2009年7月12日日曜日

俳句九十九折(42) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅣ 大野林火・・・冨田拓也

俳句九十九折(42)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅣ 大野林火

                       ・・・冨田拓也

大野林火 15句


本買へば表紙が匂ふ雪の暮

あけがたやうすきひかりの螢籠

月よぎるけむりのごとき雁の列

冬雁に水を打つたるごとき夜空

蝸牛虹は朱ヶのみのこしけり

ねむりても旅の花火の胸にひらく

つなぎやれば馬も冬木のしづけさに

黒揚羽下翅の黄斑炎やし飛ぶ

夜長し草入水晶翳こもり

人の行く方へゆくなり秋の暮

マスカツト剪るや光りの房減らし

年いよよ水のごとくに迎ふかな

雲仰ぐごと涅槃図を仰ぎける

日向ぼこ仏掌の上にゐる思ひ

落花舞ひあがり花神の立つごとし



略年譜

大野林火(おおの りんか)


明治37年(1904) 横浜生れ

大正9年(1920) 句作開始

大正10年(1921) 「石楠」入会

昭和14年(1939) 第1句集『海門』

昭和15年(1940) 第2句集『冬青集』

昭和16年(1941) 『現代の秀句』

昭和19年(1944) 『高浜虚子』

昭和21年(1946) 「浜」創刊 「俳句研究」の編集に携わる 第3句集『早桃』

昭和23年(1948) 第4句集『冬雁』

昭和28年(1953) 「俳句」編集長(3年間) 第5句集『青水輪』

昭和33年(1958) 第6句集『白幡南町』

昭和40年(1965) 第7句集『雪華』

昭和44年(1969) 第8句集『潺潺集』

昭和49年(1974) 第9句集『飛花集』

昭和54年(1979) 第10句集『方円集』

昭和57年(1982) 逝去(78歳)

昭和58年(1983) 遺句集『月魄集』 『大野林火全句集上下』



A 今回は大野林火を取り上げます。

B この作者は、臼田亜浪の系譜の中では、もっとも有名な存在であるといってもいいでしょうね。

A 大野林火は明治37年(1904)横浜生れ。大正9年(1920)の16歳ごろに句作を開始し、翌大正10年(1921)には臼田亜浪の「石楠」に入会しています。

B その後、昭和14年(1939)に第1句集『海門』を刊行、昭和19年(1944) には、亜浪門でありながら、「ホトトギス」の発行所に通い『高浜虚子』という虚子研究の書を著しました。

A 戦後の昭和21年(1946)には主宰誌「浜」を創刊し、昭和28年(1953)からは、角川の総合誌「俳句」の編集長を3年間務めることになります。

B 「社会性俳句」が盛んになった一因には、この大野林火の編集者としての「俳句」誌上における演出が大きく関与していたといわれています。

A 草間時彦『近代俳句の流れ』(永田書房)の「俳論の貧困」(初出「梓」昭和61年1月)という文章には、「浜」創刊四十周年の記念会において〈大野林火さんが「俳句」の編集長をしていた時のことが話題になった。社会性俳句論争が起きたときのことで、実作でも沢木欣一「塩田」とか、能村登四郎「合掌部落」というような秀作が登場したのが林火さん編集の「俳句」だったのである。その本人の沢木さんや能村さんがその席に居て、それに金子兜太さんなどが交って、社会性俳句の仕掛人は林火さんだったという話に、皆の意見が一致した。若い人をおだてて、野心的な作品を発表させ、論争をさせ、俳壇に活気を生み、話題を提供した。〉という記述があります。

B この後「社会性俳句」に次ぎ、「前衛俳句」運動が盛んになってゆきますから、これらの俳句運動の発端の一つには、大野林火の存在が小さなものではなかったということになるようですね。

A 偏狭な視野や固定的な価値観、そして狭い党派性や自らの作風といったものにのみ捉われていたのでは、こういった演出を試みるということはまず不可能だったでしょうね。

B 俳人というものは、私自身も含めてですが、大概自分やその周辺しか見ることができないというか、排他的な傾向を多分に有しているところがありますから、それに比べると、大野林火は広い視野に立って、俳句というジャンルそのものを高い視座から見据えることができた稀有な存在であったということになるようです。

A この事実には大野林火の懐の深さというものを強く感じさせるものがありますね。虚子の研究にしても、こういった姿勢と無関係のものではないのでしょう。

B また、他には、村越化石などの癩病の人々との俳句を通しての交流というものも有名でした。

A 大野林火は、昭和57年(1982)に、78歳で亡くなっており、句集は合計で11冊ということになるようです。

B では、その作品について見てゆきましょう。

A まずは、1939年に刊行された第1句集『海門』を取り上げます。

B この句集には「昭和7年以前」のものと、昭和7年から昭和14年までの作品が収録されています。年齢的には俳句を始めてから30代前半までにおける作品集ということになるようです。

