2009年7月12日日曜日

神野紗希「未踏」評

高柳克弘『未踏』評
―新しい物語へ―

                       ・・・神野紗希


1.未踏の地への憧憬
  ―たとえば、星と海底―

ことごとく未踏なりけり冬の星

句集の表題句であり、全357句の巻頭を飾る句だ。つめたい空気の中で、鋭くかがやく星の光を仰ぎみている。あの星も、この星も、視界に広がる満面の星は、「ことごとく」人類未踏の地だという感慨が、憧憬とともに描かれている。作者は、いつかあの星のどこかへ行ってみたいと、科学少年のように、夢想しているのだろう。吐く息の白さ、かじかむ手や足先、マフラーのあたたかさや、風に擦れあう枯草の音まで思われる句だ。

いや、自然の中でなくてもいい。たとえばマンションの小さいベランダで、自分で沸かしたコーヒーを飲みながら、手すりに頬杖をついて、星を眺めている。そんな光景もいい。状況を特定しなくてもよいのは、この句の主眼が、風景の描写にはなく、何か目に見えない真理を捉えることにあるからだと思う。

地球にも、物理的に、人間に未踏の場所がある。それは、海の中だ。

うなそこの垣や柱や星祭
うなそこは波音知らず天の川
青梅雨や櫂のとどかぬ水底も

一句目、海底の遺跡だろうか。「星祭」という空を見上げる日に、海底の遺跡を思うのは、少し不思議だが、決して行けない未踏の場所だという点では同じだ。それに、誰にも見つからず忘れ去られてしまった遺跡も、「星祭」も、伝説の風合いを持っている。海底から星空までの長い長い幅が、織姫と彦星の二人を引き離している時間と距離とを、はるけく思わせもして、広い句だ。

二句目、「うなそこ」を主体にした、変わった句だ。確かに、海底は深いから波音を知らないだろうが、その事実は逆に、私たちが見ていると思っている広い海も、海の総量の表面にしか過ぎないことを示してくれる。この句も、海底と天体の取合せで、空間の広さを演出している。「うなそこ」の和語は、「カイテイ」と読ませたときの冷たい語感を避けて、やわらかい印象に仕上げたかったのだろうか。

三句目、これは海ではないが、櫂の届かないほど深い水底だ。湖だろうか。どこからが水でどこからが雨だか分からなくなるくらい、けぶるように降っている梅雨の季節の雨の景色が圧巻だ。いずれの句も、海底(水底)の深さが、句に奥行きを与えている。

「未踏」という言葉は、どこへでも行ける可能性と、行けないかもしれないという絶望を孕んでいる。行ったことのないところへ行きたい。見たことのないものを知りたい。そうした、未知のものへの興味と欲望が、彼の句の“底”には、存在するようだ。


2.分からないものを知りたい
  ―「何」で表現できるもの―

読んでいて面白かったのは、「何」を使った句が意外に多いことだ。「何」は、消去法的な表現で、俳句という短い詩型では、ことさら避けられる傾向があるように思うが、たとえば「私には思いの及ばないもの」(未踏の何か)を表現するには、有効なのだということが分かる。

何仰ぎゐるやおでん屋出でしひと
眉の上の蝶やしきりに何告ぐる
ひとさしゆび踊る輪のだれさしゐるや
汗のかほ何に操られてをるや
林檎割る何に醒めたる色ならむ
何もみてをらぬ眼や手毬つく

一句目、おでん屋で飲んだ人が、帰るときに、ふと上を向いた。まず、「ああ、そういう人いるよね」という、あるある感が面白い。

星空が広がっているので、それを見ているのだと思ったが、おじさんの顔を見ると、酔っ払っているからか空ろな目をしていて、実際は何を見ているのか分からない。「仰ぎゐる」対象を、「何」と、分からないままにしておくことで、このおじさんは、何か私には見えないものを仰ぎ見ているのではないかという、不思議な感覚が生まれてくる。何か、大いなるものに、恐れおののいているようでもある。

二句目、「眉の上」とは、かなり接近している。あまりにつきまとうので、何か用があるのかと思うくらいだ、ということだろう。こう書かれると、私の知らないことを、この蝶は知っているような気がしてくる。蝶の言葉が分からないのがもどかしいとまで思ってしまう。

三句目、「踊り」の輪から外れたものへの視線だ。踊る輪に加わらずに、誰かを指差す人は、その意図が読めないので、怖い。ここでも〈真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道 中村草田男〉のように、何か私には計り知れない真実を、この人は知っているのではないかと思う。

