2009年5月23日土曜日

書評 小池正博『蕩尽の文芸――川柳と連句』・・・湊圭史

書評 小池正博『蕩尽の文芸――川柳と連句』

                       ・・・湊圭史

『豈』同人の連句/川柳作家・小池正博が、第一評論集『蕩尽の文芸――川柳と連句』(まろうど社、2009.6)を出版した。連句および川柳の両ジャンルにおいて、入門書や古典の解説書の類を除けば見るべきものが少ないなか、複数ジャンルでの創作体験と、読みの量・幅・質に裏打ちされた単著の論考が読めることに興奮させられる(同じく刊行されたばかりの『セレクション柳論』(小池編、邑書林、2009.4)があるが、こちらは共著)。また、著者のホームグラウンドである川柳・連句がとり上げられるのはもちろん、短歌・俳句・現代詩、また明治期からいま現在まで、言及されるジャンル・時代の幅広さには驚かされる。瑣末ないわゆる影響論に堕することなく、日本語による表現のもつ緩やかな結びつきを納得させてゆく本書の語り口には、けっして派手ではないが、他ではあまり感じたことのない読み応えがある(これは著者の携わる連句の功徳だろうか)。短詩型を思考するうえで、まず、必読書であると断言したい。

本書の各論は、連句から川柳のほうへ大きく放物線を描いてふたたび連句へと帰っていく軌跡をとるように、計算されて配置されている。これは、序論にあたる「連句と川柳」で小池が述べる次のような展望をなぞっていると言えるだろう。

日本の定型詩はジャンルとして自律しつつも、それぞれ有機的に関連しあっているから、連句について考えるときも、短詩型文学全体の中での連句の現在位置ということを常に意識しておく必要がある。その際に私がいつも思い浮かべるのは、聖書にある「放蕩息子の帰宅」のエピソードである。かつて連句という故郷から独立して出ていった俳句や川柳が、やがて再び故郷へ帰ってくるのではないかというイメージである。

最初の一文は、「俳句(あるいは川柳)について考えるときも、短詩型文学全体の中での俳句(あるいは川柳)の現在位置ということを常に意識しておく必要がある」とも書き換えることが可能だ。著者はこういう言い回しをしていないが、連句・俳句・川柳を、さらに言ってしまえば俳文や俳画なども含み込んだ〈俳諧文化〉を、個々のジャンルに関わるときも意識してゆく、ということだろう。俳句や川柳のみに携わる作家も耳を傾けるべき意見であると思われる。

こうした展望のなかで、本書では中心となる「放蕩息子」として、俳句ではなく川柳が選ばれるというのも面白い。ここには、著者が川柳作家でもあるから、という理由以上のものを見るべきだろう。ひとつには、芭蕉も言うように、俳句のもとである発句が一句にして「行きて帰る心」を求めるのに対して、前句付を通して川柳の前身といえる平句が「一歩もあとに帰る心なし」であること。つまり、川柳とはジャンルそのものの成り立ちがふらりふらりと憧れ出でる「放蕩」としてあった、と言い換えればよい。また、現在の文芸ジャンルとしても、明らかに一家(見方によっては数家?)を構えている短歌や俳句と違い、いまだ新参者の川柳は自らのホームを求める過程にあると言える。連句を単に過去にのみあったと見なされる起源ではなく、現在進行形であり、同じく現在進行のである短詩諸ジャンルを含み込みうるものとして「故郷」と呼ぶ小池であってみれば、いちばんの「放蕩息子」である川柳を選び、いちばん大きな放物線を描いて見せよう、というのも頷けるところなのだ。

本書の論の立て方は、形式(「切れ」の有無!)や内容(自然と人為!)から俳句と川柳を区別しようとしたりする理論的な(また一種、短絡的な)アプローチとも、川柳の実作を閉鎖的に称揚することでジャンルの独立を声高に主張する経験的アプローチとも大きく異なっている。近代以降の俳句と川柳のジャンル間交流をたどった「柳俳交流史序説」の最後で、小池は柳俳交流のあり方を「1 理論レベル/2 実作レベル/3 句会レベル/4 発想レベル」の四つに分ける。この1~3は端的に言えば基礎論のレベルにすぎない。小池は最終的段階として展望する4を、「これら[1~3]の柳俳交流を通して、単に理論的に柳俳異同を云々するのではなくて、両者の発想の違いが実感的に明らかになるという場合」とする。ここでの「実感的」ということばを素朴にとっては誤りであろう。ここで言われる「実感」とはむろん、理論や実作、句会における議論を積み重ねたうえで、さらに〈俳諧文化〉の総体から見かえされて捉えられたものでなければならない。そこから高柳重信の尖鋭な危機意識を語りつつ、「日常生活における「共感」に基づく川柳が書きにくくなっている状況と、俳句の季語が普遍的な喚起力を失っている状況とはパラレルの関係にある」(「川柳・連句から見た高柳重信」)と喝破する、複眼的視点がもたらされることになる。
ここまで本書『蕩尽の文芸』の超ジャンル的面白さについて書いてきたが、川柳論のみをとったとしてもその価値は瞠目すべきものである。「Ⅱ 川柳論」は、過去一世紀あまりの川柳論の丹念な読みと、現代俳句、寺山修司や攝津幸彦からの示唆をより合せて、現在そして未来の川柳を理論的に展望する。攝津からは作品以外に、次のようなインタビューの言葉が引かれている(「詩的飛躍と意味の生成」)。

