった地元の人たちや家族を詠んだ句も少ないということですね。

A このように普通の日常的な自然詠といったものも多数存在するわけですが、句集を読んでいるとどうしても、蛇笏と龍太といった2つの要素を持った作品が目に入ってきてしまう傾向にあるというのが正直なところです。

B 昭和52年の作品には〈山中の吹雪抜けきし小鳥の目〉〈研ぎをへし斧に錆の香山しぐれ〉〈鑑真の眼か堂守の埋火か〉、昭和53年の作には〈井の底に人声のする暮春かな〉〈暗殺のつづく卯浪の果の国〉〈夏雲や人目恐れぬ草の丈〉、昭和54年には〈いろいろの死に方思ふ冬木中〉〈寒水に鯉の血沈みつつ咲けり〉〈春暁の樹の洞を出る蟾蜍〉〈草餅や風の狂気の底知れず〉〈田を植ゑる一人が赤し甲斐の空〉〈じりじりと山の寄せくる油照り〉といった句が確認できます。

A やはり自然や人間存在をも含む万象そのものの持つ実相への肉迫とでもいうべきものが表現されているようですね。

B それが作品の上に相当強く刻み込まれている様子が見て取れます。

A 実際のところ、この世の中というものの実態というものは、様々な複雑さにみちたカオスとでもいうべきものであるといえます。

B そういったカオスを、福田甲子雄は、作品の内部へとそのままのかたちで封刻しようとしているように思われるところがありますね。

A 昭和55年には〈くさむらに闇たまりゐる斧始〉〈献血す腕の真横に白根岳〉〈知りつくす道に迷ひし朧月〉、昭和56年には〈風は牙かくし薺の花吹けり〉〈死のこゑを払ふ生者の声暑し〉〈歯をはづし月の迎へを待ちてをり〉〈思はざる山より出でし後の月〉といった作品がみられます。

B 続いて第4句集の『山の風』について見てゆきましょう。

A この句集は昭和62年刊で、昭和57年から昭和62年までの作品が収録されています。

B この句集もこれまでとさほど変わりなしといった趣きで、昭和57年に〈仏壇の花より落ちし蝸牛〉〈切り傷の血を舐めてゐる夏の雲〉、昭和58年には〈杉山の花粉の帯が谷越ゆる〉〈満月にいざなはれゆく墓の前〉〈望の夜の水子供養の女たち〉〈鐘楼のなかの地獄絵うそ寒し〉、昭和59年には〈凍みとほり葡萄の幹の裂けにけり〉、昭和60年には〈春一番少女両手に水提げて〉〈雲白し青田のつづく旅路かな〉〈天辺に個をつらぬきて冬の鵙〉といった作品が見られます。

A この句集の作品もあまりこれまでの作品と変わることのない高い水準での出来映えを示していますね。

B 昭和61年には〈金襴の下は冷たき未知の国〉〈どの山の雪もはなやぐ桜餅〉〈木屑より出て伊勢海老の髭うごく〉〈流血のいろしてイラン柘榴着く〉、昭和62年には〈夜ざくらの奥にただよふ苑子の句〉〈佐保姫の産衣を浸す谷の水〉〈落花舞ふ経文谷を越えゆけり〉〈真夜中を過ぎて狂へる涅槃西風〉といった句が見られます。

A 昭和62年の「苑子の句」の「苑子」は中村苑子のことであるのでしょうね。

B このような句も福田甲子雄には存在したわけですね。福田甲子雄と中村苑子の句の世界というものは、ある一面においては非常に近しい関係にあるような部分もあります。

A 地霊ともいうべき存在が行き交うような世界に、共通するものが感じられるというべきでしょうか。そういえば甲子雄には平成12年に〈荒梅雨の上も陽のなき晴子の忌〉という飯島晴子への句もありました。