A まずは「昭和7年以前」の初学といってもいい頃の作品についてですが、この時期には〈鳴き鳴きて囮は霧につつまれし〉〈本買へば表紙が匂ふ雪の暮〉〈つばめとぶ町に入りきしわが電車〉〈まひまひつぶろ手のなかにころがされけり〉〈あけがたやうすきひかりの螢籠〉〈月の前鶏頭すこしけぶりけり〉〈コツプのかげすきとほる夜の雪深し〉といった句が見られます。

B やはり臼田亜浪の弟子ということで、「鳴き鳴きて」という繰り返しの表現や「まひまひつぶろ」の破調、「螢籠」や「コツプのかげ」の句から感じられるポエジーの澄明さといったものからは、やはり亜浪の作風からの影響というものがある程度認められるところがありますね。

A ただ、〈本買へば表紙が匂ふ雪の暮〉という句があり、この句を見ると、やや亜浪の作風とは微妙に異なる「抒情」の強さといったものが感じられるところがあると思います。

B 確かに、白い雪の降る夕刻に書肆で購入した書籍の手触りと印刷の匂い、そして、そこから感じられる書物への期待と歓びといった感情によるぬくもりから、人そのものによる情景や感情といったもの、即ち「抒情」の存在が感じ取れるところがありますね。

A 大野林火は、詩人の鈴木三重吉、山村暮鳥からも影響を受けていたそうです。

B 鈴木三重吉には、「郷愁」〈このひごろ/あまりには/ひとを 憎まず//すきとおりゆく/郷愁/ひえびえと ながる〉や「ふるさとの山」〈ふるさとの山をむねにうつし/ゆうぐれをたのしむ〉などといった詩があります。

A 山村暮鳥には「独唱」〈かはたれの/そらの眺望(ながめ)の/わがこしかたの/さみしさよ。//そのそらの/わたり鳥、/世をひろびろと/いづこともなし。〉や、「曼陀羅」〈このみ/きにうれ//ひねもす/へびにねらはる。//このみ/きんきらり。//いのちのき/かなし。〉、また「おなじく」という題の〈篠竹一本つつたてて/こどもが/家のまはりを/駈けまはつてゐる/ゆふやけだ/ゆふやけだ〉などといった詩があります。

B 「郷愁」「ふるさとの山」「ゆうぐれ」「かはたれ」「さみし」「わたり鳥」「かなし」「ゆふやけ」という言葉から、やはりどの詩も「抒情」そのものを感じさせるところがありますね。これら詩人からの影響が林火を亜浪とは、その作風をやや異にする作者へと成さしめた要因の一つであるように思われます。

A 昭和7年には〈からだいちめんしやぼんをぬつて麦の風〉、昭和9年には〈葉ざくらに陰翳おほき月夜かな〉〈夕日さすわが胸もとへ麦伸びし〉〈カステラが胃に落ちてゆく昼の秋〉、昭和10年には〈胸もとの銀のクルスも雪の暮〉〈夕月が幟をとほきものにする〉、昭和11年には〈夕永きひかりの街へ画廊出づ〉といった作品が見られます。

B 「麦の風」や「夕日」「雪の暮」「夕月」「夕永き」といった言葉が見られますから、やはり大変「抒情」的な雰囲気があります。

A 続いて、昭和15年刊の第2句集『冬青集』の作品を見てゆきましょう。

B 「海門以後」として〈さみだるる一燈長き坂を守り〉〈秋風の月ちさしひとと別るるとき〉〈霧の道落暉得しより華やぎぬ〉〈たたずめばわがかげに燃え曼珠沙華〉〈電車ゆき冬木がくれの夕日追ふ〉といった作品が見られます。

A 「さみだれ」の中の「一燈」、「ひとと別」れる時の秋の月の小ささ、「霧の中の夕日」、「夕日を追う電車」など、どの句も、第1句集と同じく、やはり抒情的な雰囲気がありますね。

B 続いて、昭和21年刊の第3句集『早桃』について見てゆきましょう。

A この句集は昭和15年頃から昭和21年頃の作品が収録されてあり、〈大夕焼学童のゐぬ街となる〉などといった当時の戦時の様子が窺えるような作品も見られますが、基本はやはり「夕暮れ」などによる抒情がこれらの作品の基底を成しているようです。

B この句集には〈夏三日月遊びの群に子を探す〉〈向日葵や海に疲れてねむる子ら〉〈弄ぶマチの火秋風の物かげに〉〈蟬時雨森ふかく海入りこめる〉〈夜光虫岩を蝕ばむごとく燃ゆ〉〈颱風の雲しんしんと月を裹む〉〈夜汽車走る網棚に雉子うつくしく〉〈晩涼の砂は雲母(きらら)をしづませぬ〉〈雁のこゑ月の干潟にひびき消ゆ〉〈陋巷に色ゆたかなる石鹸玉〉〈ともるごと東風のゆふづつ玻璃に殖ゆ〉〈莨ともす夜霧もともにふかく吸ひ〉〈霧ふかきゆふべは遊ぶ子も見えず〉〈月よぎるけむりのごとき雁の列〉〈冬の夜や頭(づ)にありありと深海魚〉といった句が確認できます。