「以前は自分の生理に見合ったことばを強引に押し込めば、別段、意味がとれなくてもいいんだという感じがあったけど、この頃は最低限、意味はとれなくてはだめだと思うようになりました。そのためにはある程度、自分の型を決めることも必要でしょうね。高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っているんです」(一九九四年十二月「太陽」特集/百人一首)

「攝津幸彦のいう「静かな談林」の正体にはとらえがたいものがある」と小池は言うが、自らのイメージする連句を母胎とする〈俳諧文化〉が本来もっている自由さを、攝津の発想法に見ているととって間違いはないだろう。古典川柳の三要素「うがち」「滑稽」「かるみ」、近代以降の庶民感情に根ざした「共感性」、時実新子に代表されるような「私性」表現、時事川柳などにおけるいわゆる「意味」による了解性、などを越えて、現代の言語表現としての川柳が切り開きつつある地平を、攝津がイメージした「静かなる談林」に重ねて可視化しようとしているのだ。俳句作者にとっても小池のこの展望は魅力的なはずである。摂津作品の面白さの秘密を、作者の言語感覚の冴えにのみ帰してしまうのではなく、「談林」的〈俳諧〉の発想に根ざすものとして、ひとつの共有可能な領域に引きっぱりだすヒントになりうるだろうから。

川柳の面白味を明示的な意味からの飛躍に見いだそうとするこうした視点は、しかし、現代川柳を読み慣れていない者、特に「俳句は詩であり、川柳は詩ではない」といった単純な裁断によって自らのジャンルを聖域として意識している者からの抵抗に遭うだろう。この点についても、小池の見解は明確である。

川柳はデノテーション[明示的意味]で勝負するのだという立場も当然考えられるし、私も一概に否定するものではない。コノテーション[共時的あるいは暗示的意味]の曖昧さが日本語を非論理的にするという批判は、たとえば加賀野井秀一著『日本語の復権』(講談社現代新書)で展開されている。けれども、川柳も時代とともに新しい書き方を模索していかなければならないし、一九八〇年代以降の時代状況の中で以前の書き方だけで人間や社会を捉えることには限界があるだろう。すでにデノテーション/コノテーションの区別そのものが無効になっているのかも知れないところまで、時代は進んでいるのである。(「事の見えたるひかり」)

先に引いた「日常生活における「共感」に基づく川柳が書きにくくなっている状況と、俳句の季語が普遍的な喚起力を失っている状況とはパラレルの関係にある」という洞察と合わせるなら、俳句といえども、川柳が突破しようとしている、また突破しようとした途端にそれが幻想であると気付かされる「デノテーションの壁」と無縁でないことは明らかだ。季語の共有という幻想を出て、それを外部からアイロニックに操作しつくした後の索漠たる光景、それが現在俳句に他ならないのだから。

「Ⅰ 川柳作家論」では、昭和初期の新興川柳時代(木村半文銭、川上日車)から第二次大戦後の革新川柳(河野春三、林田馬行、山村祐)の革新派川柳の流れを軸に、中村富二、細田洋二、大橋宣介、大山竹二まで、個性的な川柳作家たちが取り上げられる。どうやら川柳界においても、半文銭や日車の取り扱いはあまり芳しくないようだが、高山れおなの告白するように(「俳誌雑読其の六 ほんとに雑読風に」『豈Weekly』第26号: http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/02/blog-post_2661.html)、他ジャンルのほとんどの人間にとってはまず名前自体が初耳であろうし、むろん最近まで私にとっても未知の存在であった。そのことは多少の差はあれ、後につづく河野春三・山村祐らについても同様であろう。したがって、読者にとって、このセクションは当代一流の読み手である小池による近現代川柳アンソロジーの意味が強いと思われる。そこから好みにしたがって句を引かせていただくと(半文銭についてはここに引用しづらいような実験作も多量にあげられている)、

紀元前二世紀ごろの咳もする       木村半文銭

湯上りの女の裸像鏡鏡像裸の女のり上湯  [二番目の「鏡」以降は反転文字]

