2009年6月28日日曜日

俳句九十九折(41) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅢ 篠原梵・・・冨田拓也

俳句九十九折(41)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅢ 篠原梵

                       ・・・冨田拓也

篠原梵 15句


ゆふぐれと雪あかりとが本の上

葉桜の中の無数の空さわぐ

東京灯りぬ金魚のごとき雲を泛べ

冬日の車窓(まど)に朱きあかるき耳持つ人々

冬の雨崎のかたちの中に降る

しやぼん玉底にも小さき太陽持つ

いづくより雪かぶり来し貨車すれちがふ

夕焼に手を挙げしごとき冬木ならぶ

蟻の列しづかに蝶をうかべたる

空蟬に雨水たまり透きとほる

さきをゆく人との間に蝶絶えず

水筒に清水しづかに入りのぼる

秋風の波とかぎりなくすれちがふ

誰か咳きわがゆく闇の奥をゆく

海のはて夕焼けてゐる海がある



略年譜

篠原梵(しのはら ぼん)

明治43年(1910) 伊予に生まれる

昭和6年(1931) 「石楠」に入会

昭和14年(1939)「俳句研究」8月号で座談会「新しい俳句の課題」に中村草田男、加藤楸邨、石田波郷とともに出席

昭和16年(1941) 句集『皿』

昭和28年(1953) 句集『雨』

昭和29年(1954)から昭和49年(1974)まで、ほぼ句作中断

昭和49年(1974) 全句集『年々去来の花』

昭和50年(1975) 逝去(65歳)



A 今回は篠原梵を取り上げます。

B 臼田亜浪の弟子ということになりますね。

A 篠原梵は、明治43年(1910)に愛媛県の伊予で生まれました。

B 松山時代に亜浪門下の川本臥風の指導で俳句をはじめ、昭和6年(1931)になると亜浪の「石楠」に入会しています。

A 割合若いころから俳句をはじめたということになりますね。

B その後、昭和16年(1941)に第1句集として『皿』を刊行しています。

A この時、年齢的には篠原梵は、大体30歳くらいということになります。

B そして、およそ12年後の昭和28年(1953)には、第2句集『雨』を刊行しています。

A その後、長く句作の中断期間があり、昭和49年(1974)になって、自ら全句集として『年々去来の花』を纏め、上梓しています。

B そして、その翌年の昭和50年に、65歳で逝去ということになるわけですね。

A しかしながら、この作者の存在については、現在においては、割合有名であるのか、それとも、さほど有名でもないのか、いまひとつよくわからないところがあります。

B そうですね。私としてはこの作者の存在については、割合有名な存在であるとずっと思っていたのですが、今回様々な資料に目を通してみても、思った以上にこの篠原梵について記述されたものが少ないので意外な感じを受けました。それらの中でも重要なものと思われるのは、

・小室善弘 「俳句における新感覚―篠原梵」 『俳人たちの近代』(2002 本阿弥書店)所収(初出『俳壇』2000年8月号)

・小西昭夫 「もう一人の人間探求派 篠原梵の俳句」(一)(二) 『船団』47号(2000年12月)、48号(2001年3月)

くらいでしょうか。他にも重要な評論の存在があるのかもしれませんが、私の管見に触れた限りにでは、一応これだけということになります。

A では、篠原梵の作品について見てゆきましょう。

B まずは、第1句集の『皿』の作品を見てゆくことにしたいと思います。

A この句集は先程にも触れたとおり、昭和16年に刊行されたもので、篠原梵が大体30歳の頃に出版された句集ということになります。

B ということで、年齢的には随分と若いころにおける作品ということになるはずですね。

A おそらくその作品の多くが、20代の頃の作品ということになると思われます。

B この時期の篠原梵については〈昭和十年代から二十年代にかけて俳句道に精進していた人々は、ぼくが、ここに篠原梵と書いただけで、ああ、あの非凡な俳句作家かとすぐに思い出されたことであろう。同門のはるか後輩であるぼくなどには、当時の篠原梵氏は太陽のように眩しくいかめしい存在であつた〉(油布五線 『俳句』昭和50年3月号)、〈青春性の香り高い、初々しい初期の句風は、当時の驚異でもあったし、その高い資質が注目された。〉(島崎千秋 『日本の詩歌 30 俳句集』中央公論)という記述が確認できます。