A この時期になると、自身の子に材を摂った句が見られはじめるようですね。

B また〈月よぎるけむりのごとき雁の列〉などという句を見ると、「月」「雁」でやはり非常に抒情的な雰囲気がありますが、「けむりのごとき」という表現により単なる抒情性の範囲内におさまることのない迫力が感じられます。

A 〈冬の夜や頭(づ)にありありと深海魚〉という句もやや異色といってもいいような作ですね。

B 現実の景ではなく想像の世界を句にしたものであるようです。このようなやや実験的ともいうべき作が大野林火にもあったということには、やや意外な思いがするところがありました。

A では、続いて第4句集である『冬雁』についてみてゆきましょう。

B この句集は、昭和23年の刊で、昭和21年と昭和22年の作品が収録されています。

A 戦後すぐの時代における作品ということになりますね。年齢的には40代の前半にあたります。

B 昭和21年の作品には〈冬雁に水を打つたるごとき夜空〉〈くはへゐるたばこ火うつり蝌蚪の水〉〈蝸牛虹は朱ヶのみのこしけり〉〈忘られしもの昼の月芦青し〉〈橋の上のまだ夕焼けて月見草〉〈妻子らの寝ごろや月の駅に立つ〉〈焼跡にかりがねの空懸りけり〉〈焼跡に月の黄つよし彳ちつくす〉〈この坂にいまわれのみや雁渡る〉といった句があります。

A やはり戦後ということで、焼跡の句などが見られますね。他には「冬雁」「蝸牛」など林火の代表句といってもいいような完成度を誇る作が見られるところにも注目されます。

B 昭和22年の作品には〈ねむりても旅の花火の胸にひらく〉〈南風や雲母の多き浜の砂〉〈耕せば土に初蝶きてとまる〉〈げんげんを見てむらさきの遠雪嶺〉〈うしろより梅雨の大きな手がつねに〉〈昼寝より虹呼ぶこゑに覚めにけり〉〈夕焼けて透く雲あまた黍嵐〉〈秋風に雲の日ざしの十字架(クルス)垂れ〉といった句が見られます。

A 〈ねむりても旅の花火の胸にひらく〉は大変有名な句ですね。大野林火の句と言えばこの句であるといっていいようなところさえあります。

B この句は、戦後すぐの昭和22年に詠まれたものだったのですね。

A 現在(2009年)から約62年前の作ということになります。この時代には、まだこのような「抒情」といったものが、この句のように割合ストレートに詠むことが可能であったようですね。

B この句は愛知県の豊川での作品であるそうで、この句の前には〈遠花火いきいきとして夜の鉄路〉〈旅ごころ消ゆる花火に追ひすがる〉という句の存在があります。

A これらの作品をみると、「胸にひらく花火」とは、宿泊先での眠り際における回想による幻像としての花火と見ていいようですね。

B こういった句作法は、やはり臼田亜浪の〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉などの時間性の幅といったものを感じさせる作品と共通するものがあるかもしれません。

A 大野林火の作品にも亜浪と同じく時間性を利用した句というものはいくつも確認できます。過去の時間性を利用しているわけですから、やはり、対「ホトトギス」的といっていいようなものが若干感じられるところがあるというか、単純に「客観写生」による作品とは異質な側面があるようです。

B こういった時間性を利用した手法というのは、やはり芭蕉や鬼貫などといった発句からの影響によるものであったのかもしれません。

A 芭蕉には〈さまざまの事思い出す桜かな〉〈送られつ送りつ果ては木曾の秋〉〈冬籠りまたよりそはんこの柱〉〈二人見し雪は今年も降りけるか〉といた句があり、鬼貫にも〈状見れば江戸も降りけり春の雨〉〈我むかし踏みつぶしたる蝸牛かな〉などといった過去の時間を取り込んだ作品がありますね。