錫  鉛       銀         川上日車

と書てあつた 脅かしやあがる

鳥 地を這い にんげん蒼穹へ堕ち     山村祐

ぷちゅるぱたらし 蟹の甲踏む巨き靴

ざまア見ろと向ける顔の中の岩盤      根岸川柳

ギニヨール ギクンと生れ ガクンと生れ  中村冨二

水栓のもるる枯野を故郷とす        河野春三

サルビア登る 天の階段 から こぼれ   細田洋二

月蝕や小象を包む思惟の皺

恩人は月のある夜の月の中
         大山竹二
 
かぶと虫死んだ軽さになっている

天国へゆく雑兵は大の字に
         林田馬行

ピストルの弾に山河の映るとき

電線を跨いだ月よ左様なら
         岡橋宣介

小池によるそれぞれの作家・作品の読みについては、私がここで短く説明するには手に余るものなので、実際に『蕩尽の文芸』を手にとっていただきたい。大山竹二は伝統派に属する作家だが、センチメンタリズムを独特の詩情によって乗り越えて、「人間的」共感に訴える川柳の最上の一例(「大山竹二における人間の探求」)。山村祐の台湾訪問や沖縄旅行に取材した連作(「山村祐とその時代」)や、日野草城の『旗艦』に参加の俳人でもあった岡林宣介の先輩・冨澤赤黄男との交流(「岡林信介と草城・赤黄男」)など、俳人や自由詩作家にとっても興味深いトピックがとり上げられている。
「Ⅳ 書評・エッセイ」でふたたび本書は、連句のほうへと帰還する。「連句と川柳の間にて」で語られる、「連句は綜合芸術」とまとめられた次のアイデアが、『蕩尽の文芸』一巻のとりあえずの結論と見てよいだろう。

 かつて連句の発句から俳句が独立し、前句付から川柳が発生した。ジャンルの分化の歴史をたどってきたわけである。そういう母胎としての連句には、俳諧性・川柳性・詩性などのさまざまな要素が含まれている。綜合的な詩型だと私は思っている。この綜合芸術としての連句の中に、独立詩型としての現代川柳をもちこんだ場合、どのように連句が豊かになり、どのような軋みが起こるのかは興味あるところだ。川柳の意味性といわれている傾向、俳句はものを言わない文芸だといわれている傾向が連句の中で洗い直され、問いなおされることがあるかも知れない。

ここで言われている「綜合」はもちろんオペラや映画などの横断的な形式のことではなく、あくまで言語表現における綜合なわけだが、俳句、川柳、さらには短歌も含めて、連句を中心とする〈俳諧文化〉の共同的で綜合的な場の自由度においてその標準を問いなおされる、というのはいかにも魅力的ではないだろうか。「言葉の生成する場を見ないで、結果としての言葉を見ているだけでは、その言語表現は理解できない」(「詩的飛躍と意味の形成」)とも小池は書いているが、自由詩も含めて「言語の生成する場」からのフィードバックなしにこれからの言語芸術があるとは思えない。補足して言わせていただくと、現在の連句もまた〈俳諧文化〉という母胎へと帰ってゆく、という見方もできるのではなかろうか。
 また、とりあえず目前の短詩型創作におけるヒントとなる、次のようなことばも引いておきたい。

[連句における]前句と付句の二句の関係性、三句の渡りの関係性を、もし一句で表現しようとすれば、線状的な意味の連鎖はいったん解体され、日常次元を超えた言葉の世界がそこに成立する。そのことによって、作品は広い時空を獲得することができる。一句によって表現できるスケールは本来、大きなものであるはずだ。(「川柳の飛翔空間」)

俳句の五七五定型については「幻肢として七七」(仁平勝)、川柳においては「幻想の前句」といった考え方もあるが、こうした前後二句のみのつながりのイメージではなく、一度連句にまで戻ったうえで、「三句の渡りの関係性」をも発想のテコにしてゆくならば、作句においてさらなる自由度を開くことができるのではないだろうか(攝津幸彦の作句の秘密も、本人がどの程度意識的だったかは別にして、この辺りにあったのかも知れない、などと夢想してみたい・・・)。最後のセクション「V 十四字の可能性」で語られる575定型以外の短詩の可能性も含めて、現実的指針としてアタマに入れておいて損はないだろう。
 さて、最後に現在、川柳ジャンルの先端で書かれている作品を『蕩尽の文芸』から引いてみたい(実際に引こうとページを繰ってみて、意外に本書に引かれた現在の作品が少ないことに気づいた。この点については、『セレクション柳人』シリーズ(邑書林)をご参照ください、というところだろうか)。

軍艦の変なところが濡れている   石部明

くちびるはむかし平安神宮でした  石田柊馬

ゴッホ
明恵
いずれの耳か
高く舞う
                松本仁

ちょっと見てよ死体の焼け具合   渡辺隆夫  ⇒「死体」に「わたし」とルビ

こんにちわと水の輪をわたされる  畑美樹

チャーシュー麺は春に似ている   樋口由紀子

ペットボトルと肩をならべる    佐藤みさ子

鳥の素顔を見てはいけない     小池正博

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