・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
山の虫なべて出て舞ふ秋日和
『雪嶺』所収
原:昭和32年の作。佐久に帰郷して10年あまり経っていますから、郷里の生活にもすっかり馴れ、医師として周囲の信頼を得ていた頃でしょう。それだけに地方医療の苦労はもちろんのこと。患者たちの豊かとはいえぬ生活への見聞も深まっていたことが句集『雪嶺』から伺われます。前に取り上げられた、
汗の往診幾千なさば業果てむ
も同じ年の作品です。それらの作品の中に掲出のような句を見出すと、ほっと救われる気がします。遷子は佐久の自然に慰められていたのでしょうね。
この句の「山」は峻険な山岳のそれではなく、いわゆる里山と呼べるような処を思います。人の暮らしに近く、親しく眼に触れることもある虫たち。穏やかな秋の日差しに、それら小さな生き物の命の喜びが舞っているかのようです。
そういえば小諸生れの臼田亜浪に、
垂れ毛虫皆木にもどり秋の風
がありますが、まるで遷子の句の虫たちが、不意の冷たい風に思わず首を縮めてしまった、という風情に見えませんか。この2句、虫に対する視線がどこか似ているような気がして、片方の句を思うとき必ずもう一方も思い出してしまいます。
中西:山の虫とは、蜻蛉、蛾、蝶、蚊、甲虫、、ユスリカなどの小虫などが考えられます。原さんがおっしゃるとおり、これは里山なのでしょう。天気の良いおだやかな日の山道を思います。休日の散歩でしょうか。仕事上では厳しい句をいくつも作っている年ですが、それだけにこの句はオアシスのように感じられます。
「なべて出て舞ふ」といったところ、暢気な気分が漂っているようです。日和という言葉が季語につくと句の緊張感が解けて、気分の勝った句になり易いものです。しかし、この句はそこを逆手にとっているようです。沢山の虫を舞っている、ふんわりと穏やかな日差の中に、心あそばせているのです。自然の中でのくつろぎを「日和」という言葉に見ることができるようです。
yama no musi nabete dete mau aki biyoriのA音の繰り返しも明るさを引き出しています。弾んだ調べを持つ句です。
産室の牛がものいふ秋の暮
こんな句もこの年作られています。遷子は生き物をモデルにして作ると、途端に長閑な気持ちになるのです。仕事を離れた開放感を思わずにはいられません。
佐久にある遷子の句碑に掘られた、実直そうな文字を見ますと、こんな暢気な句を真面目そうな顔のまま作っていたのではないかと思われて、ほのぼのとした気持になります。
深谷:確かに、遷子の生涯のなかで比較的平穏かつ充実していた時期の作品と言えます。
「山の虫」には様々な種類の虫が含まれ、中にはグロテスクな虫や(刺されたりすると)害毒のあるものもいます。それら全てをひっくるめると言う意味で、「なべて」という措辞を用いているのでしょう。遷子には、メインストリームを歩んでいるものあるいはスポットライトを浴びているものよりも、むしろそういったものの陰に隠れた存在に想いを寄せ、句の対象とした作品が多く見受けられます。弱いもの、陽を浴びることのないもの、いわばそうした「例外的存在」に親近感を示していた筈です。ところがこの句は、珍しく「全員参加」型で、屈託なく、穏やかな秋の風景を詠んでいます。
加えて、「舞ふ」という措辞が明るい、ポジティブな雰囲気を物語っていて、いつもの「深刻さ」や「生真面目さ」が影を潜めています。
そして、下五の「秋日和」がそうした明るい秋景色を演出しているのですが、一方では(深読みの部類に入ってしまいますが)こののちに遷子が送る壮絶な療養生活を暗喩しているような気にもさせられます。
窪田:好きな句です。厳しい佐久の冬が確実に近づいて来ます。そんな晩秋のまさに玉のような秋晴れの1日。虫たちも貴重な日の光をいとおしむように、あちこちから出てきて舞っているのです。翅をきらきらと輝かせながら。
私も昨年の秋、別所温泉の奥、野倉という所にある喫茶店のテラスから、こんな景を楽しみました。日没寸前の茜色の光を小さな翅が纏います。そして、没り日を送る儀式のように舞うのです。私と虫達の思いが一つになった気がしました。遷子も私と似たような感慨に耽ったのではないでしょうか。
この句の前後には、
豆引くや空しく青き峽の空
産室の牛がものいふ秋の暮
曇り空かりがね過ぎし跡ひかる
と、周囲を見つめる遷子の穏やかな目を感じます。比較的平和な時を送っていたように思えます。
筑紫:貞祥寺の秋桜子・遷子の師弟句碑に彫られている
雪嶺の光や風をつらぬきて 遷子
の句(昭和32年)と同年の句です。今回遷子のミステリーツアーに行ってきましたが、今まで「遷子を読む」で発言してきたときの印象とずいぶん違うものを感じました。
「ミステリーツアー」のほうでも書きましたが、佐久市野沢は「山国」の真っ只中でもなく、遷子の医院の周囲は相馬一族が占めており、菩提寺の格から行っても相馬家は立派な一族であったようです。確かに自然は今もって豊かでしたが、孤独という環境であったかどうかはよく分かりません。もしここが孤独であるならば、隣の小諸に住んでいた藤村も、同じ佐久に住んでいる邑書林の島田牙城氏も悲惨なはずですが、ちょっとそれとは違うようです。
こんなことを言うのも、淡々と周囲の自然を詠むとき、こうした環境ではどこか気分のたるみが出てきてしまうのではないかという気がしたからです。これが掲出の句に私が抱いた印象でした。こうした、作句環境を改めるためにも、遷子は露骨な表現も交えて社会的関心をかきたて、独自な句を詠んだのではないかという気がしてきました。遷子は、函館では周囲の俳人たちと頻繁に句会を開きましたが、佐久では、遠く訪れる堀口星眠氏と吟行に行く以外は地域での俳句活動は薄いようです。地元では俳人としての遷子より、将棋の好きな相馬院長として有名であったという話を聞いたことがあります。(俳人遷子をたずねていった)私たちが訪問した相馬北医院のかたがたの、多少とまどった表情にそんなものを感じたのでした。地元俳人との関係がこのように変わってくることと、俳句の詠み方が変わってくること―――あまり今まで論じられてこなかった点ですが気になり始めました。地元俳人たちと楽しげに句会を開いたとしたら、農民の悲惨さを読んだあのような句は生まれなかったかもしれません。孤独に徹するところで出てきた俳句ではないか、そうした俳句環境の息抜きとして掲出の句があるような気もします。
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