A  こうみると、当時の篠原梵の存在というものは、割合有名なものであったようですね。

B この句集『皿』の時代背景についてすこし見ておきたいのですが、時期的には、昭和6年に水原秋櫻子が「ホトトギス」を離脱、前期の新興俳句の流れが生まれ、その後の後期新興俳句運動が盛んとなる時期と重なるということになりそうです。

A そのような状況の中で、昭和14年には『俳句研究』8月号において、山本健吉が新興俳句に対するかたちで、座談会「新しい俳句の課題」を企画し、中村草田男、加藤楸邨、石田波郷とともに篠原梵を出席させることになります。

B この座談会を契機として「人間探求派」という名称が生まれるわけですね。

A しかしながら、この『皿』における篠原梵の作品を見てみると、果たして篠原梵の作品というものは単純に「人間探求派」のものであるということができるのかどうか、やや疑問に思うようなところがありました。

B ただ、そもそも「人間探求派」という呼称自体が、はじめから随分無理があるというか、非常に大雑把でやや粗忽なものであるという側面もありますね。

A 確かに、波郷、楸邨、草田男、梵ですから、本来的にはそれぞれの作風というものは、単純にひとつに括ってしまえるほど安易な性質のものではないということはいえるでしょうね。

B さて、篠原梵の『皿』の作について見てゆきたいのですが、まず冒頭に「子」という題で47句もの連作ともいえる作品がいきなり掲載されています。

A 一応、内容的には「吾子俳句」ということになりますね。

B 「吾子俳句」ということで自分の子供がテーマとなるわけですから、テーマとしては一応「人間探求派」の範疇に納まると言っていいようなところもあります。

A その作品の一部を引いてみると〈寒き燈にみどり児の眼は埴輪の眼〉〈鳴き了る蟬のごと吾子寝入りつつ〉〈掌の中に吾子の手雀の子のごとし〉〈春隣吾子の微笑の日々あたらし〉〈汗ばみし手のひらの音畳這ふ〉〈胸の中にのけぞり吾子の風鈴もとむ〉〈幌蚊帳の花の中吾子の寝顔うかぶ〉といった感じの句がみられます。

B 「埴輪の眼」「蟬のごと」「吾子の手雀の子のごとし」「手のひらの音畳這ふ」といったあたりの作品における表現は、よく見ると「吾子俳句」としてはやや異質なものであるといってもいいようなところがありますね。

A 小室善弘さんも、評論「俳句における新感覚―篠原梵」において〈巷間にある赤子俳句、吾子俳句のように、父性愛の表現といったものをポエジーの核心にしていない。自分の見つけ出した事実そのものを端的に示すことで、詩が成立している。愛情や感情で染め上げることは極力抑えられ、目を見ても、手足やその動き、かたちをながめても、それを客観的な「もの」としてとらえている。〉と指摘しておられます。

B この「子」47句には、さきほどの〈春隣吾子の微笑の日々あたらし〉〈幌蚊帳の花の中吾子の寝顔うかぶ〉などといった作品に「父性愛の表現」が窺えるところもありますが、基本的には篠原梵の作品というものは、この「吾子俳句」のみならず、様々な対象を「もの」として把握するという手法が、その基底をなしているようです。

A 『皿』の「子」47句の一群の次に登場するのは、「丸ノ内界隈」という25句ですが、これらの作品である〈ドアにわれ青葉と映り廻りけり〉〈ワイシヤツの袖たくし上げし一人なり〉〈扇風機の薄透く大き円真上〉〈扇風機の筒なす風の中にあり〉〈扇風機の音正しくそれてゆきねむし〉〈どの窓か返す冬日に射られ行く〉といった作品を見ても「もの」に即した手法が取られているのがわかります。