四句目は、本当に暑い日の、歩くだけで精一杯のときの人間の様子を、「操られて」という言葉でぴたりと捉えている。「何に」と加えることで、そんな夏の人々の全てを操る、大いなる力の存在が匂うのが面白い。

五句目は、林檎の断面の、黄色ともクリーム色ともいえないシンプルな色を、「醒めた」と表現したところが卓抜だ。醒める前の林檎の皮の情熱的な赤さが思われもする。六句目は、手毬をついている女の子の空ろな表情にどきっとする。踊の句の恐ろしさに似ている。手毬唄の内容は恐ろしいものだが、その意味を分からずに唄っている子どもの無邪気さが、怖く映るのかもしれない。

このように、「何」の句は、何か私には分からない、大きな力を感じさせてくれるようだ。

考えてみると、『未踏』に蝶の句が多いのも(ざっと数えただけで二十句はあった)、何を考えているのか分からない生き物として、また飛べるという人間の知らない視点を持つものとして、蝶の不可思議さに惹かれているからかもしれない。

〈つまみたる夏蝶トランプの厚さ〉〈キッチンにもんしろてふが落ちてゐる〉といった句は、蝶のからだを物質的に捉えていて、逆説的に、その物質的な体に宿る蝶の命の不思議を伝えてくれるし、〈ゆびさきに蝶ゐしことのうすれけり〉〈揚羽追ふこころ揚羽と行つたきり〉といった句は、そうした不思議な生き物への憧憬を表現している。現れたと思ったら、〈秋蝶やアリスはふつとゐなくなる〉のように、すぐどこかへ行ってしまうし、〈てふてふや沼の深さのはかれざる〉のように、私たちの行けない沼の上を、私たちの持たない、飛べるという視点でもって、あちら側へと去ってゆく。

蝶の昼読み了へし本死にゐたり

読み終わった本は、もう既知のものだ。作者にとっては、それは死んだも同然だという。確かに、ぎっしりと本棚に並べられて、開かれない本たちは、棺のようでもある。人間にエネルギー(知識)を吸収されて力尽きてしまったかのようだ。

そんな本の「死」に対して、庭を乱舞する蝶たちは、生命力に満ち溢れている。作者がまだ知らないものたちの象徴のようだ。


3.新しい物語へ
  ―青春詠を経て―

星や海、蝶やそのほかの、未踏のものたちに、作者は強く惹かれているようだ。そんな「未踏」を憧憬する心は、やがて、作品の素材だけではなく、句の物語構造そのものへも、向けられるようになる。

『未踏』の詩性の中心をなしてきたのは、青春にまつわる物語の句だ。季語に本意があるように、青春にも本意がある。彼の、いわゆる青春詠と呼ばれる作品は、その本意をしっかりと踏まえた句だ。

卒業は明日シャンプーを泡立たす
夜の新樹どの曲かけて待つべきや
一心に読みつぐ眉間夜の新樹
わが部屋の晩夏の空気君を欲る
木犀や同棲二年目の畳
名曲に名作に夏痩せにけり
わが部屋のきれいな四角夏痩す
夏痩や日々変はらざる岸の景
うみどりのみなましろなる帰省かな
イカロスの羽根冬帽に挿したきは
どの樹にも告げずきさらぎ婚約す
着ぶくれてビラ一片も受け取らず

これらは、「青春」の本意を捉えた、正統的な気持ちのよい句だ。実際、「読みつぐ眉間」、「空気」が「君を欲る」、「きれいな四角」、「どの樹にも告げず」といった表現は、とても新しい。「同棲二年目の畳」に対して取り合わせる「木犀」の季語の確かさや、「イカロスの羽根」の句の見栄の切り方、「名曲に名作に」の畳みかけ、「うみどり」の句の仮名くずしも、それぞれ的確に一句の中で働いている。

しかし、句集の後半部分になるほどに増えてくる、次のような句は、何か手触りが変わってくる。

ヒヤシンス鏡の中はまだ暗く
巻貝は時間のかたち青嵐
桐の花ねむれば届く高さとも
亡びゆくあかるさを蟹走りけり
只の石からすあげはが荘厳す
打つ釘のあをみたりける桜かな
文旦が家族のだれからも見ゆる
虹消えて小鳥の屍ながれゆく
白靴や鷗にかろさおよばねど
色鳥や晴に耐へをるにはたづみ
洋梨とタイプライター日が昇る
野はすぐに昨日を忘れ鵙日和