B やはりこういった作品を、亜浪は「ホトトギス」の俳句に対抗するために自身の手法として導入していたという可能性が考えられそうですね。

A では、続いて林火の第5句集『青水輪』について見てゆきたいと思います。

B この句集は昭和27年刊で、昭和23年から昭和27年の作品が収録されています。

A 昭和23年には〈苺畑目覚め枇杷畑まだねむる〉〈蝶よりも落花一片川を踰ゆ〉〈早乙女を昼見きゆふべ月を見き〉〈颱風の夜の卓上の青葡萄〉〈つなぎやれば馬も冬木のしづけさに〉、昭和24年には〈蝸牛や日をふちどりし雨後の雲〉〈母牛帰る西日に透ける角の先〉、昭和25年には〈寒林の一樹といへど重ならず〉〈来ずなりしは去りゆく友か虎落笛〉〈いわし雲突堤を村両翼に〉〈胡桃割る燈の円光の一家族〉〈夜学生乗り込み冬の匂ひせり〉〈末枯や身躍らす猫一文字〉、昭和26年には〈鳥も稀の冬の泉の青水輪〉〈暮るるよりさきにともれり枯木の町〉といった作品が見られます。

B 全体的に、これまでの作風とさほど変わらないというか、「相変わらず」といった印象がありますね。

A 「早乙女」「卓上の青葡萄」「馬も冬木のしづけさ」の完成度、「夜学生」の「冬の匂ひ」の清新さ、「枯木の町」抒情、などは、やはりこれまでと同じように割合高い水準を示している作品であると思われます。

B この昭和20年代において大野林火の作風は、ほぼ一応の完成をみたといっていいところがあるのかもしれません。

A そうですね。〈冬雁に水を打つたるごとき夜空〉〈蝸牛虹は朱ヶのみのこしけり〉〈ねむりても旅の花火の胸にひらく〉などという代表作と言っていいような作品が生み出されたのもこの昭和20年代です。

B 結局のところ、大野林火の作風とは、「夕べ」「雪」「雁」「秋風」「月」「汽車」などいった言葉の使用から感じられる「抒情性」、臼田亜浪の破調的なフォルムと時間性の操作、擬音表現、身辺詠や旅吟、といったものが大きな特徴ということになると思われます。

A 生活の上では身辺に肉親の死や、病気などといった様々な出来事が起こるわけですが、作風の方には、さほど変化が見られないところがあるようです。

B 昭和30年頃には「社会性俳句」を演出したわけですが、本人にはそういった「社会性」の影響といったものもさほど受けることもなく、作風におけるこれといった目立った起伏というものは全体的にはあまりはっきりと確認できないようですね。

A 自らの作風というものを、ある程度見定めていたということでもあるのかもしれません。

B この後も林火には、しばらく目立つような作風の変化といったものは確認できないよであるのですが、そういったの期間における作品について、このまま触れずに省略してしまうのも忍びないので、一応句集単位で作品をいくつか掲載しておきたいと思います。

A 第6句集『白幡南町』(昭和27から昭和33年)〈青栗の毬をしづめて水膨る〉〈月夜つづき向きあふ坂の相睦む〉〈風立ちて月光の坂ひらひらす〉〈冬の坂牛のぼりくる力に満つ〉〈雛の朝粒見せて霧流れけり〉〈雨蛙レインコートの女細身〉〈坂に見て冬日真赤な操車場〉〈雪山へ狐の馳けし跡いきいき〉〈鵜は潜り凍日輪ののこりたり〉〈山羊守りて岬に遊ぶ南風童子〉〈まんじゆさげ暮れてそのさきもう見えぬ〉〈雀色時雪は光輪持ちて降る〉〈雪の水車ごつとんことりもう止むか〉〈鰻簗(やな)木曾の夜汽車の照らし過ぐ〉〈北上す夜汽車の露の連結器〉〈寒雁の翅に暮色は重からずや〉〈雪の暮微塵刻みに葱溢る〉〈植田冠水不思議に蝶のおびただし〉〈かりがねの声の月下を重ならず〉〈雪の梢(うれ)雪の梢(うれ)越え鴉帰る〉〈くちすすぐみづ井の甘さ桃の花〉〈雉子立てりきらきらきらと一雪間〉

B 第7句集『雪華』(昭和34年から昭和40年)〈古町にせんべ嚙るや花曇〉〈麦刈りてたばね光りの束となす〉〈雁渡し歳月が研ぐ黒き巌〉〈流燈のあと月光を川流す〉〈貰ひたる土鈴振りみる秋の暮〉〈牛のための赤蕪育つせつに赤く〉〈谷戸眠る月光に栗乱れ咲き〉〈木莵と木の瘤木莵と木の瘤眠れぬ夜〉〈汽車南下はじむ大き汐干潟めぐり〉〈枯山に単線消えまじく光る〉〈黒揚羽下翅の黄斑炎やし飛ぶ〉〈黒餡を練る雪の夜の灯も練りこめ〉〈神楽笛天へ雪渓絶え絶えに〉〈夜長し草入水晶翳こもり〉〈逝く春の揚舟にある櫓の窶れ〉〈水の上に五月のわかきいなびかり〉〈水澄めり聖(ひじり)ひらきし山の上に〉〈人の行く方へゆくなり秋の暮〉〈胸もとを鏡のごとく日向ぼこ〉〈僧にきく亡き友のこと秋の雨〉〈山枯れて十二神将せめぐなり〉〈水草生ふ玄室の秘む棺二つ〉〈口中にさくら菓子溶くおぼろかな〉

