2009年5月23日土曜日

俳句九十九折(37) 俳人ファイル ⅩⅩⅨ 加藤かけい・・・冨田拓也

俳句九十九折(37)
俳人ファイル ⅩⅩⅨ 加藤かけい

                       ・・・冨田拓也

加藤かけい 15句


からたちの花より白き月出づる

かはほりやわがふところに人の遺書

たましひのぬけゆくおもひ初螢

草競馬人生の涯まつさをに

凧の子に天の扉のいま閉まる

初蝶のいまだ過ぎねばたゞの石

糞の上瑠璃絢爛の揚羽蝶

萬緑に青きラムネの白激す

あひゞきやわれ等子規忌を修しゐる

黒葡萄買ひしが風のごとく去る 

美男寝釈迦沙羅は落花をいつせいに

くちなしのはなのねぢれのあぶな繪よ

菫掘るむらさきの時間に耽り

山椒魚いやでたまらぬときも生く

うぐいすやわが絶命も妙なるかな




略年譜

加藤かけい(かとう かけい)


明治33年(1900) 名古屋生まれ

明治45年(1912) 句集を自作

大正5年(1916) 大須賀乙字に俳句を学ぶ

大正8年(1917) 乙字没後、「ホトトギス」に投句 高浜虚子に師事

昭和6年(1931) 「ホトトギス」と訣別 水原秋櫻子の「馬酔木」に入会

昭和10年(1935) 「馬酔木」同人

昭和21年(1946) 句集『夕焼』

昭和22年(1947) 句集『浄瑠璃寺』

昭和23年(1948) 「馬酔木」を退会し、誓子の「天狼」入会 句集『淡彩』

昭和24年(1949) 句集『荒星』

昭和25年(1950) 句集『生涯』

昭和26年(1951) 「環礁」創刊

昭和27年(1952) 句集『捨身』

昭和45年(1970) 句集『甕』

昭和48年(1973) 句集『種』

昭和51年(1976) 句集『愚』 句集『塔』 句集『菫』 句集『山椒魚』

昭和54年(1979) 『定本 加藤かけい俳句集』 塚本邦雄『風神放歌』(加藤かけい論)

昭和57年(1982) 句集『遊幻愚草帖』

昭和58年(1983) 逝去(83歳)

昭和59年(1984) 遺稿集『下駄ばき詩人』



A 今回は加藤かけいを取り上げます。

B この作者の存在というものも、俳句の世界においてけっして小さなものではないはずであると思うのですが、現在ではほとんど話題になることはありませんね。

A 各種のアンソロジーなどを見ても、加藤かけいの名前が挙がっているのをみたことがありません。

B 角川書店の『現代俳句大系』にも、河出書房新社の『現代俳句集成』にも作品が収録されていませんし、比較的最近に刊行されている各種のアンソロジーにおいてもいま仰ったようにその作品が掲載されていることはまずありません。

A これだけ様々なところから現在まで長い期間にわたって等閑視されて続けている作者というものも珍しいかもしれません。

B この加藤かけいの弟子には小川双々子という俳人がいますが、この作者についても同じく作者としてはけっして小さな存在ではないと思うのですが、まともに総合誌やアンソロジーなどでとりあげられている例を目にしたことがありません。

A 愛知県の俳人というのは、なんというかいまだに謎のヴェールに包まれているところがあるというか、やけに「遠い」印象がありますね。

B 他には、馬場駿吉、坂戸淳夫、加藤かけい門の作者では、小川双々子、岡本信男、阿部鬼九男等、そして小川双々子の門下には、白木忠、浅井一邦、山口和夫、須藤徹、中烏健二、武馬久仁裕、伊吹夏生、小笠原靖和、山本左門等といった作者たちが存在し、このようにみるとその俳句作者の数というものは割合少なくないのですが、いまひとつその実像についてはっきりとわからないところがあるようです。

A こういった面々をみると、どうも曲者揃いといった印象がありますね。

B これらの作者たちにも目を向ければ、何らかの発見が少なくないかもしれません。

A では、加藤かけいについて見て行きましょう。

B 加藤かけいは、明治33年(1900)に名古屋で生まれました。兄も加藤霞村という名の俳人であったそうです。かけいは、明治45年(1912)の12歳の頃には句集を自作していたとのことです。そしてその後、大正5年(1916)になってからは大須賀乙字に俳句を学んでいます。

A 12歳で句集を自作していたわけですから、大変早熟であったといっていいでしょう。そして、初学のころである16歳前後の頃において大須賀乙字の名が登場してくるところからして、なんというかやや普通ではないところがありますね。

