・・・山口優夢
1
蕪煮てあした逢ふひといまはるか
彼の句には、世界の本質と切り結ぼうとする意志が感じられる。唯一その目的のために、彼は俳句の言葉を磨きに磨きぬいて、おそろしく完成度の高い、くきやかな句を手にする。彼の句において、完成度の高さは決して目的ではなく、手段なのだ。
つまみたる夏蝶トランプの厚さ
蝸牛やうやく晴れて日暮なり
風過ぎて空気たゆたふ芒かな
夏蝶をつまんでいるという時点で、その夏蝶はおそらく死んでいるのであろうという感覚を持つ。その羽根のうすさを単なる紙ではなくトランプにたとえたことで、今度はトランプをつまみあげたときにも夏蝶の羽根をそこに感じ取ってしまう。また、トランプというのは普通の紙よりも厚く、手に持った感じも簡単には折れ曲がらないしっかりした材質を思わせる。そこが夏蝶の生命の重みにも釣り合っているようだ。彼が夏蝶に感じているのは、ふつうみなが感じるような生命感などではなく、そのはかなさであり、そこに彼が夏蝶に見た本質が隠されている。
この「トランプ」にババ抜きやハーツなどのゲーム性を見てしまうと、解釈が平板になり、夏蝶から広がる世界が死んでしまう。トランプが、日常生活の中で登場する文脈ではなく、質感という一面でこの句に登場するのも、この句の大事なところだ。
蝸牛の句には、もちろん書かれていない雨がある。この句の命は、雨だとか日暮れだとかいう時間の一断面ではなく、昼間ずっと降っていた雨が午後遅くなって上がり、雨粒を宿したこの世界全体を燃え上がらせる夕暮れがやってきた、その一連の時間の流れを十七文字に凝縮させたところにあるだろう。その意味で蝸牛という季語は、単に雨の連想から選ばれたものではなく、時間の進み方の象徴でもあるのだ。この、いかにも日本の夏っぽい、湿った空気感は、絶対に我々がどこかで嗅いだことのある匂いを放っており、なつかしい気分にすらさせる。
「風過ぎて空気たゆたふ」という表現は、一見すると素通りしてしまいそうだが、ここまで正確に風の過ぎてゆく様子を活写した言い回しには、非凡な才を感じる。吹き抜けた風に揺らされた空気の波が、風に遅れて自分を包みこむ。芒の匂い、秋も深くなりつつある、その時期の空気感、これが彼の感じた世界なのだ。
これらの句は、どれもほとんど客観的という言葉を使っても差支えないくらい正確に、世界の一断面を写し取ったものだ。このことは、逆の言葉を使って言えば、言葉によって構築される世界が、寸分の狂いもなくきっちりと構成されており、読む者の心に明瞭な像を結びやすいということとも言える。
潦あらたまりけり萩の雨
雨が降って、そののちあまり間を置かずにまた降って、という状況、水溜りが乾いたのちまた同じあたりに水溜りができている状況を、「あらたまりけり」という明確な一語で表現する手腕。この淡麗な句の立ち姿こそが、彼の句をくきやかなものとして印象づける。
2
秋深し手品了りて紐は紐
寒灯や造花は針金のつよさ
酢の瓶のきれいなままに夏終る
洋梨とタイプライター日が昇る
先に挙げた句とは異なり、人工物や命のないものを詠んだ句を挙げた。
「紐は紐」という自己の中でループしながら状況を確認するような言葉づかいが、手品を不思議なものとして受け止めている彼の認識をよく伝えている。この言葉だけなら、単にその状況を面白がり、不思議がっているようにも読めるのだが、そこに「秋深し」というさびしい季語がつくことによって、彼の感じている「不思議」がタネを解明できるたぐいのものではなく、原理的に理解不能な、一種不気味なものにすりかわってしまったかのようだ。
「造花は針金のつよさ」「酢の瓶のきれいなままに」これらの表現からは、造花や酢の瓶の手ごたえが伝わってくる。造花というのは、一見花に似ているものの実は命を持たないものであるため、そのまがいものの寂しさという観点から詠まれることが多く、実際彼自身に次の句がある。
六月の造花の雄しべ雌しべかな
造花であるから生殖機能など持たないにも関わらず、雄蕊と雌蕊が存在する、そのことに滑稽味と一抹の哀しみを見た句だが、「まがいものの寂しさ」というテーマが透けて見えてしまっているところが若干弱いようだ。それに比べて、「針金のつよさ」と言った方は、茎が針金でできているという認識まではそのようなテーマに完全に乗っている言い回しになっているが、「つよさ」と止めたところに意外性と触覚的な手ごたえを感じる。明らかに本物の花を手にしたときと異なる触感。雄蕊雌蕊がある、と見ているだけではなく、実際にそれに触れて「つよさ」を感じたことでテーマがより一層深まっているのではないだろうか。