B このような「もの」に即した句作法というのは、どう考えても、単純に山口誓子からの影響を受けたものであるとしか思えないところがありますね。

A 確かに、時代的なものを考えても、そうであるとしか思えませんね。

B 山口誓子といえば、昭和初期に「ホトトギス」の雑詠欄において注目を浴び、昭和7年に第1句集『凍港』、昭和10年には『黄旗』、昭和13年には『炎昼』を刊行し、「ホトトギス」から出て「馬酔木」に参加、作品としては〈七月の青嶺まぢかく溶鉱炉〉〈スケート場沃度丁幾の壜がある〉〈ラグビーのジヤケツちぎれて闘へる〉〈夏草に汽缶車の車輪来て止まる〉〈手袋の十本の指を深く組めり〉〈夏の河赤き鉄鎖のはし浸る〉といった句があります。

A また、これらの篠原梵の作品の多くが「連作」の形態を取っているところも、やはり誓子からの影響であるとしか思えません。

B 「連作」の手法は当時における流行でもあったそうです。

A しかしながら、このようにみると、篠原梵という作者は、亜浪門の作者であったわけですが、前期新興俳句の、特に山口誓子の手法を強く意識し影響を受けていたということになるようですね。

B 連作の中には無季の句の存在も見られますし、「丸ノ内界隈」という一連の作については、それこそ都市の生活の中における俳句であり、モダニズムに近い俳句ということになります。

A 亜浪といえば、この間、作品を見たように、その作風の中心を成していたのは「自然詠」でした。

B 亜浪には都市的なものに材を摂った句も少なくありませんでしたが、さほど成功作といえるほどのものは存在しなかったように思われます。

A やはり、亜浪という作者における本領は、清澄なポエジーを湛えた自然詠ということになるはずでしょうね。

B 篠原梵という作者は、なるべく亜浪の作風の真似はしないようにと心掛けていたそうです。

A それゆえ、このように亜浪とは異なる作風を身に付けた作者となったというわけですね。

B 亜浪が果たせなかった都市における諷詠といったものを、弟子の梵が亜浪の代わりに達成したという風にいうこともできるかもしれません。

A 篠原梵と亜浪の作風に共通する部分というものは、せいぜい形式における「破調」及び「韻律」といったあたりくらいでしょうか。

B たしかに、両者とも、575という定型からはみだしている句が随分と多いです。

A また、篠原梵の作品については、それこそやや「散文的」といっていい傾向があります。

B そういえば篠原梵の作品には「取り合わせ」や「切れ字」の使用についてもあまり確認することができません。

A 結局このように見てくると、篠原梵という作者の作風は、亜浪のフォームの中に、誓子のメカニズムの手法を導入したものであった、という風に捉えることが可能なのではないかと思われます。

B そのように考えると、やはり単純に「人間探求派」とは、やや位相の異なる作者であったといえるのかもしれませんね。

A 即物的な把握による手法が、他の作者たちとの異質さを感じさせるようです。

B 『皿』の他の作品を見てみると「アパートの冬」という一連の作では〈寒燈に寝静まりたる扉ならぶ〉〈戻るたびさむく四角きわが部屋なる〉〈雪の片(ひら)露になりゐるオーバー懸く〉〈笠無くや寒燈とりとめもなく鋭し〉という句が見られ、「スキー」という題の9句の存在も確認できます。

A やはり「寝静まりたる扉」「四角きわが部屋」「オーバー」といった無機質な素材の把握、そして「スキー」による連作ですから、どれも非常に誓子的なところがありますね。