A 第8句集『潺潺集』(昭和40年から昭和43年)〈よべ踊りけさ朝月夜別れけり〉〈鏡なす大雪嶺を北の盾〉〈鶏交む白炎のごと雪舞はせつ〉〈マスカツト剪るや光りの房減らし〉〈一燈過ぎつぎの燈遠し秋の暮〉〈年いよよ水のごとくに迎ふかな〉〈夕霧にとんで白蛾の大いさよ〉〈卓の柿沼の残照より赤し〉〈道で銭数ふる人よ秋の暮〉〈鷹とぶや大霜に立つわれなど見ず〉〈織りすすむ殊に紅糸に雪明り〉〈春夕焼山越え盆地蔽ふべし〉〈蟇歩くさみしきときはさみしと言へ〉

B やはり作風にさほどの大きな変化が見られないとはいえ、このように見るとなかなかの秀句の存在というものの存在が、やはりある程度確認することができますね。

A 大体この『潺潺集』の終り頃、このあたりの時期から、林火の作風にすこし変化が見られるようになってくるようです。

B では、その『潺潺集』の次の句集である、昭和49年刊行の第9句集『飛花集』の作品について見てみることにしましょう。

A この句集には昭和43年から昭和48年までの作品が収録されており、年齢的には林火の大体60代における作品ということになります。

B 昭和44年の作品には〈湖漁夫にさくら蘂降る渚あり〉〈端居して闇にゐること無のごとし〉〈月の岨天上に行く思ひなり〉〈風過ぐか山巓月にほむらすは〉、昭和45年には〈雲仰ぐごと涅槃図を仰ぎける〉〈雪片の過ぐ花辛夷うすみどり〉〈戸隠に夏朝日手力男が呼ぶか〉〈皮を脱ぐ竹のごとくに老禅師〉といった作品が見られます。

A なんというか、やや「無常感」とでもいったようなものが感じられるとでもいうのでしょうか、なにかしら「神仏の世界」に近い雰囲気が強くなってきている側面が見受けられるようですね。

B そういった雰囲気を感じさせるのは「無のごとし」「天上」「涅槃図」「手力男」「老禅師」といった言葉による表現のためであるのでしょう。

A 昭和46年の作品をみると〈老いらくのはるばる流し雛に逢ふ〉〈風の落花けふの落花が鎮むなり〉〈幹の洞千年の闇さくら咲く〉〈永き日の末の夕日を浴び歩く〉〈蝶天降る中洲の白き石の上〉〈高花のつつじ燃ゆるよ日天さま〉〈よもぎ餅和讃衆と食べ仏生会〉〈夕日いろに海月船宿の裾へ寄る〉〈風が浪青ます形代流しかな〉〈神の領巾のごと杉の上に霧残る〉〈雨脚の長くて青し十三夜〉といった句が確認できます。

B やはりこれまでの句に使用されてきた言葉とはやや異質なところが目立ってきているようですね。

A 「天降る」「日天さま」「和讃衆」「形代」「神の領巾」ですから、やはりやや宗教的ですね。

B 「老いらく」の句から、窺うことができるように、やはりこういった日本的な宗教の要素が作品の上に登場してくる背景には「晩年意識」といったものが大きく作用しているのかもしれません。

A そうですね。この時期に林火は年齢的には既に還暦を越えているわけですから、このような宗教的ともいうべき「別の世界」、さらにいうなれば「死」の存在そのものが随分と近いものとなってきているとみていいでしょう。

B また「桜」をモチーフにした句も増えているようです。

A 本人にも、『俳句を語る』(梅里書房)の「さくらを語る」という記事において、還暦前後になってから桜に非常に心をひかれるようになったという発言が確認できます。この第9句集のタイトルが『飛花集』であるというのも、こういった桜への関心の強さが関係しているのでしょう。

B こういった桜への関心というものも林火の晩年意識による「無常感」ゆえによるものであるとみていいのでしょうね。

A また、他には〈雨脚の長くて青し十三夜〉などという句もありますが、こういったなかなかシュールな表現も見られるようになってきています。

B シュールと言えば昭和47年の作品には〈まどろみのつづき樹海の上を蝶〉〈亡き友とありひやひやと夏炉の火〉〈仏の地白雲下りしごとく朴〉〈浦守る仏のありて月の海〉〈酒つくる神の咲かせし冬椿〉といった作品が見られます。