これらの句の「寒灯」「夏終る」という季語が紡ぎ出す儚さも、味わい深いものがある。酢の瓶の緑色の美しさが、この句の「テーマ」であろう。これらと同様にテーマを感じる句として
人形の頭のうしろ螺子寒し
という句がある。「まがいものの寂しさ」。言葉にすればそれは陳腐という以外どうしようもないテーマではあるのだが、この句でそのテーマに対して心惹かれるのは、「頭のうしろ」の螺子に着目した「手ごたえ」ゆえに他ならない。思わず自分の頭のうしろに大きな螺子が差し込まれているような気分になる。物質から得られる手ごたえを媒介することで、ある抽象的なテーマが浮いてしまわずに読む者の心に届くのである。このような手ごたえが彼の作品には十分に感得されているのであり、それは先ほどのべた叙述の明確さ、くきやかな立ち姿から来ているものと思われる。
また、彼の句ではそのような分かりやすいテーマが感動の中心になっていないものもあり、それはたとえばこの洋梨の句である。この句においては、上記のようなテーマは何も感じられない。ただ洋梨とタイプライターが朝日の中に置かれているだけで、だからこそ、これらの物質感が際立って伝わるのだ。つまり、これらの物体の手ごたえだけが読む者の体に残り、たったいま、洋梨とタイプライターのある夜明けを経験したような気分にさせられる。あのごつごつした見た目が、きっとそのような感覚を読む者に残す鍵であろう。
このような彼の句の「手ごたえ」を踏まえたうえで次の句を読む。
くろあげは時計は時の意のまゝに
「時計は時の意のまゝに」という表現、この言葉が言っている意味は、単に時計が正確に動いています、というだけのことである。しかし、この表現の中にこそ、先ほどから話題に挙げている手ごたえが埋まっているのである。この言い回しからは、時計に対して時が圧力のようなものをかけており、逆らうことのできない圧倒的な力が時計を操っている、と感じられるのだ。「くろあげは」という季語のつけ方もなかなか絶妙で、時の横暴の象徴であったりとか、ひらひらと舞うアゲハ蝶も時計同様に時の流れには逆らえないということだったりとか、さまざまな読みを許容しながらも、最終的にはやはり一匹のアゲハが眼前に浮かんでくる。それによって彼の「時計は時の意のまゝに」という発見が、抽象的なレベルにおさまらずに世界とつながっていることを担保していると言えよう。
句のくきやかで明瞭な言葉遣い、そしてそれによって生み出された言葉の手ごたえ。これをてこにして、彼は世界の本質へと迫ってゆく。
3
時が時計を操るように、たとえば生き物は何か大きなものに生かされていたり、操られていたりするという感覚が、彼の探り当てた世界の本質の一諸相ではないか。
諸鳥を落さぬ空や大旦
冬深し小石はゆらぎつつ沈む
木は鳥をながくとどめて暮春かな
何か大きなものに翻弄されたり守られたりしてものが存在しているという感覚。その「何か」が時の流れだったり、空だったり、水だったり、流転するものであるのが興味深い。
蘆の花安寿は乳房持たざりき
そう言えば安寿も、運命に翻弄される少女であった。若干助平な視線を感じないでもない句だが、安寿が蘆の花咲く中を走りぬけてゆくような絵が思い浮かび、『山椒大夫』の中にそんなシーンがあったかどうか思い起こしてみる。
ねむりゐる人の背中と冬瓜と
秋冷や猫のあくびに牙さやか
小さなものらに対するこの優しい視線は、あるいは彼が安寿に向ける視線と同質のものなのかもしれない。眠っている人の背中が見えるということは、おそらくその人は椅子に突っ伏して眠ってしまっているのではないか。ごろんと転がる冬瓜と併置されているところからも、そんな連想が働く。
「猫のあくびに牙ありぬ」ではなくて「牙さやか」。この牙の淡さは、とてもいとおしいものをはらんでいるように思えてならない。
4
うみどりのみなましろなる帰省かな
滝の音はだけし胸に受けてをり
どの樹にも告げずきさらぎ婚約す