B 乙字は俳句界における論客としても有名な作者でした。その後、大正8年(1919)になると乙字が亡くなり、虚子の「ホトトギス」へ投句し、師事します。

A その頃のかけいは、年齢的には10代の後半ということになりますね。加藤かけいという作者は、その初期においては「ホトトギス」俳人でもあったというわけですね。

B その後、昭和6年(1931)になると、水原秋櫻子が「ホトトギス」を離れ「馬酔木」を創刊します。

A かけいもこの時「ホトトギス」を去り「馬酔木」へと入会します。

B 歴史的な瞬間に立ち会っていたということになりますね。

A この時、かけいの年齢は31歳でした。

B その後、昭和10年(1935)にかけいは「馬酔木」の同人に推されています。

A 『定本 加藤かけい俳句集』には、この「馬酔木」の同人に推される以前の作品である昭和10年以前の作品が「十国峠集」として纏められて掲載されています。

B 作品としては〈からたちの花より白き月出づる〉〈梟の日に曝されて盲ひけり〉〈氷上をひとつの鳶のかげゆけり〉という句があるのが確認できます。

A 「からたちの花」の句などは、「からたちの花」と「月の白さ」という言葉の関係性からくる抒情的な雰囲気がやや「馬酔木」的であるといえるようなところがあるでしょうか。

B この作品については、それこそ、すでに作品としてある程度の水準まで達しているというか、ほぼ「完成」してしまっているような印象がありますね。

A この句は、単に「からたちの花」が咲いているところから、「白い月」が出てきたという情景を描写した内容の作品ではなく、おそらく「からたちの花」の白さよりも「白き月」が出た、という月の白さそのものにおける鮮やかな色彩感覚を詠み込んだ内容の作品ということになるのでしょう。

B このころ、かけいは、飯田蛇笏の選へも投句していたという事実があるそうです。

A そういえば、かけいと蛇笏では、両者ともにその詩心の内部にデモーニッシュな要素を包含している点において互いに共通するものが多分に感じられるところがありますね。

B そのようにみると、この「からたち」の句にしても、単に「月」の白さによる美しさが表現されているのみにとどまらず、「からたち」の「棘」のやや生々しい形象の存在そのものが、一種の幻像としてではありますが、ある程度の強さを帯びて浮かび上がってくるようなところがあるという気がします。

A 続いて、第1句集となる『夕焼』について見てゆきたいと思います。この句集は昭和21年に刊行されたもので、昭和10年から昭和20年における作品を収めたものです。

B タイトルが『夕焼』ということでやはり集中には〈わが死にしのちも夕焼くる坂と榎〉〈夕焼けておそろしくしづかなる一瞬〉〈たゞ一歩この夕焼にあゆみ寄る〉〈おのが生(よ)に夕焼ながく人みにくし〉〈刻々に夕焼さむし遺愛の間〉など夕焼けに材を摂った作品が目立ちます。

A これらの作品を見るとどことなく「馬酔木」の作者としては、単なる自然の風景を詠んだものとは異なる、やや不穏ともいえるような雰囲気が纏わりついているところがあるように感じられますね。

B そうですね。〈日の暮は落花のまはぬところなし〉〈馬入れし厩のまはり菊月夜〉〈はゝの前徧照光の露の玉〉〈冬が持つ白きあかるさの中をゆく〉などといった「馬酔木」らしい光が偏在するような句の存在も少なくないのですが、この「夕焼」の作に見られる「わが死にしのち」「おそろしくしづかなる一瞬」「人みにくし」といった表現からは、それこそどこかしら生の深淵を覗き込むような只ならない雰囲気とでもいったものが底籠っているように感じられます。

A 他にも〈かはほりやわがふところに人の遺書〉〈十六夜の主客に杮の幹うねり〉〈くれなゐの幣や疱瘡神漂々〉などといったやはり異様ともいえる迫力を感じさせる作品が見られます。

B こういった作品を見るとかけいは単なる「馬酔木」の作者であるとは言い難いところがありますね。

A 「馬酔木」特有の「甘美な抒情」というものが、生の裏側を直視することによって変質し作品の内部へ屈折して定着されているようです。

B 単純にかけいが「馬酔木」の作風にそのまま泥んでしまうことを潔しとしない性質を持った作者であったということが、これらの作品からわかりますね。

A 続いて昭和22年の句集『浄瑠璃寺』について見てゆきましょう。

B この句集は浄瑠璃寺の連作など、旅中に材を摂った作品が多く収められています。

A 作品としては〈浄瑠璃の地に玉蟲の濃かりけり〉〈瑠璃光の玉蟲とぶよあれそこに〉〈みくまのゝふかやま葛の花にほふ〉〈梅しろき月ヶ瀬村を梅の間に〉といった句が見えますね。こういった連作による表現形式は、『葛飾』における水原秋櫻子の連作からの影響が大きく関与しているのでしょう。

B 続いて、昭和23年に刊行された『淡彩』について見てゆきましょう。

A 『夕焼』が昭和21年、『浄瑠璃寺』が昭和22年、そしてこの『淡彩』が昭和23年の刊行ですから、昭和21年の『夕焼』からかけいは毎年精力的に句集を出版しているということになりますね。

B なかなかの多作ぶりです。

A この『淡彩』の作品にしても〈曼珠沙華千手観音菩薩のごと〉〈たましひのぬけゆくおもひ初螢〉〈金魚玉この一部屋は如何なる世〉〈草競馬人生の涯まつさをに〉〈きりぎりすしんしんと世のほろびゆき〉〈凧の子に天の扉のいま閉まる〉などいくつもその充実した成果を見出すことができます。