A どの句も、現実からすこし遊離しているというか、やや距離があるといっていいような自在な雰囲気を伴った作品ですね。

B 特に〈まどろみのつづき樹海の上を蝶〉などはまるで荘子の胡蝶の夢を髣髴とさせるようなところのある句であると思います。

A これらの作品は、晩年の自在さがもたらした境地であるというべきでしょうか。

B また、昭和48年には〈薄墨に散りてこの世のさくらならず〉〈雲に入る飛花や花守白髪に〉〈蟇歩くさくらの散るにかかはらず〉〈余花明り遡る魚ありにけり〉〈へんろ宿あの世の父母の宿のごと〉〈月明の書を出て遊ぶ紙魚ひとつ〉〈川祭青葭に神宿らしめ〉といった作品が見られます。

A やはり「桜」と日本的な「宗教性」といったものが感じられますね。

B 晩年における無常感の強まりが、林火の作品にこのような変化をもたらしたといえるのだと思われます。

A では、続いて第10句集である『方円集』について見てゆきましょう。

B この句集は昭和54年に刊行されたもので、昭和48年から昭和53年までの作品が収録されています。

A 年齢的には60代の終りから70代の前半のものということになりますね。

B 昭和49年には〈日向ぼこ仏掌の上にゐる思ひ〉〈透くばかり雪嶺いまは天のもの〉〈飛花もろとも消なば消えてもよき齢〉〈桜濃し死のごと曇る沢内村〉〈花の雨遺影引伸ばされ薄れ〉〈亡き友の山河の蕨食うべけり〉〈日向ぼこ神の集ひも日向ならむ〉、昭和50年には〈涅槃団子瑞雲のごと盛られたる〉〈花神赫と日を配りけり山桜〉〈落花舞ひあがり花神の立つごとし〉〈僧坊の昼寝牡丹を夢にせる〉という句が見られます。

A なかなか作品としては普通でないところがありますね。もしかしたら、ここが晩年の大野林火における作品世界のピークをなすものといっていいかもしれません。

B 日本的な「宗教性」と「桜」などの自然へと向けた視線の合致、そして、そこに伴う「無常感」といったものが感じられます

A 「桜」の句にいたっては「花神」まで登場しまから、やはりこの晩年の時期にはやや「虚」ともいうべき要素が作品の上に加わってきているようですね。

B では、最後に遺句集である『月魄集』の作品を見てゆきましょう。

A この句集には昭和54年から昭和57年の作品が収録されています。

B 大野林火は、昭和57年に78歳で亡くなりますから、この句集は林火の75歳から78歳におけるものということになります。

A 昭和54年の作品には〈黒光に南無焼け仏木の葉降る〉〈拝みきし仏の数とゐる夜長〉〈この世よりあの世思ほゆ手毬唄〉〈山の町猪吊る店をまじへたる〉〈夕永き道かな石仏八万体〉〈光る畦縦横にして斑雪村〉〈滴りの一滴にして谺せり〉〈灯をとりに白き蛾を生む竹林〉〈追はるること天にもありや星流る〉〈栗飯のもりあがる黄をほぐし食ふ〉という句があります。

B 「焼け仏」「手毬唄」「石仏八万体」「光る畦」「白き蛾」「星流る」などはどれも相当高い完成度を示しているのではないかと思われます。

A 昭和55年には〈熟睡より雪降る中に覚めゐたり〉〈先行く人光りとなりし霞行く〉〈わが門も祭の夜の人通り〉〈黒と白すでにくきやか子燕は〉〈乗り継ぎてより一輌や秋の暮〉〈芦原に絮のあがるは芦を刈る〉〈めつぶれば山河きらめく冬籠〉、昭和56年には〈花満ちて久遠の雲といふべしや〉〈死を打消し打消しいのる暮春かな〉〈一生を見し思ひして虹を去る〉〈一本の道どこまでも霧月夜〉〈鰯雲日々に見て日々鮮しく〉という作品が見られます。

B そして最期の昭和57年には〈明易の海近ければ白鷗〉〈月の出の闇をたのしむ端居かな〉〈初蜩夕月はまだひからずに〉〈先師の萩盛りの頃やわが死ぬ日〉〈残る露残る露西へいざなへり〉〈萩明り師のふところにゐるごとし〉という作品があり、最後の3句は遺作ということになります。

A さて、大野林火の作品について見てきました。

B 大野林火の作品は全部でおおよそ5千句弱ということになるようです。これらの作品を読んでの感想としては、全体として、はじめから終りまで秀句も少なくなく、どの句集もけっして完成度が低いというわけではないのですが、全体的に身辺的な句が多くを占め、また旅吟も少なくないながら、あまり作風に大きな変動が見られるわけではなく、そのおおよそはどちらかというとほぼ均質的な内容のものであるといった印象が強く、作品の全てを読み通すのは思った以上に大変なところがありました。