B このように見ると、これらの異界ともいうべき作品世界を創出するような作者に対して、甲子雄はある程度の親近感を抱いていたという事実もあるようですね。

A そういえば福田甲子雄には、富澤赤黄男、赤尾兜子、河原枇杷男などといった作者の句をも取り上げた『忘れられない名句』という俳句鑑賞の本もありました。

B こうみると、福田甲子雄は、様々な作品に対して、窮屈な視野に捉われず、相当広い視野を持っていたということになるようですね。

A 続いて第5句集『盆地の灯』について見てゆきましょう。

B この句集は平成4年の刊行で、昭和62年から平成4年までの作品が収められています。

A 昭和62年には〈霜をゆく少女は鈴に守られて〉、昭和63年には〈死してなほ冬の茜をかへりみる〉〈死者にまだ人あつまらぬ寒夜かな〉〈山中の焚火の跡に魚の骨〉〈春雷は空にあそびて地に降りず〉〈黍畑に月の輪熊の遊びをり〉、平成元年には〈石仏の首がころがる山ざくら〉〈餓鬼の忌の木洩れ日にある蛇笏の眼〉、平成2年には〈花月夜死後もあひたきひとひとり〉〈桜桃の実を割る雨の降りはじむ〉〈俳諧の狂気にふるる雲の峰〉〈霜晴や木喰不動の真赤な絵〉といった句が見られます。

B 「春雷」の句は福田甲子雄にとって割合有名な句といってもいいのでしょう。

A 「蛇笏の眼」などという句を見ると、やはり蛇笏の影というものが作者の心象のうちには潜んでいることが感じられるようなところがあります。

B 「俳諧の狂気にふるる」などという句がありますが、こういった句をみると作者のこのような蛇笏的な作品志向といったものが、果たしてどこまで意図的なものであったのかまたはそうでないのか、よくわからなくなってくるところがありますね。

A 平成3年には〈螺鈿めく余寒の月のひかりかな〉〈白毫か黒豹の眼か春の闇〉〈磯海女のひとりがピアスしてゐたり〉〈上蔟す鳳凰三山照るなかに〉〈織りかけの機に涼しき紺の糸〉〈十月の賽銭箱を蝮出づ〉、平成4年には〈盆地は灯の海山脈は寒茜〉〈随身の腕折れてをり花吹雪〉〈行き場なき青葉の杜のももんがよ〉といった異色とでもいっていいような句がいくつか見られます。

B では、続いて、第6句集『草虱』について見てゆきましょう。

A この句集は平成15年刊行で、「雲母」終刊の平成4年から、平成14年までの作品が収録されています。

B この句集で福田甲子雄は平成16年に第38回蛇笏賞を受賞します。

A これまでの作品を見て来ると、これだけ蛇笏賞にふさわしい俳人というのも稀ということができるかもしれません。

B この『草虱』には10年近い年月における作品が収録されていて、はじめの平成4年の作品から〈地獄絵の炎にとまる白蛾かな〉という普通ではない作品が見えます。

A 平成5年には〈鳥交る恋といふには淡すぎし〉〈凍返る谷は奥歯をかみしめて〉〈靄あげて種蒔くを待つ大地かな〉〈崖に張り出す栂(つが)の根に青大将〉〈山姥の口は真赤ぞ鎌鼬〉などといった迫力のある作品が見られます。

B 〈凍返る谷は奥歯をかみしめて〉などといった句を見ると本当に「風土」そのものの持つおそろしいまでの迫力といったものを思わずにはいられないところがありますね。

A この句は、おそらく人が奥歯を噛みしめているという意味の内容の句ではないでしょうね。

B 谷そのものが、寒さで奥歯を噛みしめるように固く収縮し引き締まっている様子を句にしたものなのだと思います。

A 平成7年には〈白南風やひかり放たぬ山はなし〉、平成8年には〈黒鯛の鰭で指切る暮春かな〉、平成9年には〈遠野火や死は同齢にまでおよぶ〉〈仔鹿食ふ羆(ひぐま)の話明易き〉、平成10年には〈銀漢の近き乾鮭鉈で切る〉〈まだ死ぬな死ぬなよ夜露かがやくに〉、平成11年には〈雪となる越後の雲が甲斐覆ふ〉といった句があります。

B この句集の作品は「雲母」終刊後の作品であるということで、龍太の選を経ていないものであるそうですが、ほとんどその風土性などの内容による変化はあまり窺えないようです。