B 〈たましひのぬけゆくおもひ初螢〉などという作品をみると、やはり蛇笏の〈たましひのたとへば秋の螢かな〉の存在を思い浮かべてしまいます。

A 本当にこの2つの句については、並べてみると、まさしく好一対としかいいようのない印象がありますね。

B そして、この昭和23年に山口誓子の「天狼」が創刊されることとなり、かけいも「馬酔木」を退会し、「天狼」へと参加します。

A 作品を見ると、やはり単純に「馬酔木」の作風の内側にのみ、とどまっていることができない性質を有していた作者であったということになるのでしょうね。

B そう見ると「天狼」への参加も必然的なものであったというべきなのでしょう。

A 続いて昭和25年に刊行された『生涯』についてみてゆきましょう。

B この句集にも優れた句が多く〈初蝶のいまだ過ぎねばたゞの石〉〈人混みに金魚の水を濃くこぼす〉〈糞の上瑠璃絢爛の揚羽蝶〉などといった作品がみられます。

A また、この句集になると「天狼」への参加に伴っての影響でもあるのか「馬酔木」的な甘美な抒情ともいうべき要素がさらに影をひそめ、ますますそういった傾向とは対極に位置するデモーニッシュな性質が強まってくる傾向がみられるようです。

B そのような傾向の作品としては、〈幾千の露の叫べるわが足蹴〉〈綿蟲や劫火の舐めし瓦礫ばかり〉〈餅を食ふ口の動きの皆同じ〉〈行春のかさなるはてに死ぬる私〉〈萬緑に青きラムネの白激す〉〈あひゞきやわれ等子規忌を修しゐる〉〈死後最も寒きものわが眼鏡らし〉〈うまごやしわが死後にまたたれか老ゆ〉といったあたりの句ということになりますね。

A どの句にもはげしさというか、悪意ともいうべき毒の要素が作品の内部に含有されていることがわかりますね。

B 中でも〈あひゞきやわれ等子規忌を修しゐる〉といった作品はかけいにしか書くことができないものではないかと思われます。

A 「逢引き」と「子規忌」の関係性に、一種のブラックユーモアとでもいっていいような作者の思惑が看取できますね。

B 塚本邦雄は『風神放歌』という加藤かけいを論じたこの書の中でかけいの俳句について〈私はかけいの句の毒が、つひに、顧て他を言ふためならず、みづからの弱さ暗さ愚さ、すなはち男なる生物の、延いては人間と呼ぶあはれな存在の、等しく隠し持つ業(ごふ)を、不意に抉り、衝き、明るみに曝す勇気であることにもやうやく気づいた。〉と評しています。

A なるほど。かけいのこのような作風は、人間の業といったものから眼を背けずに、それをしっかりと直視し、その実態を見極めそのまま受け入れようとする営為でもあったのかもしれませんね。

B 〈蝗食ひ哀しきまでに世を愛す〉という句の存在も確認できますから、かけいのこのような露悪的ともいえる表現については、やはりこの世界への愛情の裏返しでもあったということができるのではないかという気もします。

A そして、この句集の末尾には〈秋風の吹けば口あけ俳句狂〉という句の存在もあることから、自己の内部における俳句表現への抑え難い衝迫の存在も、このような特殊な作品展開を促していたという側面もあると思います。

B この加藤かけいという作者には、やや過剰というか、それこそやや「過激」とでもいっていいような激しい詩精神による表現衝動がその内部に強く存在していたようですね。

A このようなかけいの作者としての性質は、昭和27年刊の句集『捨身』における作品からも窺うことが可能であると思われます。

B 作品としては〈わが打ちし寒拆天へましぐらに〉〈桐の花青年たゞちに情死せり〉〈噴水の落ち来るときは捨身なる〉〈露の天鴉に翔ばれたるを羞づ〉〈極道のはての頭上に雪降れり〉〈勁き詩が欲しと枯原彷徨す〉あたりということになりますね。

A 「天へましぐら」「たゞちに情死」「捨身」「鴉」「極道のはて」「勁き詩が欲し」ですから、やはり大変はげしい詩精神の存在といったものが感じられますね。

B このあと、このような表現衝動は、時代の流れと合致して一つになり「社会性俳句」として展開されることになります。

A 句集『甕』は昭和45年刊行のものですが、当時の「社会性俳句」の時代の作品も収められており、その当時の作品を見ると〈政治腐る紅梅腐るほど混めり〉〈寒むや基地にならざりしかばこの荒寥〉〈公憤のかたまりが立つ日向ぼこ〉〈雲の峰農民蜂起しては敗けし〉〈炭焼に政治東京空中楼閣〉といった内容のものが確認できます。

B それと同時に、この『甕』にはそういった「社会性俳句」とは、さほど関係のない作品の数も少なくなく、こういった作品からもいくつも優れた句の存在を見出すことが可能です。

