2009年7月11日土曜日

大井連載(11) 桂信子

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(11)
桂信子「遠富士へ萍流れはじめけり」


                       ・・・大井恒行


桂信子(1914〈大3〉・11・1~‘04〈平16〉12・16)の平成の自信作5句は、以下。

たてよこに富士伸びてゐる夏野かな  「俳句研究」平元・9月号
遠富士へ萍流れはじめけり  
忘年や身ほとりのものすべて塵  「俳壇」平2・3月号
ホテルより見し春月や西行忌  「俳句研究」同・6月号
裏山の松の容(かたち)に昼寝せり  「俳句」同・7月号

一句鑑賞者は、桂信子主宰「草苑」を経て、現在「草樹」同人の渡辺和弘。その一文には、冒頭「近年の作者の作品には、生命の根源を問うかのような傾向の作品が多い。これは、作者自らが問うというよりもむしろ、読者にそれを働きかけているようにも思える。掲出句も同様、遠く聳え立つ富士に向けて、ひとつひとつは小さな草ながら、繁茂する景に独特の趣を有する萍が、あたかも水面そのものが動き出すかのようにも思え、同時に胎動をも感得させられる。作者はそのような思いを何一つ言葉として表現していないが、〈遠富士〉という垂直感覚と〈萍〉の水面の水平感覚とが絶妙なバランスでもって構成されることにより、作者固有の、大らかな俳句空間を現出する。しかも、遠近感を巧みなまでに駆使することにより、一枚の絵画のような作品となる」と述べ、末尾には「掲出句に限らず、作者の作品には平明なものが多い。しかし、その奥行き深い平明に、読者を凛として離さない何ものかの力を有することも事実である。〈萍〉はそれだけの言葉からすれば植物にすぎないが、〈遠富士〉と対置されると、読者に様々な読みを提供する。そうした余韻は作者ならではのもので、ここに固有の空間感覚を見い出す。その空間感覚はまさしく生命の根源という永遠の主題に包囲されている。流れはじめた〈萍〉は作者にとって何なのであったろうか。読者には、それは知る術はない」と記している。

桂信子と言えば、第一句集『月光抄』の「ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ」「ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜」、あるいは「やはらかき身を月光の中に入れ」などの句をすぐにも思い出すが、晩年になるに従い、自在、自由な心持の句境に磨きがかかっていったように思う。ある時、桂信子に句稿をいただいたお礼を述べた祭に、「俳句はいくらでも出来るのよ」とこともなげに言われたことを記憶している。あるいはまた、「ほんとうの俳句を・・・」と言われていた「ほんとうの俳句」とは、いったいどのような俳句だったのか、それは聞きそびれたが、ただ、「俳句って、楽しい・・」という俳句では無かったことだけは確かである。すでに、かなり、歳を召されてはいたが、口調もはっきりして、活力衰えずという印象だった。その主宰誌「草苑」を、桂信子一代をもって終らせるという使命感をもって、最後まで編集長を務めたのが宇多喜代子である。その桂信子のことを宇多喜代子はいつも親しみを込めて「うちのばあさんが・・・」と仰っていたのを懐かしく思い出す。「草苑」は、その固いきづなとでもいうのであろうか、信頼とでもいうのか、桂信子亡き後、じつにシンプルに、作品発表の場としての同人誌「草樹」を茂らせている。

とりもなおさず、その事実が、桂信子のその人と作品を表わしているように思える。また、『桂信子全句集』の「季語別俳句作品索引」によると、無季の句が113句ある。

夫とゐて子を欲りし日よ遠き日よ  『月光抄』
海に出でしより流木の触れあはず  『女身』
人間を笑うて山の覚めにけり  『花影』
尿る樵夫 光りの中に鋸を残し  『晩春』


黄昏の河面やキャサリン・ヘップバーンの死 『草影』以後

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