B 他には〈扇風機止り醜き機械となれり〉といった句の存在も確認できます。

A そういえば誓子にも〈扇風機大き翼をやすめたり〉という句がありました。

B 篠原梵の句というものは、誓子の視点をさらに変容させた、やや執拗ともいうべき視点による表現であるように思われます。

A こうみるとやはり篠原梵の「もの」の見方というか、「もの」を捉える視点というものにはやや特殊な側面があるようですね。

B こういったやや特殊な視点による句作の手法は、これまでにみてきたような都市における景物のみならず、自然における景物に対しても発揮されています。

A そのような作品としては〈利根明り菜の花明り窓を過ぐ〉〈やはらかき紙につつまれ枇杷のあり〉〈南風(はえ)波をかぶり衝きぬき艇首ゆく〉〈鮎釣るをたそがれの瀬のとりまける〉〈人みなの影花木瓜にをどりゆく〉といったあたりということになりますね。

B そして、こういった手法がもっともその効果を十全に発揮したと思われる作品が〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉ということになると思います。

A この句が、篠原梵における代表作であり、もっとも有名な句ということになりますね。

B 篠原梵といえば、この1句といった感すらあります。

A この句においては、葉桜の形象そのものが、空を背景にしてまさしくひとつのくっきりとした影そのものとして顕現してくるかのように思われます。葉桜とその中から見える空の色とが、まるでネガとポジのように鮮明に分離され、眼前するように感じられるところがあるというか。

B 「葉桜」の頃ですから、やや強い日射しというものも想像できますね。

A それが「葉桜」の姿を、さらに陰影の深いものにしているところがあるようです。

B そして、そこに「さわぐ」という言葉が加わることにより、「葉桜」を揺さぶる風の存在と、「葉桜」の葉による視覚的な「動き」、そして、それに伴う聴覚への葉の「さざめき」までもが感じられるようです。

A この「葉桜」の句は「夏」という17句中のもので、この句の前後には〈わが狭庭葉洩れ日と葉の影のうつくし〉〈道の上の葉洩れ日からだを遡(のぼ)り次ぐ〉という句の存在が確認できます。

B 連作の中の一部としても読むことが可能ということですね。

A さて、とりあえず第1句集の『皿』の作品について見てきましたが、一応この時点で篠原梵の作品における特徴のおおよそは出揃っているのではないかと思われます。

B そうですね。篠原梵の作品における特徴としては、誓子を髣髴とさせる「即物的手法」と「連作」の手法、そして、亜浪の「破調的傾向」、「切れ字」「や「取り合わせ」を用いない「散文的傾向」、といったところが挙げられそうです。

A では、続いて第2句集『雨』についてみてゆきましょう。

B この句集は昭和28年に刊行され、篠原梵の30代の頃の作品ということになるようです。

A この句集となると第1句集に多く見られた都市における景物を詠んだ作品の数は少なくなり、自然詠や旅吟の数が多くなります。

B 作品も見てみると〈冬の雨崎のかたちの中に降る〉〈しやぼん玉底にも小さき太陽持つ〉〈小麦の葉すべてなびきてすべて光る〉〈椎の木に春日のかけらかぎりなし〉〈淡水のきめにつつまれ立ち泳ぐ〉〈蟻の列しづかに蝶をうかべたる〉〈枇杷の箱端(ただ)しく積みて艀(はしけ)来る〉〈冬海と陸とかたみにふかく入る〉〈頭上にて霧笛ふとき柱のごとし〉〈鯉幟たたむに腹に風のこりゐし〉〈露の粒芯のごとくに燈をやどす〉〈渦巻ける皮の上にて柿を割る〉など、現実の事物への細かい観察眼による冴えは変わりがないようです。

A 〈椎の木に春日のかけらかぎりなし〉という句については、やはり先程の〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉を髣髴とさせるものがあります。