A そのような作品としては〈黒葡萄買ひしが風のごとく去る〉〈麥爛熟太陽は火の一輪車〉〈火を噴きし富士みな知らず花杏〉〈能面のはつしと割れて梅匂ふ〉〈美男寝釈迦沙羅は落花をいつせいに〉〈葱ごときが九頭竜川を流れをり〉〈砂を刺す日傘も凶器月見草〉〈蟻つぶす指の渦巻巨大なる〉といったあたりの句ということになりますね。

B やはり表現としては、通常の多くの俳句におけるセオリー通りの表現と比べて、やや特殊なところがありますね。

A 〈黒葡萄買ひしが風のごとく去る〉などという句は、一見すると簡単に書けそうな句であるように思われますが、実際のところはなかなか成すことは容易ではない作品であるということがいえると思います。

B 季語の「黒葡萄」の重みが、やはりかけいの作品であるといった感じがします。

A 「黒葡萄」であるからこそ、黒葡萄を買った後風の如く去る人物のミステリアスな超越性を伴う存在が、大変印象的なものとして読み手の心の内にある種の重みとともに残されるということになるのでしょうね。

B この句から、歌人安永蕗子の〈紫の葡萄を搬ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく〉という短歌の存在を思い出しました。

A また『甕』の〈火を噴きし富士みな知らず花杏〉という作品における表現などは三橋敏雄に近いようなところがありますね。

B 確かに、巨視的な空間把握と時間把握について共通するところがあると思います。

A 〈美男寝釈迦沙羅は落花をいつせいに〉といった句は、それこそ永田耕衣にくらいしか書けないような作品ですね。

B かけいには、このような仏教やキリストといった宗教に材を摂った作品の数もすくなくありません。

A 〈砂を刺す日傘も凶器月見草〉にしても山口誓子の作品世界を、かけい特有の作風へと変容させたようなところがありますね。

B 日傘の犀利な物質感と砂の手応えがそのまま感じられるところに誓子のメカニズムにおける手腕と共通するものが息づいているようです。

A では、続いて昭和48年刊の句集『種』についてみていくことにします。

B この句集となると、その作品における実験的な手法によって伴う抽象性の要素がさらに高く増してゆくような傾向が見られます。

A 作品としては〈初蝶の飛びしところに黄が遺り〉〈雷雲が熊野権現のせて駈く〉〈羊歯地獄妄想の斧隠されて〉〈蝶生れ己れ黄蝶と知らざりし〉〈胎教の胎児さかさや雁わたる〉〈死ぬときは寒暮般若の面被り〉〈石臼に碾かれてみたき黒揚羽〉〈蟇ふくれだせば私は凋みゆく〉といったあたりということになりますね。

B こういった作品となるとある意味では、それこそ、その幻妖性、反世界性の傾向の強さにおいて孤高の歩みを続けた三橋鷹女の作品世界にも近接、共通するところが感じられますね。

A 昭和51年に刊行された句集『愚』においても、このような作品傾向は続き、幻視、幻想ともいっていいような作品世界が展開されます。

B 作品としては〈黒葡萄やはり黒くて月祀る〉〈佛飯の凍てすさまじき破戒かな〉〈石臼で碾きて粉雪を降らす飛騨〉〈わがパンに地獄の蟻をたからせて〉〈狐火の姥物語寝物語〉〈ごうごうと石臼を碾き桃咲かす〉〈死後は懈い水溜りばかりの梅雨〉〈くちなしのはなのねぢれのあぶな繪よ〉〈望の夜やほとけの指も輪を造り〉といったあたりとなりますね。

A このような作品世界の展開については、なんともすさまじいものが感じられ、単純に圧倒される思いがします。

B さらにこの昭和51年には、2月に刊行されたこの『愚』という句集のみでなく、5月に句集『塔 百句』、8月に句集『菫 百句』、そして11月には句集『山椒魚 百句』がそれぞれ刊行されることになります。

A 1年で4冊ですから、非常に多力ですね。この時、かけいの年齢は既に70代ですからこのような創作意欲の旺盛さには驚嘆してしまうところがあります。

B これらの3冊の句集は、そのタイトルの通り、それぞれ「塔」について100句、「菫」についての100句、「山椒魚」についての100句を詠んだ作品によって構成されたものということになっています。

A 一種の連作といってもいいものなのでしょうね。

B これらについては、やはり嘗ての秋櫻子、誓子の連作の試みからの影響というものが小さくないのでしょう。

A かけいには他にもこのような連作といってもいいような試みがしばしばこれまでにも見受けられました。

B しかしながら、それらの連作は今回の100句のように本格的な規模で行われた内容のものではありませんでした。

A それが、この昭和51年になって漸く3つのテーマで試みられることとなり、それぞれに100句として纏められることになったというわけですね。

B ただ、私としては、この100句の連作による試みというものを読んでみて、はたしてこれらの作品はどこまで成功しているものであるのか、いまひとつ判断がつきかねるところがあります。

A そうですね。作品全体における細かい部分などを一句一句注意深く見てゆくと、随分と表現としては瑕瑾が目立つ個所が少なくないところがあるという気がすることも事実でした。