A 晩年には、自在といっていいような境地が現われてきているところがありましたが、その作品世界全体を貫いているのは、やはり「抒情」ということになるのでしょうね。

B 「ノスタルジア」といってもいいのかもしれません。

A そういった意味では、やや昔の俳句というか、現在においては単純にはあり得ない作風でもあるといえそうです。

B 確かにその作品のいくつかについては、時代の隔たりといったものがある程度感じられてしまうところがあるようですね。現在となっては、やはりあまり抒情性の強い作品というものは、ストレートに受け入れるにはやや厳しいものがあるというか。

A かつてはこういったストレートな抒情がそのまま受け入れられる時代があった、ということであるのでしょう。

B それでも大野林火の作品の中には、現在においても、優れた内実を感じさせる作品の数というものも、けっして少なくはないという気もしました。

A それは、やはり大野林火の作品には、単なる「抒情」にのみとどまるだけでなく、それを超克するだけの作品としての内実があり、また、それだけの内容を盛り込むことが可能なだけの確固とした作者性を大野林火が有していたためであるということになるのでしょうね。



選句余滴

大野林火


からだいちめんしやぼんをぬつて麦の風

葉ざくらに陰翳おほき月夜かな

胸もとの銀のクルスも雪の暮

夕月が幟をとほきものにする

夕永きひかりの街へ画廊出づ

螢籠雨夜の雫降らせけり

みどりして芽木雪渓へせめぐなり

渡り鳥しみじみと仰ぐ古本売

銀河うすき風があつまる戸口かな

ゆきかきにひかげのゆきのゆふめきつ

口笛に朝のうすらひ応へなき

さみだるる一燈長き坂を守り

秋風の月ちさしひとと別るるとき

霧の道落暉得しより華やぎぬ

たたずめばわがかげに燃え曼珠沙華

電車ゆき冬木がくれの夕日追ふ

蟬時雨森ふかく海入りこめる

夜光虫岩を蝕ばむごとく燃ゆ

夜汽車走る網棚に雉子うつくしく

晩涼の砂は雲母(きらら)をしづませぬ

繭車ゆらと緑蔭をひいて出づ

雁のこゑ月の干潟にひびき消ゆ

こがらしの樫をとらへしひびきかな

あをあをと空を残して蝶別れ

陋巷に色ゆたかなる石鹸玉

月すすむ薄雲つねにまとひつつ

月の出の邯鄲の闇うすれつつ

冬の夜や頭(づ)にありありと深海魚

しづかにも年輪加ふ冬木かな

焼跡に月の黄つよし彳ちつくす

焼跡冬木火にあふられしかたちとどむ

耕せば土に初蝶きてとまる

げんげんを見てむらさきの遠雪嶺

うしろより梅雨の大きな手がつねに

昼寝より虹呼ぶこゑに覚めにけり

夕焼けて透く雲あまた黍嵐

秋風に雲の日ざしの十字架(クルス)垂れ

早乙女を昼見きゆふべ月を見き

颱風の夜の卓上の青葡萄

往きに見し芦いなづまとなりゐたり

来ずなりしは去りゆく友か虎落笛

いわし雲突堤を村両翼に

胡桃割る燈の円光の一家族

夜学生乗り込み冬の匂ひせり

鳥も稀の冬の泉の青水輪

生くるの語野分の宴に叫ぶは誰

暮るるよりさきにともれり枯木の町

月下きてそばすすり月下戻るなり

月夜つづき向きあふ坂の相睦む

風立ちて月光の坂ひらひらす

冬の坂牛のぼりくる力に満つ

雛の朝粒見せて霧流れけり

見てゐる疾風白きもの過ぐ蝶らしき

雨蛙レインコートの女細身

坂に見て冬日真赤な操車場

灯の障子照り交しをり雪の道

鵜は潜り凍日輪ののこりたり

山羊守りて岬に遊ぶ南風童子

まんじゆさげ暮れてそのさきもう見えぬ

青照りの日輪据わる霰あと

雀色時雪は光輪持ちて降る

雪の水車ごつとんことりもう止むか

北上す夜汽車の露の連結器

寒雁の翅に暮色は重からずや

植田冠水不思議に蝶のおびただし

土間いちめん雷雨負ひきし桑ひろぐ

かりがねの声の月下を重ならず

くちすすぐみづ井の甘さ桃の花

雉子立てりきらきらきらと一雪間

古町にせんべ嚙るや花曇

麦刈りてたばね光りの束となす

雁渡し歳月が研ぐ黒き巌

流燈のあと月光を川流す

貰ひたる土鈴振りみる秋の暮

谷戸眠る月光に栗乱れ咲き

木莵と木の瘤木莵と木の瘤眠れぬ夜

汽車南下はじむ大き汐干潟めぐり

枯山に単線消えまじく光る

黒餡を練る雪の夜の灯も練りこめ

神楽笛天へ雪渓絶え絶えに

転がり配る林檎一と跳ねしてとどく

逝く春の揚舟にある櫓の窶れ

水の上に五月のわかきいなびかり

水澄めり聖(ひじり)ひらきし山の上に

