2009年5月23日土曜日

空とは何か 阿部完市句集『水売』を読む・・・山口優夢

空とは何か
阿部完市句集『水売』を読む

                       ・・・山口優夢



据銃して空は空とは何か

空とは何か。
一句の中でその疑問は疑問のまま提示され、宙ぶらりんに放置される。誰もそれに答える者はなく、空とは何か、と思った彼の心だけが空に浮かんで消えてゆく。

銃床を肩にあて、目標に狙いをつけて銃を構えている。「据銃して空は」彼はふと空を見上げたのだろう。まぶしい日の光が降り注いでくる、大きな空を。それは据銃の中のある一動作だったのかもしれない。彼には何かが見えたのだろうか。

相手の命を奪うために自分の全生命を鋭く集中させ、わずかでも気を抜くことなど許されないその一瞬、彼の心にはふいに、あの大きな空が、急速な勢いで広がっていったのだった。「据銃して空は」と「空とは何か」、この二つの詩句の間にある無限の間、果てしない切れを思うと、涙が出そうにすら思えてくる。

つまり、
据銃して/空は空とは/何か
では決してない。
据銃して空は/空とは何か
この最初の八音とあとの七音、実は足しても十七音にはならない。足りない二音が、据銃という主体的な行動をとろうとしている彼の姿と、空に屈服してすべてを放擲してしまっている彼の姿の、この間の千尋の谷のような深い切れに、集約されている。

自分が命を張って何かに向き合っているその一瞬、自分を包むこの世界の美しさ、不思議さに気が付いてしまったとしたら、どうすればいいだろう。人間を超えて存在している何かに気が付いてしまったとしたら。この、空とは何か、という疑問は、単なる禅問答ではなく、もっと切実な、ひどく苦しいぎりぎりの場所から発せられているような気がしてならない。

銃を撃てば何かが起こってしまう。空とは何か、それすら知らない自分の手によって。




彼の世界は彼の言葉と同じスピードで組み上げられ、彼の言葉が逃げ去るそのスピードのまま彼の世界は凍結される。別の言葉を使えば、彼の前に道はなく、そして、彼の後ろにも、道はできない。

長江流れはじめるゆえにわれらは
梟や電球やしかし名詞かな
ちぐりす・ゆーふらてす河あいすこーひー
雨男です副詞たくさん使います


「ちぐりす・ゆーふらてす河あいすこーひー」これは、「チグリス・ユーフラテス河」とも「アイスコーヒー」とも違う。ここに書かれた言葉は、シニフィエを伴わないまま、間違って生まれてきてしまったシニフィアンのようだ。シニフィエを探して言葉の海の中をさまよってゆく。そして、「チグリス・ユーフラテス河」や「アイスコーヒー」というシニフィエとニアミスし、大きな水、流れる水、透明な水のイメージと、ちっぽけな水、飲まれてしまう水、茶色い水のイメージの間を揺れ動きながら、決して自身にぴったり来るシニフィエを見つけ出すことはない。そのことを我々は知っているからこそ、この句を面白いと思う。

彼の句は、どこにもない世界を作り、それはどこにもない世界であるがゆえに、結局、彼の句の中で消費される。しかし、そのとき、我々の現実世界となんらかの形でニアミスするため、彼の世界の通って行った残像だけがいつまでも我々の心の中に鳴り続けるのだ。

要するに、彼の句の世界の中では彼に従うしかない。「長江」流れ始めるからと言って「われらは」どうするのか、とか、「しかし」の使い方がおかしい、とか、「雨男」と「副詞」が何の関係があるのか、とか、問うても意味がないのだ。彼が「しかし」と言えばそれは彼の世界における逆接なのであり、「梟」のイメージ、「電球」のイメージ、それらのイメージの折り重なった、ぼわあっとした世界が、「しかし」「名詞」にすぎないものなのである。それ以上でもそれ以下でもない。我々は、我々には理解不能な神の摂理を説く宗教家に街角で向かい合っているみたいに、彼の言うことを(意味を考えずに)受け止めるしかないのだ。