A しかしながら、いままでの句集の作というものが、ほとんど龍太の選を経たものであったという事実については、やや驚いてしまうところがあります。

B この点については、江里昭彦さんが「鬣」の17号(2005年11月)の「ひとたび風土が詩人を得るならばー甲斐の巨匠・福田甲子雄―」という評論において〈龍太はこうした傾向の表出を―奨励しないにせよ―掣肘を加えることをしなかったらしい〉と指摘しておられます。

A これは龍太の選句の懐の深さというべきものなのでしょうか。

B 龍太の選には、多少変わった嗜好性があったように思われるところはあります。

A 平成12年には〈遺跡掘る北吹く底に馬の骨〉〈荒梅雨の上も陽のなき晴子の忌〉〈雑草にみな名のありし花野かな〉〈御嶽の空にあつまる帰燕かな〉〈骨壺に五体収まる枯野かな〉、平成13年には〈葛切の身震ひしたる峰の月〉〈子規没後百年の世や破れ傘〉〈川せみの嘴にあまりし鯎(うぐひ)の尾〉〈葈耳(をなもみ)を勲章として死ぬるかな〉〈柘榴の実三方に裂けまた戦〉、平成14年には〈ひとつづつ山消し移る時雨かな〉〈新緑の師にまみえむと雲を踏む〉といった作品があります。

B どの句もなかなか大きな世界観が示されていますが、「子規没後百年の世」「葈耳(をなもみ)を勲章として」「また戦」などといった時世に対する批判精神とでもいうべきものを感じさせる句があるところにも注目されます。

A このような作品の存在も福田甲子雄にはあったわけですね。

B 福田甲子雄がどのように世の中を見ていたかということの一端が窺われるようです。

A この後、平成17年に、福田甲子雄は78歳で逝去し、8月に遺句集として『師の掌』が刊行されています。

B この句集は、『草虱』の時代の平成5年から平成14年までの作品の拾遺と、それ以後の平成15年から亡くなるまでの平成17年前の作品で構成されています。

A 平成5年には〈爪痕は冬眠さめし熊のもの〉、平成8年には〈夜桜のどよめきこもる谷の底〉、平成9年〈暮れてより川ひかりだす十夜粥〉〈落葉降る片眼をかつと不動像〉〈山の創かくしきれざる冬霞〉、平成10年には〈千年の桜を支ふ墓百基〉〈萬緑や首なし地蔵多き谷〉、平成11年には〈岳おろし首捥ぎとらる六地蔵〉〈翡翠の体当りせる夜の玻璃戸〉〈人骨を吸ひて桜の青葉濃き〉〈山羊乳に青草の香のしみてをり〉〈年を越す山々満身創痍かな〉、平成14年には〈闇いつか背後にせまり新豆腐〉〈満月の中へ白馬をひきゆけり〉〈落鮎のたどり着きたる月の海〉といった作品があります。

B 拾遺作品の中からこれだけの作品が見出せるわけですから、これまでの『藁火』『青蟬』『白根山麓』『山の風』『盆地の灯』のそれぞれの時代において句集に収められていない作品にも見るべき作品は少なくないかもしれませんね。

A 〈夜桜のどよめきこもる谷の底〉〈人骨を吸ひて桜の青葉濃き〉の迫力、〈満月の中へ白馬をひきゆけり〉の神々しさ、どれも単なる作者の手に成るものではありません。

B 『師の掌』の拾遺作品以外の作品を見ると、平成15年に〈聞き覚えある声のする花の闇〉〈葬儀場の仏花を捨つる春の峡〉〈曼珠沙華死は来るものを待つのみか〉〈秋の風子規終焉の間を過ぎる〉〈霜枯の陽に下草の声あげる〉などといった作品があります。

A このあたりからやはり作品に晩年意識といったものが強く窺われるようになってくるようですね。

B 平成16年になると入院中における作もあらわれてきます。

A その平成16年の作品を見てみると〈春光にみちびかれゆく閻魔堂〉〈骨となるひとときを待つ花の冷〉〈ゆきずりの人に声かく日永かな〉〈なめくぢの眼をさがしゐる少女かな〉〈武士(もののふ)の切腹思ふ露の月〉〈切除する一キロの胃や秋夜更く〉〈ちらつく死さへぎる秋の山河かな〉〈幾本の管身にからむ夜長かな〉〈神仏の加護あり秋日身をつつむ〉〈わが額に師の掌おかるる小春かな〉ということになります。

