俳人ファイル ⅩⅩⅠ 清水径子
・・・冨田拓也
清水径子 15句
雪積んで一丁の斧しづまれり
ふと水のやうな炎天もの書けば
寒凪やはるかな鳥のやうにひとり
一灯があれば梟よりゆたか
蓑虫も盥の水も謎の世ぞ
長き夢みたる朝のまくわうり ⇒「朝」に「あした」とルビ
鳥に雲北北西はさびしけれ
ねころんで居ても絹莢出来て出来て
飛魂また大いぬたでに摑まりぬ
寒卵こつんと他界晴れわたり
死思へば君とのことは青葉木兎
慟哭のすべてを螢草といふ
天さびし熟麦あつく擦りあへば
おいしい水にわれはなりたや雲の峰
ちらちら雪弟よもう寝ましたか
略年譜
清水径子(しみず けいこ)
明治44年(1911) 東京に生れる
昭和12年(1937) 東京三にすすめられて、秋櫻子、誓子、草城を主軸とした新興俳句の作品、評論に興味を持つ。
昭和23年(1948) 「天狼」創刊。東京天狼句会に出席。
昭和24年(1949) 「氷海」創刊。翌年同人。
昭和48年(1973) 第1句集『鶸』
昭和52年(1977) 秋元不死男逝去。翌年「氷海」終刊。
昭和54年(1979) 中尾寿美子と共に永田耕衣の「琴座」へ投句、5月同人。「らんの会」結成。
昭和56年(1981) 第2句集『哀湖』。
平成6年(1994) 第3句集『夢殻』。 『俳句』9月号「特集・今日の句集 清水径子『夢殻』」
平成8年(1996) 「琴座」終刊。
平成10年(1998) 季刊同人誌「らん」を創刊。
平成13年(2001) 第4句集『雨の樹』。
平成14年(2002) 『雨の樹』で第17回詩歌文学館賞受賞。
平成17年(2005) 『清水径子全句集』刊 10月逝(94歳)
A 今回は清水径子を取り上げます。
B ようやく女性の作者の登場ですね。
A 清水径子は明治44年生まれで、平成17年に94歳で亡くなっています。
B 明治の末に生まれ、平成に亡くなったわけですから、明治、大正、昭和、平成という4つの元号を生きたことになりますね。
A 亡くなったのはまだ4年ほど前ですから、大変な長命でした。
B その句歴についてですが、俳句については、戦前から興味を持っていたそうですが、本格的な俳句活動を始めるのは、戦後からのようで、昭和23年の37歳の時に「天狼」の東京天狼句会に出席し、翌年には「氷海」の創刊に参加、同人となっています。
A そして、昭和48年、62歳に至ってようやく第1句集である『鶸』が刊行されます。
B 第1句集の刊行の時点で年齢がほぼ還暦であったということになりますね。
A このあたりが他の多くの俳人たちとはやや異なる点であるのかもしれません。
B では、その第1句集の作品から見ていきましょうか。
A まずは『鶸』の昭和40年以前の作品から〈雪積んで一丁の斧しづまれり〉を選びました。
B この句は佐藤鬼房が評価した作品であるそうです。
A 鬼房には〈切株があり愚直の斧があり〉という句がありますから、その作者がこの句を評価したという事実にはすこし興味深いものがあります。
B 鬼房の句のアグレッシブな動作の後の余韻を抱懐する静けさを封刻した内容と比べると、清水径子の句は雪が斧に降り積もっているところから、斧の刃の鋼鉄の部分のひややかさとその形象による静かな迫力が感じられるようです。
A 雪という、斧の硬質で強い性質を秘めたものさえも包み込んでしまうような、自然の持つ静かな力強さといったものも感じられるところがあります。
B 続いて昭和41年の〈ふと水のやうな炎天もの書けば〉を取り上げることにします。この句も第1句集『鶸』所載の作です。
A どことなく永田耕衣の〈物書きて天の如くに冷えゐたり〉を思い起こさせます。
B この第1句集における清水径子の作品には他にも〈初み空ひとの歩みの映るかな〉〈樹の上に遠し蜜柑の大粒は〉〈谿水を跳び傾くよ野菊と老い〉〈気おくれて鯛を愛せり春の暮〉などといった耕衣を意識したような句がいくつか見られます。
A 確かに耕衣の句である〈天上に映りて麦を刈り尽す〉〈夏蜜柑いづこも遠く思はるる〉〈夢みて老いて色塗れば野菊である〉〈近海に鯛睦み居る涅槃像〉を思わせるところがあります。
B 耕衣は「天狼」に所属していた時期もありましたから、この頃から清水径子には耕衣への興味というものは小さくなかったということになるようです。