B 他にこの句集の作品の特徴としては、時制のコントロールが見られます。

A たしかに〈峰雲にかさなりそだつ峰雲あり〉〈峰雲の暮れつつくづれ山つつむ〉〈みんみんの息つぐひまの蟬遠し〉〈マツチややにあたたかき色となるを待つ〉〈稲の青しづかに穂より去りつつあり〉〈きのふより濃き月光の障子なる〉〈夕立に小石のふえし道帰る〉〈銀河うすき東京に来てまた住むなる〉〈胸につき形正しき雪しばし〉〈いづくより雪かぶり来し貨車すれちがふ〉〈水底に着きびわの種子また光る〉〈幹を巻く葛を見たどり花に至る〉などといった句を見ると、ある一定の時間、即ち過去から現在に至るまでの重層的ともいうべき時間が1句の中に込められているようです。

B 物事における一瞬を切り取るような作品とは、やはり趣きの異なるところがありますね。

A こういった手法も梵の作品を「散文的」にしている所以のひとつであるのかもしれません。

B 他にも〈閉ぢし翅しづかにひらき蝶死にき〉〈空蟬に雨水たまり透きとほる〉〈空の奥みつめてをればとんぼゐる〉〈水筒に清水しづかに入りのぼる〉〈枯山を越え枯山に入りゆく〉〈独楽まはり澄めば鉄輪の光り出づ〉〈蝶に蹤きいつもよりとほく子とあるく〉〈うすみどり大根おろしたまり来る〉〈さみどりのいまはましろくキヤベツ剝く〉〈木蔭より幾人も出てバスに乗る〉〈簾もう透かなくなりて燈を反(かへ)す〉〈如露の水をわりにちかくもつれ出づ〉〈顔はまだ見えず真白の服の人来る〉〈吠えやめぬ犬を稲妻てらし出す〉〈さかづきに映る祭の燈ものみほす〉といった時間の多重性を感じさせる句が見られます。

A これだけ作品があるということは、やはり作者がひとつの手法として意識的に書いたものであるということになるのでしょうね。

B 重層的な時間を取り込むことによって、1句の内に奥行きを与えるという効果を狙ったものなのではないかと思われます。

A こういった作品というものは、この『雨』のみならず、第1句集『皿』における作品を見ても〈ヘツドライト白地の人をふと捕へぬ 〉〈雪の片(ひら)露になりゐるオーバー懸く〉〈窓ぬぎひ夜目を凝らせば深き雪みゆ〉〈雪の山とほくなりゆき襞立ちぬ〉〈麦の畝集まりゆきて丘を越す〉〈利根明り菜の花明り窓を過ぐ〉〈箱の中犇々ありしかたち蜜柑に〉〈三年まへ今も並木のいてふ萌ゆ〉〈水底にあるわが影に潜りちかづく〉〈小さくなる彼の応ふる夏帽子〉〈聞くうちに蟬は頭蓋の内に居る〉〈扇風機止り醜き機械となれり〉〈たそがれる窓を山吹退りゆく〉〈道の上の葉洩れ日からだを遡(のぼ)り次ぐ〉〈うす霜の硝子戸の空とけて落つ〉〈手袋の手を挙げ人の流れに没りぬ〉といったように、いくつも確認することができます。

B こう見ると、このような「時間性の操作」というべき手法も、単にこの第2句集の『雨』のみにおける特徴というわけではなく、篠原梵の作品全般における特徴を成す一要素として見ることが可能のようですね。

A このような時間性の操作というものについて考えてみると、篠原梵の師である臼田亜浪の作品にも、時間性の幅といったものを利用した作品の存在をいくつか見出すことができるはずです。