B そして、平成17年に福田甲子雄は亡くなります。

A その平成17年の作品には〈春の空わからなくなる妻の声〉〈雪の八ヶ岳(やつ)近々とありゑくぼみえ〉〈散る花の石に巌に行く雲に〉〈初燕新橋梁をめぐりをり〉といった句が見られます。

B さて、福田甲子雄の作品について見てきました。

A 今回は、正直なところ、その作風の振り幅の大きさに驚いてしまうところがありましたね。

B なかなか多様であるといっていいでしょうね。また、蛇笏的な要素というものが、ここまで強大なものであるとはさすがに思いませんでした。

A それこそ蛇笏と見紛うような強靭な作品の数々が何度も間歇的に姿を現してきます。

B また、蛇笏的要素だけでなく、7冊の句集を通読するとその作品世界はなかなか重厚なものであることがわかりました。

A そういったわけで今回は作品を選ぶのに大変難渋しました。江里昭彦さんが福田甲子雄に対して〈甲斐の巨匠〉と銘打っていましたが、確かにそれだけのものがあるという気がしました。

B 龍太的な要素によって生み出された作品についても良質なものは少なくないですし、それに加えてやはり蛇笏的な作品のインパクトの強さがその作品世界に大きな緊迫感を与えています。

A 蛇笏的要素と龍太的要素が相克しているとでも言うのでしょうか。

B 単純に相克というよりも、やはり蛇笏という作者の存在が一つのカオスであったように、福田甲子雄という作者も一つのカオスであったといっていいと思います。

A これには、やはり「自然」そのもの実相というものが、大きく関与しているのかもしれませんね。

B 川名大さんが『現代俳句 下』(ちくま学芸文庫 2001)において、「雲母」の俳句志向について〈それは四季の巡りが見せるその時々の自然の実相、原自然(ウア・ナトウ―ア)ともいうべきものを、言葉によって摑み取ろうとするものである。〉と指摘しておられます。

A 福田甲子雄の作品は、蛇笏的感性と龍太的感性を通して「原自然(ウア・ナトウ―ア)」と向かい合い、それをそのまま俳句形式のうちへ把握することによって生み出されたものであったということができるようですね。

B 本人には〈風土の中には、愛と憎しみが両立しているように思うんです。〉〈愛憎といっても非常に抽象的な言葉になるんですが、自分の住んでいる自然に対する愛の気持ちと、そしてかた方に憎しみの気持が出てくるわけなんです。〉という言葉もあります。

A 自然に対する愛と憎という背反する感情といったものも、その作品の上においてそのまま複雑なかたちで表わされていたということになるようですね。

B 福田甲子雄の作品世界は、蛇笏や龍太、自然や人間、またそれに伴う「愛」や「憎」といった感情をも含み込んだカオスの中より生み出されたものであったということができると思います。