これらの句の背後に、青春や家族、季題や生死の、単純な、伝統的な物語を見出すことはできない。彼は、このあたりで、既成の物語に回収されない、自分だけの、新しい神話を、つくろうとしているのではないだろうか。

たとえば、「からすあげは」の句。その辺に転がっている石に、からすあげはが止って羽を休めただけのこと。しかし、「荘厳す」といったことで、「只の石」が、まるで英雄の台座のように表現されている。わざわざ「只の」といったこと、「からすあげは」という具体的な蝶を選んだこと、「荘厳す」という神話的な表現を使ったことなどに、新しい物語をつくろうという意志が感じられる。

そして、「虹」の句。虹が消えたあとの余韻に、川の景色だろうか、流れてくる小鳥の屍は、何を意味しているかが分からない。ただ、虹が消えて、小鳥の屍が水の流れにのっていた、それだけの句だ。何の象徴でもない。何の象徴でもない、人間の関わらない自然の不思議な運行が、ここにはあると思う。

最後に、「洋梨」の句。「洋梨」と「タイプライター」という、一見関係のなさそうな二つのものを結びつけるのが、朝、部屋に満ちてくる太陽の光そのものだというのが、新しい。そして、ここからは、何のメッセージも感じられない。たとえば、洋梨は特別美味しそうでもなく、タイプライターから言論にまつわるイデオロギーを引き出すこともできない。この句から私が読み取ったのは、日が昇るにしたがって、卓に色濃く映し出される、洋梨とタイプライターの影だ。洋梨の幾何学的なフォルムと、タイプライターのぼこぼことしたかたちは、何か不思議な美しさを感じさせる。

そして「日が昇る」は、そのまま新しい一日が来ることを意味すると同時に、新しい何かの到来を告げている。何かが昨日までとは違っている。そんな、ざわざわした、しかし決して心地の悪くない予感が、この句に満ちているところに、私は強く惹かれる。

虹も小鳥も、洋梨もタイプライターも、野原も鵙も、とても軽やかだ。それは、物語の重力から解き放たれた軽さなのかもしれない。みんな、人間から離れて、物そのものとして、いきいきとしている。


4.終わりに
  ―ほんとうの旅のはじまり―

歳晩や椅子寄せ合ひて家族なる
橋があり冬日わたれるしづけさに

句集、357句の、最後の二句である。

356句目、ストーブがあるのか、何か食べているのか。歳晩に、身を寄せ合っている家族のつつましさやあたたかさが描かれている句だ。「椅子」に託して述べているところも巧みである。しかし、ここで、視点は一体どこにあるのだろうと、不思議に思う。どうも、視点人物は、家族の一員ではなさそうだ。

歳晩に一人、街を歩きながら、ふとある家の灯が目に付く。気がひかれて覗き込むと、そこには、ストーブに椅子を寄せ合っている、家族の姿がある。その姿を、ほほえましく思い、うらやましい気持ちになり、一人歩き出す孤独をかみ締める。冬の寒さが、身にこたえる。そんな、一人のさみしい歳晩の姿まで書かれているように思えてならない。

しかし、ここでもう一度、不思議に思う。この句に、主人公は必要なのだろうか。この句の視点には、個々の人間の視野を超えて、〈おでん屋〉や〈汗のかほ〉の句のように、何か大きなものの存在を感じることもできると思う。そうしたとき、椅子を寄せ合う家族が、俯瞰図のように、小さく見えてくる。

357句目、橋と冬日のある風景。なんだか不思議な景色だ。モナ=リザの背景のように、精緻なようでどこかが変だ。普通の文法なら、「冬日あり橋の架かれるしづけさに」とでもなるところだが、まず「橋があり」と来る。普通、わざわざ「橋があり」とはいわない。不思議な言葉の手触りだ。

そして、「冬日わたれる」だけの、長い時間、ずっと静かなところというのは、これまた少し変な場所だ。人がいないのはさみしくもあるが、広漠さが、すこし親しく感じられもする。

家族には加わらず、橋の前で、ひとり冬日を見ているところで終わった第一章。「未踏」の地を目指す、孤独の旅の第二章は、いったいどんな景色を、私たちに見せてくれるのだろうか。
                   (終)


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