B そういえば亜浪の作品には〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈今日も暮るる吹雪の底の大日輪〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉〈鵜の嘴のつひに大鮎をのみ込んだり〉〈青芒靡けて風の空に消ゆ〉〈ひとりとなつて子のおとなしし梅雨の昼〉〈野分あと見ゆ屋根々々に入日かな〉〈いつか円ろくなりしこの月よ雪の旅〉〈梅雨暮れぬ籠に戻らぬ紅雀〉〈電車が通り自動車が通り揚雲雀〉〈捨てし蛾なり夕べの土にうごめいて〉〈草原や夜々に濃くなる天の川〉〈死おもひしそれもむかしや月玲瓏〉〈枯萩のむざと刈られし昨日かな〉〈淡雪や妻がゐぬ日の蒸鰈〉〈籠ぬけし螢が街木伝ひつつ〉〈百合めぐる蛾の夕光を曳いて消ゆ〉〈猟犬の傷つき戻り北風暮れぬ〉〈柿挘ぎしきのふに遠く雨が降る〉〈かまつかの夜もなほ炎えて虫々々〉〈降りはれし氷雨に穹の澄み徹る〉〈颱風あがりの白れむの月煌々たり〉などといったものがありました。

A 特に〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉あたりは亜浪の代表作ですから、篠原梵もこういった作品については当然のことながらよく知っていたはずだと思います。

B そう考えると、篠原梵における時間制をコントロールした作品というものには、亜浪からの影響が大きなものであると考えてもおかしくはなさそうですね。

A 亜浪のこういった時間性の方法意識というものを、篠原梵は亜浪よりもさらに明確なかたちで意識的に駆使しているようにも感じられます。

B ともあれ、こうやってみると、篠原梵という作者は、句作のために随分と色々な工夫を凝らしていたということがわかりますね。

A 思った以上に、その作品には全体的に綿密な計算が施されているようです。

B さて、第2句集『雨』について見てきましたが、この『雨』以後、篠原梵は、昭和29年から49年に至るまでの間、ほぼ作句を中断してしまうようになるそうです。

A その後、昭和49年になると、これまでの全句集として『年々去来の花』が刊行され、ここに「中空」という題で『雨』以後の144句の作品が纏められています。

B これらの作は『年々去来の花』の「後記」の本人の言うところによると〈句集『雨』を出してから一七年になる。そのあひだには、句をつくることと両立しないやうな仕事をしてゐたり、その仕事から離れたあとは、つくる気持に駆り立てる状態がないままに荏苒としてゐたなどで、句作はほとんどだめであつた。゛ほとんど゛といふのは、折りをり山の方へ旅をした時などに句ができて手帳に書きつけることがあるし、通勤の途上や、庭の四季のうつりかはりを見るうちになんとなく句になつたりして、幾分か句が溜つた〉ものであるということです。

A この「中空」の作品を見ると〈シヤボン玉につつまれてわが息の浮く〉〈草揉んで水中眼鏡まづぬぐふ〉〈泳ぎ着き光りつつ岩をよぢのぼる〉〈打ちし蚊の磔刑のごとく壁にあり〉〈木犀の金の十字が地に満てる〉〈影が斜めに横に斜めに独楽とまる〉〈蝶を捕る網がきらめき蝶きらめく〉〈海のはて夕焼けてゐる海がある〉〈北極星またたく私はまたたかぬ〉という句が見られます。

B こういった句だけを見ると、どれもさほど悪い出来ではないように思われますね。

A 「草」で「水中眼鏡」を「ぬぐふ」実在感、〈シヤボン玉につつまれてわが息の浮く〉〈泳ぎ着き光りつつ岩をよぢのぼる〉〈影が斜めに横に斜めに独楽とまる〉〈蝶を捕る網がきらめき蝶きらめく〉などの句に見られる細かい観察眼の存在、〈打ちし蚊の磔刑のごとく壁にあり〉のやや生々しいリアリティ、〈木犀の金の十字が地に満てる〉の即物感、〈海のはて夕焼けてゐる海がある〉という句における、当たり前の事実でありながら、なかなか気がつくことが出来ない発見など、たしかにこういった作品だけを見てみると、さほど悪くないように思われます。