着ぶくれてビラ一片も受け取らず
新生も死もなき雪の1DK
夏痩や日々変はらざる岸の景
旅多きくらしの卓や秋の風
白靴や鷗にかろさおよばねど
ここに挙げた句はみな、彼自身が見えてくる句だ。時の流れに翻弄されつつもしっかり地に足をつけて生きている彼の姿がありありと描かれている。これらの句に共通する基本的な構造として、大きな世界に対峙する一個人としての自分、という意識が支配的であることが分かる。
「うみどりのみなましろなる」と言うことによって、ふるさとの海の明るさの中に立つ彼が描かれる。滝の轟音に相対する彼の胸(これは男の胸でなければ恰好がつかないだろう。女の胸は「受ける」のではなく「包み込む」ものではないか)。どの樹にも告げず、という世界とのつながり方。ビラ一片も受け取らず、というのは、たかだかビラのことなのに凛とした決意表明になっているところがおかしくもあり、正にそのような些事であるからこそ、彼の心持が実体化した手ごたえをはらんでいる。人の生き死にがあるはずの世界の中でそういったものに無関係なこの1DKの部屋を思うとき、彼は世界につながっているのであり、それを表象しているのが「雪」という季語なのである。流れる川と変わらぬ岸を思う夏痩の彼、自らの旅多きくらしの卓に表れた秋の気配に対する彼、白靴の軽さにも関わらず空飛ぶ鴎を見送るしかない彼…。これらすべての句が、世界にたった一人きりで向かい合う彼の姿を活写する。
世界は彼を拒みもしないし、歓迎もしない。ただそのものとしてそこにあるだけだ。彼も、世界を拒んだり受け入れたりはしない。彼は彼の立ち位置として、世界の中にいるのではなく、世界に対峙するという場所を選んだのだ。
大景に雪降りわれに雪降りけり
大景という言葉をこんなふうに不思議な感覚で句中に使っているものは、初めて見た。大景はわれと対峙して存在している。どちらにも「雪」が降ることで大景とわれとはもちろんつながっているのだが、逆に言えばこの繋がり方は大景に没入しているのではなく、我と大景との距離を意識しながらつながっている、という状態に近いであろう。
世界と彼との間に空いた距離、これは何も彼だけが特別に持っているわけではないのではあるが、それが彼の句において支配的であることが興味深い。
箒木に影といふものありにけり 虚子
今日何も彼もなにもかも春らしく 汀子
これらの句では、作者が対象に没入し、その中で自分を消したり自分の感情を素直に表出したりしている。彼は違う。一歩世界から身を引き、その場所から見える世界に、彼自身の自我を保ったままでぶつかってゆく。
ことごとく未踏なりけり冬の星
この句は、そのような場所から生まれてきたものなのだ。
5
まつしろに花のごとくに蛆湧ける
日に聡き遠浅の海鳥総松
句集中でもっとも美しいと思える二句を挙げた。
だが、これらの句に感じる美しさというのは、たとえば実際に蛆を見たときや海を見たときに感じるものとはまるで異質なものであろう。「花のごとくに」「日に聡き」これらの表現そのものの中に美しさは内包されているのであり、その外側にはこの美しさは存在しない。
彼の対峙している世界は、ときにこんな美しい様相を呈するのだ。いや、むしろこの美しさは彼自身が作り上げたものと言っても良いであろう。
蕪煮てあした逢ふひといまはるか
冒頭に挙げたこの句、「あした逢ふひと」を通じてはるかなる世界に向き合っている気配がある。はるかな距離を超えて逢いにやってくる人。その人を待つしずかな夜。蕪を煮るわずかな音と蒸気と匂いが、彼を包んでいる。この台所が、今彼のいる世界。しかし、彼の心ははるかな世界と向き合っているのだ。
彼の句の若さは、実際の年齢の若さや、詠まれる素材の選定ではなく、本質的には、このような世界との距離の取り方そのものにあるのではないだろうか。彼は世界の中に没入してゆかない。彼は彼自身の自我を保ったままで世界の本質に向かい合い、それをつかみとろうとする。
世界は美しく、優しい。彼はそれを知りながらも、世界から一歩離れてそれを見ている。だから彼の句はくきやかで明快ながら、どこかさびしいのだ。
日暮より早き別れや冬の川
作者は髙柳克弘(1980-)
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