B 全体的に表現としてはやや荒いという印象については否めないところがあるようですね。

A これらの作品については当然100句全体として見るべき作品なのでしょうが、『塔』について個々の作品を見ると〈初蝶が塔を逆さに逆さにす〉〈きしみつゝ塔の扉が開く蝶の昼〉〈てんたう蟲塔の影にて玉と化す〉〈雪降るや古塔が天へ昇りゆく〉といったあたりが秀句といえるでしょうか。

B 『菫』では〈菫掘るむらさきの時間に耽り〉〈かへりみてはげしきわれぞ菫摘む〉〈骨壺の骨撒けば咲く冬すみれ〉〈菫濃かりし崖も崩され考古学〉といったあたり佳句であると思います。

A 『山椒魚』には〈百年もただのいちにち山椒魚〉〈山椒魚大緘黙を続けゐる〉〈花吹雪石のねむりの山椒魚〉〈銀河濃き夜の山椒魚何してゐる〉〈発電の水の青さの山椒魚〉〈越年の銀河に銀の山椒魚〉〈山椒魚いやでたまらぬときも生く〉といった句が見られます。

B 3つの連作としては、この『山椒魚』の連作100句が一番の成功作であり、内容としても面白いものであるといっていいのかもしれません。

A この後、昭和54年には当時の時点におけるかけいの全句集として『定本 加藤かけい俳句集』が刊行され、これまでの成果が1冊に纏められました。

B また、このすぐ後に歌人塚本邦雄による加藤かけいを論じた『風神放歌』が刊行されています。

A この『定本 加藤かけい俳句集』には、「無菌人間」と題されて昭和51年から昭和53年までにおける作品が収められています。

B この「無菌人間」の作品としては〈ひとりあそびの鷹が笛吹く吹雪の天〉〈山の鷹吹雪の天に死を希ふ〉〈紙の傘さして雨月の蕩児かな〉〈牡蠣殻に水がたまつてあの世かな〉〈殉教の日も黒揚羽翳落とし〉といった句が見られます。

A この『定本 加藤かけい俳句集』が刊行されたのは昭和54年ですから、かけいの年齢は、このころすでに70代の終わり頃ということになります。

B そう考えると〈山の鷹吹雪の天に死を希ふ〉といった句には、かけいの作者としての晩年意識といったものがやや窺えるところがあるようですね。

A この後もさらにかけいの句業は続き、昭和54年から昭和56年の3年間の作品を収めた句集『遊幻愚草帖』を昭和57年に刊行しています。

B この句集の作品には〈薄氷の午後はなかりし実朝忌〉〈厚甕に蝶のとまるや脱獄記〉〈雹降らす天の不思議な儀式かな〉〈姥捨や黒闌けやまぬ黒揚羽〉〈シャボン玉の子宮が蝶を妊れる〉〈さかさまに人が歩きて水澄めり〉〈秋の暮といふ認識で暮れてゐる〉〈風葬の死種黒い翼で飛ぶ〉〈陽炎を踏み鎮めゆく尊者かな〉〈草炎や芭蕉死ぬまで漂泊す〉〈致死量は極秘なりけり秋の暮〉などの句があります。

A これらの句は、ほぼ80代での作品ということになりますね。

B なんというかこれらの作品も全体的にそれこそ「相変わらず」といった印象がありますね。

A 正直なところ句集全体として見た場合は、さほどの出来のいい作品ばかりであるとは言い難いところがあるのですが、その中のいくつかの句については、やはり普通でない光を放っている作品が見られるようです。

B 「秋の暮といふ認識」「草炎や」などの句における表現を見ると、やはり単なる作者とは異なるということを窺わせるに足るものがあります。

A この後、昭和58年にかけいは83歳で亡くなりますが、『遊幻愚草帖』以後から亡くなるまでの俳句作品については『下駄ばき詩人』に収録されています。

B その中の作品には〈ひとりあそびの泥鰌は泥を雲として〉〈袂より蝶こぼしゆく乞食法師〉〈赤い風吹き黒い風吹き罌栗の都〉〈バケツの底で従容として俺は鯰〉〈くちなしの花の白さで自刃せり〉〈屋根裏で死にし画家たち巴里祭〉〈石臼で銀河を碾くと言い張れり〉〈骨壺に百骨溢れ萩嵐〉〈絶命の深き眼窩にすみれ咲く〉〈絶命をのどの氷片喝采す〉〈絶命や何をあわてて雁帰る〉〈うぐいすやわが絶命も妙なるかな〉という句が見られます。

A こういった作品を見ると、最後までかけいは普通の作者ではなかったようですね。

B 最後の「絶命」という言葉が使用された4句は辞世句ということになります。

A 自らの末期をこのように平然として詠んでしまうところには正直感服してしまうところがあります。

B さて、加藤かけいの作品について見てきました。

A はっきり言って、加藤かけいの作品世界は、最後の最後まで普通のものではなかったということがわかりましたね。

B なにゆえにここまでの剛力の作者が、現在までほとんどまともに取り上げられず、ほとんど等閑視されてきたのか正直よくわからないところです。

A こういった例を見ると、これまでのアンソロジーの多くの編纂者に対して、不信にも似た感情が湧出してくるのを抑え難くなってくるようなところがある、といえば言い過ぎでしょうか。