A 続いて〈寒凪やはるかな鳥のやうにひとり〉を取り上げます。この句は第1句集『鶸』の昭和46年の作品です。
B 寒い冬の海が凪いで、静かな時に、その海を眺めているということなのでしょう。その自然の景観の大いさを前にして、自分自身の存在がはるかな遠いところを飛ぶ鳥そのもののようであると、その自身の孤独さを実感しているわけなのでしょう。
A この作者にとって「鳥」は生涯を通しての主要なモチーフの1つでした。
B 第1句集には、この句に見られる「鳥」というテーマの他に、さきほどに見た耕衣からの影響、そして、それだけではなく「さびしさ」や「孤独」、「やさしさ」、「変身」、「老い」といった生涯にわたって繰り返し追及されることとなるテーマが、この句集において既にほぼ胚胎されていたことがわかります。
A 作品としては、〈虻として飛ぶ充実の淋しけれ〉〈手足うごく寂しさ春の蚊を打てば〉〈蝶となり舟虫とある濤しぶき〉〈身が茂る青蘆原の蘆となり〉〈朝顔・雀・婆がもつとも朝よろこぶ〉〈綿虫を袖にうけとめ存へをり〉あたりということになりますね。清水径子の句業の根幹を成す基本の部分は、この第1句集の時点において既にある程度出揃っていたということですね。
B この第1句集『鶸』が刊行された当時清水径子は62歳でしたから、取り組むべきテーマはすでにこの時点である程度見定められていたものであったのかもしれません。この後はそれらのテーマに則沿うようなかたちで、作品における文体、即ち「語り口」が変化するという展開が見られます。
A ただ、この第1句集の時点では、まだその作品の上において清水径子独自の「語り口」が確認できないようなところがあるようです。
B 確かにまだ作品における言葉がやや生硬な表現である箇所が目立ち、これといった秀句が乏しいというのがこの『鶸』を読んだ後における偽らざる感想でした。
A では、続いて第2句集『哀湖』の作品を見ていきましょう。
B この句集になると言葉がやや洗練されて、各々の作品における表現が大分こなれてきているところがあります。
A 確かに〈虚栗夕日朝日と通り過ぎ〉〈露の世や小蕪は人なつかしげ〉〈一灯があれば梟よりゆたか〉あたりの作品を見ればそのあたりのことは首肯できるところがあります。
B この第2句集の時期である昭和52年には師の秋元不死男が逝去し、「氷海」も終刊することになります。そして、この後の昭和54年の1月から同じ「氷海」の同人であった中尾寿美子と共に、永田耕衣の「琴座」へ一投句者として投句を開始し、同年の5月には同人となります。
A かねてより私淑していた永田耕衣のところへ直接師事することになったわけですね。
B 直接師事する少し前の作品にも〈貝寄風に乗りたや山河みゆるべし〉〈踏み入りてももいろひとの桃畠〉〈大皿の鯛やさくらを見し思ひ〉といった耕衣の作風にこれまで以上に近接するような作品を確認することができます。
A 実際に師事した頃の作品が『哀湖』における昭和54年から56年の作品です。いくつか作品を引いておくと〈柩出しあとのとうすみとんぼかな〉〈瓜番に小さく月のあるばかり〉〈蓑虫も盥の水も謎の世ぞ〉〈うしろ手をつきてかなかなかなと鳴く〉〈風呂敷に残さず包む秋の暮〉〈形代はいまも泳ぎの半ばなる〉〈ぽつねんと坐せば葉のつく夏蜜柑〉ということになります。
B では続いて第3句集『夢殻』について見ていきましょう。
A この頃になると、永田耕衣の影響が作品の上に如実にあらわれるようになってきます。
B 確かに作品を見ると〈摺鉢にいかな睡蓮現はれむ〉〈長き夢みたる朝のまくわうり〉〈ねころんで居ても絹莢出来て出来て〉〈飛魂また大いぬたでに摑まりぬ〉など随分と奔放というか自在な表現になってきていますね。
A これまでの「鳥」や「さびしさ」を主題とした作品も〈鳥に雲北北西はさびしけれ〉〈板の間を飛べない鳥としてきさらぎ〉〈雲に鳥少しかなしき方にわれ〉〈われは風速九メートルの羽抜鶏〉〈鳥にはぐれてしもて黄色いハンカチフ〉といった具合に多彩な表現を見せています。
B また「さびしさ」という概念についても、このあたりの作品になると、これまでの作品に見られた単なる詠嘆とは異なる、どこかしら「明るい諦念」とでもいったような雰囲気がその作品の上にあらわれている変化が見られます。