宗教家。彼に対するそのイメージは、案外面白いのかもしれない。

烏賊は烏賊のかたちはことばなり

立派な白いひげを蓄えた、眼光鋭い宗教家の老人が、ものものしげに口を開く。「烏賊は」呟くように彼の口から言葉が漏れる。それを固唾をのんで聴く我々。「烏賊のかたちは」さっきより、少し声を張り上げて老人が言う。彼の目がかっと見開かれ、一同に緊張が走る。「…ことばなり」それ以上何も云う事など無い、とでも言うかのように、彼は眼を閉じる。

また少しすると、彼は口を開く。「ふらんす語です」いや、日本語じゃないか、というツッコミは誰も入れない。彼が、ふらんす語です、と言えばそれはふらんす語なのだ。「一月は」よく通るバリトン、そして絶妙な間。一月は…?何だというのだろう。「二月になる」

ふらんす語です一月は二月になる

こんな調子で

梅雨葵そして口語で喋るなり

と言われたら、どうぞお好きに、と思うが、

らっぱふいて私餅をぬすみます

などと言われたら、やっぱり我々は彼を止めるだろうか。なんだか、変に納得してしまって、ああ、彼が餅をぬすみますと言うなら、そうなのだろう。なんてうなずいてしまいそうで怖い。

シュールなのに説得力があるのは、短い詩形のため、あれやこれやとあとから言い訳を付け加えないからだろう。こうして彼の世界は彼の言葉によって作られ、彼以外の余人が入れぬように凍結されてゆく。




つまり、彼の句を読むときには、宗教同様、彼の言葉をつゆほども疑わずに一切を信じてしまうのが良いのではないかと言うことだ。

えんぴつくれよん消ごむあれば一生
足左右なければぽんぺい市に行けず
その後ちえの輪をあやしていたり


彼の句に心の重心を傾ければ傾けるほど、たとえば「消ごむあれば」の「あれば」や「足左右なければ」の「なければ」が悲しいと思えてくるのはなぜだろう。それは、彼の句から少し距離をとって、「そんなわけないじゃん、でもそういう言い方って面白いよね」という鑑賞態度のときとはまるで違う、世界の不条理な真実に触れてしまったような気持ちになるのだ。

それはつまり、彼の信者になってしまった、ということなのだろうか。

青葱をきざんだりして真人間
ごはん食べて母ていねいに生きにけり
きつねいてきつねこわれていたりけり


彼の句を信じていると、時折さびしさの質が自分に通いあう瞬間がある。ああ、この人は何かを悲しんでいる。

青葱をきざんでおりぬ真人間
青葱をきざんでいたる真人間
青葱をきざんでしまう真人間

どれも違う、やはり、「きざんだりして」、なのだ。「きざんだりして」などという真人間じゃない、ちょっと突き放した言い方、それは真人間である誰か(彼自身かもしれない)を見ている、真人間じゃない彼だからできる言い方なのだ。真人間じゃない視点から真人間を見ているから、そこには複雑なあれこれが生まれてくる。だから、その人の真人間ぶりを心から感じている彼の姿が見えてくる。

生きる、という大がかりなことを丁寧に行う母、まるで機械か何かのようにこわれている、きつね。僕は目を閉じた宗教家の彼に「悲しいですね」と言おうとしたが、彼がそういう言葉を使うことを我慢していることを知っていたから、何も言わない。




とても奇妙なことを言うとき、彼はいつだって何かを断言してきたはずだった。

白壁の白は一斉射撃かな

白、という色は、不安を呼び醒ます色だ。光が強すぎるとハレーションを起こしてすべてが白という無の色に包まれてしまう。そこは、カラフルな色遣いの何もない世界。

一斉射撃、という言葉の激しさ。世界の終りのような、何かとてつもないことが起ころうとしている。だから、僕も撃ち返さなければならない。

据銃して空は空とは何か

はたと僕は立ち止まる。彼は黙っている。空とは何か。それは、あなたが決めることでしょう?僕は彼を見つめ続ける。あなたの言葉の通りにこの世界は作られるのだから。

鶏頭短命空は非常に流れています

流れています、と言えば空は流れ出す。何でも言おうと思えば言えるはずなのに。僕は行き場を見失う。彼の言葉を信じることで彼の句を渡ってきたのだ。空とは何か。そう言われたら、結局、その疑問を僕も反芻するしかない。空とは何か。何もない大きな青い空間を振り仰ぐ。

彼は黙り続けている。僕は今では、彼のその疑問に答えることで彼の世界は完結するのではなく、その問いを発したことで、彼の世界は既に完結していたのではなかったのだろうか、とにらんでいる。

作者は阿部完市(1928-2009)


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2 件のコメント:

さんのコメント...