選句余滴


福田甲子雄


藁塚(にほ)裏の陽中夢みる次男たち

夕焼中子がかたまりて石数ふ

あるだけの明るさを負ひ麦運び

桃ひらく遠嶺の雪をひからせて

いくたびか馬の目覚むる夏野かな

霜の窓ふけば月夜の嶽せまる

畳屋のあまたの刃物ひかる夏

暑き夜の泥の匂ひの月に臥す

枯野ゆく葬りの使者は二人連れ

伐りごろの杉そそり立つ夏の空

秋風が口をとざして通りけり

木枯は死の順番を告げて去る

象の骸を遠まきに雪解山

夏雲やビル壊しゐる鉄の玉

太陽は雉子の眼霧の雑木林

燕帰る葡萄いろなる空をのこし

ふるさとの土に溶けゆく花曇

梅雨の崖修羅のごとくに木の根垂れ

秋晴の嶺が彼方の嶽を呼ぶ

早苗たばねる一本の藁つよし

嶽おろし森の正体見えはじむ

殉死戦死情死それぞれ霜白し

いんいんと青葉地獄の中に臥す

夕焼の地図の山河を子と歩む

風ひからせて斧を振る男かな

身を捨てて立つ極寒の駒ヶ嶽

桑山の吹雪は祖(おや)の貌をもつ

がうがうと雪解虹たつ駒ヶ岳

鮎帰る山河みどりを尽しけり

黒胡麻のごと鴉群る冬ひでり

鑑真の眼か堂守の埋火か

暗殺のつづく卯浪の果の国

寒水に鯉の血沈みつつ咲けり

春暁の樹の洞を出る蟾蜍

田を植ゑる一人が赤し甲斐の空

井戸掘の仰ぐ小さな真夏空

知りつくす道に迷ひし朧月

風は牙かくし薺の花吹けり

死のこゑを払ふ生者の声暑し

歯をはづし月の迎へを待ちてをり

思はざる山より出でし後の月

仏壇の花より落ちし蝸牛

月光に翅ひろげたる兜虫

満月にいざなはれゆく墓の前

鐘楼のなかの地獄絵うそ寒し

凍みとほり葡萄の幹の裂けにけり

落葉してどの木の枝も天めざす

木屑より出て伊勢海老の髭うごく

夜ざくらの奥にただよふ苑子の句

真夜中を過ぎて狂へる涅槃西風

霜をゆく少女は鈴に守られて

死してなほ冬の茜をかへりみる

死者にまだ人あつまらぬ寒夜かな

山中の焚火の跡に魚の骨

黍畑に月の輪熊の遊びをり

石仏の首がころがる山ざくら

餓鬼の忌の木洩れ日にある蛇笏の眼

俳諧の狂気にふるる雲の峰

霜晴や木喰不動の真赤な絵

螺鈿めく余寒の月のひかりかな

白毫か黒豹の眼か春の闇

十月の賽銭箱を蝮出づ

盆地は灯の海山脈は寒茜

凍返る谷は奥歯をかみしめて

山姥の口は真赤ぞ鎌鼬

黒鯛の鰭で指切る暮春かな

仔鹿食ふ羆(ひぐま)の話明易き

銀漢の近き乾鮭鉈で切る

まだ死ぬな死ぬなよ夜露かがやくに

桜落葉踏みて鏡の割るる音

雪となる越後の雲が甲斐覆ふ

雑草にみな名のありし花野かな

御嶽の空にあつまる帰燕かな

葛切の身震ひしたる峰の月

子規没後百年の世や破れ傘

川せみの嘴にあまりし鯎(うぐひ)の尾

葈耳(をなもみ)を勲章として死ぬるかな

柘榴の実三方に裂けまた戦

ひとつづつ山消し移る時雨かな

爪痕は冬眠さめし熊のもの

落葉降る片眼をかつと不動像

岳おろし首捥ぎとらる六地蔵

翡翠の体当りせる夜の玻璃戸

人骨を吸ひて桜の青葉濃き

山羊乳に青草の香のしみてをり

結界の青葉の闇へ迷ひ入る

年を越す山々満身創痍かな

闇いつか背後にせまり新豆腐

満月の中へ白馬をひきゆけり

落鮎のたどり着きたる月の海

聞き覚えある声のする花の闇

骨となるひとときを待つ花の冷

なめくぢの眼をさがしゐる少女かな

武士(もののふ)の切腹思ふ露の月

ちらつく死さへぎる秋の山河かな

初燕新橋梁をめぐりをり



俳人の言葉

風土はみずから語ることはない。誰かが声を与えなければならない。歓びの表情をみせているときは歓びの声を、悲痛の面持ちのときは呻きの声を与えなければならない。そして、肺活量のおおきい詩人がそれを成しえたとき、風土が発する声は時空を越えてわれわれの耳に届くのである。ひとたび風土が詩人を得るならば、どんな過疎地であろうと、衰退しゆく山国であろうと、俳句という詩的価値に変換された声として、それはわれわれの耳を搏つ。

江里昭彦 「ひとたび風土が詩人を得るならば―甲斐の巨匠・福田甲子雄―」より/ 『鬣 TATEGAMI』17号(2005年11月)

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