A 他にもそのような作品として〈しばらくはなるようになる種茄子〉〈寒卵こつんと他界晴れわたり〉〈霜の橋この世の友は輝けり〉〈春の雨夢とわかつてもう晩年〉〈慟哭のすべてを螢草といふ〉などという句が見られますね。
B 中でも〈寒卵こつんと他界晴れわたり〉などという句を見ると、寒卵が割れた後、「他界」としてのこの世界を、卵の黄身がまるで太陽のように明るく照らして出しているかのような暖かな印象を受けます。
A 「他界」というとその言葉からはやや冷たいような印象を受けるところがありますが、この句には確かにある種の明るさが感じられますね。また〈慟哭のすべてを螢草といふ〉という句にしても、「慟哭」ですから、本来は1句の世界が大変悲しい印象となるところですが、それを「螢草」であると断言することで、「慟哭」に纏わる負の重いイメージを、大らかでやや明るい印象のものへと変化させているところがあります。
B この句集が制作された時期作者の年齢は既に70代ですから、この高齢でこのように作品が軽やかに変化したという事実には、なかなか痛快なものが感じさせられますね。
A あと、この句集からは〈桃のスープ人はやさしきことをする〉という句に見られるように「やさしさ」というモチーフが、これまでの「さびしさ」「鳥」「老い」「変身」と同じくらいに作品の前面に浮上し始めてきているような印象があります。
B これも「明るい諦念」とでもいったようなものが作用したために生起した変化であるのかもしれません。
A では、続いて第4句集『雨の樹』を見ていきましょう。
B この句集となると先の第3句集よりもさらに表現が練成されているところが作品から如実に読み取ることができます。
A 確かに〈菊といふ名の残菊のにひるかな〉〈春の野のどこからも見えぼへみあん〉などという随分とコミカルな表現の句も見られます。
B このとき作者は最早80歳代であったわけですから、この作品から感じられる柔軟な発想としなやかさはなんとも信じ難いものがあります。
A 俳人の大方は加齢とともにその作風が硬化してしまうところがありますから、まさしく自在の境地といった感じがします。
B 加齢とともにこのように変貌してゆける作者というものはあまり存在しないでしょうね。
A その点から考えても、この作者の作品展開は希少なものであると思います。
B これまでのテーマである「変身」の句を見ても〈おいしい水にわれはなりたや雲の峰〉〈ひとりで生れいまは河口の夕焼よ〉〈いま生れ変るとすれば窓の雪〉〈鳥帰る生きるといふは霞むなり〉〈夕暮れてひとり薺の花でゐる〉などとやはり大変自在です。
A この地点にきて清水径子における「変身」をテーマとする作品はひとつの完成を見たといってもいいのかもしれません。そして、これらの作品からも、それこそ「明るい諦念」といったものが感じられますね。人は誰もが老いて、死んでゆくという生滅の運命を避けて通ることができないわけですが、そういった事実に対しても無理なく向かい合うような姿勢が感じられるようです。
B また「さびしさ」というテーマの作品でも〈鳥帰る人の世は靴すり減らし〉〈白露けふ淋しきものに昼ご飯〉のようなストレートにその感傷を詠んだものもありますが、それだけではなく〈天さびし熟麦あつく擦りあへば〉といった単なる「さびしさ」のみではなく生命の力強さをも感じさせる作品も見られます。
A 「鳥」をテーマとする作品でも〈ほととぎす言葉みじかきほど恋し〉〈囀りのほかテーブルに何もなく〉〈花や鳥生れかはれば涅槃西風〉〈同じうたうたひつづける寒雀〉といったように、ここにも「明るい諦念」における自在さが感得できます。
B 先に取り上げた「やさしさ」というテーマを見ても〈月のぼるよと二階より声まぼろし〉〈どこからか姉来て坐る秋の風〉〈春の月やさしき人と居る心地〉などといったようにその作品は深化を見せているように思います。
A 先ほどにも触れたように、この句集は作者の80歳代の時の作品であるわけですが、ほとんど衰えが見えないというか、清水径子の句業におけるピークを示しているようなところがあると思います。