B 〈花ふぶきゆくてを二度も三度もとざす〉〈泳ぎ着き光りつつ岩をよぢのぼる〉〈花火尽きうしろすがたもなくなりぬ〉〈流れ来て葉の溜れるに加はる葉〉〈影が斜めに横に斜めに独楽とまる〉などといった句における、時間制の操作の手法も確認できます。

A この「中空」には他に〈爛漫と夕日を透さない桜〉という作品があり、あまり成功作であるとは言い難い句であるかもしれませんが、〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉と比べた場合なかなか興味深いものがあります。

B 篠原梵には、これまでにも見てきた通り、この「葉桜」の句と同じモチーフの作品が他にも〈わが狭庭葉洩れ日と葉の影のうつくし〉〈道の上の葉洩れ日からだを遡(のぼ)り次ぐ〉〈椎の木に春日のかけらかぎりなし〉などいくつか見られます。

A この「中空」の時期について、『年々去来の花』の別冊「径路」における本人の記述によると〈俳句をつくらうといふ気はすこしも起きなかつた。亜浪先生が健在での『石楠』がつづいて出てゐたら、またちがつたにちがひない。〉と述べ、また、主宰誌を持つ気になれなかったことと、そして、〈なぜ日常の世間のことばとかけはなれた文語体で俳句をつくつてあやしまないのか〉という俳句という文芸そのものへの疑念があり、これらの理由から最終的には、〈俳句へ立ちもどることを断念すべきであると考へた。〉とのことです。

B この『年々去来の花』を上梓した後、篠原梵は昭和50年に65歳で亡くなります。

A 篠原梵は、晩年には句作を再開し口語俳句を作っていたそうで、今後の展開というものも考えられないではなかっただけに、この65歳での逝去には残念な気がするところがあります。

B さて、篠原梵の作品について見てきました。

A 篠原梵の作品における特徴は、これまでに見てきたように、誓子的な「即物性」と「連作」の手法、亜浪の「破調的なフォルム」と「時間性」の駆使、また「切れ字」、「取り合わせ」の手法を用いない散文的な作風であるということができると思います。

B 篠原梵の作品というものは、思った以上に、高度な計算と手法によって成り立っているものであったということがわかりましたね。

A そして、その後の、作品発表の場から離れ、主宰誌を持つ意志のなかったことや、俳句という文芸における文語や韻文を使用し続けることへの疑念などから、俳句そのものから遠ざかってしまったことなど、篠原梵は自らを偽ることのできない、やや異色といってもいいような俳人であったということができると思います。