胸もとを鏡のごとく日向ぼこ

僧にきく亡き友のこと秋の雨

山枯れて十二神将せめぐなり

水草生ふ玄室の秘む棺二つ

口中にさくら菓子溶くおぼろかな

鏡なす大雪嶺を北の盾

鶏交む白炎のごと雪舞はせつ

年いよよ水のごとくに迎ふかな

夕霧にとんで白蛾の大いさよ

卓の柿沼の残照より赤し

道で銭数ふる人よ秋の暮

鷹とぶや大霜に立つわれなど見ず

蟇歩くさみしきときはさみしと言へ

端居して闇にゐること無のごとし

風過ぐか山巓月にほむらすは

戸隠に夏朝日手力男が呼ぶか

老いらくのはるばる流し雛に逢ふ

風の落花けふの落花が鎮むなり

幹の洞千年の闇さくら咲く

永き日の末の夕日を浴び歩く

蝶天降る中洲の白き石の上

夕日いろに海月船宿の裾へ寄る

風が浪青ます形代流しかな

雨脚の長くて青し十三夜

まどろみのつづき樹海の上を蝶

白珠に戻りし朴の花に月

薄墨に散りてこの世のさくらならず

蟇歩くさくらの散るにかかはらず

月明の書を出て遊ぶ紙魚ひとつ

柿食うて暗きもの身にたむるかな

透くばかり雪嶺いまは天のもの

飛花もろとも消なば消えてもよき齢

僧のごと端坐すずしく盲化石

涅槃団子瑞雲のごと盛られたる

杏咲く枝天に向け天に向け

ぴかぴかと天が近しよ杏花村

竹落葉人減りいよよ隠れざと

沢蟹の甲あをあをと雨月かな

水澄むにうつりて過ぎて旅の身ぞ

高きに登り鶴ともまがふ僧に会ふ

鈴虫の声のひかりの朝月夜

黒光に南無焼け仏木の葉降る

この世よりあの世思ほゆ手毬唄

山の町猪吊る店をまじへたる

夕永き道かな石仏八万体

光る畦縦横にして斑雪村

灯をとりに白き蛾を生む竹林

追はるること天にもありや星流る

熟睡より雪降る中に覚めゐたり

先行く人光りとなりし霞行く

花満ちて久遠の雲といふべしや

一生を見し思ひして虹を去る

初蜩夕月はまだひからずに



俳人の言葉

私は俳句を個人的の文学と信じ、常に身近に考へてゐる。従つて私の呼吸がその儘私の俳句となり、私自身が良きにつけ、悪しきにつけ、私の俳句に見らるることこそ希ふところである。少くとも、ここだけでは常に真裸であり度い。

大野林火 第2句集『冬青集』「序」より 昭和15年

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2 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

冨田拓也様

遺句集を含めれば十一冊、五千余句を読み通すのは大抵ではなかったでしょう。それにしても面白い句が多いと感じたのは、苦心の選句の賜物でしょうね。特に前半、汽車だの電車だのがあまりにも目に付くので、そういう職業の人かと思って、朝日文庫の年譜をチェックしてしまいました。

私の方は、以下の句のあたりがとりわけ興に入りました。

電車ゆき冬木がくれの夕日追ふ

ほとんどコマーシャルポスター的な完成度と申しますか、或る典型をきわめたような句ですね。

月よぎるけむりのごとき雁の列

これなどトミタク調かも知れません。

植田冠水不思議に蝶のおびただし

地獄のリアリズム。

月の岨天上に行く思ひなり

単純で強い句ですね。

日向ぼこ神の集ひも日向ならむ

前半生のやや抒情過多なところから、この「日向ならむ」の句あたりへの軌跡は、庶民が庶民性の中で思想を熟させてゆく姿として、とても美しいものだと思いました。

ところで髙柳重信の『俳句の海で』の中に、大野林火のことを書いた一文がありますが(「俳句研究」昭和四十九年九月号の林火特集の後記)、なんか冷え冷えとして、あまり気分の良い文章ではありません。ほとんど作家として評価していない印象ですが、冨田さんの文章を読んだ後に見ると、フェアとは言えない物言いという感じもします。重信も林火も、俳壇政治に首をつっこみ過ぎていて、いろいろあったんでしょうね。ではでは。

冨田拓也 さんのコメント...

髙山れおな様

コメントありがとうございます。

汽車や電車が多く登場するのには、やはり抒情性と関係しているところがあるのかもしれませんね。

朝日文庫の年譜をチェックされたとのことですが、私はその文庫持ってないんですよね。確か内容としては高浜年尾と一緒だったような。
三橋敏雄による林火についての解説だけは、目を通しておく必要があったのではないかといまだに心残りなところがあります。