B 加藤かけいという作者の例では、地方性や作品における難解性といったものが、少なからずその評価にマイナスとして作用していたのかも知れませんね。

A また、その作風がやや多くの俳句作品と比べて特異すぎたということも関係しているのかもしれません。全体的にやや毒があるというか、アクが強すぎるというか。

B そうですね。正直、かけいの作品にはここに引用するのが憚れるような内容の作品といったものも少なくありませんでした。

A それでも、加藤かけいの作品というものは、現在においてもいま一度読み直されるだけの価値を十分に備えたものであるということだけは間違いのないところでしょうね。

B 加藤かけいの作品展開におけるその愚直ともいうべき地道な歩みとその軌跡は、それこそ「山椒魚」の風姿そのものを髣髴とさせるスケールの大きさを伴ったものであるといっていいと思います。



選句余滴


加藤かけい


氷上をひとつの鳶のかげゆけり

わが死にしのちも夕焼くる坂と榎

夕焼けておそろしくしづかなる一瞬

たゞ一歩この夕焼にあゆみ寄る

冬が持つ白きあかるさの中をゆく

おのが生(よ)に夕焼ながく人みにくし

刻々に夕焼さむし遺愛の間

はゝの前徧照光の露の玉

十六夜の主客に杮の幹うねり

日の暮は落花のまはぬところなし

浄瑠璃の地に玉蟲の濃かりけり

瑠璃光の玉蟲とぶよあれそこに

その壺に新酒たまはな霜月夜

凍蝶や百済国ありてほろびけり

みくまのゝふかやま葛の花にほふ

紅梅や古国にふるき陶のこり

梅しろき月ヶ瀬村を梅の間に

夕霧をひききしわれにふくろ鳴き

曼珠沙華千手観音菩薩のごと

恋は昔ゆふやみの梅まつしろに

十薬やちまたにのこる古俳諧

梅干して赤光ひくゝみなぎりぬ

初蝉や思へば長き世なりけり

百日紅真昼の砂の﨟たけて

昼ふかくこほろぎ鳴けり篆刻師

散もみぢ悲願をひとつもちつゞけ

惜春や生死の奥にわれを置き

金魚玉この一部屋は如何なる世

きりぎりすしんしんと世のほろびゆき

人混みに金魚の水を濃くこぼす

炎天にわが頭蓋骨ものを言ふ

炎天のわが影おのれよりも濃き

幾千の露の叫べるわが足蹴

蝗食ひ哀しきまでに世を愛す

先祖より承けしわが顔菊日和

蓮の花さゝぐるものゝたしかにある

餅を食ふ口の動きの皆同じ

烈風を身にひゞかせて蓬摘む

行春のかさなるはてに死ぬる私

こゝ過ぐる汽車が見たしや秋の暮

死後最も寒きものわが眼鏡らし

生涯を泥の田螺として老いけり

うまごやしわが死後にまたたれか老ゆ

銀河濃し市電焼打ちをせしは昔

秋風の吹けば口あけ俳句狂

枯蓮のどこにふれても壊れけり

おのれより寂しさ湧きて蓮枯るゝ

わが打ちし寒拆天へましぐらに

噴水の落ち来るときは捨身なる

雲の峰青年にライスカレー驕る

露の天鴉に翔ばれたるを羞づ

極道のはての頭上に雪降れり

勁き詩が欲しと枯原彷徨す

茱萸の澁さ女の舌は花のごとし

三日月に金環涅槃手まくらす

首なし佛胴なし佛大啓蟄

短日の日月二菩薩掌を合はす

腐る運河に凶器が沈む花火の夜

桃色の舌にふりまく風邪ぐすり

葡萄枯る聖書に神の聲びつしり

麥爛熟太陽は火の一輪車

火を噴きし富士みな知らず花杏

能面のはつしと割れて梅匂ふ

おたまじやくしおたまじやくしと命名さる

繭ふつて不思議な音をきゝなさい

雪の伽藍雪の伽藍と響き合ふ

葱ごときが九頭竜川を流れをり

われは男水母が傘を傾けて

砂を刺す日傘も凶器月見草

蟻つぶす指の渦巻巨大なる

涅槃の日蝶も海峡渡るかな

初蝶の飛びしところに黄が遺り

ボロ市の聖書に神の木の葉髪

雷雲が熊野権現のせて駈く

羊歯地獄妄想の斧隠されて

蝶生れ己れ黄蝶と知らざりし

胎教の胎児さかさや雁わたる

死ぬときは寒暮般若の面被り

石臼に碾かれてみたき黒揚羽

蟇ふくれだせば私は凋みゆく

黒葡萄やはり黒くて月祀る

佛飯の凍てすさまじき破戒かな

石臼で碾きて粉雪を降らす飛騨

わがパンに地獄の蟻をたからせて

狐火の姥物語寝物語

愚なりけり春の太葱ねばりだす

末の世も花で翳らす花御堂

斑鳩の石臼たまに落花碾く

ごうごうと石臼を碾き桃咲かす

死後は懈い水溜りばかりの梅雨

望の夜やほとけの指も輪を造り

初蝶が塔を逆さに逆さにす

きしみつゝ塔の扉が開く蝶の昼

てんたう蟲塔の影にて玉と化す

雪降るや古塔が天へ昇りゆく

かへりみてはげしきわれぞ菫摘む

骨壺の骨撒けば咲く冬すみれ

菫濃かりし崖も崩され考古学

百年もただのいちにち山椒魚