B そして、それはあまり無理のない自然な気息で作品が詠まれているようなところがありますね。
A 『雨の樹』以後の平成13年12月以降における作品についてですが、この時期の作品も〈その時が来たから野菊咲いてくれる〉〈ちらちら雪弟よもう寝ましたか〉〈梟も淋しいときは目をつぶる〉〈さびしいからこほろぎはまたはじめから〉〈朝顔の白い元気をもらひたし〉などといったようにこれまでのテーマが変わることなく作品に詠まれています。
B この時期作者は90代の前半です。
A やはりあまり無理なく作品が詠まれているような感じがありますね。
B 他にも〈わたしは誰生かされている月の下〉〈半世紀経つてしまへり昼寝覚〉などといった作品が見られ、最期に至るまで優れた作品が生み出されていたことを確認することができます。
A 清水径子は最後まで優れた作者であったというわけですね。
B 鳴戸奈菜さんが『俳句朝日』2006年7月号の追悼文「俳句第一義の人」という文章で、清水径子について〈慕って来る人にはやさしく心を配ったが、俳句に関しては自他に厳しく、勉強もよくされていた。ときに借りた結社誌の作品欄にはマルバツが施されていて、ここまで目を通しているのかと驚かされた。先日も蔵書の整理を手伝いにいって、句集のほかに文学論、詩論、俳論の類の本が多く、径子さんの来し方が想像された。〉と書いておられます。
A 随分と勉強家であったようですね。
B 耕衣からの影響や、その作品の終生における「鳥」、「さびしさ」や「孤独」、「変身」、「老い」、「やさしさ」といったモチーフと長期間にわたって向かい合い、徐々にその作風を深化させ、「明るい諦念」といった大らかな優しさを感じさせる自在な作品境地を獲得するに至ったプロセスの裏側には、このような弛まぬ姿勢での俳句研鑚とまさしく俳句への強い思いが存在したということなのでしょう。
選句余滴
清水径子
乳房もつ白鷺か森に隠れたり
初み空ひとの歩みの映るかな
木目よき柩を思ふ雲雀かな
誰もわるくない二階より寒い風
虚栗夕日朝日と通り過ぎ
露の世や小蕪は人なつかしげ
ただ高くある送火のあとの月
貝寄風に乗りたや山河みゆるべし
大皿の鯛やさくらを見し思ひ
瓜番に小さく月のあるばかり
風呂敷に残さず包む秋の暮
形代はいまも泳ぎの半ばなる
ぽつねんと坐せば葉のつく夏蜜柑
摺鉢にいかな睡蓮現はれむ
てのひらで見るあふとつや秋の暮
下半身幾尋ならむ葛の花
身体はときどき春の丘に立つ
板の間を飛べない鳥としてきさらぎ
考えてみてもむづかし柳の葉
生前の葦かしばらく話そうよ
倒れたる板間の葱に似て困る
雲に鳥少しかなしき方にわれ ⇒「方」に「かた」とルビ
生の空死の空いまは春の空
われは風速九メートルの羽抜鶏
追想をすれば真葛ヶ原くすくす
しばらくはなるようになる種茄子
鷺草は姉の納戸に咲きかかり
春の雨夢とわかつてもう晩年
桃のスープ人はやさしきことをする
鳥にはぐれてしもて黄色いハンカチフ
われは草死ねばこの家のほうき草
睡魔ゐて螢袋を出られぬ日
鶴来るか夕空美しくしてゐる
菊といふ名の残菊のにひるかな
溺愛をするべく雪はまだ序曲
春の野のどこからも見えぼへみあん
水の精かかときれいな葦の花
ほととぎす言葉みじかきほど恋し
ひとりで生れいまは河口の夕焼よ
いま生れ変るとすれば窓の雪
鳥帰る生きるといふは霞むなり
いい顔で睡てゐる月の列車かな
晴るるまで居れと送り火焚きながら
うたた寝の流れつきたる春の岸
芳しきむぎわらとんぼではないか
のど飴を静かな冬と思ひをる
囀りのほかテーブルに何もなく
水澄んで急には見えぬ父と母
月のぼるよと二階より声まぼろし
どこからか姉来て坐る秋の風
春の月やさしき人と居る心地
花や鳥生れかはれば涅槃西風
同じうたうたひつづける寒雀
梟も淋しいときは目をつぶる
わたしは誰生かされている月の下
半世紀経つてしまへり昼寝覚
生きている限りは老婆秋ふかし
俳人の言葉
俳句という詩の中に、美しい五体を持つ人間が居るという事は、俳句のもろもろの論理に優先するというのが、かねてからの私の論理である
清水径子 『雨の樹』 「あとがき」より
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