山口優夢さん。はじめまして、今週当誌は9つ投稿があるので困っていますが、初訪問ということで、よろしくお願いします。

 阿部完市の死によって、俳句の想像力の現実的な例をひとつ失ったような気がしています。が、かわりに、私のように考えている人がかなりいて、それも若い世代に多いと言うことを知ることが出来ました。こういう機会のたびに読みかえしていますが、あいかわらず不思議な想像力にとりこまれます。

「とても奇妙なことを言うとき、彼はいつだって何かを断言してきたはずだった。」貴

 完市の断言(換喩)は、あなたのいう「奇妙な場所」わたしのいいかたでは「なにもない場所、文字の裏に潜む広大な未言語の世界、現象から隠退している漠たる異次元の所在」を暗示するために用いられています。
「AはBである」という構造の文脈は、往々にして、骨組みばかりのアジもそっ気もない散文になるものですが、完市のこれらは、われわれの想像力を思い切って別次元に持って行くための仕掛けでしょう。まさに此の世から「切れる」ための仕掛けが楽しいです。

 白壁の白は一斉射撃かな 完市
 
イラクの戦争ではありませんが「白壁の白」「に」「一斉射撃」する・・とかんがえがちな地上の物質の秩序をこわしています。
 でも、想像力のもう一つの文脈として、色・特に白の幻惑を描いたものでもあります。色であり光であるように眼を射る白色光の性質を際だたせる句になっています。この白色光には、なんの現実的な意味もモラルもありませんが、これらが物質(壁)の名辞と結びついたときに、強い存在感をはなちます。そして、外界に不穏な弾丸を散乱させるのです。
 現実の外へ放り出す通路時空「白=光」のみちている世界は、「頭の中の白い夏野となつてゐる」(高屋爽秋)などと共通の意識の動きを感じます。「白」はモダニズムを象徴する色なのですが、詩語の史的な系譜もあるようです。

「自分が命を張って何かに向き合っているその一瞬、自分を包むこの世界の美しさ、不思議さに気が付いてしまったとしたら、どうすればいいだろう。人間を超えて存在している何かに気が付いてしまったとしたら。この、空とは何か、という疑問は、単なる禅問答ではなく、もっと切実な、ひどく苦しいぎりぎりの場所から発せられているような気がしてならない。」(貴)

 と、おっしゃるように、自我の不安が現実の暴力に結びつくのは、こういう構成の「一文」にであったときです。白壁の向こう見えない世界から狙われている事態を、こちらで読み取りあらたな詩の認識の旅にでなければなりません。


 反語的に 「据銃して空は空とは何か・完市」のように断言できない時にはほうりだす、のもあります。「断定する」ことの不可能性もまた彼の大きなテーマだったように思いました。
 これだって「空」というものは、「永遠の問いを誘う場所なのだ、と言うみえぬ存在にかかわる仮の断定でしょう。



 鶏頭短命空は非常に流れています 完市」

これ、私もだいすきです。燃える鶏頭はなるほど短命だし、「空、くう」は永遠です。単純なことを綺麗に言ってくれるので、すぐ真似できそうですが、なかなか、異次元世界を此の世に引っ張り出すのはむづかしいわね。
 「秋空はべつの大陸在る如し(吟)」・・というのが、むかしわたしが、ごく単純に感動してごく単純につくった「空」の句なのですが、阿部完市は、「空」=無があたえてくるかぎりないイマジネーションを十二分に駆使して、もっと複雑多様な「空」を泳いで流れていらっしゃるのでしょう。

 ではまた、素敵な読俳句と素敵な読みを見せてください。吟

優夢 さんのコメント...

吟さま

はじめまして。コメントをいただきまして、ありがとうございます。

「「空」というものは、「永遠の問いを誘う場所なのだ、と言うみえぬ存在にかかわる仮の断定」とのお言葉、なるほどなあ、とうならされました。一斉射撃の句と言い、空とは何かの句と言い、イマジネーションの広がり方が指数関数的で、「広大な未言語の世界」に踏み出しているのが魅力的だと思いました。

またよろしくお願いします。