山椒魚大緘黙を続けゐる

花吹雪石のねむりの山椒魚

銀河濃き夜の山椒魚何してゐる

発電の水の青さの山椒魚

越年の銀河に銀の山椒魚

ひとりあそびの鷹が笛吹く吹雪の天

山の鷹吹雪の天に死を希ふ

紙の傘さして雨月の蕩児かな

牡蠣殻に水がたまつてあの世かな

黒揚羽佛餉に箸はなかりけり

花びらの猪の肉食ぶ冬景色

薄氷の午後はなかりし実朝忌

厚甕に蝶のとまるや脱獄記

雹降らす天の不思議な儀式かな

姥捨や黒闌けやまぬ黒揚羽

シャボン玉の子宮が蝶を妊れる

さかさまに人が歩きて水澄めり

朔太郎死後草笛たれも吹かざりき

秋の暮といふ認識で暮れてゐる

夕焼雲布団の蔵にしまひけり

光輪をもつ法華寺の綿虫は

風葬の死種黒い翼で飛ぶ

陽炎を踏み鎮めゆく尊者かな

草炎や芭蕉死ぬまで漂泊す

致死量は極秘なりけり秋の暮

ひとりあそびの泥鰌は泥を雲として

袂より蝶こぼしゆく乞食法師

赤い風吹き黒い風吹き罌栗の都

バケツの底で従容として俺は鯰

くちなしの花の白さで自刃せり

屋根裏で死にし画家たち巴里祭

石臼で銀河を碾くと言い張れり

骨壺に百骨溢れ萩嵐

絶命の深き眼窩にすみれ咲く



俳人の言葉

塚本のかけい執心は、われわれを置き去ってかけい俳句のなかにひりひりとして味覚を刺激する言葉の毒を見出していたのである。そしてこの毒こそが、和歌の伝統から弾け出て自立した諷刺俳諧の核であることを強く自認してゆるがなかったのである。(…)このように塚本が俳句の核を飽くまで見失わなかったのは、彼が歌人であり、応仁の乱から幕末、明治初年にわたる和歌の暗黒時代をつぶさに究明し、当時の短歌作群の空しさを身をもってひしひしと痛感していたからにほかならない。(…)塚本はかけいの文体を俳諧拉鬼体と呼ぶ。「拉鬼体」は、定家が「毎月抄」で説くところで、「六百番歌合」で保守派六条家を辟易させ、判者俊成を悩ませた、定家、家隆その他「新古今」の中核を形成する異端の別称でもある。現代の俳句は平明、隠微、そして繊細な風雅へとトータルされつつある。それはかつて伝統和歌が衰微していった轍ではないか。

榎本冬一郎 「『風神放歌』が発する毒」 「俳句とエッセイ」所載 塚本邦雄『風神放歌』書評より

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10 件のコメント:

さんのコメント...

加藤かけい。「環礁」の主宰でしたね。阿部鬼九男、山口可久実、など個性的なかたがおられました。御大将かけい氏をもっと知りたかったです。大変興味深く読ませて頂きました。

この人も橋本多佳子、榎本冬一郎とともに、山口誓子に従って馬酔木から天狼にうつったのですね。

句を読んでいると、秋桜子に対するかけいの異質性は、誓子に対する堀井春一郎の異質性・・と言うような図式で印象づけられました。かけいの方が内部意識の混沌がきちんと景としてつくられていますが。

形式が絶対視され固定されたときに、冨田さんが言うところの「詩精神」の反逆が(社会性とか極私性のかたちで)おこっているのでしょうね。
今回の「加藤かけい」の章は、磐井さん達の読書会の相馬遷子との兼ね合い、でみるととりわけ興味深く感じられました、また魅力再現という意味で有意義だとおもいます。

冨田拓也 さんのコメント...

堀本吟様

コメントありがとうございました。

本文でも書きましたが、加藤かけいのような作者がまともに評価されてこなかったのは、やはり大きな問題であると思いました。

現在まで刊行されてきたアンソロジーなどでも、選者の問題として、

・重要な俳人を二の次にして、仲間を優遇する(偏狭な党派性)

・人選の狭さ、作品への目配りの悪さ(広範な視野の欠如と価値観の偏向)

・ビジネスのために意図的に内容をわかりやすく編集している(「平俗」の問題)

ということができると思います。現在出回っているアンソロジーでこれらに該当しないものはほとんどないはずです。こういったところから加藤かけいのような存在がこぼれ落ちていってしまうのでしょうね。
他には、小川双々子、中島斌雄、岡井省二、阿部青鞋、斎藤玄、河原枇杷男等々。

堀井春一郎もそのうちの一人なのでしょうね。
堀井春一郎についても今後取り上げてみたいと思っております。
「秋桜子に対するかけいの異質性と、誓子に対する堀井春一郎の異質性」という考え方は大変興味深く思いました。

では、またコメントしてくださると嬉しいです。

岡村知昭 さんのコメント...