選句余滴

篠原梵


寒き燈にみどり児の眼は埴輪の眼

どの窓か返す冬日に射られ行く

ヘツドライト白地の人をふと捕へぬ

戻るたびさむく四角きわが部屋なる

笠無くや寒燈とりとめもなく鋭し

麦の畝集まりゆきて丘を越す

利根明り菜の花明り窓を過ぐ

やはらかき紙につつまれ枇杷のあり

水底にあるわが影に潜りちかづく

小さくなる彼の応ふる夏帽子

南風(はえ)波をかぶり衝きぬき艇首ゆく

聞くうちに蟬は頭蓋の内に居る

扇風機止り醜き機械となれり

スプーンにつぶす苺の種子の微かに

たそがれる窓を山吹退りゆく

鮎釣るをたそがれの瀬のとりまける

道の上の葉洩れ日からだを遡(のぼ)り次ぐ

たばこの火蚊帳のきり取る闇に染(し)む

うす霜の硝子戸の空とけて落つ

霧の奥人いゆくわが足音にはあらじ

寒三日月目もて一抉りして見捨てつ

オレンヂエードのコツプはかなし鼻を容れ

峰雲の暮れつつくづれ山つつむ

みんみんの息つぐひまの蟬遠し

マツチややにあたたかき色となるを待つ

小麦の葉すべてなびきてすべて光る

稲の青しづかに穂より去りつつあり

西日の丘の小さき畑を小さき人打つ

幹の間(あひ)とほくの幹に月させる

きのふより濃き月光の障子なる

摺りガラスましろに月のかげを堰く

夕立に小石のふえし道帰る

椎の木に春日のかけらかぎりなし

いてふちりしける日なたが行手にあり

銀河うすき東京に来てまた住むなる

寒星をいつも火星を見をさめに

朝焼けの雪山負へる町を過ぐ

淡水のきめにつつまれ立ち泳ぐ

水底に着きびわの種子また光る

幹を巻く葛を見たどり花に至る

閉ぢし翅しづかにひらき蝶死にき

空の奥みつめてをればとんぼゐる

枯山を越え枯山に入りゆく

短夜の人らねむれる汽車に乗る

照らすべき物なき烈日沖に満つ

枇杷の箱端(ただ)しく積みて艀(はしけ)来る

冬海と陸とかたみにふかく入る

頭上にて霧笛ふとき柱のごとし

独楽まはり澄めば鉄輪の光り出づ

蝶に蹤きいつもよりとほく子とあるく

餡を持つ餅のうすうすあをみたり

芽ぶく木を夜空にふかく彫る燈あり

さみどりのいまはましろくキヤベツ剝く

木蔭より幾人も出てバスに乗る

片蔭の切れ目こころに影となる

顔はまだ見えず真白の服の人来る

吠えやめぬ犬を稲妻てらし出す

さかづきに映る祭の燈ものみほす

渦巻ける皮の上にて柿を割る

丘の上へ茅花光らせ風あつまる

烈日のあひる何百浪にうねる

霧笛にとほく応ふる霧笛あり

シヤボン玉につつまれてわが息の浮く

泳ぎ着き光りつつ岩をよぢのぼる

打ちし蚊の磔刑のごとく壁にあり

木犀の金の十字が地に満てる

爛漫と夕日を透さない桜

雪どけのしづくがちがふ高さに光る

三日月の右下にある星もおぼろ

影が斜めに横に斜めに独楽とまる

北極星またたく私はまたたかぬ



俳人の言葉

ともかく彼は、一ひねりひねった思いつきが好きだった。彼の郷里の松山には

葉桜の中の無数の空さわぐ

を彫った彼の句碑が建てられているが、「無数の空」などという表現は、まさしく梵のものである。

杉森久英(小説家) 「俳句と私」より 『一句百景―俳句と私』(文化出版局 昭和56年)所収

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俳句九十九折(20) 俳人ファイル ⅩⅡ 中田有恒・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(21) 俳人ファイル ⅩⅢ 島津亮・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(22) 俳人ファイル ⅩⅣ 中島斌雄・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(23) 俳人ファイル ⅩⅤ 川口重美・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(24) 俳人ファイル ⅩⅥ 野見山朱鳥・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(25) 俳人ファイル ⅩⅦ 金子明彦・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(26) 俳人ファイル ⅩⅧ 相馬遷子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(27) 俳人ファイル ⅩⅨ 上田五千石・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(28) 俳人ファイル XX 福永耕二・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(29) 俳人ファイル ⅩⅩⅠ 清水径子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(30) 俳人ファイル ⅩⅩⅡ 寺井文子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(31) 俳人ファイル ⅩⅩⅢ 橋閒石・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(32) 俳人ファイル ⅩⅩⅣ 大橋嶺夫・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(33) 俳人ファイル ⅩⅩⅤ 齋藤玄・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(34) 俳人ファイル ⅩⅩⅥ 喜多青子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(35) 俳人ファイル ⅩⅩⅦ 高田蝶衣・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(36) 俳人ファイル ⅩⅩⅧ 藤野古白・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(37) 俳人ファイル ⅩⅩⅨ 加藤かけい・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(38) 俳人ファイル ⅩⅩⅩ 新海非風・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(39) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅠ 福田甲子雄・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(40) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅡ 臼田亜浪・・・冨田拓也   →読む


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