>愛知県の俳人というのは、なんというかいまだに謎のベールに包まれているところがあるというか、やけに「遠い」印象がありますね。

の一節に思わずうなずいたものでした。短歌では岡井隆に春日井健をはじめとして、愛知県出身者が一種のエコールのような存在になっているところがあるので、なおさら俳人が影薄い印象になるのでしょうか。
決して活動が停滞しているわけではなさそうなのに、なんとも不思議です。

そういえば塚本邦雄のかけい論を出した書肆季節社、もともとは名古屋だったそうですね。実は買ってたのですが、今回の記事をきっかけに読み直してみようと思います。

本筋とは外れたところでのコメントとなりますが、なにとぞご容赦のほど。

冨田拓也 さんのコメント...

岡本知昭様

ご無沙汰いたしております。
コメントいただきありがとうございます。

本当に愛知の俳句の世界はよくわかりませんね。
加藤かけいの弟子には伊藤敬子という有名な俳人の方がおられるようですが。
愛知の俳句がいまひとつ省みられないのはやはり地方性ですかね。

書肆季節社は政田岑夫という方の出版社ですね。
政田岑夫という方は、広島の出身で詩人だったそうです。
名古屋の時代には、岡井隆や小川双々子の著書を出版していたはずです。
それが、大阪の高槻市にやってきたわけですね。
最後まで塚本邦雄の秘書のようなことをやってらっしゃったそうですが。

では、またコメントしてくださると嬉しいです。

冨田拓也 さんのコメント...

上記のコメントで、

政田岑夫、と書きましたが、
正しくは、

政田岑生

でした。
読みはおそらく「まさだ きしお」さんでしょう。

申し訳ござませんでした。

高山れおな さんのコメント...

冨田拓也様

今回も大いに勉強させていただきました。加藤かけい、なるほど「馬酔木」のオーソドックスな作風とは異なるのかもしれませんが、しかし「馬酔木」には他に高屋窓秋もいれば、相生垣瓜人もいたわけで、特に瓜人の作風はかけいとも近いところがあるように感じました。筑紫磐井もそもそも「馬酔木」です。「馬酔木」には主流派の他に、ある種の異端派の系譜があるということでしょうか。ところで句集『夕焼』所収の作として、

日の暮は落下のまはぬところなし

という句が引用されておりますが、この「落下」は「落花」の間違いということはないでしょうか。ご確認願います。

さんのコメント...

冨田拓也 様
高山れおなさんのコメントのあたりは、これからの議論の共通課題になりそうですね。

「馬酔木」のオーソドックスな作風(れおな)
 にたいする馬酔木内の異質な精神があった、と言う意味でわたしはうけとめました。もともと、そういう異質性を含んで秋桜子のエリアが作られているとしたら(あり得る話で)ますます面白いことです。

「馬酔木」には主流派の他に、ある種の異端派の系譜があるということでしょうか。」(れおな)

という各人の存在、「馬酔木」内では異端だったとしても、俳句全体を俯瞰したときには、新興俳句の所長潮流が含んでいた精神傾向や方法論は、通底して連動していった要素があるでしょう?
この指摘は、もうひとつ上部のカテゴりーのテーマにできるような気がします。

冨田拓也 さんのコメント...

髙山れおな様
堀本吟様

コメントありがとうございます。

「馬酔木」という集まりは思った以上に懐が深いですね。

石田波郷も「馬酔木」でしたし、他には、能村登四郎、福永耕二、藤田湘子、千代田葛彦といった作者たちも「馬酔木」でした。

こうみると飯島晴子も「馬酔木」の系列ですね。

岡井隆が「現代詩手帖」かどこかで「馬酔木」の系統を評して「あそこは師系から逸脱していくDNAがある」といった発言をしていたような記憶があります。
このDNAの存在が「馬酔木」の内包していた「異端性」となにかしらの関係があるのかもしれません。

相生垣瓜人については、私も何年も前にある程度作品に眼を通したことがあるのですが、かけいほど露骨に悪を詠んだり、空想的ではなかったかな、とも思います。瓜人はもっと現実に近接した詠風で、漢文的な要素が強かったはずです。
瓜人は、胃が悪かったらしく、一年中不機嫌といった態の作風で、夏が来たと言っては嘆き、冬が来ては愚痴るといった感じで、これが亡くなるまで毎年毎年延々と繰り返されていたような記憶があります。

本文中に引用した加藤かけいの作品は、
落下ではなく、
正しくは、

日の暮は落花のまはぬところなし

でした。

謹んでお詫び申し上げます。

高山れおな さんのコメント...

冨田拓也様

本文中及び選句余滴の計二箇所に引用されている、

日の暮は落下のまはぬところなし(誤)

を、

日の暮は落花のまはぬところなし(正)

に修正いたしました。(5月30日14時37分)

冨田拓也 さんのコメント...

髙山れおな様

ありがとうございます。